「すると衛生夫に化けたのもやっぱり彼奴だったのですか」
「いやあの不具者には重い車なんかひけない。それは彼奴じゃないよ」
彼等は低い声で話しながら竹垣の方へ歩いて行った。竹垣をくぐるとすぐの所にずっと石垣が続いて、そこから地面が一段高くなっていた。明智はその石垣を攀昇って、板塀と土蔵との庇間の薄暗い中へ入って行った。五六間行くと突当りになってそこに別の塀が行手をふさいでいる。明智はポケットから細い針金を取り出し、正面の塀のある個所にさし込んでゴトゴトやっていたが、間もなくくるるの外れる様な音がして、塀の一部分がギイと開いた。隠し戸になっていたのだ。
隠し戸の内部は、壁と壁の間の、人一人やっと通れる程の狭い通路になっていた。彼等は手探りでその中へ入って行った。紋三はふと子供の時分の隠れん坊の遊びを思い出していた。そんな風に恐しいというよりは、何か可憐な感じがしたのだ。
少し行くと先に立った明智が「梯子だよ」と注意した。彼等は危い梯子を音のしない様に気をつけながら上っていった。上った所に一間位の細長い板敷があって、そこで行止まりになっていた。左右とも板ばりで、幅は身体を横にしなければならない程狭かった。
「ここが丁度押入の裏側に当るのだよ」明智がささやき声でいった。「静にしていたまえ」
彼等は暫くの間、その真暗な窮屈な場所でお互いの呼吸を聞き合った。紋三は押入の向側に山野夫人を想像すると、身体がしびれる程気がかりだった。どうか帰ったあとであってくれればいいと祈る一方では、あの醜い一寸法師と並べて、夫人の取乱した様子を見てやりたいという、うずく様な気持もあった。
部屋の方からは暫くは何の物音も聞えて来なかったが、やがてピッシャリと障子をしめる音がして「百合枝さん、だれかに感づかれる様なことはしまいね」男の太い皺嗄声が聞えた。「エ、だって、今窓からのぞいてみると、表に変な奴がウロウロしているぜ。うるせい奴等だ。この間も妙な若造が家の中へ上り込んだって話だし、危ねえ、危ねえ。もうここの家も見切り時だ。だが、奴さん達まさか抜道まで知りゃあしまいな」
薄い板張と襖があるきりなので、向うの話声は手に取る様に聞えた。
「早く逃して下さい。もし見つかる様なことがあったら、ほんとうに取返しがつかないんだから」
平常と違ってひどくぞんざいな調子だけれど果して山野夫人の声だった。
「それは己にしたって同じことだ。だが、まだまだ心配することはない。己の力はお前も知っているだろう」
その圧えつける様な太い声が、あの畸形児かと思うと変な気がした。声だけは人並以上に堂々としているのが、滑稽でもあり、物すごくも感じられた。
「それじゃ引上げようか。持物を忘れない様に気をつけるんだ」
その声が段々こちらへ近づき、畳を踏む音と一緒に、そっと襖を開ける気勢がした。