豊春が、習いに来た若い娘に三味線を教えていた。
縁側の簾《すだれ》に、今日の暑さを想わせる強い朝の陽が透いて見えた。鼻を突くような狭い庭は、さっき小女が水を打ったばかりである。
豊春は富本を低くうたいながら三味線を弾いている。弟子の娘は向い側にきちんと坐って三味線の手順を習っていた。
表で、男の声がした。
豊春は、ちょっと耳をそばだてたが、三味線をつづけた。娘が呑み込めないので、何回も同じところを弾いていた。
もう一度、男の声がした。聞きなれない声なので気にかかった。小女が、やっと出て行って何か話をしているようだった。
小女が座敷に来たが、稽古中なので躊躇していた。豊春は気が散った。
「今日はこれまで」
豊春が三味線を置いた。弟子の娘に愛想笑いをすることを忘れなかった。
「だいぶん上手に出来たけど、今のところをもっとね」
娘は、三味線を前に真一文字に置いて、
「ありがとうございました」
とお辞儀をした。
「何だね?」
豊春は膝を突いている小女に顔を振った。
「良庵さんのところから来たといって人が見えています。新之助さまにお会いしたいそうです」
小女は告げた。
「良庵さん……ああ、昨夜《ゆうべ》の飲んべえのお医者さん」
豊春は顔をしかめた。
「いやだね、つづけさまに来て、朝から誘い出しかえ?」
「何だか知りませんが、ひどく急ぐ用事で来たと云っていますよ」
娘がその話に聞き耳を立てるようにして、
「お師匠さん、帰ります」
と三味線を抱いて起った。
「しようがないね、どんな人?」
豊春が折れたように小女に訊いた。
「まだ若い男の人ですが、良庵さんのお弟子さんだそうですよ」
「へえ、あの医者に弟子があったのかねえ」
「帰しましょうか?」
「余計な口出しをしなくてもいいよ。あたしが新さんに訊いてみるから」
豊春は二階へ弾んだような足音を立てて上った。
新之助は、まだ床の上に腹匍いながら枕元に莨盆をひきよせ、煙管をくわえていた。
「新さん。あら、もう眼が醒めて……」
「当り前だ。この朝陽の射し込みを見ろ。顔が半分|煎《い》られて意地にも眠っておれん」
豊春は、その新之助の顔をじっと見ていたが、うっとりとした笑いが浮ぶと、その傍に崩れるように坐った。
「新さん」
豊春は新之助の手首を握った。
「起きて下さいな。昨夜のお医者さんから使いの人が来ましたよ」
「良庵から?」
新之助は煙管をくわえたまま首を傾けた。
「はてな、どういう用事だろう」
「何だかいやなお医者さんだね、昨夜、はじめて来たかと思うと、もう、使いを寄越したりして」
「お前とは馬が合わぬらしいな」
新之助は鼻から煙を吐いて起き上ろうとした。
「新さん」
と豊春は新之助の首に腕を廻してとりついた。
「あたしゃ、別れないよ」
「これ、その腕が邪魔になる」
「いやいや、別れないと云っておくれ」
「何を急に……」
「昨夜、帰りにお医者さんの云ったことが気になるよ。これから新さんを呼び出して、とっくりと意見して、それから、あの藪医者がもっともらしい顔をして、あたしに別れ話をもってくる筋書だろ。おお、いやだ、いやだ」
「そりゃ、お前のひとり相撲だ、まあ、その腕を放せ」
新之助は豊春を突きのけた。
「新さん……」
豊春が泣き顔になった。
「心配するな」
新之助が二階から降りると、入口に若い男が突っ立っていた。
「わたしは新之助だが、良庵殿の使いというのはお前か?」
「はい。私は良庵の内弟子の弥助と申します」
弥助は頭を下げた。
「うむ、どういう用事だな?」
「はい、実は昨夜、良庵先生が誘拐《かどわ》かされまして……」
「なに、良庵殿が?」
新之助は使いの顔を見つめた。
弥助の急いだ話の内容はこうである。昨夜、病家から迎えに一人の老爺が来た。良庵は変だ、と思ったらしく、おれたちの後から尾《つ》けて来いと云った。それから万一、妙なことが起ったら、構わずに新之助のところへ報告してくれと、豊春の家の所在を教えた。
弥助が尾行して行くと、良庵は得体の知れぬ駕籠に無理に乗せられて行った。弥助が、命じられた通りにあとを跟《つ》けようとすると、突然に誰かに叩きつけられて気を失った。夜中になって正気づき、朝になるのを待ちかねて、此処を探して来たのだ、と云った。
「もうやって来たか」
新之助は腕を組んだ。
「それだから云わぬことではない。あれほど教えておいたのに」
豊春が、おずおずと二階から降りて、様子をうかがっていた。
「出てくる」
新之助が云うと、豊春が、
「お医者さんが何か?」
と話の端を聞いたらしく、眉を寄せて新之助を見上げた。
「お前の嫌いな良庵がどうやらお陀仏になりかけたらしい。早い、早い。昨夜、永くない相だと占ってやったばかりだが、こうまで早いとはわしも思わなんだ。八卦《はつけ》見の看板はわしが申し受けるかな」
「本当ですか!」
と豊春も顔色を変えた。
「今夜あたりはお通夜の支度をせずばなるまい。可哀想に、あれでまだ独り者だからな。ここで夜伽《とぎ》をしてやれば功徳になる」
新之助は身支度をして両刀を腰に落した。
「これから何処へ?」
「医者の骨を探しに行く。当人、ふらふらとしていて何処で臨終になったか分らぬ。手数のかかる男だが、知らぬ仲ではないからな。骨を拾って来たら、好きな酒でもかけてやってくれ」
「いやなことばかり……。あたしゃ唇が白くなったよ」
「なに、これでお前も安心だ。気に入らぬ話をする男が居なくて、せいせいしたろう」
「新さん、後生だからそんな気持の悪いことは云わないで下さい」
豊春は新之助を切火で送った。
新之助は、弥助とならんで歩いたが、弥助はびっこをひいていた。
「どうしたのだ?」
「はい、昨夜投げつけられた足腰の痛みがまだ消えませんので」
「治療は、お前のお手のものではないか?」
「いえ、手前のは本道でして」
陽が高くなりかかって、じりじりと暑さが増した。
「炎天の下を埃をかぶって、ご苦労な話だな。お前が投げられたのは、どの辺だな?」
二人は、和泉橋の近くまで来ていた。濠の水が眩《まぶ》しく光っていた。
弥助は、昨夜の現場を確めるように見廻していたが、
「はい、あの辺まで駕籠を尾《つ》けたように思いますが、いきなり手前が組みつかれたのは、この辺りで」
と忌々《いまいま》しそうに指で教えた。
「そう顰《しか》め面をするな。生命《いのち》のあったのが何よりだ。これでお前は五年は長生きする」
新之助は良庵の行方を考えるように、あたりを見ていた。
「あ、旦那」
弥助が声を上げた。
「こんなものが落ちていますよ」
弥助は地面を指した。
弥助が指した地面には鼠色の茶|滓《かす》のようなものが点々と落ちていた。
「何だ?」
新之助は土埃の中からそれを拾い上げて、掌にのせた。
「へえ、それは煎薬でございます。原料は先生秘伝でございますが、四時正しからざるの気に感じ、腹いたみ、吐き下し、頭痛み、悪寒《おかん》発熱ありて、汗なきを治します」
弥助は、すらすらと効能を云った。
「うむ、邪熱《ねつ》の薬か。良庵殿の調合薬に相違ないな!」
「ほかの医者は持っておりません。旦那、先生は薬箱を持っておられましたから、抽出しの中からこれを落して、行先を知らせるつもりじゃございませんか?」
「そうかもしれぬ」
新之助も同じ考えだった。
和泉橋の手前は柳原堤で、いっぱいに植わった柳がだるそうに頭を垂れていた。この辺は夜になると夜鷹が出る。それを相手にひやかしに来る仲間や小者が、無論こんな煎薬を撒く筈はなかった。
新之助と弥助は和泉橋を渡った。
「旦那」
と弥助は新之助の袖をひいた。
橋を渡ると佐久間町三丁目だが、その道にも鶯色の粉がところどころ落ちていた。神田川から吹く川風に半分は散ったらしいが、小石の蔭などに目立たぬくらいに残っていた。
「何だね、これは?」
新之助はその一片をとり上げた。
「はい、それは諸病血虚に属するものを治します。陳皮《ちんぴ》一匁、半夏《はんげ》二匁、甘草《かんぞう》五分、そういう調合でございます」
「良庵どのもいろいろなものを落したものだな」
新之助も弥助も、道にこぼれた薬を目で追いながら歩いて行った。
神田川の北河岸《きたがし》に沿うて行くと、井上河内守邸の長い塀の角から左に曲る。天王町の閻魔《えんま》さまの前を通って突きすすむと、旅籠町、森田町、諏訪町の順になる。
道に落ちた薬は、とうとう両人を駒形《こまがた》まで誘った。
「旦那、薬は此処まででございますね」
弥助は地面に眼をさらしていたが、諦めたように新之助を見上げて云った。
「そうだな」
新之助も、そこで道の薬が切れていることが分った。
隅田川の流れがすぐ眼の前に光っていた。川の上には猪牙《ちよき》舟が二、三艘上り下りしていた。川風が吹いてくる。
新之助は涼むような恰好をして佇んでいたが、舟が眼に止ると、彼は何か考えはじめた。
新之助は川の方を見て考えていたが、
「弥助、舟に乗ろう」
と云い出した。
「へっ、舟?」
「うむ、暑いから川涼みだ。まあ附き合ってくれ。その辺に舟宿はないか?」
「そりゃ、無いことはございますまいが……」
弥助はきょとんとしていた。
「良庵どのも、この辺で薬が切れたらしい。探しても無駄だ。川涼みで頭を冷やしたら、いい知恵が浮ぶかもしれない」
「へえ」
弥助は首を傾かしげたが、それでも舟宿を探しに行って帰ってきた。
「旦那。上総《かずさ》屋というのが一軒ありました。この近くでは、そこだけです」
「そうか」
二人は少し歩いてその舟宿の軒をくぐった。
「いらっしゃいまし」
肥えたお内儀《かみ》が出て来て、
「猪牙でございますか。屋形でございますか?」
「猪牙でいい」
「畏りました。どの辺までお供するのでございますか?」
「そうだな、向島のあたりまで行って貰おうか」
新之助が云った。
「皆さんはたいていここからお下りになって、両国や永代をくぐり、お浜御殿の近くまでおいでになりますが、向島の方までお上りになるのも面白うございます」
お内儀は愛想を云った。
「そうか。思いつきで云ったまでだが、それほど面白いかな」
「それはもう、花はございませんが、向島堤の葉桜越しに、三囲《みめぐり》さまの鳥居や牛の御前《ごぜん》のお社を眺めるのも風情がございます」
「いや、わしはもう少し先まで上って貰おうと思っている。中野様のお屋敷が大そう立派だそうだが、その辺まで見物して帰りたい」
中野と聞いて、お内儀の顔色が少し動いたのを新之助は見のがさなかった。
「どうだ、お内儀、昨夜、三、四人連れで向島まで舟を出した客はいないか?」
新之助が聞くと、
「いいえ、そんなお客はございませんでしたよ」
とお内儀はあわてたように否定した。
猪牙舟が四、五艘、宿の裏に舫《もや》ってあってゆるい波に揺られていた。
「おい、幸さん、お客さまだよ」
お内儀が船頭を呼んだ。
「へえい」
二十二、三の船頭が、法被《はつぴ》の下に毛脛を出して現れた。
「お客さまは、向島までとおっしゃる。気をつけて、お供しておくれ」
舟は大川の真ん中に漕ぎ出て、川を上ってゆく。
「船頭」
「へえ」
船頭は櫓《ろ》を押しながら、新之助の方を見た。
「昨夜、三、四人の客を向島まで送らなかったか。いや、お前でなかったら、別の船頭だが」
「存じませんね」
船頭は横を向いて答えた。
「おれの友達がその中に居たのだ。本当に知らぬか?」
新之助は強い眼で見た。
「あっしは存じませんよ。舟宿も多うござんすからね。別の舟宿のをお傭《やと》いなすったんじゃございませんか」
船頭は新之助の眼を除《よ》けるようにして答えた。
「旦那」
と弥助が低い声できいた。
「先生は、舟で向島に連れて行かれたのですか?」
「おれの思惑違いかもしれぬ。まだ、何とも云えない」
新之助は答えたが、舟宿の女房の顔色といい、この船頭の隠したような表情といい、自分の推測が当っていると思った。
良庵の昨夜の話だと、誘拐される危険は本郷あたりだと考えられる。しかるに、良庵がひそかに撒いて教えた薬の道は、和泉橋を渡ってから湯島の方に向わずに、佐久間町、森田町を経て駒形に導いている。薬もそこで切れた。
前は大川である。道に撒いた薬が途絶したことは、良庵が舟で川へ出たと察するほかはない。
舟で連れて行かれるとしたら、何処か。
新之助の頭を掠《かす》めたのは中野石翁の向島屋敷だった。前田と石翁、この線はつながりそうだ。が、思わず身体が鞭をうけたようになった。
(石翁が出た)
新之助を緊張させたのはそのことの重大さである。不意に、眼の前に巨大な壁が歩いて来た感じだ。
良庵を探しに出て、自分も大きな波にさらい込まれそうな懼《おそ》れが起きた。気が重いのだ。だが、良庵を見捨てることも出来ない。危険だが、その大波をかぶらぬように要心することだと思った。
大川の流れはゆったりとしている。舟は単調な櫓音を立てて上ってゆく。だが、この川の水が海に注ぎ、その涯の昏《くら》い空の下にひろがっている荒波を考えるとき、似たような前途の危惧が新之助の胸にも湧いていた。
吾妻橋をくぐると、右手に水戸家の下屋敷が見えた。屋敷が炎天に光っている。それが過ぎると、向島堤の青い柳や葉桜の繁りが、漂うように近づいてきた。
「おい、船頭、その辺につけてくれ」
新之助は命じた。
「へえ、お上りになるんで?」
「ぶらぶらと歩きたいから、舟は帰ってくれ」
「へえ、承知しました」
船頭は舟先を岸に向けた。
三囲稲荷の赤い鳥居の見える真下の堤に舟は着いた。両人は堤の上までの短い石段を上って道へ出た。
「弥助」
「へえ」
「その辺から薬がこぼれてないか、気をつけて見てくれ」
「分りました」
弥助は眼を皿のようにして地面を見廻した。しかし、土と小石のほかにはそれらしきものは発見出来なかった。
「どこか別な場所から上ったかもしれないな」
新之助はそんなことを云って歩き出した。
葉の繁った桜並木の下は、恰好な日陰で、そこには五、六人の男女が腰を下ろして休んでいた。この辺が竹屋の渡しで、舟が来るのを待っているのである。
稲荷の角が川魚料理で知られた葛西《かさい》太郎である。
「弥助」
新之助が急に云った。
「お前も腹が空いたろう。鯉こくで飯にしようか」
「へえ、ありがとうございます」
弥助は遠慮そうに新之助のあとから店について入った。
註文の品を聞いて女中が去ると、新之助は弥助の袖をつついた。
「おい、弥助、あの小座敷で酒を飲んでいる武士《さむらい》の顔を見ろ」
「へえ」
弥助は眼顔で指された方を見た。簾のかげで、ひとりの武士が川魚料理を肴に手酌で飲んでいた。弥助は首を捻っていたが、思いついたように小膝を小さく叩いた。
「分りました。あのお武家は、いつぞや先生を迎えに来た仁《ひと》です。左様、お女中が腹痛を起して困っているということでしたが、手前が最初取次ぎに出ましたから、顔を覚えています」
「そうか。どうも勤番侍の恰好ではないと思って、通りがかりに見たのだが、やっぱりそうか」
新之助は、尚も相手に気づかれないように眼をその方にちらちらと動かした。
新之助も、弥助も知らないが、酒を飲んでいる武士というのは、西丸大奥添番の落合久蔵である。彼は、すでに銚子を一本あけて、たのしそうに鯉の洗いを箸でつついていた。
「旦那、あのお武家が先生の行方と何か係り合いがあるのでしょうか?」
弥助が新之助の耳に口を寄せて訊いた。
「まだ分らぬ。酒を飲みながら、渡し舟を待っているとは、贅沢な男だな」
新之助には、その酒を飲んでいる男が、落合久蔵であるとは分らない。ただ、弥助の言葉で、良庵を迎えに行った使いの男だと知っただけである。
ただ、その時の良庵の行先が、彼の話した大奥女中の一件であるから、その関係の人物だとは容易に想像がついた。
新之助は何を思いついたか、急に起つと、男の飲んでいる小座敷の簾の外から声をかけた。
「卒爾ながら、ちとお尋ね申し上げたい」
自分に呼びかけられたと知って、落合久蔵は盃から眼をあげた。簾は風に揺られている。その隙間から、見知らぬ着流しの若い武士が顔をのぞかせていた。
「失礼」
と咎められる前に新之助は、にこにこして手で簾を除《よ》けた。
「折角のところをお邪魔します」
落合久蔵は黙って睨《にら》んでいた。
「中野のご隠居様は、ご在邸でございましたかな?」
久蔵は、ぎょっとした眼になった。
「あ、あんたは?」
「いや、手前もご隠居様にお目にかかりに、これから伺う者だが」
「………」
「ご隠居さまから幸いに眼をかけられていましてね、手前は。常々、遊びに来いと仰せられているので、ただ今、ここまで参ったのです。ところが、お見うけするところ、どうやら貴殿もご隠居さまのお屋敷からお帰りのご様子と拝察したから、お在邸か否かをお伺いするわけです。折角、この辺まで足を伸ばしても、お留守と承れば、まことに詰りませぬでな」
落合久蔵の眼が迷った。正体の分らぬ相手の言葉を信じてよいかどうかの困惑だった。
「存ぜぬな」
久蔵は返答を決めて云った。
「拙者は、中野様のお邸に伺ったのではないのでな」
「ははあ、左様か」
新之助は、やはり笑っていた。
「いや、貴殿が中野様のお屋敷から出て来られたのを見たと教えてくれる者がありましたのでね」
久蔵の顔がびくりと動いた。
「失礼しました」
新之助は相手の表情を見届けて、自分の場所に帰った。
「良庵どのの居所は大体見当がついた」
弥助に話すと、彼は眼を輝かした。
「だが、少々厄介なところだ」
眉の間が少し曇ったが、すぐにのんびりと晴れた。
「ま、何とかなるだろう」
落合久蔵が両人の姿を、今度は簾の間から窺っていた。
名物、葛西太郎の鯉こくで飯をすませると、新之助と弥助とは店を出た。
「旦那」
と弥助が歩きながら云った。
「変なお侍ですな、先生を迎えに来たのもあの人ですから、やっぱり先生の今度の行先と係り合いがあるのでしょうか?」
「満更、縁がないとは限るまい」
新之助は風に吹かれた顔で答えた。
「鯉の洗いで一杯やりながら渡しを待っているなんぞ、貧乏侍の出来る芸当じゃない。懐に思わぬ金でも入ったらしいな」
「あれ、あのお侍は、店の戸口からこっちを見ておりますよ」
弥助は振り返って見て云った。
「やっぱり気にかかるのだろう。まあ放っておけ」
両人は土堤道を歩いた。
「おい、弥助。薬がこぼれてないか、よく気をつけろ」
「はい。先刻から見ております」
しかし、薬の粉はどこにも発見されなかった。
堤に沿って右側に法泉寺の築地塀が見え、そのほかは一帯に寺島村の寂しい田圃道が見渡せた。ところどころ松がこんもりと繁っている。枝ぶりのよい木ばかりが集っているのは、この辺りが松の名所で、植木屋が多いからである。
「弥助、植木屋でもひやかして行こうか」
新之助が云った。
「へ、しかし」
「折角、ここまで来たのだ。見物のつもりで見て行こう」
新之助は先に立って道を曲った。
植木屋といっても、広い敷地の中に、たっぷりと樹木を抱え込んでいた。辰五郎、平作、甚平などという有名な植木師が居た。十一代将軍が初めてお成りになったという新梅屋敷もその傍にあった。今の百花園である。
「なるほど、見事だな」
新之助は囲いの外から木を見ながら、ぶらぶらと歩いた。弥助は仕方なさそうに頭に陽除けの手拭いを乗せていた。
「弥助、詰らなそうな顔をするな」
新之助が云った。
「あれを見ろ」
指した方を見ると、道のずっと向うに、駕籠が一つ、四、五人の侍に守られて進んでいるのが望見された。
「旦那、あれは女乗物でございますね」
弥助が云った。
「さすがにお前は眼が敏《さと》い。たしかに女乗物だ」
「どこへ参るんでございましょうね?」
「知れたことだ。石翁のところだ。あの先にその屋敷がある」
新之助はそれをじっと見た。