風のふしぎ
一太郎君は丈夫な子供でしたが、めずらしく風をひいて、三十八度五分も熱が出て、今日で三日学校を休んで、寝ていました。
でも今朝からは、気分もすっかりよくなり、熱をはかってみても、三十六度五分ぐらいで、ふだんとかわりないのですが、お医者さまが、もう一日だけ用心した方がいいといわれたものですから、残念でたまらないけれども、学校を休んでしまったのです。
そのおひるすぎのことです。床の上で雑誌を読んでいると、障子の外からお母さんの声がしました。
「一太郎や、高橋さんがね、お前をおみまいに来て下すったのですよ」
そして、障子がすーとひらいて、そこへ大学の制服を着た高橋さんの、にこにこ顔があらわれました。
「やあ、一太郎君、風をひいたんだってね。でも、もうすっかり元気らしいじゃないか」
高橋さんはそういいながら、そばにすわりこみました。
「うん、もういいんです。僕、起きたくってしようがないんだけど」
「お医者さんと、お母さんが、いけないっておっしゃるんだろう。ははは……、まあ、今日一日だけがまんするんだね」
高橋さんと一太郎君は、年はずいぶんちがっていましたけれど、まるでお友だちのように仲よしです。
一太郎君は一人でたいくつしていたので、高橋さんの顔を見ると、急におしゃべりになって、いろいろなことを話しましたが、やがて、高橋さんに、いつものおねだりをはじめるのでした。
「ねえ、高橋さん。何か問題を出してくれない」
「ほーら、はじまった。君は病気で休んでいても科学少年なんだね。よし、それじゃ一つむずかしい問題を出すよ」
高橋さんはそういって、しばらく考えていましたが、何かいいことを思いついたようすで、にこにこしながらはじめました。
「君は、さきおとといの晩、お湯にはいったあとで、北村君のところへ、模型飛行機の設計の相談に行ったんだってね。その時、道で寒い風にふかれたのがもとで、風をひいたんだってね」
「うん、そう。あの晩は、とても風がひどかったもんだから」
「さあ、それが今日の問題だよ。風にふかれると、なぜ寒いんだろうね。わかるかい」
「え、風にふかれるとなぜ寒いかって」
一太郎君は、あっけにとられたような顔をして、高橋さんを見つめました、何かむずかしい問題が出るかと思ったら、あんまりやさしいのでびっくりしたのです。
「空気が早く動くと風になるんでしょう。そして、寒い方の空気がこちらへおくられて来るから、風が寒いのでしょう」
そう答えて、一太郎君は心の中で、なあんだ、こんな問題ちっともおもしろくないじゃないかと考えるのでした。
「ようし、それじゃ一つ、おもしろい実験をやってみよう」
高橋さんはそういって、一太郎君の机の上から一枚の紙を取ると、くるくると丸めて、巻たばこより少し細いくらいの、長いくだを作りました。
「さあ、手を出してごらん」
「え、手をどうするの」
「まあ、いいから出してごらん」
一太郎君が、いわれるままに手をさし出すと、高橋さんは何を思ったのか、今作った紙のくだを口にくわえ、一方のはしを一太郎君の手の甲にむけて、ふーっと強く息をふきつけたのです。
「寒い、寒い」
一太郎君は、思わず手をひっこめました。
「どうだ、寒いだろう、……わかったかい」
「え、何が」
「つめたい空気でなくっても、風は寒いということがさ。僕の息は体の中であたたまっているから、この部屋の空気よりは暖いのだよ。その暖い息をふきつけても、君は寒いっていったじゃないか。どういうわけだか、わかったかい」
「だって、それは、息が長いくだの中を通って外に出ると、この部屋の空気よりひえてしまうんでしょう。でなけりゃ、寒いはずがないや」
「ふん、そうかね。それじゃ、もう一つ実験をして見せてやる」
高橋さんは立ち上って、部屋の柱にかけてあった寒暖計を取りはずして来ました。
「十五度だ。今この部屋の空気の温度は十五度なんだよ。ところで君にたずねるが、僕がこの紙のくだで、寒暖計の水銀の玉に息をふきつけたら、水銀は上ると思うか、それとも下ると思うか」
一太郎君はちょっと考えてみましたが、やっぱりほかに答え方はありません。
「下るんでしょう」
「どうして」
「だって、息をふきつければ寒いんでしょう。だから、寒ければ寒暖計は下るにきまっているもの」
「よし。それじゃ、やってみるよ」
高橋さんは、また紙のくだを口にくわえ、水銀玉をめがけて、ふーっ、ふーっと息を強くふきつけました。
すると、これはどうしたことでしょう。寒暖計の水銀は、下るどころか、みるみるうちに、十六度、十七度と、ぐんぐんのぼって行きます。一太郎君は、ほんとうにびっくりしました。高橋さんが、何か手品でもつかっているのではないかと思ったほどです。
「君も自分でやってみるといい」
一太郎君は紙のくだを受けとって、まず自分の手をふいてみて、寒いことをたしかめてから、同じ強さで寒暖計の水銀玉にふきつけましたが、やっぱり水銀は、のぼって行くのです。水銀が十五度に下るのを待って、くりかえしてやってみましたが、何度やっても同じことです。
一太郎君はどう考えても、わけがわかりません。
「へんだなあ。この部屋の空気より暖い息がかかれば、そこだけ暖く感じそうなものなのに、どうして寒く感じられるのだろう。高橋さん、どうしてなの」
「それはね、人間の皮膚には、いつでも水分があるからだよ」
高橋さんが、むずかしいことをいいました。
「え、水分って」
「夏は汗をかくだろう。あの汗はどこから出るか知っているかい。僕らの皮膚には、目に見えない汗やあぶらの出る穴が、数かぎりなくあるからだよ。これは先生に教わったことがあるだろう。冬だってやっぱり、そこから水分やあぶらが出ているんだよ。あんまり少くて目には見えないけれどね。だから、皮膚に強く息があたると、そこの水分が一ぺんにかわいてしまう。急にかわくものだから寒いというわけさ」
「急にかわくと、どうして寒いの」
「かわくというのは、水が水蒸気になって蒸発することだ。これも君は教わったことがあるだろう。庭に洗濯物がほしてあると、かすかな煙のようなものが、洗濯物から、もやもや立ちのぼっていることがあるだろう。あれは水蒸気だ。つまり太陽の熱のために水が水蒸気になって飛んで行ってしまうから、洗濯物がかわくのさ」
「それぐらいのこと知ってますよ、僕だって」
「ところで、水が水蒸気になるためには、かならず熱がいるのだよ。熱がなくては水はかわかないのだ。これも知っているだろう。ぬれ布にアイロンをあてると、ジュンといって水分が蒸発してしまうね、つまり、かわいてしまうね。だから水が蒸発するためには熱がいるということがわかるだろう」
「うん」
一太郎君は高橋さんの顔を見つめて、強くうなずきました。
何だか少しずつ、わけがわかって来るような気がしたからです。
「すると、どういうことになるね。手に息をふきつけると、そこの水分が急にかわく。ところが、そのかわかすためには――つまり、水分が蒸発するためには熱がいる。その熱はどこから出ると思うね」
「あ、わかった。体からでしょう。人間の体には熱があるから」
一太郎君は風をひいて、たびたび体温計で熱をはかっていたので、すぐそこへ気がつきました。人間の体には三十六度何分の熱が、いつでもあるということを、よく知っていたのです。
「そうだ。そうなんだよ。僕らの皮膚の水分は、体の熱で、いつでも少しずつ蒸発しているんだが、息をふきつけると、そこだけ一ぺんにたくさんの水分が蒸発する。そのためには、熱もたくさんいるので、息をふきつけられたあたりの皮膚の熱が、急に少くなる。熱が急に少くなるので、部屋の空気より暖い息がかかっても寒く感じるのだよ。ね、わかったろう」
寒い息で寒暖計の水銀がのぼった時には、なんだか魔法のような気がしたのに、わけをきいてみると、魔法でもなんでもないことが、よくわかりました。こんなむずかしい問題がとけるかしらと思っていたのが、らくらくとけてしまったのです。
「風にふかれると寒いのも同じわけだよ。君のいうように、つめたい空気が送られて来るということもある。また、もう一つ、僕らの皮膚のまわりは、体温であたためられた、うすい空気の層でつつまれているのだ。そこへ風がふくと、その暖い空気の層がふきとばされて、外がわの、つめたい空気が皮膚にふれるので、寒いと感じることがある。まあ、いろいろあるが、今日は、おもに皮膚の水分の蒸発について説明したのだよ」
そういって、高橋さんは、なんだかへんな笑い方をしました。
「ところで、君が風をひいたほんとのわけを教えてあげようか」
「それは、お湯から出て、すぐ風にふかれたからでしょう」
「そうかい。それじゃ君はこれまで、お湯から出て寒い風にふかれたことは、一度もなかったのかい」
高橋さんはまた、なんだか妙なことをいい出しました。
「そりゃ、そうじゃないけれど……」
一太郎君が、へんな顔をして、いいしぶりました。
「ね、そんなことは度々あったんだろう。それだのに、さきおとといの晩にかぎって風をひいたのはなぜだろうね」
そういわれて、一太郎君もわけがわからなくなって来ました。
「まあ、風をひくわけもいろいろあるが、君の場合は、僕はこう考えるね。さきおとといの晩、お湯から出ると大いそぎで服を着た。少しでも早く北村君のところへ行って飛行機の相談がしたかったからだ。ね、そうだろう。だから君は、体をいつものようによくふかなかったんだ。いいかげんにふいて、すぐ服を着てしまったんだ。え、そうじゃないのかい」
なるほど、その通りです。高橋さんはまるで名探偵みたいです。一太郎君がうなずくと、高橋さんはにこにこして、いいました。
「だから君の体には、いつもよりは水分が多かった。水分が多ければ風にふかれて蒸発する分量も多いわけだね。蒸発する分が多ければ、熱もよけいにいるわけだね。そこで君はぞーと、寒気がして、風をひいてしまったというわけなんだよ。わかったかい。お湯から出たら、いくらいそいでいる時でも、体をよくふいて、皮膚の水分をできるだけ少くすること。よくおぼえておきたまえ。そうすればすぐ表へ出ても、めったに風を引くようなことはないんだからね。もっとも、体が弱いと風をひきやすいから、まず体を丈夫にすることだ」
それからしばらくして、高橋さんは帰って行きましたが、一太郎君は、「やっぱり高橋さんはえらいや、だから、僕、高橋さんが大好きさ」と、つぶやきながら、にこにこと、ひとり笑いをするのでした。
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