吾妻橋を渡ると、彼はふと気がついた様にそこの自働電話に入り、一寸手帳を見て赤坂の菊水旅館の番号を呼んだ。相手が電話口に出るまでに十分程もかかった。
「菊水さんですね」彼は意気込でいった。「早くから起して済みません。明智さんいらっしゃるでしょう。大至急御知らせしたいことがあるのです。まだ御寝みでしょうけれど、一寸起してくれませんか。僕? 斎藤ですよ」
彼は明智の出て来るのを、足踏みしながら待つのだった。
小林紋三が明智を訪ねて様々の証拠品に驚いた日、小間使小松の失踪が発見された日、そして三千子の殺害事件がいよいよ警察沙汰になった日からもう三日目であった。
その間には色々重大な出来事が起っていた。陰の事件としては斎藤という男が一寸法師の残虐極まる行動を見たのもその一つであったが、表だったものでは、明智の提供した証拠品がもととなって、実行的な警察は、先ず第一の嫌疑者として三千子に復讐を誓った北島春雄の行方を捜索して、ある木賃宿に潜伏中の彼を苦もなくとり押えた。北島は猶取調中で罪は確定しないけれど、三千子変死当夜のアリバイ(現場に居なかった証拠)を立て得ないこと、変名で木賃宿に宿泊していたこと、その他申立ての曖昧な点が多々あって、若し外に有力な嫌疑者の現れない時は、前科者の彼こそ、さしずめ最も疑うべき人物に相違なかった。北島をあげると同時に、警察は第二の嫌疑者として小間使の小松の行方を捜索した。情人の蕗屋が大阪の実家に帰っているのだから、外に身寄りとてもない小松は、きっと彼をたよって行ったに相違ないという見込みで、その地の警察に取調べを依頼した上、こちらからも態々一人の刑事が急行した。だがその結果、蕗屋の実家には数日来蕗屋もいなければ、小松の訪ねた様子もないことが確められたばかりで、それ以上のことはまだ分っていない。
押入から発見された数々の証拠品によって、山野夫人が取調べを受けたことはいうまでもない。だが、彼女はその品々について全く覚えがなく、だれかが彼女を陥いれるために用意して置いた偽証に相違ないと主張した。第一彼女を犯人とすれば、何故自ら進んで警察に捜索を依頼したり、素人探偵を頼んだりしたかが分らなくなる。それのみか、意外なことには、彼女にとっては実に有力な証人が現れた。というのは病中の山野大五郎氏が、当夜彼女が一度も寝室を出なかったことを明言したのだ。それによって山野夫人に対する嫌疑は一先ず解かれた形であった。
だが、少くとも小林紋三だけは、その位のことで夫人の無罪を信ずることは出来なかった。中之郷O町の怪しげな家については、紋三がそれを口外しなかったのは無論だが、何故か明智までも沈黙を守っているらしく、警察は山野夫人とかの不思議な跛の男との密会事件を少しも知らない様子だった。紋三はそれを夫人のために私に喜んでいたのだが、併し彼女に好意を寄せれば寄せる程、夫人に対するあの恐しい疑いは却て益々深まって行くのだった。