格子戸を開けて入ると、一坪程の土間があって、三畳の玄関、そこからすぐに二階への階段がついていた。男は黙ってその階段を上って行った。山野夫人はなぜか跫音を盗む様にして、そのあとに従った。足の不自由な男は、子供の様に両手を使って、階段を一段ずつ、のろのろとはい上った。夫人は下に待合せながら、まるで蟹が石垣をはい上る様だと思った。
二階は六畳と四畳半の二間切りだった。男はその六畳の座敷に入って、ふすまをピッタリとたて切った。
「立っていたって仕方がないでしょう。そこに座蒲団があるから、御自由にお敷きなさい。だが、百合枝さん、とうとう来ましたね」
男は気味悪く笑いながらいった。そして、自分も一枚の座蒲団を取って、外套のままその上に腰をおろした。彼は足を曲げるのが非常に困難らしく、長い間かかって、やっと横坐りに坐った。
「いやに堅くなってますね。もっとくつろいじゃどうです」
彼は眼鏡の奥から蛇の様な目を光らせて、夫人を見た。
「ここにはだれもいないのですか」
百合枝は隅の方に小さく坐って、干いた脣でいった。
「まあいない様なものです。耳の遠い婆さんが雇ってあるのだけれど、あなたがいやだろうと思って顔を出さない様にいいつけてあるのです。つんぼも同様の婆さんだから、大丈夫ですよ。少々大きな声をしたって聞える気遣はない」
男はその時まで冠っていた大きな鳥打帽を脱いだ。その下にはモジャモジャした短い毛が汚らしく生えていた。不思議なことには、そうして帽子を脱ぐと、彼の相好がガラリと変って見えた。
「マア」
それを見ると、百合枝はびっくりして息を引いた。
「ハハハハハハハ、これかね」男は頭をかき廻す様にして「これはかずらですよ。顔が違って見えるかね。これ位のことで驚いちゃいけない。もっとひどいことがあるんだ。だがどんなことがあったって、あなたはもう私のものだ。逃げようたって逃げられるものじゃない。逃げればあなたの身の破滅なんだからね」
男は鼻の上に醜い皺をよせて、奇怪な笑い方をした。彼は少しずつ仮面をぬいで、残忍な正体を現し始めていた。
「ワハハハハハハ」彼は突然歯をむき出して気違いの様に笑った。「百合枝さん。アア、今こそ己はこうしてあなたに呼びかけることが出来るんだ。恋人の様に呼びかけることが出来るんだ。十年の間己は、胸のうちでこの名を呼び続けていた。どうしたって出来るはずがないと分っていても、その望みを捨てることが出来なんだ。だが、今それがかなったのだ。まるで夢の様な仕合せだ。百合枝さん、私を愛してくれなんて、そんな無理なことは頼まない。この不幸な生れつきの男を、憐んで下さい。私の悪企みをにくまないで、そうまでしなければならなかった、私の切ない心持を察して下さい」