十四
廣介が、千代子殺害の決心をしたのは、そのことがあってから、丁度四日目でありました。
千代子は一時はあれ程までも彼に敵意を抱きましたが、よくよく考え直せば、仮令どの様な確証を見たからと云って、それなれば、あの方が源三郎でないとしたら、一体全体この世の中に、あんなにもよく似た人間があり得るのでしょうか。それは、広い日本を探し廻れば、全く同じ顔形の人がいないとは限りませんけれど、そんな瓜二つの人が仮りにいたところで、その人が丁度源三郎の墓場から甦ってくるなんて、まるで手品か魔法の様な、器用な真似が出来るとも思われません。「これは、ひょっとしたら、私の恥しい思い違いではないかしら」と考えると、あの様なはしたないそぶりを見せたことが、夫に対して申訳ない様にも思われて来るのです。
併し、又一方では、蘇生以来、夫の気質の激変、沖の島のえたいの知れぬ大工事、彼女に対する不思議な隔意、そして、あののっぴきならぬ確かな証拠と並べ立てて考えますと、やっぱりどこやら疑わしく、これは、一人でくよくよしていないで、一そのこと誰かにすっかり打開けて、相談して見た方がよくはないかしら、などとも思われるのでありました。
廣介は、あの夜以来、心配の余り、病気と称して邸に引籠ったまま、島の工事場へも行かず、それとなく、千代子の一挙一動を監視して、彼女の心の動きをば、大体見てとることが出来ました。そして、この調子なればと一安心はしたものの、併し、そののちというものは、彼の身の廻りのこと一切を、小間使にまかせて、彼女は一度も彼の側によろうとせず、ろくろく口も利かない有様を見ますと、やっぱり油断がならず、どうかした調子で、あの秘密が外部に洩れたなら、いやいや、仮令外部には洩れずとも、そういう間にも、邸内の召使などに知れ渡っているかも知れたものではない、と思うと、愈々気が気でなく、四日の間躊躇に躊躇を重ねた上、彼は遂に、彼女を殺害することに心を極めたのでありました。
さて、その日の午後、彼は千代子を彼の部屋に呼びよせて、さも何気ない風を装いながら、こんな風に切り出すのでした。
「身体の工合もいい様だから、私はこれから又島へ出掛け様と思うが、今度はすっかり工事が出来上って了うまで帰れまいと思う。で、その間、お前にもあちらへ行って貰って、島の上で暫く一緒に暮したいのだが、どうだ少し気晴しに出掛けて見ては。それに、私の不思議な仕事も、もう大体は完成しているのだから、一度お前に見せたくもあるのだ」
すると千代子は、やっぱり疑深い様子を改めないで、何のかのと口実を構えては、彼の勧めを拒もうとばかりするのです。彼はそれを、或はすかし、或はおどし、色々に骨折って、三十分ばかりの間も、口を酸くして口説いた上、とうとう、半ば威圧的に、彼女を肯せて了いました。それと云うのも、彼女は廣介を疑い恐れながら、もう一つの心では、それが仮令源三郎でなかろうと、やっぱり彼に、愛着を感じていたからに相違ありません。さて、行くとなっても、それから又、婆やを同伴するとかしないとか一問答あった末、結局、それも同伴しないで、彼と千代子と二人切りで、その日の午後の列車に乗ることに話を極めて了ったのです。尤も誰を同伴しないでも、島へ行けば、そこに沢山の女共もいることですから、何不自由がある訳ではないのでした。
海岸を一時間も汽車にゆられると、もうそこが終点のT駅で、そこから用意のモーター船にのり、荒波を蹴って、又一時間も行くと、やがて、目的の沖の島です。
千代子は、久しぶりの夫との二人旅を、何とも知れぬ恐怖を以て、併し又一方では、不思議な楽しさをも感じながら、どうかこの間の晩のことは私の思い違いであって呉れます様にと祈るのでした。嬉しいことには、汽車の中でも、船の上でも、いつになく夫は妙に優しく、言葉数が多く、何くれと彼女の世話をやいたり、窓の外を指さしては、過ぎ去る風景を賞したり、それが彼女には嘗ての密月の[#「密月の」はママ]旅を思い起させた程も、異様に甘く懐しく感じられるのでした。随って、あの恐しい疑いも、いつしか忘れるともなく忘れた形で、彼女は仮令明日はどうなろうと、ただ、この楽しみを一時でも長引かせたいと願うばかりでありました。
船が沖の島に近づくと、島の岸から二十間も隔たった所に、非常に大きなブイの様なものが浮いていて、船はそれに横づけにされるのです。ブイの表面は、二間四方位の鉄張りで、その中央に船のハッチの様な、小さな穴が開いています。二人は船から歩みを渡って、そのブイの上に降り立ちました。
「ここからもう一度、よく島の上を見てごらん。あの高く岩山の様に聳えているのは、みんなコンクリートで拵えた壁なのだよ。外から見ると、島の一部としか思われぬけれど、あの内部には、それはすばらしいものが隠されているのだ。それから、岩山の上に頭を見せている、高い足場があるだろう。あれ丈けがまだ出来上らないで、今工事中なのだが、あすこには、恐しく大きな、ハンギング・ガーデンというのだが、つまり天上の花園が出来る訳なのだ。それでは、これから私の夢の国を見物することにしよう。少しも怖いことはありゃしない。この入口を降りて行くと、海の底を通って、じきに島の上に出られるのだよ。さあ、手を引いて上げるから、私のあとについておいで」
廣介は優しく云って、千代子の手をとりました。彼とても、千代子と同じ様に、二人が手に手をとって、この海の底を渡るのが、何となく嬉しいのです。いずれは彼女を手にかけて殺害せねばならぬと思いながらも、それ故に彼女の和肌の感触が一層いとしくも懐しくも思いなされるのでありました。
ハッチを入って、暗い縦穴を五六間も下ると、普通の建物の廊下位の広さで、ずっと横にトンネルの様な道が開けています。千代子はそこへ降りて、一歩進むか進まぬに、思わずアッと声を立てないではいられませんでした。そこは実に、上下左右とも海底を見通すことの出来る、ガラス張りのトンネルであったのです。
コンクリートの枠に厚い板ガラスを張りつめて、その外部に、強い電燈がとりつけられ、頭の上も、足の下も、右も左も、二三間の半径で、不思議な水底の光景が、手に取る様に眺められます。ヌメヌメとした黒い岩石、巨大な動物の鬣の様に、物凄く揺れる様々の海草、陸上では想像も出来ない、種々雑多の魚類の游泳、八本の足を車の様に拡げ、不気味ないぼいぼをふくらまして、ガラス板一杯に吸いついた大章魚、水の中の蜘蛛の様に、岩肌に蠢く海老、それらが強烈な電光を受けながら、水の厚みにぼかされて、遠くの方は、森林の様に青黒く、そこにえたいの知れぬ怪物共がウジャウジャとひしめき合うかと思われて、その悪夢の様な光景は、陸上ではまるで想像も出来ない感じでした。
「どうだい、驚くだろう。だが、これはまだ入口なんだよ。これから向うの方に行くと、もっと面白いものが見られるのだよ」
廣介は、余りの気味悪さに青ざめた千代子をいたわりながら、さも得意らしく、説明するのでした。