「それにはね」殿村が説明を続ける。「あの雪子の下宿というものが、実にお誂え向きに出来ていた。下には目も耳もうといお婆さんたった一人だ。外出さえしなければ、化けの皮がはげる気遣いはない。又仮令人違いを看破するものがあった所で、まさかそれが、惨殺された筈の山北鶴子だなどと誰が思うものか。広いN市に鶴子を知っている人は、ほんの数える程しかない筈だもの。
つまり、この女は、我身を一生日蔭者にし、親子の縁を切てまでも、恋の恨みをはらしたかったのだ。無論永久に絹川雪子に化けていることは出来ない。大宅君の罪が決定するのを見定めてから、どこか遠国へ身を隠す積りであったに相違ない。アア、何という深い恨みだろう。恋は恐ろしいね。このうら若い娘を気違いにしたのだ。イヤ鬼にしたのだ。嫉妬に燃える一匹の鬼にしたのだ。この犯罪は決して人間の仕業ではない。地獄の底から這い出して来た悪鬼の所業だ」
何とののしられても、哀れな鶴子は、俯伏たまま石の様に動かなかった。余りの打撃に思考力を失い、あらゆる神経が麻痺して、身動きをする力もないかと見えた。
国枝氏は、小説家の妄想が、ピシピシと適中して行くのを、非常な驚きを以て、寧ろ空恐ろしくさえ感じながら聞いていたが、併し、まだまだ腑に落ぬ点が色々あった。
「殿村君、すると大宅幸吉は別に嘘を云う必要もなく、又云ってもいなかったことになるが、思い出して見給え、大宅は犯罪の当夜おそくまで絹川雪子の所にいたと主張している。つまり雪子はその夜少くとも十一時前後まではN市にいた筈だね。ところがその雪子が、同じ晩に遠く離れたS村で殺されていたというのは、少し辻褄が合わぬじゃないか。仮令自動車が傭えたとしても、そんなに遅く若い女が一里半もある山奥へ出かけて行くというのは、実に変だ。それにいくら耄碌した婆さんだといって、雪子がそんな夜更けに外出するのだったら、一言位断って行くだろうし、それを忘れてしまう筈もなかろうじゃないか。ところが、婆さんは、あの夜雪子は決して外出しなかったと証言しているのだぜ」
流石に国枝氏は急所を突く。
「サア、そこだよ。僕がどこの国の警察記録にも前例がないというのはその点だよ」
殿村はこの質問を待ち構えていた様に、勢いこんで喋り始めた。
「実に奇想天外のトリックなんだ。殺人狂ででもなければ考え出せない様な、驚くべき方法なんだ。この間僕は仁兵衛爺さんが拾って置いた藁人形に関して、君の注意を促して置いた筈だね。ホラ、あの短刀で胸を刺されていた奴さ。あれは何だと思う。犯人がね、その突飛千万な思いつきを試験する為に使用したものだよ。つまり、あの藁人形をね、貨物列車にのせて置いたなら、一体どの辺で車上から振り落されるものだかを試験して見たのだよ」
「エ、何だって? 貨物列車だって?」
国枝氏は又しても面喰らわざるを得ないのだ。