男は威圧的な態度を一変して、身もだえをしながら哀願した。いつのまにか、外套姿の長い身体が、横倒しになって、奇怪な長虫の様に、身をくねらせながら、百合枝の方に近づいて来た。
「あなたは一体だれです。私の知っているあなたではないのですか。だれです、だれです」
百合枝は一層隅の方へ身をすくめながら、上ずった声で叫んだ。
「あなたはそれが知りたいのですか。じゃ、今教えて上げる」
横たわっていた男が、飛び上る様にはね起きて、つと電燈の方へ手を伸したかと思うと、パチッという音がして、突然部屋が真暗になった。
二階の雨戸がすっかり閉っている上に、外の往来にも薄暗い門燈の外には何の光もないので、電燈が消えると部屋の中は真の暗であった。
百合枝夫人はその中で、ある身構えをしてじっと男のいた方角を見つめて居た。彼女は何よりも今度の事件の真相が暴露することを恐れた。その秘密を保つ為にはどんな犠牲も忍ばねばならぬと覚悟を極めていた。それに、生娘でもない彼女は、はしたなく悲鳴を上げる様なことはなかったけれど、でもやっぱり、いい知れぬ恐怖に胸の辺がビクビク震え出すのをどうすることも出来なかった。
今にも飛びかかって来るかと思ったのに、男は不思議と鳴りをひそめていた。暫くの間は部屋の向うの隅から、何かカタカタいう物音に混って、彼の荒い息づかいが聞えて来るばかりだった。
「不意に電気を消したりしてびっくりするじゃありませんか。早くつけて下さい。でないと、私帰りますよ」
百合枝は強いて何気ない声で、併しかなり力強くいい放った。
「帰れるものなら、帰ってごらんなさい。そんな強がりをいったって駄目だ。あなたはどうしたって帰ることは出来ないんだ。電気を消したのはね、あなたが怖がるといけないからだよ」
そして、ゾッとする様な含み笑いが、暗黒の中から響いて来た。
「あなたは忘れているだろうが、始めて山野の内で逢ったのはもう十年も昔のことだ。その時分あなたはまだ肩上げをした無邪気な娘さんだった。あなたはよく先の奥さんの所へ遊びに来た。山野の邸が西片町にあった時代だ。ね、思い出すだろう。私はその頃からちょくちょく山野の邸へ出入りする様になった。というのは一つはあなたの顔が見たかったからだ。だが、そんなことは気振りにも見せなんだ。己は人並の恋なぞ出来る身体ではなかったのだ。この世のことは何もかもあきらめ果てていた。それが、何の因果か百合枝さん、あなたのことだけはあきらめてもあきらめても、あきらめ切れなんだ。一層あなたを刺殺して自分も死のうと思ったことが幾度あるか知れない。山野のところへ嫁入した時などは、本当に短刀を懐中に入れて、あなたに逢いに行ったことさえある。己はそれ程思いつめていたのだ。少しは不便に思ってくれてもいいだろう」