すると、句碑のうしろから、白いものが現れて、ささやく様に声をかけた。その男は和服に春の外套を着て、大型の鳥打帽を眼深に冠っていた。やみの中でも、大きな眼鏡が、遠くの光を反射してキラキラ光った。
「エエ」
山野夫人がかすかに答えた。震え出すのを一生懸命に堪えている様な声音だった。
「僕のいったことはうそじゃないでしょう。いっただけのことは、ちゃんとやってのけるのです」
不思議な男は、太いステッキによりかかりながら、夫人の顔をのぞき込む様にしていった。
「僕は命を捨ててかかっているのですよ。どんなことだってやっつけます。これ以上のことだって。サア、返事を聞かせて下さい。僕の願いを承知してくれますか、どうですか」
「もう駄目ですわ。ここまで来てはもう取返しがつきませんわ」夫人は泣き出し相な声でいった。「きっと、すっかり分ってしまいます。それに、明智さんを頼んでしまったのですもの。あの人は恐しい人です。底の底まで見通している様な気がします。あなたは、それならそれで、なぜもっと早くいってくれなかったのです。せめて明智さんなんか頼まない先に」
「明智ですって、フフン」不思議な男は鼻の先で笑った。「あの男がどうしたというのです。何も恐れることなんかありませんよ。こんなことになったのもあなたが悪いのだ。僕を見くびって、たかをくくっていたのが悪いのだ。口ばかりではあなたが驚かないから、実行する外なかったのだ。今になって泣き言をいったって何になるものか。だが、決して絶望することはありませんよ。凡ての秘密は僕が握っているのだ。三千子さんが殺されたことが分った所で、だれが殺したんだか、死骸がどこにあるのだか、警察にしろ、素人探偵にしろ、だれがどんなに探したって分りっこはありません。だから少しも心配することなんかありゃしない」
お雪は出来るだけ二人に接近して、句碑の蔭から彼等の密話を聞こうとした。彼女は怖い事よりも妙な好奇心と一種の正義の感情で一杯になっていた。それに日ごろから彼女とは人種でも違う様に畏敬していた百合枝夫人のこの犯罪じみた奇怪な行動が、彼女を不思議に興奮させた。彼女は腹立たしい様な、一種異様な感じで、ブルブル震えていた。
「だから、安心しているがいいのだ、私さえ怒らさなければ、万事大丈夫なんだ。だが、あなたは今晩どういう口実で内を出たのですか」
男の低い圧えつける様な声が続いた。
「片町まで行って来るといって」
夫人は途切れ途切れに答えた。
「あなたの伯父さん所ですね。じゃ二三時間は大丈夫だ。堤の上にタクシーが待たせてあるから、私と一緒にお出でなさい。二時間もすればきっと返してあげる。何もビクビクすることはない。だが、もしあなたが私の申出を拒絶なさると、飛んでもないことになりますよ。私は一切合切ぶちまけちまう。そうなれば無論私も罪におちるが、あなたは身の破滅だ。生きちゃいられない。だからさ、私のいうことを承知する外はないのだ。飛んだ奴に見込まれたのが不運とあきらめるんだね。サア、時間がないから早くきめて下さい。私はもう待てるだけ待ったのだから」