「イエ、別に知っている訳でもないのですが、然しどうしてそんなことをお尋ねなさるのですか」
「私最前養源寺の前であなたにお逢いしましたのよ」夫人はおかし相にいった。「門の空地の所ですれ違ったのですけれど、あなたはすっかりすまし込んでいらしったわね。あのお寺のお住持はやっぱり山野の同郷の人で、それは変り者ですの。三千さんのことで、私も一寸お寄りして今帰り途なのですが、あなたはあのお住持がお国の方なことを御存じないの?」
「そうですか。ちっとも知りません。僕は昨夜から狐につままれた様な気持なんです。実際どうかしているのですね、奥さんにお逢いして知らずにいるなんて。この頃何だか頭が変なのです」
「そういえば妙に考え込んでいらっしゃるわね。何かありましたの?」
「奥さんはお読みになりませんでしたか。今朝の新聞に千住の溝川から若い女の片足が出て来たという記事がのっていましたが」
「アアあれ読みました。三千さんのことがあるものですから、私一時はハッとしましたわ。でも、まさかねえ」
夫人は一寸笑って見せた。
「ところが、僕はあれでひどい目に逢っちまったんですよ。実は僕昨夜浅草公園へ行ったのです」紋三は極り悪そうにいった。「暗い公園の中で化物みたいな奴に出くわしましてね。それからすっかり頭が変になっちまったのです」
夫人が好奇心を起した様に見えたので、それから紋三は昨夜の一条をかい摘んで話した。
「マア、気味の悪い」夫人は眉をしかめて「でもそれは、あなたの神経のせいかも知れませんわ。養源寺さんは嘘をいう様な方ではないのだし、それに近所の人だって、そんな不具者がいれば気のつかないはずはありませんものね」
「僕もそう思うのです。そうだとすると一層いけないのですけれど……」
彼等はそうして三十分以上も上野の山内を歩きまわった。紋三は三千子の家出の顛末を聞き訊し、山野夫人の方では明智小五郎の為人を尋ねたりした。そして結局明智の宿を訪ねることに話が極った。
二人は精養軒で食事を済せると自動車を呼ばせて、明智の泊っている赤坂の菊水旅館に向った。紋三は妙にうれしい様な気持だった。美しい山野夫人とさし向いで食事を摂ったことも、彼女と膝を並べて車に揺られていることも、そして、その行先が有名な素人探偵の宿であることも、すべてが彼の子供らしい心を楽しませた。