紋三はこの数日、長い間の倦怠をのがれて、可なり緊張した気持を味うことが出来た。彼はやっとこの世に生がいを見出した様に思った。奇怪な犯罪事件の渦中にまき込まれて、素人探偵を気取ることも、子供らしい彼には随分面白かったが、それよりも、今までは、何か段違いの相手の様な気がして、口を利くことさえ憚られた山野夫人が、思いもかけず、くだけた調子で彼に接近して来たことが、何よりもうれしかった。彼は三千子のことをかこつけに、機会さえあれば山野家を訪れ、夫人の身辺につきまとった。
そして、遂には夫人の秘密を握ることが出来た。恋という曲者が、彼を異常に敏感にしたのだ。夫人の一挙一動、どんな些細な事柄も彼の監視を免れることは出来なかった。彼は小間使のお雪と同様に今宵の密会を悟った。そして、お雪には真似の出来ない芸当をやった。彼は機敏にも怪人物の自動車の助手を買収して、とうとうこの隠れ家をつきとめることが出来たのだ。専門家の明智小五郎をだし抜いて、彼の夢にも知らない手がかりを握ったかと思うと、紋三はひどく得意だった。
だが、相手の奇怪な人物が何者だかは、まるで見当がつかなんだ。ふと、どこかで一度逢った人の様な気がしないでもなかったが、それ以上のことは少しも分らないのだ。分っているのは、彼奴が夫人の弱味につけ込んで彼女を脅迫していることと、夫人が何か恐しい秘密を持っていて、甘んじて男の意のままに動いていることだった。
だが、夫人にどんな秘密があろうと、紋三は彼女をにくむ気にはなれなかった。にくいのは相手の男だった。彼は男に対して烈しい嫉妬を感じた。か弱い夫人が、今ごろあいつのためにどんな目に会っているかと思うと、気が狂い相だった。
様々の醜い場面が、まざまざと目の先にちらついた。そこには獣の様な男がいた。なまめかしく取乱した夫人の姿があった。それを思うと彼は肉体的な痛みを感じた。幾度家の中へ飛びこもうとしたか知れなかった。だが、夫人の迷惑を察して僅に踏み止まった。
待っても待っても彼等は出て来る様子がなかった。さい前からほとんど一時間も闇の中に立っていた。妄想は募るばかりだった。もう辛抱がし切れなかった。それに、丁度その時、彼は二階の方から女の悲鳴らしいものを聞いた。聞いた様に思った。
彼は半狂乱の体で、門を入ると手荒く格子戸を開けた。
「ご免なさい」
家の中はシーンとしずまり返っていた。
「だれもいないのですか」
彼は二度も三度も大声に怒鳴ったが、何の返事もなかった。彼は思い切って玄関の障子を開けた。それでもまだだれも出て来ないので次の間との境の襖を開いて中をのぞいて見た。そこには人の影もなかった。