明智は暗の中で紋三の腕を握って合図をすると、板ばりの一部に手をかけて音のしない様に引外した。ポッカリと四角な穴が開いて、薄い光が差して来た。紋三はいきなり顔を合せるのかと思い、ハッと身構えをしたが、穴の向うには幾つも行李が積んであって、まだ相手の姿は見えなかった。
やがて一番上の行李がソーッと取のけられ、そのあとへ一本の腕がニョイと出て、二番目の行李の紐をつかむとズルズルと向うへ引っぱって行った。紋三の腕を握っている明智の手がピクピク動いた。
行李がのけられた。その向うから和尚の坊主頭がバアと覗いた。二三尺の距離で八つの目がぶっつかった。
「ワッ」
という様な音だった。四人が同時に何事かを叫んだのだ。
和尚はいきなり奥の四畳半の方へ逃げた。明智が行李を蹴散らして追いすがった。四畳半の窓を開けると物干場がある。階下に見張りがあるため逃げ場は屋根の外にないのだ。畸形児は素早く窓の外に出ると、物干場の手すりを足つぎにして、二階の屋根に攀上った。一足おくれた明智は、屋根からぶら下っている相手の足をつかんだ。だが、その足は暫くもみ合っている内にすっぽりと抜けて明智の手に残った。白い靴下で覆われた人形の足の様なものだった。
猿の様に木登りのうまい畸形児にとっては、屋根の上こそ屈竟の逃げ場所だ。彼は僧形の白衣の裾を飜して急勾配の屋根をはった。
「小林君、そこの窓から刑事を呼んでくれ給え」
いい残して明智も屋上に這上った。長い棟の上を、夕暗の空を背景にして、畸形児の白衣と明智の黒い支那服とがもつれ合って走った。
屋根が尽きると、畸形児は電柱や塀を足場にして次の屋根へと移った。ある時は一間ばかりの所を、両手で電線につかまって渡りさえした。一寸法師の軽業だ。
そうなると明智はとても敵わない。僅の所を、一寸法師の真似が出来ないばかりに、大廻りしなければならないのだ。見る見る二人の距離は遠ざかって行った。
正体をあばかれた畸形児は、もう死にもの狂いだった。逃げたとて、逃げおおせる見込はないのだけれど、そんな事を考える余裕はない。彼はせめて人形師安川の家までたどりつこうとあせるのだ。
やがて、畸形児の行手に一軒の湯屋の大きな屋根が立ちふさがった。うしろを見れば、追手はいつの間にか二人になっている。ぐずぐずしている内にはまだ人数がふえるかも知れないのだ。彼は思い切って湯屋の小屋根に飛び降りると、軒伝いに小さくなって走り出した。だが、やっとの思いで曲り角まで達した時、騒ぎを聞きつけて先廻りをした一人の刑事が、向うの屋根からピョイピョイと飛んで来るのが見えた。そして、彼の姿を見つけると、いきなり大きな声で怒鳴り出した。絶体絶命だ。
一寸法師は最後の力を絞って、樋伝いに湯屋の大屋根に登った。だが、その一際高い棟の上でホッと息をつく間もなく、追手達は同じ屋根の両方の端にとりついていた。最早や逃げる場所がなかった。そこから飛び降りて頭をぶち破るか、おとなしく繩を受けるかだ。
追手達は身構えをしながら、瓦を一枚一枚這寄って来た。畸形児ののぼせ上った目には、それが三匹の大トカゲの様に見えた。彼はあてもなくキョロキョロと四方を見廻した。すると、ふと目についたのは、湯屋の煙突だった。黒く塗った太い鉄の筒が、すぐ側の瓦の中から、空ざまに生えていた。彼はいきなりその煙突にとりつくと、得意の木登りでスルスルと登って行った。
追手は同じ様に煙突を登る愚をしなかった。彼等はその下に集って、瓦のかけらを木の上の猿に投げつけた。そして気長に相手の疲れるのを待つ積りだ。
だが畸形児には別の考えがあった。煙突には船の帆柱の様に、頂上から太い針金が三方に出て、その一本が狭い空地を越して、向う側のゴミゴミした長屋の屋根に届いていた。彼はケーブルカーの様にその針金をすべって、向う側に渡る積りなのだ。もしそれがうまく行けば、そこは複雑な迷路みたいな町だし、夕暗のことだから、うまく逃げおおせることも、満更不可能ではなかった。
命がけの軽業が始まった。白衣の怪物が空に浮いた。針金を握って足を離すと、ハッと思う間にツルツルと五六間滑った。針金がピュウンとうなって、煙突が弓の様に曲った。
針金が手の平に食い入って、鑢の様に骨をこすった。畸形児は半も滑らぬ内に、痛さに耐え難くなった。もう針金を握る力がなかった。ふと下を見ると、そこの空地にはいつの間にか五六人の人が空を見あげて立騒いでいた。たとい向うまで滑りついたところでもう逃亡の見込はないのだ。「駄目だ」と思うと指が伸びた。一瞬間、畸形児の目の前で世界が独楽の様に廻った。
墜落した一寸法師は、そのまま気を失った。空地にいた人達が声を上げてそのまわりに馳せ寄った。