加賀藩前田家の用人奥村大膳は、ひるすぎに向島の中野石翁の隠居所を訪うた。
天気のいい日である。堤の桜は葉ばかりとなって繁り、それに初夏の眩《まぶ》しい陽が光っていた。
駕籠は二挺つづいていた。前には大膳が乗り、後には人間でなく、進物が乗っている。進物は熨斗《のし》飾りで、美しく化粧してあった。
隠居所といっても広大な屋敷である。墨田堤から一町ばかり離れたところで、邸内は植込みの樹と庭石で埋っていた。いずれも数寄を凝らしたもので、金を出して買った物より諸大名からの寄進が多い。殊に石翁が石を好むとあって、世にも珍奇な石が争って各藩の領内から選り出されて移送された。
石翁が石を好む理由は、その雅号に因《ちな》んでいる。家斉から清《しん》の儒者|沈徳潜《しんとくせん》の真蹟「碩翁《せきおう》亭」の扁額をもらって、はじめ碩翁と号したが、のち憚ることがあって石翁と改めた。
その邸宅は、外から眺めると、屋敷というよりも見事な庭園である。
こんな話がある。──
そのころ、或る藩の勤番侍が二人、江戸見物をしていて、この辺りまで来た。見ると大そう立派な構えの植木屋があるので、その奥を覗きたく思い、ふらふらと門内に入った。掃除していた下男のような者が咎めると、自分たちは某藩の家来だが、今度はじめて江戸に来て、諸方を見物している。今日、この前を通りかかったが、樹の枝ぶりといい、石のかたちといい、まことに結構である。一つ中まで観せてくれまいか、と頼んだ。
田舎侍ではあるし、植木屋だと思っているから遠慮がない。そのまま、ずんずん垣の中に入ってきた。
主人らしい坊主頭の隠居がこれを見て、騒ぐ下男どもを制し、ゆっくり見せてやれ、と云った。侍二人は見物に廻ったが、想像以上の広さと立派さに肝をつぶした。なるほど、江戸というところは広大なものである。どこに何があるか分らない。
二人は方々、見て歩き、もと来た道に出ると、池に臨んだ立派な家の縁の前に大石があり、その上に前の坊主頭の老人が腰をかけている。
「まことに見事なお手入れで愕《おどろ》き入った。これで国への土産が一つふえました」
と礼を云うと、老人は茶をのんで行けという。
出された菓子は味わったこともない上等のもので、茶器も豪華である。あきれていると、貴公たちは酒を飲まれるか、と老人は云った。
「頂戴仕る」
と答えると、それでは、と縁の上にあげられ、酒肴の馳走にあずかった。これがまた珍味ばかりで、田舎侍はいよいよ舌を巻いた。
そのうち、酒が良いので酔が廻ってきた。
二人の勤番侍は、いい心持になって、いろいろなことを話し出した。
自分の殿様の庭も結構だと思っていたが、これには到底及ばない。思わぬ眼の保養をしたと喜び、且は大そうなもてなしをうけたと謝した。隠居は黙って笑っていた。
ついては江戸の風習として茶代を置かねばならないが、これはほんの心づけであると侍は云って、いくらかの小銭を紙につつんで出した。坊主頭の隠居は別に拒みもしないで受取った。
侍はそれで安心し、これほどの家は江戸でも滅多にあるまいから、次には友達を呼んでもいいか、と訊く。老人は一向に構わないと答えた。それでは家の名を教えてくれと云うと、老人は、これを持っておいでなさい、と云って何か書いたものをくれた。
翌日、二人の侍は出仕して、同藩の者と話しているうちに、昨日の物語りをした。あんな立派な庭の家を見たことがない。主人と約束したから、お望みなら案内しようと云った。
聞いた連中が、それは誰の家かと尋ねると、あいにくと貰った書きつけを自宅に忘れたのでよく覚えぬが、座敷の鴨居の上に、石摺りにした大きな文字の額が掲げてあった、何でもその一字は「碩《せき》」というような字だったと思うと語った。
騒動がそれから起った。それはまさしく中野石翁の邸である。知らぬといいながら、植木屋と間違えて藩士が無礼を働いたのだから、どのような仕返しがあるか分らない、と藩主はじめ重役一同が蒼くなった。一先ず、その勤番侍二人を押し込め処分にして、謝罪の使者を石翁のところへすぐに立てた。
使者は、藩士の無礼を平グモのようになって謝った上、件の者は取り押えて押込めにしておいたが、どのような重刑を加えたらよいかと伺いを立てた。
石翁は大きな褥《しとね》の上に坐って笑い、田舎の人が知らぬでやったことだから別に咎めるにも当るまい。藩主の耳にも入っていまいからすぐに釈放なさるがよろしかろうと云った。
その藩では、二人の勤番侍をすぐに国元に追い返したが、そのあとが大変である。百方手を尽し、金品を贈って石翁の機嫌をとったということである。
これなども、諸人がどれだけ石翁を畏怖していたか分る話である。
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「新渡の鮫鞘《さめざや》、毛の羽織、何を着たとてかまやせん、腰に短かき御太刀を佩《は》き、一寸見附の花が生き、枝珊瑚珠も江の島の、土産に同じ貝細工、または蝋色《ろいろ》の上品も、縁に頭に目貫まで、今出来揃ひ桐尽し、葵、沢瀉《おもだか》、虎の皮、御馬が三匹何ぢややら」(巷街世説)
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というのは、中野石翁が出仕の行列の驕奢をうがった一文である。
さて、奥村大膳は、その石翁の向島別荘の門をくぐった。
中野石翁は十徳のようなものを着て坐っていた。大きな坊主頭の上には、例の「碩翁亭」の石摺りの扁額がかかっている。
石翁の着ている十徳は普通のかたちとは少し違っていた。
これについては由来がある。
中野播磨守が隠居し、石翁と号して出仕した時、家斉が石翁のきている十徳姿を見て云った。
「その方の着ている十徳は、茶道坊主とも医師とも見えて甚だ紛らわしい。少し色、容《かたち》を変えたらどうか?」
これは家斉の寵愛から出た親切心であった。石翁はこの重恩に感激して、十徳の変形をつくった。以来、石翁の着ているものは十徳に非ざる十徳で、色も白でつくり特殊な意匠であった。
その特別な恰好で石翁は奥村大膳の挨拶を鷹揚にうけていた。
「ご隠居様にはいつもながらの御機嫌で恐悦に存じます」
大膳は頭を畳にすりつけて云った。
それについて、石翁からは、いつも心使いをしてもらって済まぬ、と会釈があった。大膳の持ち込んだ熨斗飾りの品のことを云っているのである。
「大膳、茶でも参ろうか」
石翁は云った。この座敷の隅には風炉《ふろ》が切ってある。そこにはいつでも火が埋っていた。
石翁は炭斗《すみとり》から炭をつぎながら、
「大膳、犬千代様のご機嫌はどうじゃな?」
ときいた。
「はっ。至極ご壮健にて、日増しに大きくなられておられます」
大膳は頭を下げて答えた。
「それは重畳《ちようじよう》。何よりもめでたい」
石翁は何度もうなずいて、厚い唇に微笑を漂わせた。犬千代は、石翁の養女のお美代の女溶姫が加賀侯に縁づいて生れた子である。石翁にとっては義理の曾孫に当るのだ。
「この上とも、犬千代様にはお気をつけてくれ。大切なお方じゃ」
「それは、もう、仰せまでもございませぬ。われら身命を賭してお守り申し上げております」
大膳は力をこめて云った。
「ついては、大膳、今日、その方を呼んだのは余の儀ではない。その犬千代様についてのことじゃが」
「はっ」
「もっと、近う来い」
大膳は肥った身体を動かして、にじり寄った。
「恐れながら大御所様のご不例は」
と石翁は低い声で云い出した。
「ここ半年の間であろう。ご全快なされるのではない。その逆じゃ。つまり大御所様のご大漸も間近いと医師どもはひそかに申している」
奥村大膳はそれを聞くと思わず眉をひそめた。
「大御所様のご容体は、それほどお悪うございますか?」
「悪い」
石翁は云い切った。
「このままだと半年がもつかどうか」
「………」
「そこでな、大膳、わしが思うに、今のうちに大御所様の例のお墨附を頂いておかねばならぬ。お頭脳《つむ》が溷濁《こんだく》しては万事休すでな」
「はあ」
大膳は眼を伏せた。
「それでなくとも、ただ今はご衰弱が増しておられる。頭が割れるように痛い、痛い、と喚《わめ》くようにお訴えなされる。医師共は手にあまって半泣きじゃ。それを水野美濃がひとりでご看病申し上げ、失禁のお始末から何までお世話申し上げている。とんと女房、いや、女房でもああはゆくまい。美濃は連日着たままでお傍に仮眠し、ご発病以来、わが屋敷に戻ったことがない」
「美濃守様のご忠勤、ほとほと感じ入りましてございます」
「うむ、出来た男だ」
石翁は、泡立った茶碗を大膳の前に置いた。
「それ故、大御所様の美濃へのご信任は一入《ひとしお》、今では女どもを遠ざけられ、美濃ひとりを頼っておられる」
「君臣の情、承っても涙が出て参ります」
「従って、本丸へのご政道向の指図は、すべて美濃守の口を通じてなされている。大御所思召しは悉く美濃より出ている。分るか?」
「………」
「ははは、分るであろう。お側には美濃ひとりが詰め切りじゃ。たとえ御姻戚の大名方がお見舞に参ってもご大切を申してお側には参られぬ。ご病間には誰も近づけぬ」
石翁の言葉の含みが、大膳にも次第に判ってきた。かれの眼は輝いてきた。
「しかしな、ご病状がもっと悪くなれば、それも崩れてくる。ご危篤となると、誰もかれもが最後のお暇乞いに参るでな。例のお墨附を頂こうにも頂戴出来なくなる。今なら、それが出来る!」
ここまで石翁が云ったとき、襖の外の廊下を忍びやかに歩いてくる足音がした。石翁は急に茶を啜《すす》った。
「申し上げます」
襖の外で家来が云った。
「真田信濃守様、ご使者が参られました」
「何だな?」
石翁は問うた。
「ご挨拶とのことでご進物を、長持ち二棹、持参されましてございます」
「よし、貰っておけ、使者には会わぬ」
石翁はこともなげに云った。
「信濃め、煩さい奴だ」
使者を追い帰して石翁は舌打ちした。
真田信濃守の名を小耳に挾んだので、奥村大膳は、自分の話の途中ながら、
「松代侯がどうかされましたか?」
と興味を起して訊いた。
「うむ、例の出世亡者だ。それも大亡者での」
石翁は唾を吐くように云った。
「この間から、老中になりたいなどと申しては世話を頼みに来ている」
「ははあ、世間の評判はよろしいように承りましたが」
「それよ。それでのぼせたものか、いきなり老中を志望しおった。信濃は、まだ大坂城代も京都所司代も勤めては居ぬ。それを一足とびに老中にしろというのだ。人間は利口でも、のぼせると前後が分らぬとみゆるの」
「それでお断り遊ばしましたか?」
「断りはせぬ」
石翁は平気で云った。
「見込みが無いような、有るような、どちらともつかぬ返事をしている。大膳、この辺のかねあいが大切じゃ。信濃めは何とかおれに承知させ、出世の夢を遂げたいものと度々使者に時候の見舞品を持たせてくる。これが莫迦《ばか》にならぬ金でな。その注ぎ込んだ金のため、貧乏世帯の松代藩では家中に渡す扶持米給金に差し支えているそうじゃ」
石翁は笑っている。
「それで、ご隠居様は結局、お請け合いなされますか?」
「たわけを申せ。自体、考えても分るであろう。先例を無視して老中に成れる道理があるか。信濃がそこまで財布の底をはたいたなら、もうそろそろ引導を渡してやらねばなるまい」
「………」
奥村大膳は呆れたような眼をした。
「大膳。わしは金が要る。犬千代様を加賀家よりお迎えして、西丸にお直しするには、やはり相当の運動資金が要るでな。口煩さい連中の手当じゃ。なるほど、わしは金を持っている。世の中には出世亡者どもがうようよしているでの、わしに頼めば何でも叶うと思い、先方から運んで来るのじゃ。わしは遠慮なく持って来たものは貰うことにしている」
石翁はこう云って、皮肉な笑いを消し、急に真剣な顔つきを見せた。
「それも、これも犬千代様を西丸に迎え、大御所様他界の後は、当将軍家を西丸にお移しして大御所に奉り上げ、右大将様(世子家定のこと)将軍に成られた後のお世嗣ぎにしたいためじゃ。大膳、わしの心は分るであろう?」
「さほどまでに犬千代君をお立て下さるご隠居のご厚情には、大膳、かねてより涙を流しておりまする」
石翁と奥村大膳との内談はそれからもつづいた。両人の間は畳半分も開いてはいない。
茶釜には湯が沸《たぎ》り、せせらぎのような音を立てている。その音よりも囁き声は低くきこえた。
家斉病歿の暁は、現将軍の家慶を大御所にする。世子家定をそのあとの将軍にし、それから前田犬千代を養子として迎え、世子となし、その次の将軍にしようというのである。
家定は身体が虚弱である。伝うるところによると癇が強く、いつも首をふる癖があって、将軍になってからは「癇性公方《かんしようくぼう》」の名があったという。脾弱《ひよわ》で、神経質だったのであろう。
だから、たとえ家定が将軍となっても、短命に違いない。そのあと、世嗣ぎに直った犬千代が公方となれば、血統の上からいってお美代の方一派の勢力の伸展は望み通りだ。これが中野石翁の構想らしい。
まことに、その通りになれば、林肥後守はさしずめ本丸老中となり、水野美濃守は将軍側用人となってめでたい話である。のみならず、加賀藩にとっても万々歳である。とかく百万石を白眼視されて幕府から目の敵にされてきた前田家にとって、これほど安全なことはない。
一体、前田家は始祖利家以来、保身の術に長《た》けている。
天正十年、賤ヶ岳の合戦の折、前田利家は柴田勝家の側について出陣した。彼は茂山にあって柴田軍の佐久間盛政部隊の掩護に当っていたが、戦闘中に陣地を放棄して、後方に移動し、北方へ脱出してしまった。
戦場放棄だから裏切りに等しい。事実、前田利家ははじめから秀吉に対しての戦意が無く、内通していたのである。思うに、秀吉の優勢を見てとっていたからであろう。このため、利家は秀吉の天下になってからは非常な優位を占めた。
徳川の天下になってからは、二代利長はじめ、代々、どのように保身に苦心したか分らない。鼻毛を伸ばして阿呆を装ったという逸話がある。
加藤、福島ら、豊臣家と密接な数々の大名が取り潰しに遇ったなかで、百万石を最後まで維持したのは偉とするに足りよう。とにかく、幕府から睨まれぬことが第一、ひたすら去勢された百万石を演技した。
しかるに、石翁のプラン通り、家斉の女《むすめ》の生んだ犬千代が将軍ともなれば、保身も万全である。
のみならず、溶姫、つまり前田家御台所附用人奥村大膳にも、こよなき春がめぐって来ようというものである。
この密談は長い時間をかけて終った。
石翁と大膳が声を合せて笑う声が聞え出した。
石翁と奥村大膳との間に笑い声が上ったのは、密談が面白く終ったせいである。
「もう一服どうじゃ?」
石翁は愉しげにすすめた。
「頂戴仕ります」
大膳はいつも礼儀正しい男だ。有難そうに一礼した。
石翁は二度目の点前《てまえ》にかかる。上手だったし、自分でも自慢している。殊に、愉快な話のあとだったから気分は爽かだった。道具は名物ばかりで、これも公辺の周旋を頼む諸大名からの寄進が多かった。
石翁の仕ぐさを客である大膳はじっと拝見している。静かだが、退屈な時間であった。
凝視している大膳の眉のあたりが曇ってきた。茶には関係の無い、別なことを自然に思い出して、知らずに浮かぬ顔になったという感じであった。
この屈託げな大膳の表情を石翁が見のがす筈はなかった。が、すぐには云わず、黙って自慢の点前をつづけた。
茶碗が出される。大膳は一礼して作法通りにうけとった。黒の楽焼茶碗の中には緑の色が冴えて泡立っている。大膳は押し頂き、静かに緑の雫をすすりはじめた。
「大膳」
石翁が呼んだ。不意だったので、大膳は思わず茶碗を手からすべり落しそうになった。
「はっ」
見上げると石翁の顔には微笑があるが、眼だけは切り離されて光っていた。大きな、ぎろりとした眼である。
「どこか、身体でも悪いか?」
声はおだやかであった。
「いえ、別段には」
大膳は答えた。
「顔つきが変った」
石翁は截《き》るように短く云った。
「気分の悪そうな顔じゃな。何か心配ごとでも思い出したか?」
大膳がかぶりを振って否定しようとすると、
「隠すでない」
と石翁は云った。
「大事の前の小事、というが、とかく、ことは小事の災いから破れ勝ちじゃ。大膳、心煩わしきことがあれば、遠慮なく申してみい。たとえ些細なりとは云え、心に屈託があれば何ごとも精神こめて打ち込めぬものじゃ。われら大事の前、跼《つまず》きになりそうなものは今の間にとり除かねばならぬ。わしに隠さずに申せ」
大膳は、両手をついて身体を崩した。
「ご隠居様のご意見、肝に銘じました」
「うむ、話すか?」
「はっ。とうからご相談申し上げたいと思いましたが、何とも口から出すことが叶いませなんだ。お言葉に甘え、死ぬ気になって申し上げます。──実は中年寄菊川殿のことで……」
「なに、菊川?」
石翁も、これは意外だったらしく、眼の前に両手を突いている奥村大膳の太い首筋を眺めた。その首筋には、うすい汗が滲み出ている。
「どう申すのだ?」
「は」
と云ったきり、大膳はさすがに絶句してすぐには面《おもて》を上げなかった。
「遠慮は要らぬ。何ごとも云ってみい」
石翁に重ねて催促され、
「実は──」
と大膳が脇の下に汗を掻きながら、白状したのが菊川との特殊な関係だった。
それはすでに二年前からつづいている。菊川はお美代の方のお気に入りだ。それで前田家に輿入れした溶姫のご機嫌伺いに、菊川は度々本郷の御守殿に出入りしている。そのうち、前田家から溶姫に附けた用人奥村大膳と忍び合う仲となった。
加賀藩邸の長い塀の前は、溶姫が入輿して以来、遠慮を申しつけて、町家を片側一切取り払った。ただ寺院だけは残されている。そのなかで法華宗の寺で妙喜寺というのがあり、題目信心の溶姫お附の女中や、お見舞の大奥女中どもが参詣する。
奥村大膳と、中年寄菊川との逢瀬は、この妙喜寺の奥深い一室で行われていたと、これは大膳の冷汗まじりの白状であった。
告白はまだある。近ごろ、その菊川が懐妊し、どうでも子を産むと云い張っている。そんなことをされたら、一切が明るみに出て、一大事であるから、何とか堕《おろ》すよう云い聞かせたが、とりのぼせた菊川は一向に承知しない。まことに困った次第だ、近ごろそれが心にかかって夜もろくに眠れない、その屈託が思わず顔に出て、御隠居様に見咎められ、恥じ入った次第でございます、と大膳は平伏した。
「大膳、そのほうが菊川とのう?」
石翁は呆れたように眼前の小肥りの中年男を見つめた。人間は見かけでは分らぬといった顔つきである。
大膳は言葉もなく、うなだれている。日ごろ何かと仕事の捌ける男だけに、この悄気《しよげ》た恰好には、おかしさがある。
「なるほど、菊川も女ざかりじゃ」
石翁はお美代の供についている菊川の顔を思い浮べるように云った。
「大奥で暮した女が、あの年齢《とし》で男を知ると、これは怕《こわ》い。大膳、そのほうはえらいものに取り憑《つ》かれたのう」
石翁は笑った。
大膳は、いよいよ頭を下げた。
「女というものは、可愛い男との間に宿した子は産みたがる。それが女の愛情、とりわけ年増女はそうじゃ。大膳、そちは果報者じゃ、と申してやりたいが、なるほど、その深情は、ちと、こちらに迷惑じゃの」
石翁は、菊川の駄々に奥村大膳が弱っているのをみて、はじめ少々面白く聞いていた顔が曇ってきた。
「大膳、それは厄介なことになったな」
と凝《こ》ったように太い首筋をたたいた。
「女の一念、菊川が是が非でも子を生むと云い通し、そのようなことになったら、その始末がぱっと世間に出る」
「はあ」
大膳は肩をすぼめた。
「さらぬだに大奥女中の風儀が取沙汰されているとき、中年寄が前田家の用人の子を生んだ、これは恰好の話題じゃ。油に火をつけたように忽ち拡がるぞ」
石翁は自分の吐く言葉に顔をしかめた。
「喜ぶ奴が一人居る。手ぐすね引いて、そんな一件を待っている奴がな」
「………」
「脇坂淡路じゃ」
石翁は、遠いところを見つめるような眼で、ぼそりといった。
「ご隠居様」
大膳はすがるように呼びかけた。
「手前の懸念も、そのことでございます。もし、これが脇坂殿に手がかりを与えると……」
「口実になるの。出会いの場所は法華寺、寺社奉行の管轄じゃ。容赦はすまい。得たりとばかり手をひろげて、その他の寺にも手入れをしよう。厳しくやるに違いない。そんな男だ」
大膳の顔は白くなっていた。
「淡路の狙いは、大奥女中と坊主の摘発からわれわれに附け入ろうとしているのじゃ。或はわれらの計画をうすうす勘づいているかもしれぬ」
「まさか、そこまでは……」
「いやいや」
石翁は首を振った。
「分らぬ。油断のならぬ奴じゃ。こちらはそれくらいの要心を踏まねばならぬ。大膳、いかにしても菊川のこと困ったものじゃ。いっそ、欺《だま》して薬でも呑ませるか?」
その意味は大膳にはすぐに通じた。
「左様にも考えましたが」
と彼は云った。
「子を堕すとなると、いろいろと世話がかかります。滅多な家は借りられず、特別な女だけに人目からも隠さねばなりませぬ。手前に、左様な心当りもなく、才覚がつきませぬ」
大膳は弱り果てたように云ったが、眼にも言葉にも、石翁を頼り切っているものがあった。
石翁はしばらく考えていたが、何を思ったか、俄かに眼が生きてきた。
「大膳、菊川はわしの邸に預かってやろう。ここなら何をしようと、誰も気づく者は居らぬでな。菊川の処置は、わしに任せてよいぞ」
「ご隠居様が菊川殿をお預かり下さいますか?」
大膳は思わず石翁の顔を見た。
「そちの難儀を見ておれぬでのう」
石翁は笑った。
「当屋敷なら安心じゃ、誰がひそもうと世間の奴は知らぬ。石と樹とに囲まれているからの。鶴も飼っている。亀も池に泳いでいる。御殿女中ひとりくらい置いても不思議はあるまい」
石翁の云う通り、この向島の別荘には鶴が居た。家斉からの拝領である。鶴は、将軍家以外、大名も飼うことが許されなかった。家斉の偏愛がどんなに石翁に傾いていたか分るのである。
奥村大膳はそれを聞くと、畳の上に再び蟇《がま》のように匍《は》いつくばった。
「それを承りまして、大膳、宙に浮ぶ思いが致しまする。何ともお礼の申し上げようがございませぬ」
あとは女のように細い涙声になった。
「大膳」
「はあ」
「女をわしの屋敷に預かった以上、わしの勝手な料理に任せるか?」
大膳は、はっとして、石翁の眼を見上げた。相変らず薄い笑いが老人の顔に残っているが、眼は大きく剥かれていた。大膳は意味も無くその眼に射すくめられた。
「はは、勘違いするな。わしは年寄りだ。色気は無い」
「………」
「菊川をわしが説得しても無駄であろう。いや、腹の子を堕《おろ》す話じゃ」
「はあ」
「そこで、心当りの医者を呼び、欺して薬を呑ませる手もあるが、それを知ったら菊川は狂乱するであろう」
「………」
「逆上した年増女のこと故、何をするか分らぬ。それがこわい。もしかすると、われらの思わぬ禍根になるかもしれぬ。むごいようだが、悪い芽は摘み取って置かねばならぬでの」
大膳は、その言葉に寒気《さむけ》を感じた。
「万一の事があっても、そちに異存はあるまいな?」
「はっ」
平伏するよりほか仕方がなかった。
「そうであろう、飽いた女じゃ。そちも、せいせいする筈じゃ」
大膳の頭の上で石翁が含み笑いした。
「して、菊川はまだ勤めているか?」
「いえ、病気保養を申し立て、宿下りの名目でお城を下らせ、手前存じよりの者の家に一時かくまっておりまする」
「莫迦め」
石翁は叱った。
「世間に知れたらどうする? 今宵にも此処へ連れて来い」
「は……」
「だがな」
石翁は、おだやかな言葉に戻って云った。
「今申した菊川の処置は、最後の手段じゃ。一応は、わしが説得してみる。菊川が素直にきけば、それでよい。腕のよい医者を呼んでやろう。安心して任せておける医者じゃ。絶対に外には洩らさぬ医者でな」
医者という言葉を聞いて大膳は、ぎくりとした。気がかりなことがあるのだ。
菊川が悪阻《つわり》を食|中毒《あたり》と間違えて、本郷の妙喜寺に町医者を呼んだ。その町医者は、そのとき、はっきりと妊娠を言明したという。
菊川は医者を迎えるのは工夫して、場所の妙喜寺が悟られぬようにしたというが、町医者とても病人が大奥女中であることを知ったに違いない。髪の具合や衣裳で、一目で分ることだ。
椎茸髱《しいたけたぼ》が懐妊したとなると誰でも興味を起す。余分な金を与えて口止めしたというけれど、町医者のことだ、口が軽いに決っている。秘密な場所だってどう探られるか分らない。
奥村大膳の第二の心配はその医者の存在である。この処置も何とかつけなければならぬ。
このとき、また廊下から家来の声が聞えた。
「小笠原|壱岐《いき》守様お使者が見えましたが、いかが取り計らいましょうか?」
石翁は顔をちょっと動かし、
「何か持って来たか?」
と訊いた。
「は、羽二重五匹、袴地《はかまじ》二匹、その下に何やら重き物を敷いてございます」
その重い物が小判であることは云わずと知れている。
「よし。取っておけ」
石翁は面倒臭そうに云った。
「わしは不快で臥せている。そう主人に伝えよと申せ」
家来はそれを聞いて去った。
奥村大膳が、意を決して、町医者のことを石翁に話す気持になったのは、この問答を横で聞いてからだった。石翁の横着が彼に勇気をつけた。
「それは、いかん」
石翁は事情を聞くと、やはり、むつかしい顔になった。
「その町の藪医は何と申す名だな、所も分っているか?」
大膳が、下谷の良庵だと答えると、
「どうも悪い種ばかり撒きおる」
石翁は呟くように云い、台子《だいす》の上に置いた鈴を振った。
「大膳、その始末もわしがしてやろう」
家来を呼んで置いて、石翁は大膳に笑いかけた。
「今度は、わしに手数をかけたな、大膳」