奇怪な人物と山野夫人とをのせた自動車は広い通り細い町を幾度か曲り曲りして、とある物さびしい町角に停った。出発する時から窓のカーテンがおろしてあったので、山野夫人は彼女がどこに運ばれるのか少しも見当がつかなかった。たびたび行先を尋ねたけれど、男はニヤニヤ笑うばかりで少しも答えなかった。
「サア、来ました」
自動車が停ると、男は夫人をうながして車を降りた。彼は出発以前に比べると、人が違った様に変にむっつりしていた。
夫人は車を降りた時、町に見覚えはないかと思って、さびしい往来を見廻したけれど、まるで知らない所だった。余り長く走った様にも思わなかったのに、その辺の様子はどっか非常に遠い田舎町の感じを与えた。
男はステッキを力に、足を引きずる様にして、存外早く歩いた。彼は物もいわず、うしろを振りむきさえしなかったけれど、夫人はそのあとについて行く外はなかった。それから又細い通りを幾度も曲って、三町ばかりも歩くと、おそろいの小さな門のついた、官吏の住宅とでもいった感じの借家が、ずっと軒を並べている町へ出た。不思議な男は、その内の一軒の門をくぐって、門からすぐの所にあるガラス張りの格子戸を開けた。山野夫人は、もう度胸をきめてしまったという風で、青ざめてはいたが、案外平気で男のあとに従った。
男は自動車の運転手にさえ、彼の隠れ家を知らせまいとして、態と三町も手前で車を降りた。小間使のお雪がその車の番号を覚えて居た所で、こんなに用心深い相手には何の役にも立たなかった。だが、幸いなことには、山野夫人の身辺には、明智やお雪の外に、もう一人の人物が絶えずつきまとっていた。彼は正義だとか好奇心だとかよりも、もっと熱烈なある動機から、寸時も夫人の監視を怠らなかった。
不思議な男と山野夫人とが自動車を降りて、暗い町に姿が消えたころ、運転手と並んで運転台に腰かけていた助手が、借り物の派手なオーバを脱いで、一枚の紙幣と一緒に運転手に渡しながらいった。
「ヤ、有難う。じゃこれは少しだけれど、お礼の印だから。助手の人にもよろしくいって下さい」
助手にばけて運転台に腰かけていたのは、外ならぬ小林紋三だった。彼は本物の助手から借りていたオーバを脱ぐと、その下に例の一張羅の空色の春外套を着ていた。
彼は自動車を降りて、半町ばかり先を歩いて行く男女のあとを、用心深く尾行した。そして、彼等が小さな門のある家に入る所まで見届けた。
紋三はそれから執念深くその家の前に見張りを続けていた。仮令彼に家の中へ踏み込む勇気があったとしても、山野夫人の秘密が何であるか、夫人に対して妙な男がどの様な関係を持っているのか、それらの点が少しも分っていないために、無謀なことは出来なかった。
幸い家の傍に細い路地があって、それが家の裏口の所で行詰りになっていたので、その路地の入口に見張っていれば、仮令彼等が裏口から抜け出しても、見逃すことはなかった。
紋三は、暗い路地の中に身をひそめて、根気よく立番をしていた。こんな風に自動車の助手に化けたり、暗の中で不思議な人物の見張りをしたりすることが、彼をいくらか得意な気持にさえした。