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かげろう絵図(上)~石庭

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  石  庭 女乗物で来た中年寄の菊川が入れられた部屋は、廊下伝いになっている離れの六畳ばかりの小部屋だった。 この屋敷
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   石  庭
 
 
 女乗物で来た中年寄の菊川が入れられた部屋は、廊下伝いになっている離れの六畳ばかりの小部屋だった。
 この屋敷の主人の趣味で、どこの部屋も茶室風な構えに出来ている。この室で茶を点《た》てるかどうかは分らないが、渋い好みの中にも、金をかけた贅沢さが目立たぬところに潜んでいた。
 昼すぎに、それまでの居所だった不忍池の端にある料亭から駕籠でここに運ばれたのだが、今は夜となっている。
 扱いは丁寧だった。彼女を退屈させまいとして、昼間、女中が絵草紙を持って来たり、障子を開けて庭の景色を見せてくれたりした。
 かねて聞いてはいたが、これほど立派だとは思わなかった。無論、広大さは吹上と比較にならないが、植込みの樹の選びといい、手入れの行き届いていることといい、その見事さはお城の庭に勝るように思われた。障子を開いてくれた瞬間、眼がさめるようで、あっと思ったのである。
 普通の身体なら、菊川は庭を歩いてみたいのだが、袖を重ねても人目に知れるように思い、彼女は部屋から、名にし負う石翁の庭を眺めるだけだった。
 奥村大膳からは、池の端に居るとき、伝言《ことづけ》があったのみである。
「しばらく向島の中野のご隠居さまの屋敷にいるように。自分は、いま手がはずせないが、あとで早急に行くから」
 そういう手紙が届いた。
 菊川はそれを当てにして待っている。夏の陽が傾き、女中が灯を入れに来てからすぐに夜になった。障子は明け放したままで、涼しい風を迎え入れたが、植木の黒い森の隙間には向い側の灯が洩れてみえた。屋敷も広いようである。
 年とった女中が入って来て、何なりと用事があったら、遠慮なく申しつけてくれ、と云い、これは主人からの云いつけだと加えた。
「石翁様は?」
 と訊くと、
「はい。ご挨拶に伺う筈でしたが、何かとお人が見えまして、ついおくれております。今日は夜に入ったこと故、明日にでも伺うとのことでございます」
 女中はいんぎんに応えた。
 菊川はうなずき、
「どうぞ、お心にかけられぬよう」
 と会釈した。
 相変らず、石翁のところには人が押しかけて来て忙しいようである。噂の通りだった。
 お城で見かける中野石翁は、にこにこして女中衆にいつも愛嬌のある笑顔を見せていた。ずんぐりした胴体に猪首がはまり、赭ら顔をして、いかにも大御所様の寵愛をうけて、|やりて《ヽヽヽ》の感じがした。
 無論、菊川とも面識の間柄だった。
 庭は樹木ばかりではなく、石が多い。眼を瞠《みは》るような巨きな石もあるし、小さな洒落た石もある。陽のあるとき、樹の影がそれに斑《ふ》をつくって、いかにも閑寂な気が滲《し》み出ていたが、夜となった今は、それが悉く暗黒に包まれて、深山の中にいるようである。ただ、近くの田圃から聞える蛙の声が、人里はなれた田舎を感じさせた。
 菊川は奥村大膳を待っていたが、今日は遂に姿を見せなかった。夜に入った今は、もう来ないであろう。庭を眺めても、絵草紙を見ても、それが気になって仕方がなかった。女中の足音が近づく毎に、大膳を案内してくるのではないかと胸を躍らせたが、いつも期待が裏切られた。
 夜が更けたのか、風が涼し過ぎるくらいになった。菊川は立って明り障子を閉めた。
 女中が二人連れで入って来て、床をのべて去った。寝具もきれいなもので、お城の長局のも立派だと思ったが、これはそれに勝った。
 しかし、初めての部屋というのは落ちつかないものだ。菊川はすぐに横になる気にもならず、女中が代りに置いてくれた絵草紙にぼんやり見入っていた。
 話し声一つ聞えないし、寂しいくらい静かである。
 一冊の草紙を見終ったころ、廊下を踏んでくる足音が耳に入った。ひとりではなく、二人で、たしかに一つは男の力強い踏み方であった。
 奥村大膳だと思って、菊川は急に胸の動悸がうった。風が舞うようにそわそわして身支度した。
「ご免遊ばせ」
 と入口に手を突いたのは、今まで何かと世話をしてくれた老女中であった。
「殿様がお見えになりました」
 菊川が、はっとすると、女中のすぐあとから、石翁が、
「やあ、これは」
 と明るい声をかけて気軽に入ってきた。
 ずんぐりした身体が丸い筒のような感じだった。大きな入道である。赭ら顔をにこにこさせているところは、菊川がお城で見なれている石翁と少しも変りはない。
 菊川が畏って挨拶すると、
「いや、固苦しい挨拶はよい。それよりも、身体の方はよいか?」
 と石翁は訊いた。
 菊川は赧くなった。
「大体のことは奥村大膳から聞いた。当分はここに居られるがよろしかろう。まず、わが家と思って気兼ねなくなされい」
 石翁は菊川の正面に悠然と坐って、女中のくんだ茶をのんだ。
「そのうち、大膳も来るであろう。用事は遠慮なく召使どもに申されよ」
 と親切であった。
 菊川の顔は、身体の具合からか、少し面やつれしてみえる。もとは、ふっくらと下ぶくれしていたが、今は瘠せて、顔色も蒼白くなり、険しい感じだった。
 しかし、石翁のような年寄りには、こんな顔が年増の凄艶さに見えるらしく、眺める眼も愉しげなものがあった。
「大膳より大体は聞いているが」
 と石翁は大きな眼のふちに笑いを漂わせ、
「やはり、添い遂げるつもりかな?」
 と静かな調子で訊いた。
「はい、お恥かしき次第ながら、このような身体になりました上は……」
 菊川はうつむき低い声で答えた。絹|行灯《あんどん》の光が彼女の半顔を照らし、彫り物のような翳《かげ》りをつけた。
「別に羞《はずか》しがることはない。好きな仲なら、それも当然」
 石翁は、もの分りのよい隠居の言葉で、
「それでは、お城の方はお退《ひ》きなさるか?」
「はい。……お美代の方様にはいろいろとご恩に預りましたが」
 菊川は両手を前に突いた。
「お美代様もそなたが気に入っていた」
 石翁は己の養女のことを云った。
「申し訳ございませぬ」
「いやいや。女の仕合せは別のところにある。生涯、お城に勤めても詰らぬでの」
「………」
「しかし、ちょっと、惜しいの。中年寄までにはなかなかに成れぬものじゃ。女の出世としては申し分ないが」
 石翁は実際に、惜しい、という顔つきを表わした。
「はい、過分な大役を仰せつけられまして、有難いことでございました」
「いや、それはそなたの器量での、当人に力が無ければ、望んでもなれることではない。そなたには、それだけの力があった」
「恐れ入りましてございます」
「そなたが、お城を退きたい気持は、わしにはよく分るが、一方では惜しゅうてならぬ」
「………」
「お美代様も、実を云えば、そなたを頼りにしている。わしは、それを度々聞いている。あの世界に居ると、好ければ好いで、いろいろと陰で悪口を云う、嫉《ねた》みじゃな。他人の足を隙あらば引張ろうとする奴で、上面《うわべ》がよいだけに始末が悪い。つまり、そなたの前だが、御殿女中根性という奴だ。じめじめと陰気に、落し穴をこしらえて待っている。油断も隙もあったものではない」
「………」
「その中で、たよりになるのは菊川だけだとお美代様はわしに申されていた。いま、そなたが傍から離れると、どういうことになるか……」
 話が違った方向に曲ってきたので、菊川は、はっとした。
 石翁の話の風向きが変ってきたので、菊川は胸が騒ぎ出した。
「お美代の方様が、それほどまでにふつつかなわたくしをお力にして下さろうとは存じませなんだ。有難き仕合せでございます」
 と、ともかく、一礼した。
「うむ、うむ」
 石翁は顎でうなずいて、
「どうじゃな。お美代様も折角、頼りにしていることじゃ。いま暫らく、そなたが、傍に居てやってくれぬかの?」
「え、それでは、今一度、お城勤めをせよと申されまするか?」
 菊川は、まじまじと石翁の顔を眺めた。
「そうじゃ。出来ればな。今まで通り、お美代様に忠勤を励んでくれい」
「なれども、ご隠居様」
 菊川は息を詰めた。
「かような身体になりましたものを?」
「さ、そこじゃ」
 石翁はやさしく云った。
「子は初めから授からぬものと思ってくれぬか?」
「何と仰せられます、それでは腹の子を始末せよと……」
「そなたの辛いのはよく分る。さきほども申した通り、女の仕合せは別なところにあろう。しかし、いま暫らくそれを待ってくれぬか。大事の前に、眼をつむってくれ」
「………」
「人間、思う通りには、なかなかゆかぬもの、わしもこれで随分と辛い我慢をして来た男じゃ」
 石翁の述懐めいた言葉を、菊川は甲高く刎《は》ねかえした。
「わたくしは、いや、でございます」
「ほう」
「お言葉を返して恐れ入りますが、お城勤めをする気持はございませぬ。ご隠居様、殿方と女子《おなご》は違いまする。女は出世も権勢も望みは致しませぬ。小さな仕合せに満足いたします」
「下世話《げせわ》の、竹の柱に何とかじゃな」
 石翁は鼻の先で笑った。
「それでは、どうでも、その子を生みたいと申すか?」
「わがまま、お許し下されませ」
 菊川は背を伏せた。
「お美代様が力を落してもか?」
 石翁は確めるように訊いた。
「ご恩に背き、申し訳ございませぬ」
「分った」
 石翁は短く云った。言葉の調子には、今までの微笑が消えていた。
「そなたの決心、もう制《と》めはせぬ。だが、男の気持は、そなたが思うほどではないぞ」
 菊川はぎょっとした。
「いや、大膳のことだ。菊川、そなたほどの女が、やはり色には迷ったな」
 
 奥村大膳はさほどまでにそなたを想ってはいぬ、という石翁の言葉は、菊川の胸を刺した。それは、石翁が部屋から去っても、毒となって彼女の心の深いところにひろがった。
 まさか、と思うが、思い当るところはいちいちある。以前ほどの熱心さが大膳に近ごろ無いのだ。殊に、妊娠の身になってから、とかく遁げようとしている。いや、怕《こわ》がっているところがみえる。
 本当に好いてくれているのなら、可愛い子の生れるのを喜ぶ筈だった。こちらはお城勤めも退いて、大膳の傍に居たいと思うのだ。
 子を宿したと告げたとき、大膳は顔色を変え、次には、生むな、闇に葬れ、と云った。女として予期しない男の言葉だった。
 それには、猛然と反対した。かねてから気性の強い女の烈しい反対に会って、大膳は一応承知したものの、それが本心からとは思えない。池の端の隠れ家から、自分をこの石翁の寮に移したとき、人目につかない場所だから、と理由を云ったが、怪しいものだ。
 不審の第一は、石翁が、お美代の方を引き合いに出し、義理に搦ませ、お城勤めをせよと勧めたことだ。裏を返すと、子を堕せとの説得である。
 大膳が石翁に頼み込んでいる形跡がうかがえるのだ。つまり、大膳が手に負えない女を石翁に任せて、始末して貰おうとの魂胆ではなかろうか。
 菊川は、ここまで考えてきて、男の身勝手さに憤りが湧いた。
 結局、自分は大膳に利用されたとしか思えない。お美代の方に気に入られている自分に近づき、何かと政治的な立場を築こうとする大膳の下心が読めたような気がした。
 しかし、そう思っても、一方では大膳のいいところばかりが心に泛び上ってくる。逢っている時のやさしい言葉や、うれしいしぐさの数々が鮮明に思い出されるのである。男の嘘だとはどうしても考えられない。
 そうなると、大膳の悪い部分が洗い流されるように去って、怒りも消え、いとしさが拡大されてきた。自分の方が男を疑って悪い女のように思えてくるのである。
 いずれにしても、明日はきっと大膳が会いに此処に来るであろう。石翁などが何と云おうと、男の心を直接に確める。会えば、心が必ず通じ合うのだ。──
 菊川が、ひとりで寝もやらず、そんな思案に耽っていると、庭の何処かに当って、かなり大きな物音がした。
 思考を中断されて、菊川が耳を澄ますと、音はそれなりに熄《や》んで、かわりに数人の人々が騒ぐ声がした。ここからは離れたところだ。
 その声もすぐに消えて、あたりはもとの静けさにかえった。菊川は自分に係わりないことだから、風が吹いた位にしか思わなかった。
 菊川は、その夜、床についたが、夜あけまで寝返りばかりうって熟睡出来なかった。
 石翁の言葉から、奥村大膳の真意、果ては身重になった己の行末などを考えると、気持がいらいらして来る。思案の惑いは、夜明け方うすくまどろんでも夢ばかり見ていた。
 夏の夜は短い。菊川が眼をさましたときは、明り障子いっぱいに陽が当っていた。
 菊川は起きると身支度をした。
「お目ざめでございますか」
 次の間から様子を窺っていたかのように、昨夜の年とった女中が入ってきた。
 化粧|盥《だらい》に水を汲んでくれたり、鏡台を運んでくれたり、かいがいしく世話をしてくれる。
 菊川は鏡に映った自分の顔を眺めて、ぎくりとした。頬が削《そ》げて、眼が吊り、色が蒼い。長局にいたときとまるで異った人相である。身体の変調ばかりでなく、精神的な苦労がこんなにも顔を窶《やつ》れさせるかと思うと、わが身がいとおしくなった。
 それでも、長局の習慣通りに、長い時間をかけて髪を結い直し、仙女香のような白粉で顔を粧《よそお》うと、多少は見られるようになった。付添の女中はいろいろと世話をする。
 今日も暑い。
 菊川は、うんざりしながら、一日中、座敷で奥村大膳の来るのを待った。
 いくら数寄《すき》を凝《こ》らした庭でも、二日つづけて眺めていると飽いてくる。絵草紙にも興味がなくなった。
 大膳が来ない。
 菊川は堪りかねて、女中を呼んだ。
「もし、誰ぞ使いを本郷までやって下され」
 大膳に当てた文を認《したた》めて託した。そこは、多年、奥勤めで人を使いつけているから、他人の屋敷に居ても、わがままが平気で出てくるのである。
「畏りました」
 と女中はうけ合った。
 それから、一刻ほどのもどかしさは、起っても坐ってもいられない。自分が駆け出して行きたいくらいで、身の置きどころが無かった。
 ようやく、女中が現れて、
「ご先方様はご多用のためしばらく伺えぬとのご返事を、使いの者が承って帰りました」
 と報らせたときは、菊川は明るい眼の前が急に昏《くら》くなるほど落胆した。
 忙しいのは分っている。しかし、多忙の中から駆けつけてくるのが男の真情ではないか。誠意が無いのだ。菊川は、不安と憤りで身体が慄えそうになった。
 石翁は、今日は一度も姿を現さない。
 煩悶《はんもん》のうちに二日目の夜が訪れてきた。
「ご免遊ばせ」
 女中が何かを云いに入ってきた。
「今日もお暑うございました。さぞ、お気持も悪ういられましょう。何とぞ、お湯浴《ゆあみ》をなされませ」
 女中は手をついて云った。
 今日の昼も、夕も蒸し暑い。それに、菊川は気が苛々《いらいら》しているから余計であった。肌に汗が粘りついている。
「それでは頂戴いたしましょう」
 菊川は起ちかけた。
「お髪《ぐし》が少々くずれているようでございます」
 女中は椎茸髱を眺めて云った。
「いっそ、お湯でお洗い遊ばしたら、ご気分も爽やかになりましょう」
 菊川は髪の廂《ひさし》に手を当てた。
「ほんに長う髪を洗いませぬ。でも、厄介なこの髱を結ってくれる者が居ますかえ?」
「ことのほか上手の者が居りまする」
 栄華で聞える石翁の邸であるから、なるほど上手の髪結いも居そうだった。
「そんなら、そうさして頂きましょう」
「それでは、わたくしが」
 女中は菊川のうしろに廻り、笄《こうがい》や櫛などを髪から外しはじめた。
「まこと、よいお髪《ぐし》でございますな」
 女中は菊川の髪をほめながら、元結を切り、髪のかたちを崩してゆく。
 ばらりと背に流れた髪を女中は軽く櫛で梳《す》く。
 髪は菊川も自慢であった。いつか奥村大膳もほめた。菊川はそれを思い出し、今になってもまだ姿をみせぬ大膳にまた焦燥が起った。
「それではご案内申します」
 女中が櫛を置いて先に立った。
 菊川は暗い渡り廊下をあとから従った。夜の風がそよいでいる。
 別棟になった廊下をいくつか曲って歩むと、女中は湯殿の戸を開けた。
「ごゆるりと。お湯加減、その他、ご用がございましたら、わたくしはここに控えて居りますのでお手を鳴らして下さりませ」
 女中は侍るように、そこに坐った。
「造作をかけまする」
 菊川は礼を云って、内部《なか》で衣裳を脱ぎはじめた。夏とはいえ、大奥の風儀をまだ守って、何枚も着物を重ねている
 湯殿は檜造りであった。お城にある湯殿に劣らず立派である。
 湯の加減はよかった。身体中が軽くなって浮き、快い感触に酔った。大事な頭を気にしないで済むのが何よりである。菊川は湯槽《ゆぶね》から出ると、髪を洗った。これも爽やかな気分である。
 ふと、誰かが湯上り場に入って来たような気がして、思わずぎょっとなった。身を縮めて、ふり向いたが、ほの暗い行灯《あんどん》があるだけで何事もなかった。
 気の迷いか、と菊川は安心して湯を浴びた。
 菊川は、洗った髪を手ぎわよく巻いて、湯から上った。
 上り場にきて、はっとしたのは、己の脱いだ衣裳がそこに無いのである。思わず身を縮めて、その場に跼《うずくま》った。
 うすい行灯の光が、白い身体を容赦なく、晒《さら》しているようで、恥と驚愕で菊川の胸は騒いだ。さきほど、上り場に誰かが入ったように思ったのは、やはり錯覚ではなかった。脱いだ着物は持ち去られたのである。
 菊川は、誰かに、このあられもない恰好を見られているような気がして、いよいよ小さくなった。理不尽な仕方への怒りと、羞恥で慄えそうになった。
「ご免遊ばせ」
 女中の声が次の間から聞えた。
 菊川は、ほっとしたが、返事をしないでいると、女中は忍ぶように入ってきた。両手に何かを抱えていた。
「お召替えを持って参りました」
 なに、着がえをせよというのか。菊川が見ると、白地に藍色の麻の葉模様のある浴衣だった。裏衿に緋縮緬がついているのは、当世、下町女のはやりである。黒繻子の帯がその上にたたんで載せてある。
「これを?」
 思わず眼を見はった。
「はい。殿様のお申しつけでございます」
 女中は、いんぎんに答えた。
「なに、ご隠居様の?」
 二度、おどろいた。
「殿様仰せには、当邸で御殿風に遊ばすのは何かと目立って憚りある故、しばらくは、これをお召し下さるよう、とのことでございます」
 女中は微笑を含んだ声で云った。
 聞いてみると、尤もなことである。こんな屋敷に、椎茸髱に襠《かいどり》を着た、芝居の鏡山の舞台にでも出てきそうな姿がうろうろするのはよくないであろう。当分、ここに起居する身であるから、石翁の云うことはうなずけた。
 そうなると、菊川は、今の愕きも、怒りも去って、素直に、そのお仕着せをきた。女中は傍から、その着つけを何かと世話してくれた。
「どうぞ」
 女中は、今度は菊川をもとの部屋に導いた。そこには、知らぬ女中が待っていた。
「お髪《ぐし》を結わせて頂きます」
 髪結いの女だった。菊川は鏡台に向って坐った。女はうしろに立って、髪を梳《す》きはじめた。
「ほんに、よいお髪でございますなあ」
 髪結いはお世辞を云いながら、半刻ばかりのうちに結い上げた。
 鏡の中の己を見て、菊川は愕いた。
 両|鬢《びん》が帆のように張り出てふくらんだ島田髷、浴衣の衿には緋縮緬がちらりとこぼれているという、生粋《きつすい》の下町女の姿であった。
 支度が済むと女中は云った。
「殿様がお召しでございます故、どうぞお越し下さいませ」
「ご隠居様が?」
 菊川は、ぎくりとした。
 夜が更けかかっている。それに、この姿である。一体、今ごろ、何の用事で呼びつけるのであろう。かすかな疑惑が菊川の胸にきざした。
 女中は廊下の方に行かず庭に降りた。縁に屈んで、手燭を灯《つ》けている。
「ご案内申します」
 催促するように女中は云った。声に、否応を云わせないものを菊川は感じた。
 そう感じたのは、己はこの屋敷に預けられた身だという意識が多分に働いているせいである。家の主《あるじ》が喚んでいるのだ。断れない。
 菊川は、仕方なしに起った。女中が庭下駄を揃えてくれた。
 深い夜が、この石と樹木の庭を包んでいる。女中の手燭のあとに菊川は従って歩いた。径は暗い中で曲っている。
 身体が、自分のものと違うみたいだった。頭の髪が急に軽くなっていたし、衣も薄い。まるで、別な世界に押しやられたようで、現実感がなかった。池がどこかにあるとみえて、魚が水を刎ねる音がした。
 木立ちばかり多い径だった。黒い塊が右にも左にもかたまり、頭の上にも廂《ひさし》のように交差していた。気味が悪いくらい暗かった。
 理由をつけて衣裳を着更えさせたばかりの自分を、石翁がなぜ呼ぶのか、菊川には分らないようで、半分は分る気がした。それは或る予感だった。同時に、歩いているこの暗闇と同じような不安であった。
 柴折戸《しおりど》を女中が、ぎい、と開ける音がした。見ると、やはり黒い樹木の多い奥に、藁葺きの一棟がひそむように建っていた。
「参られました」
 女中は灯のついている障子の外から云った。
 返事は無い。
「どうぞ」
 と菊川の傍で云ったのは女中だった。
 躊躇が菊川の胸に突風のように起った。が、それを押しやったのは、内側の老人の太い声だった。
「これへ」
 その言葉を合図のように、女中は一礼してもとの道へ下駄の音を戻した。
 菊川は、茶室の躪《にじ》り口のように狭い入口を仕方なしにくぐった。灯の明りは、そこまで流れている。
 大きな坊主がひとり、小さな床の前に絹行灯を置いて木像のように坐っていた。
「遠慮のうこれへ」
 石翁が肩を動かした。
 菊川が浴衣の袖で身体を包むようにして坐ると、石翁は正面から見まもって、
「これは一段と女ぶりじゃ」
 と云いながら太い声で笑った。
 この狭い部屋には、両人のほかは誰も居ない。行灯が石翁の大きな図体を半分浮き出させていた。
 相変らず、或る不安が菊川の胸に続いている。猪首の据わった石翁の身体が、これほど息苦しい圧迫感を与えたことはなかった。
 照明の加減で、石翁の眼が片方だけ光っているのも、気味悪かった。
 菊川が言葉も出ないでいると、
「女どもに伝えさせた通り、そなたが御殿にいるときの身装《なり》では困るでの。わしの趣向で着更えてもらったが、いや、思いのほかによく出来た。そなたが、今、これへ入ったとき別の女かと眼が迷ったくらいじゃ」
 石翁は、菊川の姿を上から下までじろじろと眺め廻した。
 白地に麻の葉模様の菊川の浴衣は、灯影にほの白く浮いている。衿にのぞいた細い緋色が、紅梅のように艶めいて目立つのだが、石翁の眼はそれを愉しむようだった。
「大膳に、早う見せたい」
 石翁の呟きが、菊川の胸に初めて鋭く応えた。
「ご隠居様」
 菊川は手を突いて半身を思わず乗り出し、
「奥村殿が、これへ?」
 と急《せ》き込んで訊いた。
「参る」
 石翁は猪首をうなずかせた。
「そ、それは本当でござりますか?」
 息がはずんだ。
「わしが呼んだ」
「い、いつ、ここに?」
「やがて来る。わしが呼びにやったのだ。来ぬはずはない」
 石翁は自信ありげに答えた。
 菊川の胸が急に揺れた。肩までせわしく呼吸した。今までの不安も、疑惑もけし飛んで、歓喜だけが全身にあふれた。
「うれしいか?」
 石翁が、ぼそりと訊いた。
「はい。もう……」
 見栄も無く、答えると、
「そなたほどの女がのう。大膳も憎い男じゃ」
「ご隠居様」
「いや、西丸に聞えた菊川ほどの女をこれほど迷わせたのは、心憎き奴と申したのだ。ことにお城に居た時分と違い、こうして、くだけた姿を目の前に眺めると、一段の女房っぷりだ」
「これは、お戯れを……」
「戯れではない」
 妙に断固とした云い方だった。
 菊川が、はっとすると、石翁の身体が大きく動いた。
 石翁の大きな図体が、ぐらりと揺れたので、菊川に再び、疑惑と危惧が起った。
 相手の云い方も妙に縺《もつ》れてきた。大膳が程なく来る、といいながら、それにひっかけて搦《から》んでいるのだ。
 気づくと、石翁の眼が、じっとこちらを見つめている。行灯の明りで、半顔が暗いが、瞳だけは光が点じている。その光に菊川は怯えた。
 この恐れは、男の得体の知れない行動を予感した女の本能だった。
「菊川」
 石翁が呼んだが、心なしか老人の声は咽喉に絡《から》んだように調子が異っていた。
「大膳はこれへ参る。しばらく待つがよい」
「はい」
 返事しながら、菊川は胴が慄えた。
「その姿は、わしの趣向、大膳に見せるがよい。喜ぼう」
 石翁はつづけた。
「どうじゃ、立ってくれぬか?」
「………」
 菊川は、石翁の言葉の意味が咄嗟に分りかねた。
 石翁は笑った。
「わしは年寄りでな。なによりも女子《おなご》の変った姿を見るのが愉しい。大膳が参るには、まだ間《ま》がある。その間に、そなたの立姿を見せてくれ。坐っている姿も風情があるが、立姿も見たいでな。わしに見せてくれ」
「でも」
 菊川に迷いが嵐のように起った。断ったものかどうか。しかし、拒絶出来ない不気味な圧迫が相手の石翁の姿にあった。じっとしていると、非常に危険な事態が起りそうな気がする。
 この場合、菊川の心の頼りとなっているのは、程なく奥村大膳がここに来るということだった。
「奥村殿は、間違いなく、すぐに見えましょうな?」
 菊川は念を押すように訊いた。
「おお、来るとも。使いが、その返事をもらっている」
 石翁は請け合って、うなずいた。
 菊川はそれに急《せ》かされるように立ち上った。ゆらりと裾が波だち、ほの暗い光の中に、白い姿が伸びて、浮き出るように輪郭を滲ませた。
 石翁は、それを見上げて凝視した。年増女の胸から胴へかけての線を、薄い浴衣が描いている。菊川は、裸を石翁に覗かれているような耐え難さを覚えた。思わず前を掻き合せた。
 低い声が入道の咽喉から洩れた。
「あっ」
 と菊川が叫びを上げたのは、石翁が行灯の火を突然、吹き消したからである。
 行灯の灯の消えた真暗な部屋で、菊川は声を呑んで、立ちすくんだ。
 黒い恐怖が、身体中にのしかかってきた。立っている脚が戦《おのの》いている。
 石翁は、しかし、まだ坐ったままである。
 菊川との距離は、狭い部屋のことで、三尺とは離れていなかった。が、彼女には、耳の傍で、老人の息使いが聞えるように、もっと近く思えた。
 菊川は本能的に出口へ逃げようとした。しかし、足は意志に従わなかった。膝頭の力が抜けている。それから闇に坐っている石翁の太い身体が釘のように彼女を動かさなかった。
 お城で、大御所の寵をうけ、お美代の方の養父である中野石翁という権勢の存在が、知らずに菊川を圧伏しているのだ。
 暗い中で、石翁と菊川とは、まるで見えない一本の糸を張ったように対立していた。そして、どちらかが、ちょっとでも動くと、この緊張した静止の状態は、ひどい嵐を呼んで崩れそうだった。
 空咳《からぜき》が石翁の口から洩れた。老人の咳《しわぶき》は、菊川に衝撃を与え、そこに、へなへなと彼女を坐らせるのに充分だった。息が詰って、声が出ない。胸の前を両手で囲い、防禦の姿勢が精いっぱいであった。がたがたと胴震いがした。
 大膳を、菊川は心の中で必死に呼びつづけた。早く、早く、と救助を叫んだ。
 外は、こそとも音がしない。風はいつか止んだようだ。魚の刎ねる水の音が、時折するだけである。人声はおろか、足音も聞えぬ。突然、石翁が起ち上った。
 その気配が、菊川には、まるで壁を倒すように轟いて聞えた。
 石翁ともあろう者が──という最後の恃《たの》みは切れた。風を起して立ち上ったのは、一個の醜怪な大入道である。
 暗闇の空気は、その坊主が近づいてくるのを波のように伝えた。菊川は上体を畳の上に突伏せた。石のように身体を凝固させた。
 石翁がすぐうしろに来た。立っているのだ。菊川は、自分が入道に見下ろされていることを全身で感じ取った。眼の光まで分るのである。
 空気の中で、妙な擦音がしていたが、これは高まってきた石翁の息使いだと知れた。
 石翁の足が大きく動いた。菊川が絶望に眼をふさぎ、袂で顔を蔽ったとき、足は畳を踏んで遠のいた。
 はっとした。石翁は去ったのだ。菊川は空虚な部分に風が舞い込むのを覚えた。
 が、或る恐怖が、彼女の頭をまだ上げさせないでいた。
 その怖れの予感は当った。石翁とは違う、別な誰かの手が彼女の首に捲きついた。
 誰かに背後から組みつかれたとき、菊川は気を失った。
 脾腹に当て身を食わせたのは二人連れの士だった。暗いから、顔も何も分りはしない。障子の震える音も立たない瞬間だった。
「灯りをつけてみるか?」
 と一人が云った。
「その必要はあるまい」
 女の肩を起して、両脇に手を入れた男が低く応えた。
 眠ったような女を、両人で抱え上げ、狭い出口から引きずるようにして外へ出た。
 外は、黒い木立ちが星空を塞いでいた。その繁みの前に、別な男が立っていた。大きな身体つきだった。
 それに気づくと、女を運んでいる二人は頭を下げて会釈した。佇んでいる男は、黙って見送った。
 松の枝が突き出ている下で、二人は女を肩から下ろした。魚の刎ねる水音が近いのは、すぐその下が池になっているからである。水面は遠くの一部分が、かすかに白くなっている。それでこの池の広さが知られた。
 石組みは、夜眼にも区別がついた。一人がそこで女の顔を仰向きにさせ、胸のあたりを抱いた。女の姿勢は弓なりに曲った。頭が重く垂れ、白い顎が上った。
「気づきはせぬか?」
 一人が心配そうに訊いた。
「いや」
 短く答えたのは、女を抱いて膝をつき、水面に近づいてゆく男だった。
 他人が見たら、悶絶しそうな操作がそれから始まった。
 ぼちゃりと、石でも落ちたような音がしたのは、実は菊川の重い頭が水に漬けられた瞬間であった。
 が、すぐに、水音は掻くように騒がしくなった。これは女が水中で意識を戻して苦しがっているのだ。声は出ない。出ないように一人が顔を水中に上から押え付けている。抱いている男は、女の両手を捲き、自由を奪っていた。
 女が水面の下で顔を振り廻して死と抵抗していることは、水音の騒ぎがつづいていることで知れた。すべてが闇の中の出来事である。昼間だったら、水面が泡立ってみえる筈だった。
 やがて、かなりの時が経って、池は静かになった。抱えている男は、犠牲者の手足から力が脱け、急にその物体が重くなったのを感じた。同時に女の死を知った。
 気づくと、うしろの方に誰かが立っていた。
 大きな坊主頭は、横着な懐手《ふところで》をして、さっきから見物していたが、あくびを一つすると、興なげにゆっくりと歩いて去った。
 忙しい動作をしているのは、そこに残っている二人の男だけである。
 
「源助」
 暗いところで、ひとりが低く呼びかけた。
「いま、何|刻《どき》だえ?」
「さてね」
 返事したのも、暗い中からだった。
「そろそろ九ツ半(午前一時)かな」
 両人とも妙な場所にいた。大川に突き出た石垣の上に、及び腰で立ちながら釣糸を垂れていた。
 空には星がある。その下の川は黒い色でひろがっていた。大川もこの辺が最も広い。大橋と永代橋の中間で、中洲《なかす》の突端だった。水は、汐の匂いが強い。
 石垣は、田安殿の下屋敷の下に築いたものだった。この辺りは釣り舟を寄せつけないせいか、よく食いつくのである。昼間は、田安家の者がやかましいので近づけないが、夜になると、こっそり舟を忍ばせて寄り、石垣に匍い上って糸を垂れる釣り好きがあった。
 かくれていることだから無論、提灯は無い。暗がりの夜釣りである。要心しないと足場が悪いだけに、川に落ちそうな危険がある。
「どうだえ、当りはいいかえ?」
 源助と呼ばれた男が問い返した。小さい声である。声の語尾を川を渡る夜風が消した。
「うむ。当りは満更でもねえが、ちっとも食いつかねえ。妙な晩だな」
「ご時世で、魚も贅沢になったのかもしれねえな、卯之吉。そろそろ餌も考えなくちゃなるめえ」
 それに返事が無かったのは、卯之吉が、大橋の下をくぐって来た一艘の小舟に眼を止めたからである。先方も、灯りが無かった。
 その舟は次第にこちらに近づいて来た。隠れたことをしているだけに、卯之吉は、源助に、
「おい」
 と細い声で注意した。
 しかし、先方の舟はその辺で動きをとめた。舟に乗っているのが武士と分ったのは、覆面頭巾の恰好で慣れた夜目にも知れたのである。向うも二人だった。
 こちらの町人|両人《ふたり》には気がつかないらしく、先方の舟の上では、武士二人が何か長い荷物を抱え上げていた。距離が近いので、源助も卯之吉も、声を殺してその動作を見ていた。
 舟の武士たちは、長い荷を舟べりにかけると、水の上に転がすように落した。
 高い水音がし、波紋が伝わって、こちらの石垣につないでいる舟が揺れた。武士たちは、あたりの様子を見るように、前後を見廻したので、源助と卯之吉は縮んだ。
 発見されなかったらしい。舟は武士の一人が漕ぎ手になり、一人がへさきに坐って、もとの大橋の橋|桁《げた》の間を抜けて去った。すべてが声の無い行動だった。
「何を川に捨てたのだろう?」
 源助と卯之吉とが、暗い中で顔を見合せた。
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