彼は一つ大きく伸びをして、下宿の主婦が置いて行ってくれた、枕頭の新聞を拡げると、彼の癖として先ず社会面に眼を通した。別に面白い記事も見当らぬ。三段抜き、二段抜きの大見出しは、ほとんど血生臭い犯罪記事ばかりなのだが、そうして活字になったものを見ると、何かよその国の出来事の様で、一向迫って来なかった。だが、今別の面をはぐろうとした時、ふとある記事が彼の注意をひいた。それを見ると彼は何かしらギクリとしないではいられなかった。そこには「溝の中から、女の片足、奇怪な殺人事件か」という三行の見出しで、次の様な記事が記されていた。
昨六日午後府下千住町中組――番地往来の溝川をさらっているうち人夫木田三次郎がすくい上げた泥の中から、おもりの小石と共にしまの木綿風呂敷に包んだ生々しき人間の片足が現れ大騒ぎとなった。戸山医学博士の鑑定によれば切断後三日位の二十歳前後の健康体の婦人の右足を膝関節の部分から切断したもので切口の乱暴なところを見れば外科医等の切断したものでないことが判明したが附近には右に該当する殺人事件又は婦人の失踪届出なく今のところ何者の死体なるや不明であるが、――署では極めて巧妙に行われた殺人事件ではないかと目下厳重調査中である。
新聞では左程重大に扱っている訳でもなく、文句も極簡単なものであったが、紋三の眼にはその記事がメラメラと燃えている様に感じられた。彼は蒲団の上にムックリと起き上って、ほとんど無意識のうちに、同じ記事を五度も六度もくり返し読んでいた。
「多分偶然の一致なんだろう。それに昨夜のは己の幻覚かも知れないのだから」
と強いて気を落ちつけ様としても、そのあとから直ぐに、あの奇怪な一寸法師の姿が――さびしい場末の溝川の縁に立って、風呂敷包を投げ込もうとしている、彼奴の物すごい形相が、まざまざと眼の前に浮んで来た。
彼はどうするという当もなく、何かに追い立てられる様な気持で、寝床から起上ると大急ぎで着換えを始めた。
どういう積りか、彼は洋服箱の中から仕立おろしの合のサック・コートと、春外套を出して身につけた。学校を出てからまだ勤めを持たぬ彼には、これが一張羅の外出着で、可成自慢の品でもあった。上下おそろいのしゃれた空色が、彼の容貌によく映った。
「マア、おめかしで、どちらへお出かけ?」
下の茶の間を通ると、奥さんがうしろから声をかけた。
「イイエ、一寸」
彼は変なあいさつをして、そそくさと編上のひもを結んだ。
併し、格子戸の外へ出ても、彼はどこへ行けばいいのか、一寸見当がつかなかった。一応警察へ届けようかとも思ったが、それ程の自信もなく、何だかまだあれを自分だけの秘密にして置きたい気持もあった。兎も角昨夜の寺へ行って様子を探って見るのが一番よさそうだった。若や昨夜の出来事は皆彼の幻覚に過ぎなかったのではないか。そんなことが頻に考えられた。もう一度昼の光の下で確めて見ないでは安心が出来なかった。彼は思い切って本所まで出かけることにした。