車を降りて旅館の広い玄関を上る時などは、彼はすっかりいい気持になっていた。山野夫人が彼の恋人であって、彼女は夫の目を盗んで、彼と遭うためにこの内へ来ているのだ、という様なけしからぬ空想をさえ描いた。
幸い明智は在宿であった。彼は気軽に二人を廊下まで出迎えてくれた。
日当りのよい十畳程の座敷だった。三人は紫檀の卓を囲んで座についた。明智は講釈師の伯龍に似た顔をニコニコさせて、客が要件を切りだすのを待っていた。山野夫人はこの初対面の素人探偵に好感を持った様に見えた。彼女の方でも笑顔を作りながら、三千子の家出について話し始めた。彼女は笑顔になると少女の様に無邪気な表情に変ってひとしお魅力を増すのであった。
上海から帰って以来約半年の間、素人探偵明智小五郎は無為に苦しんでいた。もう探偵趣味にもあきあきしたなどといいながら、その実は、何もしないで宿屋の一間にごろごろしているのは退屈で仕様がなかった。丁度そこへ、彼の貧窮時代同じ下宿にいた縁故で知合の小林紋三が、屈竟な事件を持込んで来た。山野夫人の話を聞いている内に、彼は多年の慣れで、これは一寸面白そうな事件だと直覚した。そして、いつの間にか、長く伸ばした髪の毛に指を突込んでかき廻す癖を始めていた。
山野夫人の話はかなりくだくだしいものであったが、明智はそれを彼の流儀で摘要して、必要な部分だけ記憶に止めた。
行方不明者、山野三千子、十九歳、山野氏の一人娘、昨年女学校卒業
父、大五郎、四十六歳、鉄材商、土地会社重役
母、百合枝、三十歳、三千子の実母は数年前死亡し百合枝夫人は継母である。
召使、小間使二人、下女中二人、書生、自動車運転手、助手
これだけが山野家に起臥していた。
「で、手懸りは少しもないとおっしゃるのですか」
彼は一応夫人の話を聞いてしまってから、改めて要点を質問した。
「ハア、本当に不思議でございますわ。先程も申します通り、三千子の寝室は洋館の二階にあるのですが、その洋館には出入口が一つしかございませんし、出入口のすぐ前には私共のやすむ部屋がありまして、洋館から出て来ればじき分るはずなのでございます。よし又私共が気づきませんでも、玄関を始めすっかり内側から締りがしてありますので、抜け出る道はないはずですの」