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かげろう絵図(上)~雲

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  雲「懐妊?」 男の顔色は明らかに変った。 鼻が大きく、唇が厚い男である。多血質な、赭《あから》顔なのだが、それが一瞬
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   雲
 
 
「懐妊……?」
 男の顔色は明らかに変った。
 鼻が大きく、唇が厚い男である。多血質な、赭《あから》顔なのだが、それが一瞬に褪《さ》めたようになり、濁った眼が大きく開いて、相手の白い顔を凝視した。
 男は、前田家江戸屋敷の用人で奥村大膳という名である。四十の男盛りが太い猪首にみえていた。
 見据えた相手の白い顔は、奥村大膳の五寸と離れぬ前で喘《あえ》いでいた。上体を男の膝に投げて、熱にうるんだ瞳《め》でうなずいた。
 女の甘くすえた匂いが男の鼻をうっている。衿がはだけて、脂肪の乗った胸乳《むなぢ》の白さが露《あら》わであった。
 男は袴を脱いでいる。女は襠《うちかけ》も、白い綸子《りんず》の袷も脱ぎ、白羽二重の下《した》重着《がさね》の姿だけになっていた。
 部屋は四方とも襖や障子を閉め立てていた。森閑としたものである。外からは声も聞えない。用事があって呼ぶまでは、誰もここには来ないはずであった。
「菊川殿、その懐妊とは真実か?」
 大膳は確かめるように重ねて訊いた。
 菊川は、それにもまた黙ってうなずいた。恥かしいが真実である、という応えが、その首のかすかな振り方に出ていた。
「その、徴候《しるし》は、はっきりとござります」
 菊川のつけ足した言葉はふるえていた。
 大膳は女の顔を見詰めている。眼の不安はかくれもなかった。
「して、何|月《つき》になる?」
 彼は、恐れるように訊いた。
「三月《みつき》をすぎております」
 菊川は細い声で、膝の上で答えた。
「三月……?」
 大膳は、眼をむいた。
「そ、それは一体、誰が診《み》て申した?」
「ご案じなされますな。御城の御医師ではございませぬ」
 菊川は媚びるように云った。
「この前、ご代参に詣りましたとき、不快になり町医者を喚《よ》びました。その節、その町医者がはっきりと申しました」
「町医者を寺に喚ばれたのか?」
 大膳の声が尖った。
「それも心得ております。駕籠で目かくしして医者を送り迎えいたしました。決して寺の名も在所《ありか》も判ってはおりませぬ」
 菊川は男を安心させるように云った。
「滅多なことをなされますな」
 大膳は叱るように云った。
「僅かな粗漏《そろう》から、どのような大事になるか分りませぬぞ」
「でも、奥村殿」
 女は男の膝に力を入れた。
「わたくしの身も大事に思召して下さりませ」
「もとより菊川殿の身も大事に思っているが」
 と奥村大膳は少し言い訳を挾んだ。
「ただ、迂濶《うかつ》なことをなされるな、と申している」
「それを心得ているから、町医者の迎えには悟られぬよう工夫しました。でも、あのときの胸の不快には我慢が出来ませんでした。奥村殿、あなたは男じゃ。女の苦しみはお分りになりませぬ」
 菊川は拗《す》ねたように云った。
「いや、それは分っている。して、お城では、そなたの懐妊を知っている者はありませぬか?」
 大膳は問うた。
「わたくしの部屋の者二人だけでございます。これは腹心の者で大事ないが、ほかは煩《うるさ》き局《つぼね》のことゆえ、不快の因《もと》を匿すのに苦労いたしました」
「病気宿下りを願い出ても、どなたもお気づきにならなかったか?」
「はい。誰も疑ってはおりませぬ」
「お美代の方様も?」
「こればっかりは申し上げられませぬ。お美代の方様は大事に養生せよと仰せられました」
「養生をな」
 大膳の眼が、宙の一ところにじっと据わった。工夫を考えている眼であった。
「菊川殿」
 と大膳はやさしく云った。
「わたしの知っている医者がある。腕はいい。信用してよろしい。この者をひそかに呼んで治療いたさせましょう」
「治療?」
 菊川の眼が動いた。
「この不快を癒してくれます?」
「無論、腹の子の始末をすれば、そなたの頭痛、嘔き気、衰弱などあとかたもなく無くなります」
 菊川が大膳の膝から身体を刎《は》ね起して、男を凝視したのは、この言葉を聞いてからであった。
「何と仰せられます?」
 声が上《うわ》ずっていた。
「それでは、この子を闇から闇に葬るおつもりですか?」
「左様」
 大膳は軽く答えた。
「第一、腹が目立つようになってはお城勤めも出来ますまい。そなたのためじゃ。今のうちに出して、しばらく養生をし、しかるのちに大奥へお戻りなされよ」
「いや!」
 叩きつけるような声で女は叫んだ。
「怖ろしいことを申されますな。折角、授かった子を殺せとは! あなたの血をうけた胤《たね》じゃ。わたくしは可愛い。わたくしは、きっと生みまする」
 子はきっと生みます、と云い切った菊川の眼はぎらぎらと光っていた。
「お城の方はどうなされる?」
 大膳は眉を寄せて訊いた。
「申されるまでもありませぬ。これきり病気を云い立てて身を退きます。気苦労ばかり多い大奥勤めは、とうから嫌になっておりました」
「はて、そなたとしたことが聞き分けの無い」
 と大膳は困惑をかくしてやさしく説いた。
「左様なことをなされては、そなたの身に疵《きず》がつく。菊川殿といえば、お美代の方様お気に入りの御中臈、権勢あるご身分じゃ。ちとその辺をお弁《わきま》えなされ」
「その菊川をこのような身体になされたのはどなたじゃな?」
「いや、それは、しかし」
「奥村殿」
 菊川は再び激しく男の膝にとりついた。
「わたくしは、あなたが好きじゃ。あなたからやさしい言葉をかけられた時から、眼の前がぱっと燃えるようでございました。それから口実を設けてお城を脱け、短くて果敢《はか》ない逢瀬《おうせ》を重ねるにつれて次第にあなたから離れられなくなりました。わたくしも女、この年齢《とし》になってこの歓びを味わおうとは思いませなんだ。わたくしは心も身体もあなたに溺れておりまする」
 菊川の声は泣いていた。男の前に恥を忘れた女は、髪が乱れても掻き上げようとはしなかった。
「それほど好きなあなたの子を、生むな、殺せ、と申されるのは、あんまりでございます。あなたのお心の冷たさが怖ろしゅうございます」
 女は怨《えん》じた。
「いや、わたしとても、そなたが可愛い。ただ、今の場合、子を生むのは困る。事情が許さぬ。又の機会も巡ってくることじゃ。それは分ってくれるであろう?」
 男は諭《さと》したが、女は激しく首を振った。
「うそです。うそじゃ。あなたは、わたくしを利用なされたのじゃ」
「利用だと」
 大膳はどきりとした。
「お美代の方様との取引に便利のよいわたくしを籠絡《ろうらく》して使われたのじゃ。わたくしはその道具になっていたのじゃ」
「それは大そうな思い過し。そなたの邪推だ」
 男は、うろたえて一生懸命になった。
「わたしの言葉に嘘はない。真実、そなたが可愛いのだ。分って欲しい」
「そんなら、腹の子を生ませてくださるか?」
 女は屹《きつ》と顔を上げた。
「しかし……」
「奥村殿」
 菊川は血走った眼で睨んで云い放った。
「わたくしは生みまする。あなたがどのように邪魔されても!」
 この宣言が大膳には狂人の言葉に聴えた。
 
 相変らず、この部屋には誰も近づいて来ない。襖も障子も締め切ったままで、ひと組の男と女を密室の世界に置いていた。
 家は手入れの行き届いた植込みの深いところにあった。石の布置も洒落たものだったし、その上にさしのぞいた松の枝ぶりも華奢《きやしや》な感じであった。
 外には明るい陽が当り、それが前面の広い不忍池の水を光らせている。池には青い蓮が群れて浮き、岸辺には芦がそよいでいる。
 上野の山内《さんない》を目の前に見渡せるこの辺は、茶屋や料理屋が多い。公儀では、風紀に目に余るものがあって、度々撤去を命じているけれど、今も昔も同じことで、何のかのと云っては居据っている。現にこの梅屋という家も大きな構えで商売をしていた。
 本郷に近いせいもあって、奥村大膳は、梅屋にとって大事な客であった。よく使ってくれるのである。
 奥村大膳が、中年寄菊川との逢瀬にこの家を利用してから半年くらいになる。法華の信心詣りをする菊川は、帰りを池の端に寄り途するのだが、梅屋では女乗物の鋲打《びよう》ちの駕籠をこっそり人目にふれぬところに匿してくれるのだ。大膳と菊川とが会っている時の離れの座敷には、猫の子も近づけさせない配慮をしている。
 外には、おだやかな陽が当っているが、昼間でもわざと薄暗くしたこの部屋の中では、大膳と女との闘争があった。
 菊川の血走った眼に、奥村大膳は説得の自信を失ったものか、弱い表情になった。
「それほどまで思い詰めるなら詮方《せんかた》あるまい」
 と彼は折れたように云った。
「おお、それでは無事に生ませて下さりますか?」
 菊川の眼が輝いた。その眼の妖気に思わず男はたじろいだようにうなずいた。
「お礼を云います。奥村殿」
 女は男の膝を力をこめて揺すった。
「ご恩にきます。あなたの可愛いお子を儲けて、お傍から離れとうございませぬ。それが女の仕合せでございます。お城勤めなど味気ないことで一生を終りとうございませぬ」
「そなたがそれほどの決心なら、わたしもその考えにする。安心するがよい。もともとそなたが可愛いのだ」
「そりゃ真実でございましょうな?」
「無論じゃ」
「わたくしはお心変りをなされたかと思いました」
「何を、ばかな。左様なことがあるものか?」
「うれしゅうございます」
 菊川が身を投げると、大膳はその背に腕を廻した。
 女の身体が大膳の膝に重い。その重さは男の心の重さでもあった。大膳の眼は抱擁の情熱とは離れて、別なことを冷たく考えていた。
 半刻静かなうちに過ぎた。
 菊川は櫛で髪を直した。顔はまだ上気しているが、落ちつきが動作にあらわれていた。
 大膳は脇息に身を凭《もた》せて、それを眺めている。屈託のある眼だった。女の全身には、歓びのあとの余韻が漂っていた。男には、それが鬱陶しく映っている。
 菊川は、化粧直しをすると、向き直ってにっこり笑った。安心し切った微笑であった。女は自分の云い分を通して、勝ったつもりなのだ。悠々としたものである。さっきの取り乱し方が嘘のようだった。
 女は、ゆっくりと莨入れをとり出して、銀の細い煙管を抜いた。莨入れは紅繻子の裏がつき、表は錦仕立て、銀|金具《かなぐ》には丸に梅鉢の紋が象眼してあった。
 菊川は一服吸うと、気づいたように、莨入れを掌に載せ、男に見せた。
「これをあなたがわたくしに手渡されたときのお言葉、よもやお忘れではなかろうな?」
 菊川は確めるように男の顔を見詰めた。眼に媚と執念がこもっていた。
「忘れては居ぬ」
 大膳は仕方のないような返辞《へんじ》をした。
「ほ、ほ。そのお顔つきでは怪しいものじゃ。わたくしには、まだ昨日のことのように耳に残っている」
 菊川は粘い調子で云った。
「梅は加賀殿の御定紋、それを拝領して円《まる》に梅鉢はこの奥村の家紋じゃと申され、いつまでも己を忘れるな、とこれを下さいました。わたくしは片時も肌身からこの莨入れを離して居りませぬが、あなたは、いつのことだったかとけろりとしたお顔をなさっておられますな」
「それは無体な云いがかりじゃ。わたしはそれを見るたびになつかしく思っている」
「お口のうまいこと」
 と菊川は、それでも上機嫌に笑って云った。
「あなたが、どのように逃げようと思われても、わたくしからは逃げられませぬぞ。お覚悟なされ」
 冗談めかした云い方だったが、妙な迫力があって、大膳は唇が白くなった。
「ときに、菊川殿」
 と大膳は話を変えるように云った。
「そなたを診たてたというのは、どこの町医者かな?」
「あとで、傍の者に聞きましたが」
 と菊川は男の質問にうっとりと答えた。
「何でも下谷の方から、当日供についた添番の者が喚んで来たそうです。名前は、良庵とか申したようですが、お城の奥医師と違い、なかなか気軽な医者と見うけました」
「下谷の、良庵とな……」
 大膳の眼がひそかに光った。冷たい、陰険な眼になって、何かを思案していた。
 
 吹上の庭一帯は警備の詰所の者が見廻ることになっている。しかし、広大な地域全部に亙ることは稀で、巡路区域はたいてい決っていた。
 しかるに、この度、御広敷用人から命令が出て、お庭一帯、殊に滝見茶屋、花壇茶屋を中心として隈なく掃除を行うべし、との達しが、伊賀者、添番にも有った。
 この両番の役は大奥の雑用を勤める者だが、将軍家や大御所または御台所が吹上へのお成りの際には、番所の者に代って警固をつとめる。従ってそういう際以外にはお庭に出ることがない。
 ところが、警備の役人で足らず、伊賀者、添番まで狩り出して掃除に当らせるというから、何事かと思われた。
 その指令の一つに、
「お茶屋の床下、天井裏、林の中、岩の間なども仔細に掃除し、異物ある時は、これを捨てることなく、定めたる場所に集めること」
 とあった。
 異物というのは甚だ抽象的だ。何を指して居るか分らない。とにかく異な物と解釈するほかはない。
「一体、どうしたというのだ」
 添番の間でも話題になった。
 添番は昼夜交替で、西丸では十五人ずつが組となって勤める。つまり、三十人の定員であった。
「何か、吹上のお庭にお催しでも有るのかな」
 と首をかしげる者もいた。
「いや、まず左様なことはあるまい」
 否定する者は云う。
「大御所様、ご不例の折柄じゃ。上様にも御台所にも、万事御遠慮の節、臨時にお催しがあるわけがない」
 それでは、何だと訊き返すと、確かなことを答える者は無い。
「さあ」
 と首を傾げるだけだった。
 しかし、分らないとなると興味は募る。わざわざ組頭まで訊きに行った者がいるが、
「わしにも何が始まるのか分らぬ」
 と組頭までが頭をしかめた。
 ただ、この中に、ひとりだけ思い当る顔をした者がいた。背が低くて、あまり風采は上らないが、眉が薄くて、眼がぎょろりとしていた。
 落合久蔵である。
 彼の眼のふちに薄い笑いが上ってきた。
 それでも彼は組頭に一応の伺いを立てた。
「異物とは、何でございましょう?」
「異物は異物じゃ、変った物を取り除けばよい」
 組頭は不機嫌に答えた。
 組頭も知らぬ。命令は上から来ているのだ。久蔵は顔を撫でて、愉しそうに何かを考えている。
 吹上庭の不時の掃除は誰からの指令であるか、落合久蔵は知りたがっている。表向きの命令は誰であろうと、実際に伊賀者や添番まで動員させたほどの実力者を知りたい。
 組頭の口吻から察しても、上の方からの伝達である。
 面白くなった、と久蔵は思った。
 その指令が、上の方からであればあるほど、彼はほくそ笑むのである。
 添番詰所では朋輩たちが相変らず臆測に花を咲かせていた。
「大御所様ご不例の際に、かような事が始まるのは、何か大仕掛けなご平癒のご祈祷がお庭でとり行われるのではないか」
 と云う者もいる。
 誰が考えても、結構な催しものがあるとは思えないから、自然に大御所の病気に結びつく。
「いやいや、そうではない」
 と仔細らしく云う者もいた。
「大御所様平癒の祈祷を感応寺でとり行ったところ、住職の日啓殿の申されるには、吹上のお庭の方角に大御所様をお悩ませ申し上げる異物が埋まっているそうな。それに悪霊がこもり居るから、まず異物を見つけ出して取り除けとのお告げだったらしい。それでかくは不時の掃除と相成った次第じゃ」
 もっともらしい意見なので、皆は耳を傾けた。智泉院住職日啓はお美代の方の実父で、家斉がお美代可愛さに日啓まで取り立てて自ら日蓮宗に帰依したくらいだから、かれの威望は大そうなものである。
「日啓どのが云い出したからには、さもあろう」
 と一同はうなずいた。
「しかし、その異物とは何であろう?」
 この疑問には、さすがの説明者も困って、
「されば、異物とは異物、異なものを片端から取り除けばよいのであろう」
 と曖昧なことになった。
 しかし、異物の正体を誰よりも直感的に覚ったのは落合久蔵である。
 彼は同輩が話に夢中になっている隙に、詰所の屋根裏に梯子《はしご》をかけて上った。屋根裏といっても、高さ六尺もあって人が立って歩ける。ふだんは詰所の不用な雑具を置いていた。
 久蔵が、こっそりと雑具のならんだ奥に眼を向けて蝋燭の灯で確めたのは、一個の赤漆塗りの踏台であった。
 乏しい明りをうけても、踏台の上は雲母《きらら》のように光っている。まさしく蝋を塗ったあとだった。
「これだ、これだ」
 久蔵は思わずひとりで呟いて笑いを洩らした。
 実は、この品は、去る花見のあと片づけの時、偶然に鳥籠茶屋の床下から彼が発見し、ひそかに持ち帰り、この場所に隠しておいたものである。
 落合久蔵は、いま、薄暗い屋根裏で蝋燭を手にもって、踏台を見ながら、これを発見した時のことを思い出している。
 あの時の花見は、多喜の方の不慮の珍事があって、散々な結果であった。騒ぎが起って、大御所も御台所も怱々《そうそう》にお帰りになる。お美代の方はじめ、大勢の女中に取り巻かれた中臈たちもひき上げるで、大奥女中どもが半年も前から愉しみにして待っていた今年の桜見が前代未聞の惨めさで終った。
 お半下《はした》部屋の女中どもは前夜から庭に運んだ道具を片づけて持ち帰るのに一騒ぎであったが、当日、お庭の警固をうけ持った伊賀者や添番もあと始末に汗をかいた。
 久蔵が、鳥籠茶屋の床下から赤漆塗りの踏台を見つけたのは、この付近のあと片づけの時だった。
 床下は、人が立って入れるくらいに高いが、床束《ゆかつか》と大帯木《おおおびき》が井桁《いげた》に交差した奥に、踏台は人目からかくすように置いてあった。
 変だ、と思ったものである。
 入り込んで、その品を取り出して検分すると、まさに長局の備品であることは、踏台としては華奢な造りと、派手に塗った赤い色で判った。
 どうしてこのような場所に、と思って、ふと気づくと足を乗せる板のところに蝋が一めんに塗られてあるのだ。そのときも、春の陽をうけて蝋がうすい乳色に光った。
 明らかに誰かが細工を施したものであり、それを人目につかぬよう此処に匿して置いたのである。
 早速に届けよう、と思ったが、待てよ、とすぐに久蔵は考えた。
 この踏台こそは多喜の方を転倒させた品物である。重要な証拠物件には違いないが、ただ届けただけでは、ああそうか、と受け取られるだけである。組頭が口先で賞めてくれる位が関の山で、自分には何らの利得が無い。
 落合久蔵は機会をいつも狙っている男だった。この品がもっと値打ちの出るころまで待とうと考えた。今、この物件を持って届けるのと、あとで持ち出すのとでは、大そうな違いになるかもしれないのだ。
 必ずこの品を求められる時が来る。詮議がやかましくなる時だ。その際に、発見者として持って出ると、今度は組頭の口先だけでなく、褒美の金でも貰えそうだ。或は、うまくゆくと、出世の糸口にならぬとも限らぬ。
 久蔵は、添番の五十俵高の薄給生活には飽き飽きしていた。せめて百俵高の御広敷御番衆くらいには出世したい。それがとうからの念願であった。
 やはり頭は働かすものだと久蔵はひとりで自慢した。その品を此処に今まで移しておいてよかったのだ。みろ、誰か知らぬが、上の方の偉い人がこれを、今、探しているではないか。
 しかし、彼の心にも変化があった。
 落合久蔵の気が変ったのは、ほかでもない。
 踏台の細工をしたのは誰か、彼にも見当がつかなかったが、その推察がついたのは、非番の日に麻布を歩いている際、大奥女中の登美を見かけたときであった。
 通りすがりに登美を見たのだが、はてな、と思ったのだ。
 花見の時には、久蔵も警固の役について、よそながら見物をゆるされた。
 一同、注視の中を中臈多喜の方が花の下に立っていた。今や大御所の寵愛を一身にあつめている女だ。あでやかな襠《うちかけ》を着て、すらりと佇《たたず》んだ姿はまるで絵のようだった。
 多喜の方は自作の和歌を認《したた》めた短冊を花の枝に結ぼうとして当惑しているのだ。そのとき、踏台を持って小走りに近づいた一人の女中があった。
 踏台を捧げて、その女中は早速に退いたが、あの転倒の騒ぎがそれから起っている。
 麻布の往来で、久蔵が登美を見かけて思い出したのが、その踏台を持って出た女が、彼女であったという記憶である。
 あの騒ぎで、気にもとめなかったが、そのときに彼女を見て、はてなと考えたのは、自分が鳥籠茶屋の床下から見つけ出して、添番詰所の屋根裏にかくした踏台とのつながりである。
 あの女が!
 と思い当ったときには、自分でも身体がとび上るほど、はっとした。
 そうだ。どうしてこれに気がつかなかったのか。迂濶《うかつ》だった。
 踏台の細工のことに気づかぬ他人はともかくとして、明らかに、それに足をのせれば滑るように出来た仕掛を知っている自分が、それを持ち出した当人が一番怪しいくらいは、もっと早く心づきそうなものだった。
 たしかに、登美だ──
 遅かったけれど、気づいた。
 そう考えれば、当日、彼女が咄嗟に、騒ぎにかくれてその踏台を床下にかくす推定も無理ではない。おそらく、一時、そこを隠匿場所にして、他日とり出して処分するつもりだったのであろう。
 下手人は登美だ。
 そう信じて間違いはないと思った。それで彼女のあとをつけたのだが、鼠坂を上ったところで、女はある屋敷に入った。そのときも、女の出てくるのをその屋敷の前で待ち伏せしていたくらいである。
 何故か。
 登美の顔を見て、落合久蔵は別な欲が起ったのだ。もとから女好きの男だった。
 彼は登美の急所を握ったと信じている。証拠品は彼の手の中にある。この弱点を武器に女の身体を奪う野心が起ったのだ。
 その欲望は、今もつづいている。いや、強くなっていた。
 
 吹上の庭の大掃除は、その日の巳の刻(午前十時)より始まった。
 なにしろ、広大な地域であるから、容易にはかどらない。東西五町、南北十町、十万坪を越す大そうなものである。
 その中には、武蔵野を偲《しの》ばす原野があり、畑地があり、深山幽谷を思わす樹林がある。
 当日、清掃の人数も夥《おびただ》しいものだったが、広い地域では、さしたる数とも見えなかった。しかし、重点的には、花壇、馬場、並木茶屋、滝見茶屋、鳥籠茶屋、新構茶屋を中心に展開された。これらの地域は、当日、花見を行った場所である。
 異物というので、何でも拾い集められて出した。草履の片方がある、足袋の古いのが出る、こわれた薬籠《やくろう》が出る。
 しかるに、それらは満足でなかったものの如く、清掃作業は一向に中止されない。
「異物とは何であろう?」
 と捜索の連中は顔を見合せた。
「判じ物じゃな」
「悪霊のこもったものとあれば、よくよくの物であろう」
「とんと宝さがしじゃ」
 泥だらけの手をして、自分らだけで評定した。
「御茶屋の床下、屋根のあたりも油断なく見るがよい。異物があれば、何であれ取り除き持って参れ」
 という指令が出る。
 その集積された「異物」は、殆ど塵埃同様の役にも立たぬ廃物ばかりで、これぞというものはなかった。
 ところが、落合久蔵は、同僚たちが、せっせと身体を動かし廻っているのを見て、鼻で嗤《わら》っていた。
 ふん、あるものか。
 と心で嘲笑している。探している「異物」が例の踏台であることは、いよいよ明らかになったのだ。
 彼は箒を義務的に持ったまま、のろい動作をつづけていた。目的が分れば、馬鹿らしくて働く気がしない。
 ふと、見ると、芝生の上を一団の人間が歩いていた。日ごろ傲慢な組頭が、その先頭の男に、ぺこぺこして案内していた。
 その男を見て、落合久蔵は、はっとした。かれこそ今や権勢の側用人水野美濃守ではないか。
 美濃守は、広場のあちこちに集積された異物を見廻っているところだった。時々、立ち止っては、むずかしい顔をして首を振っている。
 なるほど、美濃守だったか!
 久蔵の顔が輝いた。
 上の方からの命令だとは思ったが、水野美濃守とは知らなかった。大物だ。
 久蔵が元気づいたのは、これが意外にも自分の幸運の相手だということだった。
 が、女の方も捨て切れない。彼は迷った。
 大御所側用人の水野美濃守が、何故、今ごろ踏台の詮議をしているか、添番の落合久蔵にはもとより真相は分らない。
 だが、それが大事なことは、遠くから眺めた美濃守の気むずかしい顔つきでも分るのである。この人は大奥にいつも引込んでいて、滅多にこんな場所に出て来ることはないのである。
 たしかに、あの踏台は値打ちがありそうだ。
 久蔵は胸の中で笑いが拡がってくるのを覚えた。あわよくば、待望の出世の蔓《つる》になりそうだった。
 しかし、だ、と久蔵は、ふくらむ己の胸に云い聞かせた。
 登美という女だって悪くはない。美しいし、若いのである。今まで、そういう種類の女を久蔵は高嶺《たかね》の花と考えていた。
 なるほど大奥の添番といえば、七ツ口に詰所があり御殿女中のあでやかな姿は日夜見なれてはいるが、いずれも縁の遠い存在だった。どれもこれもが手の届かぬところに咲き乱れている花なのだ。
 それが、踏台一つで、その中の女の一人に近づけるのである。しかも、登美は優美な花だった。
 久蔵はすでに四十に近い今まで、そのような美しい女に甘い言葉をかけられたことはなかった。貧乏やつれした女房以外に女というものを知らない。
 いま、登美のような若くて、きれいな女が、都合次第で、手に入りそうだと思うと、高嶺の花が急に手近に見えてきた。
 登美のあのきれいな顔と、若い肢体が、この腕に抱ける。まるで夢のようだった。
 出世もしたい。しかし、女も欲しかった。久蔵の迷いはそれである。
 ただ、どうして登美に近づき、企らみを遂げるか、それが少々厄介である。
 添番詰所と大奥との間には、お錠口というものがあって男子の出入りが禁じられている。
 が、障害があればあるほど、久蔵はやり甲斐を覚えた。
(まず、女だ)
 と彼は決めた。胸が、わくわくした。眼までが活々としてきた。
 が、一方、水野美濃守の眼は憂鬱そうだった。
 探すものが無いのである。
 吹上庭の掃除は夕景近くまでかかったが、遂に踏台の欠片《かけら》すら発見出来なかった。
 どこに匿したものか。まさか、外に持ち出せる品ではない。第一、そんな時間は無かった筈だ。
 見当は必ず吹上の内だとつけたのだが、これほど捜索しても出て来ないとは?
 美濃守は腕組みして、首をかたむけた。
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