「山野の奥さんはみえていないのですか」
紋三は座りながら、まずそれを聞いた。
「今、帰られたところだ。もう一足早ければ逢えた」
明智は相変らずニコニコして紋三を迎えた。
「そうですか、急いで来たんだけど、……それはそうと、その後何か手がかりでも見つかりましたか」
年齢や社会的地位は違っても、昔の下宿友達の心易さが、つい口を軽くした。それに紋三は昨夜の冒険でいくらか思い上っていた。彼の様な素人があの重大な秘密をかぎつけているのに、名探偵といわれる明智がまだ何事も知らないらしい様が、もどかしくもあり、少からず愉快でもあった。
「イヤ、発見というほどのこともないよ」
明智は落ちついていた。
「この事件はかなり難かしそうですね。あなたにも似合わない進行が遅いじゃありませんか」
紋三はついそんな口が利いて見たくなった。いってしまってからハッとして明智の顔色を読んだ。
「随分変な事件だからね」だが明智は別に怒る様子もなくて、やっぱりニコニコしていった。「それはそうと、君は昨夜は大いに活動したそうだね。僕の方の手がかりなんかより、一つそれを聞こうじゃないか。君も中々隅に置けないね」
紋三はいきなり赤くなってしまった。明智がどうして昨夜の出来事を知っているのか、不思議で仕様がなかった。彼のニコニコ顔がにわかに薄気味の悪いものに思われて来た。
「君は、今山野夫人から何か聞いたと思うかも知れないが、その心配はない。奥さんは決して君の変装を感づきはしなかった」明智は紋三の表情を巧に読んでいった。「奥さんはこのごろ何もいわなくなった。一寸した事でも隠そう隠そうとしている。僕に探偵を依頼したのを後悔している様子さえ見える。だから、今日来たのも、早く犯人が見つけたい為ではなくて、僕がどこまで真相を探っているか、ビクビクもので、それを聞き出しにやって来たのだ」
「じゃ、あなたは奥さんが今度の犯罪に何か関係があると思うのですか」
紋三は明智の底意が知りたかった。
「関係のあることは明白だ。併しなぜ夫人が自ら進んで僕なんかに探偵を依頼したか、そして今になってそれを後悔し始めたか、この点がよく分らない。大体あの女自身が一つの疑問だよ。非常に貞淑の様でもあり、どうかすると馬鹿にコケットな所も見える。一寸とらえ所がない。だから、ひょっとしたら彼女は、態と僕の前にこの事件をなげ出して見せて、大胆なお芝居を打とうとしたのかも知れない。秘密がバレるおそれはないと信じ切って、たかを括っていたのかも知れない。女の犯罪者には、そういう突飛なのがあるものだ」
「もしそうだとすると、最近にその自信を失う様な事件が起った訳ですね」
「僕だって、これで中々働いているんだよ。彼女にもしうしろ暗い点があれば、心配し出すのは無理ではない。君なんか、僕が手をつかねて遊んでいた様に思っているだろうが、どうして、そんなものじゃないよ。現に君の昨夜の行動だって、すっかり分っているのだからね」