「そちらへ行くんじゃありません、今家へ行ったらつかまるばかりです。サア、もっと走るんです」
「イイエ、私はどうしても、一度家へ帰らなければならない。離して、離して」
夫人はか弱い力をふり絞って、邸の方へ曲ろうとしたが、紋三がしっかり抱き込んで、そうはさせなかった。
「心配しないだっていいです。僕はどこまでもあなたと一緒に行きます。サア、愚図愚図している時じゃありません。逃げましょう。逃げられる所まで逃げましょう」
紋三は夫人を引ずりながら、上ずった声でいった。それでも彼女は暫くの間、紋三の腕の中でもがいていたが、やがて力がつきた。紋三は夫人の身体が突然しっとりと柔かく、重くなったのを感じた。彼女は身も心も疲れ果てて、あらがう気力も失せたのだ。
紋三は殆ど夫人を抱き上げる様にして、堤を北へ北へと走った。行くに従って人家がまばらになり、夕暗は一層色濃く迫って来た。幾町走ったであろうか、ふと見れば、堤の右手に当って真暗に茂った深い森があった。
紋三の足は二人分の重味の為にもういうことを聞かなくなっていた。息切れがして胸がはじけ相だった。丁度その時休み場所には屈強の森が見つかった。彼は倒れ込む様にその中へ入って行った。殆ど気を失った夫人の身体を大樹の蔭の草の上に寝かせて置いて、堤に引返すと、彼は川の所まで這おりて、汚い水をすくって飲んだ。そうして少しばかり咽喉が楽になると、今度はハンカチに水を含ませてそれを持って森の中へ入って行った。
百合枝は元のままの姿勢でそこに仰臥していた。顔だけがクッキリと浮び、淫がわしくとりみだした風情は、薄暗の中に溶け込んで、夢の様な美しさを醸し出した。
紋三は濡れたハンカチを片手にボンヤリとその美しい姿を眺めた。昨日までは愛すればこそ、一種の恐れをさえ抱いていたこの人と、今駈落をしているのだと思うと、悲壮な様な、甘い様な、名状出来ない感じで胸が痛くなった。
彼はそこに膝をついて、百合枝の首を抱き上げると、彼女の脣へ、濡れたハンカチの代りに、いきなり自分の脣を持って行った。そして、彼がまだ小さい子供だった時分、隣に眠っていた従妹にした様に、彼女の接吻を盗むのだった。
「アラ、私どうしたのでしょう」
やがて、接吻の雨の下から、百合枝の脣がいった。
彼の余りの激情が彼女の眠りをさましたのか、それとも彼女は凡てを知っていて、態と今気のついた体を装っているのか、紋三は疑わないではいられなかった。それ程百合枝のさめ方は不自然で、それにさめたあとでも、彼女の首をまいた紋三の腕を拒もうともしないのが変だった。満更気のせいばかりでないと思うと、紋三は目の中が熱くなった。
「どうです、歩けますか」彼はさっきのハンカチを百合枝の口に当てがって「もう少しの我慢です。この辺を右に折れて行けば、曳舟の停車場があるはずです。そこから汽車にのりましょう。そしてどっか遠いところへ行きましょう」