陽は沈んだが、空にも町にも薄い明りが残っていた。わずかな風が吹いている。
若い女が歩いていた。このごろのことで、なげ島田に両横の鬢《びん》がふくれて張り出している。灯籠鬢《とうろうびん》といって江戸に流行《はや》ったものである。
下谷二丁目というと、町芸者の多いところで、若い女の身装《みなり》も素人とはみえない粋なところがあった。
「おい、師匠が通ってるぜ」
縁台で将棋を眺めていた男が、女を見て友達に知らせた。
駒を手に握っていた若い男が、
「違えねえ、豊春《とよはる》だ。何処に行ったのだろう?」
と女の方を見た。
「何処に行こうとてめえが疝気筋《せんきすじ》を病むことはねえ。それよりも、うぬの王的はどこに逃げるのだ?」
相手が云った。
「何をいやがる。てめえと違わあ、おれにはちゃんと係り合いがあるのだ」
「ようよう、おめえの係り合いは柳原の夜鷹だ。こないだ見たぜ、金壺眼《かなつぼまなこ》に鰐口、頬っぺたには瘡《かさ》が吹き出た奴さ」
「そりゃ、おめえの馴染だ。二十三文貸しがあると喚《わめ》いていたぜ」
「ふざけるな。てめえこそ師匠に習《さら》い代をふた月溜めて顔が出せめえ。袖をひいて失敗《しくじ》った組だろ」
女が若い衆の方を向き、
「今晩は」
と小腰をかがめて通った。
「佳《い》い女だな。蹴出しの縮緬が凝ってらあ。中幅を二布《ふたの》にして、居るにも立つにもびらびらと致しやする」
「てめえの眼は裾の方ばかりだ。たまに顔を拝んでみろ。あれはうま相《そう》、よさ相、どうかおち相、はずかし相だ」
「しろ相、すべっこ相、やわらか相、尻がなさ相……」
「やき相、うるさ相、気がおお相、泣き相……」
「そりゃてめえの口説《くど》いた角の後家だ。やい、王的をどこに逃がすんだえ?」
「ええい、煩せえ野郎だ。唾が顔にかからあ」
将棋の駒をばらりと抛ると、若い者は通り過ぎた女のうしろに駆けた。
「師匠」
「あら」
女は振りかえって、
「今晩は。近ごろはお見えになりませんね。源さん、たまには顔を見せて」
とにっこりした。
「へへへ。野暮用ばかりでね、近いうちに伺いやす」
若い者は頭を押えて、うれしそうに笑った。
医者の良庵が、遠くの方から、きょろきょろしながら歩いて来た。
路地の奥に、小さな、小綺麗な家がある。出入口の明障子《あかりしようじ》には桜草の紋を貼り、柱の小形の標札には「富本《とみもと》豊春」と女文字が記してあった。
女が格子を開けると、音をききつけて小女が出て来た。
「お師匠さん、お帰んなさい」
「ただ今」
豊春は、すぐ上にあがらないで、
「おきみさん、塩を撒いておくれ」
「あれ、何がありましたか?」
小女は眼を丸くした。
豊春は昏《く》れて来た表の方を振り返って透かし、
「さっきから変な奴が尾《つ》けて来てるんだよ」
「変な奴ですって?」
「慈姑《くわい》頭に長袖でね」
「お医者さん……?」
「どこの藪か知らないが、さっきからあたしの来る方についてくる」
「気味の悪い」
と云いながら、小女は習慣になっている切火の石を豊春の頭の上に鳴らした。
「お師匠さん」
「何だえ?」
「もしかすると、お医者さんが富本を習いに来るつもりではないでしょうか」
「ばかだね。外を見ておくれ、その辺に居やしないか」
「はい」
小女は格子の外に出て覗いた。
「誰も居りません」
「そんなら、早く戸を閉めな。あ……」
と思い出したように、
「新さんは?」
「二階に居られます」
「そう」
安心したように、
「今日はずっと家《うち》だったんだろうね?」
「はい」
「早く塩を撒いておくれよ」
云い捨てると、鬢の上に手をやり、梯子段を急いで上った。
突き当りが襖で、それを開けると四畳半の小座敷、かたちばかりの床には三味線が二挺立てかけてあった。
畳の真ん中に着流しの男がひとり、顔を草双紙で蔽って横たわっていた。腰の物は大小とも枕の傍に置いてある。
富本節師匠豊春は、うしろ手に襖を閉めたまま、立って男の寝姿を、うっとりとした眼で見下ろしていたが、いきなりかがみ込むと草双紙を払い除けた。
「新さん、新さん」
と男の身体に手をかけて揺すった。
島田新之助の若い顔が眼を開けた。
「帰ったか」
と新之助は一旦開けた眼をまた睡そうに閉じようとした。
「いやだ」
豊春は男の身体にとりついて、胸を揺すった。
「何をするんだ。もう少し寝かせてくれ」
「いやいや。眠ってばかりいて。あたしが帰って来たというのに、眼がさめないの?」
「一生睡っている訳じゃない、そのうちいやでも眼がぱっちりと開く」
「あたしの顔に飽いたのかえ、いえさ、嫌いになったんじゃあるまいねえ?」
豊春は自分の顔を新之助の顔の真上に近づけ、柔かい指で男の眼蓋を揉むように擦った。
「止してくれ、くすぐったい」
「あんまり口惜しいからさ。新さん、好きだと云っておくれよ」
「……好きだ」
「あれ、気の無い云い方をして。いっそ憎らしいねえ、知らぬ顔で。あたしがどうなってもいいのかえ?」
豊春は、新之助の手をとると、衿をひろげ、自分の懐の中に入れた。
「分るかえ?」
「………」
「ほら、こんなに動悸《どうき》がうってるでしょ?」
「そうかな」
「あんなこと云って。もう少し親身になっておくれよ。こんなにどきどきしてるじゃないか」
豊春は自分の乳房のあたりに新之助の掌を押しつけ、じっと男の顔を見詰めながら、
「ああ、怕《こわ》かった……」
と大仰に溜め息を吐《つ》いた。
「どうした?」
新之助は退屈そうに訊いた。
「おかしな奴にあとをつけられてね、あたしが此処に帰って来るまで、うしろからずっと一緒で離れないのさ。気味が悪いやら、怕いやら、足が宙に浮いたよ」
「どんな奴だな?」
「あれ、うれしい。やっぱり気にかけて訊いておくれだったね。慈姑《くわい》頭の変なおやじさ」
新之助は笑い出した。
「そいつは聞かねえ方がよかった。とんだ艶消しだな。おれは若衆にでもつけられたのかと思った」
「たんとお嬲《なぶ》り、ひとのことだと思って。あたしは、ほんとにまだ動悸が鎮まらないんだから」
豊春が新之助によりかかろうとした時、
「お師匠さん」
と小女が梯子段の上から蒼い顔を出して呼んだ。
「お医者さんが来ましたよ」
「そら来た」
と新之助が云うと、
「あれ、気持の悪い」
豊春は怯《おび》えた眼をして男の身体に寄った。
小女が、
「あの、お医者さんが、新之助さんは居るかと云ってますが」
「やれやれ、折角だが、お前は振られたらしい。気の毒な」
新之助が起き上った。
「新さん」
豊春が心配そうな眼つきをした。
「どうやらおれの親類らしいな」
新之助は豊春の手を払って梯子段を降りた。
入り口には良庵が突立っていた。
「やあ、とうとう此処まで」
新之助が微笑した。
「見つけた。見つけた。えらく探しての」
良庵が新之助を見上げ、草履を脱ぎながら云った。
「しかし、よく此処を……」
「何となく鼻が匂ってな。えらく意気な家のようだが」
良庵は家の中を覗き込むようにした。小女が医者の風采を後から気味悪そうに見ていた。
「まあ、こっちへ」
新之助が先に立って梯子段を上ると、良庵は足を鳴らして後に従った。
豊春が座敷を片づけて待っていた。
「客だ」
新之助が医者をひき合せた。
「わしの親戚で、まあ名医だ」
「いらっしゃいまし」
豊春は、それでも眼もとに笑いをみせてお辞儀をした。
「やあ、やあ」
良庵は慈姑頭を下げ、
「聞いている。なるほど、なかなかの美形じゃ。新之助さんが世話になっているそうじゃが」
と豊春を眺めた。
「お世話などとは滅相な……」
豊春はうす赧《あか》くなった。
「良庵先生、この女《ひと》は先刻あんたにお目にかかっている」
新之助が云うと、
「わしは眼がうといでな。それは気がつかなかった。ただ富本節の豊春師匠の家を探して、きょろきょろして来たが」
良庵は何も知らない顔をした。
新之助が豊春に、
「動悸はおさまったか?」
「あれ」
豊春があわてて袖をひいた。
「酒だ。何はともあれ、珍客。すぐ酒にしてくれ」
「はい」
豊春が降りて行くのを見送って、良庵がにやりとした。
「どうしてここがお分りだったか?」
新之助が良庵に向い不思議そうな顔をした。
「なに、わしは下谷一帯に患家をもっているので、人の話は自然と耳に入る。富本の師匠の家に旗本の次男|士《ざむらい》がごろごろしている。人相、風体、それだけ聞けば、あんたと見当がつかあな」
良庵は云って、新之助を見つめた。新之助はそれから眼を逸《そ》らして呟いた。
「来て貰いたくないところに見えられた」
「そりゃ分っている。いろいろわけがあってと言い訳をなさらぬところがいい。たいていの察しはついている。野暮は云わんが……」
豊春が小女に手伝わせて酒と肴《さかな》を運んできた。
「なんにもございませんが」
「馳走になります」
良庵が酌をする豊春の顔を眺めて、
「わしは酒が好きでな。酒さえ飲まなんだら、もう少しはやるから金を貯めて、あんたのような美人を囲って……」
「ご冗談ばっかり」
「これは医者を見ると動悸がする方でな」
新之助が口を出すと、
「あんた」
と豊春があわてて新之助の膝を叩いた。
「仲のよいことじゃ」
良庵が笑って、
「これはまだかな?」
と両手をまるく腹のあたりに描いた。豊春が赤くなって下を向き、首をかすかに振った。
と良庵は盃を豊春にさした。女が頂くように両手で受けるのを見て、
「ま、急《せ》くことはない。急いても、急かいでも、こりゃ授かりごとでの。もっとも、授かって迷惑筋もある。だいぶ難儀なのをこの頃見たでな。食|中毒《あたり》かと思って診たら、とんだ中あたりものじゃ。富籤の当りは男の冥利、女の冥利は役者買いと近ごろ聞いたが、あれは当って男も女もとんと当惑じゃろう」
「そりゃ、何故でござんすか?」
「女の湯文字《ゆもじ》は男のふんどしにならんでの。これは長すぎる。長いものには巻かれろでも、巻かれ過ぎる」
良庵は訳の分らぬことを云った。
新之助の不審げな眼と良庵の眼とが合った。
「ここはいいから、お前はちょっと階下《した》に降りて居てくれ。そうだ、近所の肴屋に走って、何かみつくろって来てくれ」
新之助が云うと、豊春は心得たように、
「あい、それでは、先生」
と良庵に会釈して起った。
「やっぱり機転が利く」
医者が笑った。
「良庵殿、妙な話のようだ」
新之助が膝を組み直した。
「新之助さん、あんたがこの間、わしの家にとび込んで来たね?」
良庵が盃をさして云った。
「ああ、そうだった。あの時は厄介をかけた」
新之助はうなずいて応えた。
「おかげで相手を撒くことが出来た。こういう巣を知られては、ちょいと迷惑するでな」
「あれは、どういう手合いだ?」
「麻布の叔父の家からつけて来たので、大方、その辺に絡む筋だろうな」
新之助は淡泊に答えた。
「それよ、その筋にわしもちっとばかりこの間係り合いが出来てな」
「ほう珍しいことを聞く」
新之助が眼を向けた。
「まあ聞きなさい。あれから後、そうじゃ、二、三日あとかと思うが」
良庵は酒を呷《あお》って盃を措いた。
「わしを駕籠で迎えに来た病家がある」
「急病人」
「左様、急病人には相違なかった。が、迎え方が少々気に食わなんだ。わしを目隠しして連れて行きおったよ」
「それは……?」
「つまり、その病家の道筋を知らせぬためじゃ。怪しからぬ、と思ったが、面白いとも思ったでな。黙って乗せられて行ったが」
「………」
「着いた先も変っている。町家とは異う。広い家じゃ。仏事があるとみえて、線香の匂いがしていた」
「はて」
「いやいや、変っているといえば、その病人じゃ。女での、つんと澄まして臈《ろう》たけている。いや、病中なれば、そうはゆかぬ。蒼い顔を枕に押しつけ、椎茸髱も鬢がほつれて乱れかけている」
「なに、椎茸髱?」
「迎えられたら行ってみることじゃ。だから面白い。どんな人間に行き当るか分らんでの。当人、頭痛と嘔き気とで死んだような顔をしている。何ぞ悪い食べものが中毒《あた》ったかと思い、医者を呼んで手当させるという段じゃ。わしはやさしい手をとって脈を調べ、次に柔かい羽二重の懐をひろげて、胸乳《むなぢ》から鳩尾《みぞおち》の辺、もう少し下って腹のあたりを撫さすってみた。贅沢な人間とみえて、脂がよく乗って肥え、すべすべとまるで練絹の肌をなでるようじゃった。これも医者冥利、余人の役得には無い」
医者は笑った。
「いや、笑いごとといえば、その病気じゃ。食|中毒《あたり》とは以っての外、何とこれが懐妊での、苦しんで嘔いたりするのはそのためじゃ。悪阻《つわり》を気づかぬとは、さすが椎茸さん、のんびりとしていて、いい話じゃ。が、面白がっても居られぬ。わしはその時、妙な物を見たよ。おい、新之助さん、何だと思う?」
「妙なものを見た?」
「左様さ、枕元にの」
と良庵は酒をのみながら云った。
「錦仕立ての女持ちの莨入れ、裏地は紅繻子じゃ。銀の金具に象眼がある。贅沢なものじゃ。銀の煙管に更紗《さらさ》の莨入れ、小菊の鼻紙、こりゃ当世通人の好みで、緋|緞子《どんす》の莨入れに附いた金具には馴染の花魁《おいらん》の紋が彫らせてあると聞く。わしが見たのは女持ち、その紋は、新之助さん、何だと思う?」
「さあ、判らぬ」
新之助は銚子をとり上げて云った。
「梅にも春、その梅が円囲《まるがこ》いの中に納っていたと思いなさい」
「丸に梅鉢……?」
「椎茸さんの好みは、かたばみ、笹りんどう、常磐津は角木瓜《かくもつこう》、清元は菱に三つ柏、こちらの師匠は桜草じゃが」
「すると、前田の?」
「先ず、本郷あたりの出物と判じた」
良庵はうなずいた。
新之助は黙って酒を飲んだ。その顔に良庵は謎をかけるような笑いを送った。
「それから聞いてくれ、わしはあとでその病家を尋ねて行ったよ」
「目隠しされて駕籠で連れ込まれた家だな。しかし、よく分りましたな?」
「当り前だ」
良庵は肩を張って昂然と云った。
「わしは医者じゃ。医者を盲座頭にして病人が迎える法はあるまい。よし、どんな奴が居る家か、突き止めてやれと思った。そこで、道順通りを歩いて行った」
「たしか、駕籠の中で眼を塞がれていた筈だが」
「馬鹿にしちゃいけない、新之助さん、ここだ、ここだ」
と医者は慈姑に結った自分の頭を叩いた。
「余人ならばともかく、良庵、ここがちっとばかり働いた」
「はて」
「ありようは、帰りの駕籠での算用だ。駕籠の揺れ加減で、真直ぐに行く、しばらくして右に曲る、左に折れる、また真直ぐに行く、その数と間《ま》をいちいち心の中で覚えておいた。すると、逆にそれを辿って行けば、およその見当はつかあな」
「なるほど……」
「わしは、あくる日に早速やってみたよ。どこやら堀の横を行ったような気がしたが、これは仙台堀とまず見当をつけた。わしの心覚えで、右や左に曲って行くと、定火消《じようびけし》御役屋敷から右に折れると竹町の坂になる。ああ、あの晩も坂があったから、これに間違いはないと思ったね。本町一丁目から左に曲る。すぐに右に入った覚えがあるから、その道を見ると、酒井兵庫という人の屋敷が角になっている。そいつを折れる。この辺で左に行ったな、と思って行くと、ある、ある、小笠原佐渡守の中屋敷の横道じゃ。いや、面白かった……」
「それから」
良庵は酒で舌を湿した。
「小笠原の屋敷に沿って真直ぐに行った。覚えはある。すべて、帰りの道順の心覚えを逆に逆にと進めばよい。すると、この道は菊坂に突き当った。はてな、と考えたね、こりゃ右か左かと迷ったが、その時、聞えて来たのは、新之助さん、何だと思う?」
「分らぬ」
新之助が良庵の顔を見ながら答えた。
「お題目だ。どんつく、どんつく、法華のこれさ」
良庵は、手振りで太鼓を叩く真似をした。
「わしは、ははあと思った。と、申すのは、わしが連れ込まれた病家では、法華のお経を上げていたからな。尤も、僅かな間だったが」
「寺?」
「左様、法華の寺に違いない。近ごろ、むやみとふえたがの。そこで、わしはそのお題目をたよりに行くと菊坂の田町というところ、その町家の裏に寺が二つちゃんと隣り合ってある。そこまで出る道順が、またいちいち心当りがあってな。寺は長泉寺と妙喜寺。いうまでもない、お目当ては妙喜寺じゃ」
「とうとう探し当てられたか?」
新之助は微笑した。
「ここを探して来られたことと云い、良庵殿は不思議な鼻をお持ちだ」
「病人のほかに、この方の見脈《けんみやく》も利く。一つ、失せ物、尋ね人、方位方角の吉凶、家相判断の看板も上げようかの」
医者は酒を呷って、
「ところで、その妙喜寺、これは加賀藩邸のすぐ近くで、御守殿女中の信心の篤い寺じゃ。それ、前田加賀守殿の御台所がお美代の方の腹に出来た大御所の息女、お題目の妙喜寺の繁昌は当然じゃ。大奥女中衆の女乗物が、この寺にもしげしげと通うと聞いた」
新之助は眼でうなずいた。
「そこで、わしが診た椎茸さんだが、妊《はら》み腹と、寺と、莨入れの梅鉢の紋と、この三つをならべて何と解く?」
「そっちの吉凶判断の看板に任せよう」
「よろしい。引き受けた。まず、椎茸さんと寺では、誰でも坊主と出てくる。前代から大奥の流行《はやり》は、坊主買いと、役者買いじゃそうな」
「………」
「しかし、梅鉢が難物、坊主とは合わぬ。花札には無い図での。だから坊主を捨てて、女房と解く」
「………」
「はは、解らぬ筈、下手な洒落じゃ。女房は嬶《かか》、つまり加賀じゃ。新之助さん、椎茸さんを妊ました可愛い男は、加賀の方角じゃ。ここまで判じたら、あとは、その椎茸さんの姓名判断じゃ」
「それで、姓名判断は何と出ましたな?」
新之助は良庵の眼を窺うように見ながら訊いた。
「そりゃ、まだ、はっきりと卦《け》には出ぬが、わしが見たのは、奥女中の身なりからいって先ず中年寄か中臈衆の格式。あの寺には無論初めてではあるまい。しけじけと参詣の名前の中から洗えば自然と出てこよう。もっとも、この参詣は仏に会うよりも、男に会うためじゃがの」
「良庵殿」
「何じゃな」
「あんたのことだ、もう女中の名は分っていよう」
「知らんな」
「莨入れの紋の梅鉢なら、いずれ前田家の下されもの、それを貰う大奥女中ならお美代の方の側近であろう。胤《たね》は本郷屋敷か」
「さてね」
良庵は酒を飲みながら、呆《とぼ》けた笑いをした。
「麻布の叔父が好きそうな話だな」
新之助は途中で、それ以上の質問を止めて云った。
「叔父なら眼の色変えて聞きたがる話だ。さしずめ、脇坂邸へすっとんで行くかも知れぬ。両人ともどこかで火の手の上るのを待っているからな」
「もの好きな人だ、と云ってるようだね、新之助さん」
「もの好きもいいところだ、揃っているよ、あの両人は」
新之助は小女が持って来た熱い銚子を相手に注《つ》いでやりながら、
「その話、何でわたしの所に持って来られた?」
とじろりと医者を見た。
「やあ」
良庵は額を押えて、
「怒っちゃいけない。世間話、世間話。この間、あんたに妙なことがあって、話が麻布と筋を引いていると思ったからの」
「それなら、世間話として置いて貰おう。ただし、麻布の叔父には聞かせてやりたくない話だ。また、虫が暴れ出す」
「………」
「少々厄介な虫でな。余人の迷惑は考えない。己ばかりか、他人まで破滅の道伴れにしようという奴さ。当節、流行らぬ、身の程知らぬ虫じゃ。気はいいが、世上を見る眼が無い。自分では、何かやれるつもりでも、てんで非力なのを覚っておらぬ。それで身を亡ぼし兼ねない」
新之助は医者を強く凝視した。
「良庵殿。あんたも止めなさい。見脈は確かだが、余計な穿鑿《せんさく》はせぬこと。よろず判断もこの辺で看板を下ろすことだな。でないと……、あんたの生命が危い」
「お待たせしました」
豊春が料理を運んで来た。
「お話は?」
と新之助の顔を見た。化粧も新しく直していた。
「これは一段と美しゅう……」
良庵が云いながら盃をさした。
「話は済んだでな。これから腰を据えて飲み直そう、と云いたいところだが、そろそろ引取りたいと存じている」
「あら、もう」
と豊春は大げさに愕《おどろ》いて、
「何かお気に召さないお話でも……」
「気に入らぬ、気に入らぬ。わしに死相が表われていると、新之助さんが申されたでな。気分が悪うなった」
「まあ、新さん」
豊春は新之助を横に睨んで、
「そんなことを……」
「気にかけるお仁《ひと》ではない。構うな」
「あんた!」
と豊春が叩いた。
医者が立ち上った。
「新之助さん。とにかく、耳には入れておいた。わしは用があって、今日はこれで帰るが……」
「承った、と返事だけ申しておく。しかし、良庵殿」
「何だな?」
「家相判断の看板は下ろしなさるがよい。悪いことは云わぬ」
「あら、こちら、家相|観《み》のほうも?」
豊春が良庵を眺めた。
「家相、人相、手相、失せ物、尋ね人、何でも心得ている。本道以外にちょこまかと動きなさるのがこの人の身の病《やまい》だ」
新之助が微笑《ほほえ》みながら答えた。
「清盛さんは火の病、わたしゃ鉄火が身の病」
良庵は口ずさみながら、よろよろと階段を下りて行った。
豊春が、そのうしろから送って降りた。
「どうも、失礼しました。ご気分をお悪くなさらないで、お近いうちにまたどうぞ」
「馳走になりました。ところで、あんたに頼むが」
良庵は豊春に向き直って、
「新之助さんを世に出して上げなされ。可愛い男なら、その分別、いずれは胸にあろうが……」
「………」
「はは、初対面の挨拶ではなかった。あんたも気を悪くなさるな。では、ご免」
医者は背中を見せて路地から遠ざかった。
豊春が蒼い顔をして二階にかけ上ると、新之助は、良庵の姿を上から見送っていた。
「新さん!」
「何か医者から云われたか。気にするな。あの男、寿命が永くはない」
良庵がわが家に戻った時は、日が暮れて暗くなっていた。
「お帰りなさいまし」
内弟子が迎えた。
「よいご機嫌で」
内弟子は良庵の酒臭い息を嗅いで云った。
「ばかめ。よい機嫌なものか。お前なんぞには分らぬ。ああ、くたびれた」
「先生、病家からお迎えが参っております」
「明日来なさい、と云ってくれ」
良庵は畳の上に大儀そうに坐った。
「お留守の時に、左様伝えましたが、強《た》って今宵のうちに診《み》て頂きたいと、先刻から玄関わきに待っております」
「うむ、暗いところに、誰やら人がおるようだったが、あれがそうか?」
「六十近い老爺《おやじ》でございます」
老人と聞いて良庵は考えたようだった。
「どう云っている?」
「女房がひどい腹痛だそうで、苦しむのを見るのが辛くて、明日までは待ち切れないと申しています」
「やれやれ。年をとっても女房孝行の者がいたものだ。無論、初めて来た者だろうな?」
「はい。家はつい近くだそうですが」
良庵は起って玄関に出た。
「おい、そこに誰か居るか?」
暗いところに向って呼ぶと、へえ、と返事があって、ごそごそと人影が塀の傍から動いてきた。
「弥助、灯りを見せなさい」
内弟子が手燭を持ってきた。良庵はそれを掲げた。なるほど、老人がうずくまっていた。
「病人があるというのはお前さんかえ?」
「へえ」
老爺は、灯りを眩しそうに避けてお辞儀をした。
「女房が六ツ前から苦しみ出しまして。あっしは腹を揉《も》んだり、背中を擦ったりしましたが、どうにもおさまりません。余計に苦しみがひどくなりましてな」
「むやみと腹を揉んじゃいかん」
良庵は迎えの老爺の皺の多い顔をじっと見た。
「家は近いか?」
「へえ。あまり遠くはございません。けちな裏店《うらだな》に巣をつくっておりますので、分りにくうございますが」
「よし、よし、行ってあげよう」
良庵はうなずいて、一旦、奥に戻った。
「弥助、弥助」
と内弟子を呼んだ。
「ちょいと来な」
「先生、薬箱でございますか?」
「そんなものは、わしが持って行く。お前には別な用がある」
良庵は内弟子の耳に何かささやいた。
「ご苦労さまでございます」
良庵が玄関に出ると、迎えの老爺はお辞儀をした。
しゃがみ込んで石を鳴らすと、提灯に火を点《つ》けた。老人の顔が赤く浮き出た。
「弥助、行って来るぞ」
良庵は薬箱を自分で小脇に抱えた。
「行っておいでなさいまし」
内弟子が手を突いた。
老爺が提灯を持って先に立つ。背が少し曲っていた。
夜のことで、道に人通りもあまり無かった。風が吹いて来て、提灯の火が消えそうになったが、また、もとに返った。
「お前の家は何処だな?」
良庵は、よちよち歩いている親爺《おやじ》の背中に声をかけた。
「へえ、旅籠《はたご》町の仁兵衛|店《だな》でございます」
老爺は嗄《しわが》れた声で歩きながら答えた。
「旅籠町か。あんまり近くはないな」
「へえ。済みません。けど、近道して参りますから近うございます」
頭を一つ下げた。
その言葉の通り、老爺は町角から右へ曲った。そのころの江戸の町は、夜になると、どんな昼間の賑かな場所でも暗かった。まして、横町に外れると、一寸先が暗闇である。
星が出ている晩で、地上との境が影で知れるだけだった。その中を、提灯だけが歩いて行く。
「おい、まだ遠いかえ?」
良庵は声をかけた。
「へえ、もうじきに和泉橋に出ます。そこから直きなんで」
老爺は言い訳のように足を早めた。
材木の置き場があるらしく、星空に黒い棒がいくつも突き出ていた。
そこまで来ると、提灯の火が急に消えた。
「おい、どうした。風にでも吹き消されたかえ?」
良庵が老爺の背に近づいた。
が、このとき良庵の肩に衝撃が加わって、彼はうしろによろめいた。
「あっ」
良庵は片手を挙げた。その背後に人が組みついた。
「だ、誰だ?」
「静かにしろ」
うしろの声が低く叱った。
それから先は、何が何だか分らない。とにかく、良庵が覚えているのは、駕籠の中に無理に押し込められ、内で無茶苦茶に揺られ通しだったことである。
良庵はまだ脇に抱えた薬箱を放さなかった。どこを、どう走っているのか無論判らない。駕籠の横には絶えず二、三人の足音が附いていた。
内弟子の弥助は、良庵に耳打ちされた通りに、迎え人と良庵のうしろから跟《つ》けて行った。夜だから、この尾行は、人に見咎められぬ便利もあったが、相手を見失う不便もあった。弥助は尻をからげ、手拭いで頬被りして、懸命に二つの人影のあとに従った。
幸いに提灯が目標である。灯はゆらゆらと動きながら道を歩いていた。
やがて、それが角を曲った。
弥助は如才なく小走りになって追うと、灯は横町の先に見えていた。
迎え人も老人だし、良庵も壮年ではないから、急がない歩き方であった。弥助はゆっくりと尾行すればよかった。
どの家も戸を閉めて、道は暗かった。空には星が出ている。一軒だけ灯りを道にこぼしている家があったが、そこからは百万遍を唱える念仏の声が聞えていた。
提灯は相変らず歩いて行く。
弥助は道の順序をしっかり頭に覚えるようにした。しかし、かなり長い道程《みちのり》であった。
一体、何処に行くのか。つい、近くだといったが、それが迎えの老爺の嘘であることは分った。良庵の要心を、内弟子の弥助は、なるほどと合点した。
不意に、前方を行く提灯の灯が消えた。はて、と思っているうちに、黒い地上から人影が三、四人、ばらばらと現れて縺《もつ》れた。
弥助は息を呑んだ。思わず地面に屈んで見詰めると、駕籠が出て来て、揉み合った末に誰かを押し込んだようだった。それが師の良庵であることは疑いはなかった。
駕籠が上って動き出した。早い速力である。二、三人が、駕籠を衛《まも》るように両脇について走っていた。
自然と弥助も走り出した。動悸が打っているのは、この異常な場面に遭遇したからであった。同時に師の身が気遣いだった。
水が黒く淀んでいる濠に出た。向う岸にも町家の屋根がある。弥助が、これは和泉橋の近くだと覚ったとき、身体が宙に浮いて、次には地面に叩き伏せられた。
それだけが一瞬の感覚で、あとは気を失った。
「誰だな?」
と、これは良庵を乗せている駕籠の脇の声である。
「妙な奴が後から来ていたので投げて来た」
あとから追いついた声が答えた。
やれやれ、だらしない奴だ、と良庵は駕籠の中で苦笑した。内弟子のことである。何をやらせても頼み甲斐がないと思った。
良庵は脇の薬箱の抽出しに手をかけた。散薬や煎薬が詰っていた。
良庵が手当り次第、それを指で摘むと、そっと駕籠の垂れの隙から落しはじめた。
その薬を道に撒く作業は、秘密のうちに長くつづいた。