紋三は、万一とがめられた所で、何とでもいい逃れの道はつくと高を括った。彼は臆病者の癖に、どうかすると非常に向う見ずな大胆な所があった。
彼はいきなり靴を脱いで玄関に上ったが、流石にあわてていたので、そこの土間に山野夫人の履物が見えないことを気づかなかった。ふすまを一杯に開くと、次の茶の間らしい部屋へ踏込んで、奥の間との境のふすまを開けて見た。そこに一人の汚ならしい老婆が、ハッと居眠りからさめた様なとぼけた顔をして坐っていた。
「アラマア、ちっとも存じませんで、どなた様でございます」
老婆はなじり顔に、大声でいった。
「どうも失礼、いくら呼んでも返事がないものだから、こちらに山野の奥さんが見えているでしょう。実は急な用事が出来てお迎いに来たのですよ」
「どなた様で、今旦那はお留守でございますが」
老婆は耳が遠いらしく、とんちんかんな返事をした。
紋三は二言三言問答をしている内に、もどかしくなって、老婆など相手にしないで、勝手にその辺の障子やふすまを開いて、山野夫人のありかを探した。だが、階下には外に狭い台所がある切りでどこにも人影は見えなかった。
彼は老婆が止めるのも聞かないで、二階へ上って行った。今にもだれかに怒鳴りつけられるかと、身構えさえして階段を上ったが、不思議なことには、そこにも人の気勢はなかった。二間切りの二階で、その六畳の方に、暗い電燈がついて、調度類もきちんとかたづいていた。妙にガランとして、今まで人のいた様子はどこにも見えなかった。
「この人はまあ、何という無茶なことをなさる。旦那はお留守だといっているじゃありませんか。私のほかにはねこの子一匹いやしないのですよ」
老婆はノコノコ二階までついてきて、紋三を監視しながら、ぶつぶつつぶやいた。
「だが、確にこの家へ入るところを見たんだが。変だな。君はうそをいっているね」
しかし何をいっても、ほとんど老婆には通じなかった。彼女は段々声を大きくして、しまいには隣近所に聞える様な悲鳴を上げた。
紋三は押入なども一々開けて見て、隈なく家中を探したけれど、老婆のいった通りねこの子一匹いなかった。あの様に表口裏口を監視していたのだから、夫人達が若し家を出たとすれば彼の目につかぬはずはないのだし、彼が表から入った物音を聞きつけて、その隙に彼等が裏口から逃げるという様なことは、不可能だった。そんな余裕のあろう訳がない。つまり、彼等はこの家の中で消えうせてしまったとしか考えられなかった。
紋三は又しても狐につままれた気持だった。考えて見ると今度の事件には、妙に幾度も同じ様なことが起った。三千子も部屋の中で消失した。例の気味の悪い一寸法師は、養源寺の庫裏へはいったまま消えてなくなった。そして今夜は山野夫人の番だ。紋三はうんざりした。
彼は老婆に叱られながら、すごすごと家を出た。
「このごろ己の頭はどうかしているのか。それとも、悪人が神変不思議の妖術でも心得ているのか。一体どっちが本当なんだ」
まるで悪夢にうなされている様な感じだった。彼は電車道を探して暗い町を歩きながら、ふと子供の時分に聞いた、狐や狸が人を化かす話を思い出していた。あの荒唐無稽な恐怖が、彼の背筋を冷くした。