彼女はいつの間にか抵抗力を失っていた。それ故、男のほてった顔が彼女の頬に触れ、熱い涙が彼女の脣をぬらし、焔の様な吐息が、彼女の呼吸と混り合っても、彼女はそれを払いのけ様ともしなかった。
だが、暫くすると、突然彼女は恐怖の叫び声を立てて、男の腕から身を逃れ様とあせった。そうしている間に、彼女は相手の身体に起ったある恐しい変化に気づいたのだった。
さい前から彼女の手が無意識に男の身体を探っていた。そして、ふと足の方に触れた時、今まで彼が坐っているとばかり思っていたのが、その実畸形的に短い足を一杯に伸して、立っていることを発見した。彼の顔は彼女の顔と同じ高さにあった。それでいて彼女は坐っているのに、相手は明かに起上っているのだった。つまり、男はいつの間にか、異常に脊の低い畸形児に変ってしまったのだった。彼女は一瞬間にすべての事情を悟った。男はかずらや眼鏡や外套によって、こよい変装していたと同じ様に、平常の彼自身が一つの変装姿に過ぎなかったのだ。もう一つ奥にはこの様ないまわしい彼の正体が隠されていたのだ。小林紋三に尾行され、百貨店の番頭に発見された、あの一寸法師こそこの男であったに相違ない。彼女を脅迫している男と、三千子の死体を切断して罪深い悪戯をやった男とが、全く同一人物であることを、今まで気づかなんだのは、むしろ迂濶千万であった。彼が十年という長い年月、切ない恋を打開けないでいたのも、この様な犯罪事件のかげに隠れて、彼女の弱身につけ込んで、その思いをとげようとしたことも、彼が見るも恐しい畸形児であったとすれば、誠に無理でない訳だ。
相手が一寸法師と分ると、いかに覚悟を定めているとはいえ、彼女はもう我慢が出来なかった。こんな怪物に、少しの間でも妙な魅力を感じていたかと思うと、彼女はゾーッと背筋が寒くなった。彼女はしゃ二無二怪物の腕をふりもぎろうともがいた。
だが、相手は彼女が悟ったと見ると、一しお力を加えて犠牲者を抱きすくめた。畸形児とはいえ死にもの狂いの腕力に、か弱い女の百合枝がどう抵抗出来るものではなかった。
「今更逃げようたって逃すもんか」彼は力み声をふりしぼった。
「声を立てるなら立てて見るがいい。ソラ、まさか忘れはしまい。そんなことをすればお前の身の破滅だぞ。いいか。山野一家の滅亡だぞ」
一寸法師は、起上った百合枝の腰のあたりにからみついて、おどし文句を並べながら、相手のひるむすきを見て、短い足を彼女の足にからみ、恐ろしい力で彼女を倒そうとした。
百合枝は叫ぼうにも叫ぶ自由を奪われ、逃げ出そうにも、逃げ出す力を失い、まるで悪夢にうなされている気持だった。畸形児は不気味な軟体動物の様に、ぺったりと彼女の半身に密着して、腰のあたりを締めつけた両腕は、刻一刻その力を増して行くのだった。
小林紋三はうそ寒いのを我慢して、執念深く路地の入口に立ちつくしていた。まだ夜更けというでもないのに、その町はいやに暗くて静だった。どの家もどの家も、まるで空家の様に、黙りこくっていた。
蝙蝠みたいに路地の板塀に身体をくっつけて、薄暗い往来を見ていると、時たま灰色の影の様なものがスーッと通り過ぎた。それが人間に違いないのだけれど、少しも音を立てないので、何か物の怪という感じがした。
彼は山野夫人が二階に上った気勢を感じたので、もしや話し声でも漏れて来ないかと、その方を見上げて耳をすましたが、密閉された雨戸の中はひっそりとして、燈火の影さえささなかった。
ふと何か聞えた様に思って、耳をそばだてると、遠くの方から力ない赤ん坊の泣き声が聞えて来たりした。