「だって、人一人殺したんですもの、仮令罪は軽くても、世間に顔向けが出来ませんわ。人一倍世間を気にする主人が、何とかして隠してしまおうとしたのは、ちっとも無理ではないのです。山野自身の安全だけでなくて、家名という様なものを心配したのですわ。なぜといって、もしこのことがパッとすれば、山野のふしだらから、娘達の醜い争いがすっかり知れ渡ってしまうのですから」
「三千子さんだけを折檻なすったのは、どういう訳でしょうか」
「それは公然の娘ですもの、主人はそんなことまで、几帳面に考える様なたちですの。それに、主人の愛が、どっちかといえば、不幸な小松の方へ傾いていたことも考えて見なければなりません。おてんば娘は主人の気風に合わないのですわ」
「奥さん、一寸黙ってごらんなさい」突然紋三が夫人を制した。「うしろからだれかついてくる奴があります」
話をやめて、耳をすますと、確に人の気勢がした。それが尾行者に相違ないことは、こちらが足を止めると、向うもピッタリと立止まってしまうのだ。暗をすかして見ると、すぐ側の木立の蔭に何者かが忍んでいた。
「誰です。私達に御用でもおありなんですか」
紋三が虚勢を張って大きな声を出した。
「小林さん、私ですよ」
すると、その男はノコノコ物蔭から出て、心安い調子でいうのだ。
「とうとう見つかっちゃった。O町から尾けていたんだけれども、あなた方すっかり興奮して了って、ちょっとも気がつきませんでしたね。私ですか、明智さんの御手伝いをしている平田ってものです。一二度菊水館でお見かけしたんだけれど、御存じありますまいね」
それを聞くと紋三は重ね重ねの醜態にカッとなった。さっきの森の中のことまで、この男の口から明智に伝わるのかと思うと、いい様のない浅間しさに、いきなり相手に掴みかかりたい気持だった。
「何だってあとを尾けたんです」
「ごめん下さい。明智さんのいいつけなんです。私はあのO町の家の前に、あなた方の出ていらっしゃるのを、待っている役目だったのです」
「すると、僕等が逃げ出すことが、ちゃんと分っていたのですか」
「そうの様です。あなた方のあとを尾けて、もしお邸へお入りになればいいけれど、そうでなかったら、どこまでも尾行して、お二人の話なんかも詳しく聴取れということでした。そして、もしお二人の身に危い様なことが起ったら、お救い申せと……」
「じゃなんだね。明智さんはあの家に奥さんのいることを知っていて、態と僕をつれ込んだ訳だね。そして、二人が逃げ出して、色々なことを話し合うのを立聞きさせようという手はずだったのだね」
「万一の場合なんですよ、万一そんなことが起ったら、こうしろという命令だったのですよ。何でも奥さんが飛んだ誤解をしていらっしゃるから、もしものことがあってはいけないということでした」