朝、永代橋の橋杭に人の死体がひっかかっているのが発見された。
見つけたのは橋の上を通りかかった魚屋である。長さが百十四間の橋の西寄りの下を、ひょいとのぞいて、白っぽいものがゆらゆらと水に揺れているのが見えたのだ。
それが、人だと知ったのは、黒い髪が眼に入ったからである。魚屋は、顔色を変えて、折から橋上を歩いているほかの通行人を呼んだ。
それから騒動となった。
すぐに橋番に知らせる。橋番は町役人に報告する。
永代橋に死人がひっかかる例は、無いでもなかった。町役人は小舟を出させて、橋番に死体をひき上げさせた。
死人は水面に顔をうつむけて揺られていた。女である。着ている浴衣の麻の葉模様が印象的である。黒繻子の帯は解けかかって、一端が長く流れていた。
「南無阿弥陀」
橋番は、念仏を唱えて、仏を舟にひき上げた。
顔を見て愕いたのは、年増ながら凄いくらいの美しさである。
これは河岸に運んで、番小屋の前で町役人が見たときも、口沙汰になった。
「勿体ない話だ」
「これほどの顔での」
立会っている人間の眼がじろじろと見ている。
「おや」
と一人が気づいたように声を出した。
「妊み女だぜ、こりゃあ」
なるほど、そうだった。人々は別なおどろき方をした。
「どこかの若後家が、男に捨てられ、身投げしたに違えねえ」
意見はこんなところに決った。身なりからいって、町家の女だった。
町役人から、北町奉行所手附に報告が行く。同心が医者を連れて検死に来た。
「死人は水を飲んでおりますよ。左様、昨夜あたり、上の方で投身したのでしょうな」
医師は死体を検《しら》べて云った。外傷は無い。覚悟の自殺であることは、袂に入れていた小石でも分った。
身元の手がかりは無かった。どこの町に住む女か分らない。町家の女であると同心が判定したのは、髪のかたちと着物からだった。
「人相、年のころ、身なりなどを書き留めておけ」
同心は手先に云いつけた。
これは身元不明死体の告示を、高札場に掲示するためだった。
死体は近所の寺に預けて仮埋葬にした。新堀町の竜沢寺という寺だった。
「ご免よ」
声に、内職の草鞋《わらじ》作りに身を入れていた橋番の老爺が顔を上げた。
「誰だえ?」
小屋の戸口から入ってきたのは、思いがけなく武士だったので、橋番は少しあわてた。
「これは……」
足指にひっかけた撚り藁を、外そうとするのを、見知らぬ客は制《と》めた。
「そのままにしてくれ。少し訊きたいことがあって来たでな」
顔だちの整った若い男で、着流しだった。言葉もおだやかだし、町の人間に馴れたところがあった。これが島田新之助だった。
外は天気がよく、橋の上を歩く人の足音が明るく聞えた。
「へえ、まあ、どうぞお掛けなすって」
橋番は仕事をやめて、手で散った藁屑をはき、客の腰かける場所をつくった。
新之助は、礼を云って、無造作に狭い上り框《かまち》に腰かけた。
「昨日の朝、水死人がこの橋桁にかかったそうだな?」
新之助は橋番に問うた。
「へえ。そりゃ騒動でしたよ。旦那は、どちらからおみえになりました?」
老爺は新之助の顔をみた。
「わたしは、下谷の方から来たのだが、噂を聞いたのだ」
「へえ、あっちの方に、もう伝わりましたか。なにしろ、きれいな女でしたからね。それで、旦那に何かお心当りでも?」
「うむ。少々、気になることがあるのだ。詳しいことは云えないが、親類筋に心当りがないでもない」
「へえ、ご親戚に? そりゃあ」
老爺は息子の齢くらいなこの若い侍の心安そうな態度が気に入ったようだった。
「どんな着物をきていたのだね?」
「浴衣ですよ。紺の麻の葉でしてね。粋な柄でさ。それがよく似合って、生きてらしたときは震いつきたいような年増ぶりでしたでしょうな。みんな、勿体ないと云っていました」
「いくつ位だ?」
「二十六、七、顔がきれいだから、もっといってるかもしれませんな」
「懐胎していたそうだが」
「それなんですよ、旦那。可哀想に、よっぽど死ななきゃならねえ事情があったんでしょうね。女衆も、あんまり別嬪に生れると災難でございますな」
「水を呑んでいたのか?」
「へえ、そりゃ大そうなもんで。あっしは、水死人を見つけておりますので、すぐ分ります。当人の袂にも小石が入っていたくらいで。気の毒に、腹の嬰児《やや》が道づれでさ。おや、旦那のご親類筋も、そんなお身体でしたか?」
懐妊した水死の女は、心当りがあるか、と橋番に問われて新之助は、
「どうも、わたしの探している親類筋の女のようだ」
と熱心な眼になった。
「へえ、左様で。やっぱり……」
老爺は、どんな事情が伏在しているのかと訊きたそうな顔つきをした。
「少し訳があってな。恥かしい話だ」
新之助は、わざと当惑そうな顔をした。
「どうだね、その仏に会わせてもらって、もし当人だったら引取りたいが」
「そりゃ、もう、順当な話でございます」
「誰に申し込めばいいのか?」
「町役人でございますな。それじゃ、ちょっとお待ち下さいまし。ここから近うございますから、手前が呼んで参りましょう」
橋番は、親切に云ってくれた。
「そうか、それは気の毒だが頼む」
新之助は紙入れを出して、いくらかを捻って老爺の手に握らせた。
「有難うございます」
橋番は頭を下げると、それを懐にして、駆け去った。かれの親切の中には、この当てが含まれていたようだった。
待っている間、新之助は大川の水面を眺めた。川は、潮の匂いが高いので、いかにも海に近い河口という感じだった。今は退き潮らしく、川の流れが速い。
いろいろな物が流れてくる。古い下駄だの、破れ傘だの、板ぎれなどが運ばれていた。橋桁には古い布などがひっかかっている。
新之助は川上の方を眺めた。一つ上の大橋が遠くにぼやけて見える。田安殿の下屋敷の石垣と屋根が左手の突端に在った。その右手には、広い水面がひらけていた。
新之助の眼は、その位置と、橋桁との距離を目測するようだった。
「お待ちどおさま」
橋番がうしろから声をかけた。新之助がふり向くと、小柄な町役人がひとり、むずかしい顔をして立っていた。
「いま、橋番から聞きましたが」
と町役人は云った。
「昨日の水死人にお心当りがおありだそうで?」
「左様、それで参ったのだが」
新之助は答えた。
「見せて貰えますか?」
「折角ですが」
町役人は首を振った。
「それは人違いではございませぬか?」
「人違い?」
「水死の仏のことです。あれは、身元が分って、引取り人があったそうです」
「引き取った者がいる?」
新之助は、思わず町役人の顔を見つめた。
「引取り人があった?」
新之助は町役人に強く云った。
「それは誰か、教えて貰いたい」
「手前が扱ったのではございませぬ。奉行所より、左様な達しがありましたのでな」
町役人は、無愛想に答えた。
町役人は奉行所の命令布達を町内五人組や家主、地主などに伝える役柄だった。たいてい世襲で、公用の外出には帯刀を宥《ゆる》された。つまりその支配する町の責任者である。
「それでは、他から引取りの申し出があったという訳だね?」
「左様です」
「奉行所よりの達し状には、その身元の名は載っていなかったか?」
「いや、それは、口頭であったのです」
「おかしい」
新之助はわざと首をひねった。
「水死人はここで扱ったのだ。それを、口の先で、あれは引取り人が出たから、もうよい、というだけで済むものかね。名前だけでも聞かせる筈だが」
町役人は、それを聞いてむっとしたようだった。
「失礼ながら、あなた様はどういうお方で?」
「わたしか」
新之助はちょっと考えたが、
「直参で、島田新之助という者だ」
旗本ときいて、町役人の眼は、少し変ったようだが、身なりから見て、部屋住みの次三男とみたらしい。
「お住居はどちらで?」
「それも申さねばならぬか?」
「伺わせて頂いた方が、手前も役目柄、安心してお話が申し上げられます」
「うむ」
咄嗟に思案に出たのは、叔父の名であった。
「麻布飯倉片町、七百石、もと御廊下番頭、島田又左衛門の家に居る」
この微妙な返答は、町役人に、新之助をそこの息子と早合点させたようだった。
「ありがとう存じました」
と町役人は頭を下げた。
「ご身分を承りまして、手前も安堵いたしました」
「では、誰が水死人を引き取ったか、教えてくれるか?」
「それが」
町役人が顔を顰《ひそ》めた。
「実のところ、ただ今、申し上げた話だけでございます」
「なに?」
「いや、実は手前も奇態に思ってはおりました。今までは、そういうことはございませぬ。ちゃんと変死人の身元、引取り人を御奉行所より知らせて参ったものでございます。手前どもは、それをいちいち、備えの帳面に記《つ》けますでな。ところが、今度ばかりはそれがありませぬ。あれは済んだから、そのように心得ろ、ということでございました」
「あれは済んだから、そのように心得ろ、とな?」
新之助は、おうむ返しに云った。
「それは、確かに北町奉行所からかね?」
「はい。いつもお目にかかる与力の下村孫九郎さまからのお言葉でございました」
「与力の下村孫九郎……」
新之助は口の中で、その名前を呟いたが、以前、島田又左衛門の屋敷の前で会ったことは思い出せなかった。それよりも、もっと別なことを考えている。
「仮りの埋葬は、この近所の寺か?」
この問いを、町役人は、執拗《しつこ》いと感じたらしい。
「失礼ですが、それでも、まだお尋ねになりますか?」
「水死人は、わたしの心当りの者だと云っている」
「しかし、もう、それは……」
「いや」
新之助は遮った。
「間違いということもある。先さまのことだよ」
「………」
「話をきくと、わたしの親戚の女に似ているのだ。浴衣の柄といい、帯といい、そっくりだ。この上は、もっと確めねば気が済まない。間違えられて、他人に引き取られたら仏が浮ばれないからな。寺の名を教えてくれ」
「へえ、ですが」
町役人は、また、顔をしかめた。
「寺には、何も無い筈です。仏は、引き取られたということでございますから」
「寺に訊いてみるのだ。寺では、役目のことだから、引き取られて行った先の名を聞いているだろう。ここで分らなかったら、寺に訊きに行くのが順当だ。その仏のあとを、どこまでも足で追いかけてみたい。これは、身内の人情でね」
町役人は、呑まれたような顔をした。
「で、どこだね、お寺さんは?」
「新堀町の竜沢寺です」
町役人は遂に教えた。
「そうか。有難う」
新之助は礼を云ってから、思い出したように、町役人に云った。
「一昨日の晩、大橋と田安殿の間の大川に、舟を出して何やら捨てて行った者がいる。大きな水音がした筈だから、この辺まで聴えた筈だ。町内で気づいた者はいないかね?」
「さあ、一向に……」
「一昨日の晩、九ツごろからは上げ潮だった。あの辺で捨てたら、一旦、水の底にもぐって、大橋辺まで逆に行く。しかし、それから退き潮になって、水に浮び上った物は下に流れ、丁度、この永代の橋桁にひっかかるのが夜明け前だろう。見つけられたのが、その朝。この当て推量は、違っているかね?」
町役人は、ぽかんとした。
竜沢寺は、この辺では、思ったより広い寺域をもっていた。しかし、築地塀も、本堂も荒れていた。ろくな檀家をもたないらしい。屋根の上には、草が風にそよいでいた。
小僧が庭を掃いていたが、新之助の入って来たのを見ると、手をとめて立った。
「暑いのに精が出るな」
新之助は小僧に愛想を云った。
小僧は、見なれない新之助に、不得要領なお辞儀をした。
「昨日、新仏がここに埋葬になったね?」
新之助は、眼を笑わせながら訊いた。
「水死した女のひとだ。知っているだろう?」
小僧は、わずかにうなずいた。
「どこだえ、埋めたところは?」
本堂の脇から裏一帯には、申しわけだけの垣根が境になって、墓場が見えた。新之助は、それを見ていた。
小僧は、箒を握ったまま、すぐに返事をしないので、新之助は懐から小銭を出した。
が、小僧は手を出さずに、もじもじしていた。それから何を見たのか、急いで離れた。
「惟念」
と新之助の背後で声が聞えた。
「早く、掃除を済ませぬか」
新之助がふり向くと、庫裡の方から、ゆっくりと歩いてくる瘠せた坊主に眼が当った。
「何か、御用ですか?」
白い着物をきた、五十ばかりの血色の悪い僧だった。
「ご住持か?」
「そうです」
住職は答えた。
「当寺にご用ならば、拙僧にお申し聞かせ下さい。小僧などにお訊きにならぬように」
これは、初めからこちらを警戒している言葉だった。
「失礼した」
新之助は、素直に謝った。
「こちらに、昨日、水死の女を仮埋葬したと聞いて上りました。わたしの身寄りの者と思われるので、実見したくて来たのです」
住職は、新之助の顔を見つめた。
「お気の毒だが、それは人違いです。引取り人は別にありましたのでな」
新之助は愕かなかった。
「いや、しかし、齢ごろといい、人相といい、着衣といい、時刻といい、わたしの聞いたところでは、どうも探している人間に似ている。あまり似ているので、仏を見ないと諦め切れないのです」
「引取り手が別にあったと申し上げています」
「それでは、その引取り人の住居と名前を教えて頂きたいものです」
「縁者が確めて引取ったのだから間違う筈はない。ほかの物とは違いますでな。どこか、よそをお探しなされては如何です?」
ほかの品物とは違う。死人を引取るのだから、縁者が間違う筈はない。──住持の云うことは理屈だった。
「ほかを探せと云われるか」
新之助は片頬に笑みを泛べた。
「折角だが、昨日の朝、永代橋にかかった女の水死人を仮りに埋めたのは、当寺以外には無い筈です。わたしには気にかかることだ。では、引取られた先だけでも知らせて頂きたい」
「どうなされます?」
住持は、眉をひそめた。
「先方に訪ねて行き、確めてみるのです」
「それは困ります」
「はてな。教えてもらえぬとは?」
「とにかく……困るのです」
住持は困惑した顔になった。
「和尚」
新之助は呼んだ。
「こちらの気持も察して貰いたい。身内の者として、じっとしておられぬことです。或は仏が迷っているかもしれぬ。これはお経を読んでいるだけでは済まぬと思うが」
「しかし……」
住持は新之助の強弁に遇って、弱り切った。その表情から、新之助は、町役人と同じ立場にこの坊主が立っていることを知った。
「それとも、明かして貰えぬ筋でもありますか?」
この返事はとれなかったが、その代り、住持の眼が何かを見つけて輝いた。
「これは、おいでなさいまし」
新之助の立っている背後の方にお辞儀をした。
ひとりの武士が、陽除けに扇子をかざして境内を歩いて来ているところだった。両刀は差しているが、腰までしかない短い夏羽織と着流しの恰好だった。着物の裾と、雪駄には白い埃が附いている。誰が見ても分る八丁堀の人間であった。
「昨日は、ご苦労さまでした」
住持は近づいて来た与力に挨拶した。
「いや、お世話になった」
与力は、新之助の横に廻り、流し眼で、ちらちらと観察した。
「丁度よいところにお越しになりました。ただ今、この方から、昨日の水死人のことをいろいろ尋ねられていたのでございます」
「どういう因縁だね?」
「下村さま、それが何でもお身内らしいということで」
「身内?」
与力は新之助を見た。新之助も、下村という名を聞いてふり向いた。両人の顔は正面から合った。
「あっ」
与力が小さな声をあげた。
新之助も彼を見て、眼を瞠《みは》った。
まさに、その与力の顔に新之助は覚えがあった。
以前、麻布の叔父島田又左衛門の邸に行っての帰り、その門の前でつかまった男である。
あのときは、大奥女中の草履が島田の邸に在ったか無かったか、などと執拗《しつこ》く訊かれた。登美のことを穿鑿に来ていたらしいのである。
そればかりではない、帰りを岡っ引につけさせたのも、この下村という与力である。そのときは、面倒だから、良庵の家へとび込んで、岡っ引を撒いたものだ。
町役人は、水死の女の沙汰は北町奉行所与力下村孫九郎から達しがあったと云った。その与力が、偶然にも、この同じ男だったのだ。
「これは珍しい」
と挨拶したのは、下村孫九郎の方からだった。こけた頬に、薄ら笑いを泛べている。
「いや、その節は」
新之助も返した。
言葉とは別に、両人の間に、冷たい風が流れた。
「何か、この寺に用事で見えられたか?」
下村は改めて訊いた。
「いまも、この住持に話していたところです。昨日、ここに女の水死人を仮りに葬ったそうな。いささか、わたしの縁辺に心当りがある故、死人を見せて貰いたいと思いましてな」
「なるほど」
与力は新之助の風采を上から下まで一瞥した。
「たしか、島田又左衛門殿のお屋敷の前でお会いしたときは、貴殿のご姓名を承らなかった。おたずねしても、ご返答が無かったでな」
「その代り、貴殿指図で、わたしのあとを誰かが来たようだが」
新之助は応じた。
「ははは、申された」
下村は笑った。
「しかし、今日は、その手間もいらないようですな。ご姓名を承りたい」
「申さねばなりませぬか?」
「承りたいものです。死人縁故の者と申された。これは、ご姓名、住所などを承るのが順当でござろう」
新之助は、ちょっと考えた。が、あっさりと出た方がよいと思った。
「島田又左衛門甥、島田新之助という者です」
下村孫九郎は歯を出して笑った。
「承った。たしかに、今度は、すらすらと云われましたな」
与力の眼は皮肉だった。
「やはり、そうか。島田又左衛門殿の甥御か。なるほど、なるほど。無論、島田殿の邸にお住いであろうな?」
「いや、別です」
「ほう、それを承りましょう」
「お断りしたい」
「ほう、お住居は云えぬか?」
与力は意地悪い眼になった。
「何か、ご都合が悪い?」
「少々、仔細があってな。いや、これは詮議をうける筋ではないが」
「強《た》ってとは申さぬが」
与力は薄笑いした。
「水死の仏が、あんたの親類筋とは知らなんだ。これだけは承ってよろしかろう。どういうご縁つづきですかな?」
「されば」
新之助は詰ったが、思いついたままを云った。
「わたしの従姉《いとこ》に当る」
「やはり、島田又左衛門殿の……?」
「いや、母|方《かた》の筋です」
「さてさて、島田殿には、いろいろな縁者がおられる」
与力の下村孫九郎は、あざ笑った。
「なに?」
「いや、お気の毒ながら、あれは別な引取り人がありました。島田殿のご縁辺ではない。それは、住持よりも申した筈です」
「聞きました。しかし、あまりに似ている故に、仏を一見したい。わたしも心当りを探しているところだ。引取られたら止むを得ない。先さまの名前を聞かして頂こうか?」
「無用です」
「はてな。段々、承っていると、北町奉行所が当寺より勝手に仏をほかへ移したように聞える。左様に解釈してよろしいか?」
「正当な引取り人が出た故に渡したまでです。先方の名をあんたに教える必要はない」
「北町奉行所附与力、下村孫九郎どのの計らいでか?」
「わたしが個人でする訳はない。わたしは町奉行所つきの役人だ」
「承った」
新之助は強く応じて、相手の顔を見まもった。
「ここは寺だ。すべて寺内のことは、寺社奉行の差配と聞いている。町方の役人が、寺社奉行に断りもなく、勝手に寺内に仮埋葬した仏を他に移してよいものか、どうか。下村氏のご了簡を教えて頂きたい」
下村孫九郎の返事は無かった。顔が赭くなっているのは、返答に詰って、血が逆流してきたからである。
「下村氏。ご返事は?」
新之助は催促した。
「む……」
与力は、睨むだけで、声が出なかった。
「それとも、これは町方に係りのある一件と考えられたか?」
新之助は、気の毒そうに云った。
「それなら、わたしも解らぬではない。下村氏、わたしの意見を申そうか?」
下村の顔に、ちらりと不安の影がさした。
与力、下村孫九郎の赭くなっている顔に、新之助は真正面から云った。
「一昨日の晩です。左様、見た者は九ツ半ごろだと云っている。丁度、田安殿の下で夜釣りをやっていました。そこへ、大橋をくぐって一艘の舟が来ました。乗っていたのは、たしかに武士で二人連れだったと申します。その舟が、大川の一番川幅の広い場所に停ると、舟で運んで来た何やらを、突然、川に落しました。その品が、どうやら人間らしいというので……」
下村の顔が妙な具合に歪《ゆが》んできた。
「奇態なことがあったものです。夜釣りの連中が、暁方に帰ってきて、わたしに話してくれたのです。町人ですから、怕《こわ》がっていました。いや、町人でなくとも、士《さむらい》でも怕い。死んだように、ぐったりとなっている人間を、大川に投げ入れるのですからな。それが本当なら、鳥肌が立ちます」
「………」
「すると、昨日のことだ。永代の橋桁に女の水死人がひっかかっているという噂でした。丁度、前晩の潮の具合から考えると、舟から投げられた人間は、そういうことに相成る。夜釣りの人間が見たのは、嘘ではなかった」
「出鱈目だ」
与力は叫んだ。
「怪《け》しからぬ。左様な流言を放つとは。誰だ、そいつは。引っくくってやらねばならぬ」
「わたしも、名前も住居も知らぬ町人ですがね」
新之助は、とぼけた。
それは町内に住む卯之吉と源助だった。富本節を習いに、豊春のところへ通っているが、彼らがそれを女師匠に怪談仕立に話し、豊春が新之助に伝えたのだった。
そのことは、この与力には教えられぬ。
「町人は正直者です。話の辻褄も合います。下村氏は、その出来事をご存じないか?」
「知るわけがない。不届な町人の作り話だ」
下村は怒鳴った。
「作り話にしては、あんまり平仄《ひようそく》が合いすぎますよ。わたしは、町方がそれを知って、あんたが動き出したのかと思った」
「………」
「いや、ご存じなかったのなら、これを話してよかった。ついでながら、大橋をくぐって、大川の上《かみ》から舟が下ってきたとすれば、さしずめ、向島あたりから運んで来たものか……」
下村は、唇を震わして、新之助を睨みつけた。
「しかし、それが飽くまで出鱈目として、お取り上げにならぬなら、町方が寺内に踏み込んで埋めた死体をよそに移される理由は無いはずです。それなら、寺社方の諒解が要る。下村氏、はっきりしたご返事を承ろう」
「無用だ」
与力は、声を慄わせて叫んだ。
新之助は、鬼面のような顔になって突立っている与力の下村孫九郎に背後《うしろ》を見せて、寺を出た。
暑い陽が照りつけていたが、風は涼しい。そろそろ秋口を思わせた。
新之助の足の爪先は、麻布に向っていた。久しぶりである。
遠いから途中で駕籠を拾った。
駕籠の中から眺めていると、いろいろな人が往来する。士もいるし、町人もいるし、商売人もいる。男も女もいる。みんな、それぞれ、忙しげな顔をしている。
印入りの旗を立てた薬売り、荷をかついだ刻み煙草売り、背中に厨子《ずし》を負った乞食坊主、売れ残りの品をかついでいる茣蓙《ござ》売り、馬に水を飲ませている馬方、みんな尤もらしい顔をしている。
どこにも変化は無い。至極、平凡で、当り前に見える。
しかし、この眼で見る世間の裏側では、何が匿されているか分らないのだ。自分たちの眼の届かぬ世界では、奇怪なことが現在でも進行している。
陽は、眩しいくらいに明るい。昼間だから当り前である。が、裏側の奇怪事を考えると、真昼が暗い夜に感じられるのだ。
ひとりの大奥女中が抹殺された。秘密が暴露しないために、彼らにはそれが必要だった。彼らには権力があった。官憲さえも、その圧力をうけて加勢した形跡がある。下村孫九郎という一与力などは問題ではない。かれは、もっと上の方から指令を受けただけである。
新之助には憤りが湧いてきた。敢えて、裏側の世界に足を踏み入れようと心に決めかかったのは、そのためである。不安もあるし、危険もあった。先方は巨大な壁のような権力であった。
その壁の向うに、知った男が、今も連れ込まれている。かれは、小さな町医者だ。大奥女中が殺された現在、それにつながる良庵の生命も危険だった。あるいは、もう絶たれているかもしれない。
医者がどこまで行ったか、新之助には痕跡が分っている。残念だが、そこまで追跡して行って、手が出ないのである。洒落た石と植込みに囲まれた別荘が、その壁の一つであった。個人の無力を、新之助はこのときくらい思い知らされたことはない。──
命じておいた場所に駕籠は下りた。
叔父の屋敷の前だった。構えが大きいだけで、相変らず、手入れが届かないので、貧乏臭くみえた。
新之助は門をくぐった。
荒廃した玄関に立つと、奥から謡の声が聞えた。叔父の島田又左衛門の声である。どう贔屓《ひいき》して聞いても上手とはいえなかった。
島田又左衛門は、甥の新之助のために、吾平に酒を出させて、話を聞いていた。
久しぶりに新之助が訪ねてきたので、機嫌がいい。甥の生活は、又左衛門の気に入らぬが、もとから彼を愛していた。子供のときから、気性のさっぱりした、明るいところが気に入っている。
「大川に舟を出して、人間を捨てたというのは、確かだな?」
一通りの話を聞いたあと、又左衛門は念をおすように訊き返した。
「見た男が、二人も口を揃えて云っているのです。町人ですが、嘘をつくような男ではありません」
新之助は答えた。
「しかし、捨てられた人間は、舟から落されるとき、声も出さず、あばれもしなかったのか?」
「まるで、品ものを落すようだったといいます。わたしは、その女が、もう殺されていたのだと思います」
「だが、死体は、大川の水を飲んでいたのだろう?」
「溺れて死んでいたのは確かのようです。しかし、飲んだ水が、大川の水とは限りますまい」
「どうしてだ?」
「溺れさせるのは、水のある所なら、何処でも出来ます。別の場所で溺死させておいて、大川に捨てれば、これは大川で身投げしたかたちになりましょう」
「別な場所か……」
又左衛門は腕を組んだ。
「向島……と云うのだな?」
「舟の来た方向、翌朝、潮の加減で永代の橋桁にかかった水死体の具合、たしかに、その方角と決めてよろしいと思います」
「水死の女は、町方の身なりだったのか?」
「紺の麻の葉模様の浴衣に黒繻子の帯、髪は水に解けておりましたが、これも武家うちの髪の結い方ではございませぬ。そのことは、はっきり橋番が申しておりました。しかし、いかにも町方につくった身なりが、かえって見えすいております」
「うむ」
同感とみえて、又左衛門はうなずいた。
「そちが、石翁の屋敷に大奥女中の乗る女乗物が入って行くのを見たというのは、今から三日前だな?」
「そうです。良庵を探しに歩いた日です」
又左衛門は暫らく沈思していた。盃の酒が冷めていくのも気がつかぬ。
「よし」
と顔を上げたとき、顔色が動いていた。
「そちの推量に間違いあるまい。殺されたのは、大奥女中の菊川というものだ。手を下したのは、石翁の指図であろう。なるほど、北町奉行所が、ただの水死人として、うやむやに処分しようとしたのも、その辺から出た命令だな。面白うなった」
又左衛門の顔は、生気を帯びてきた。
「新之助、面白い話を持ってきたな」
眼が細くなったものである。
「忘れるくらい、ここには顔を見せない男だが、どんな風の吹き廻しか、今日は珍重な土産を持って来た」
「お気に召しましたか?」
新之助は又左衛門の顔を見た。
「うむ、気に入った。家屋敷、身上ぐるみ質に入れて買おう、というところだな」
「相変らずでございますな」
新之助は微笑した。
「お言葉通り、あんまり肩を入れられると、身代ぐるみ消し飛ぶかも分りませぬぞ」
「覚悟じゃ。三河以来、永々と頂戴した食禄じゃ。権現様もお飽きなされたろう。この辺で返上しても悔はない」
「いや、ご扶持が飛ぶくらいなら、まだよろしいが、あるいは御身辺まで及ぶかも分りませぬ」
「これか」
と又左衛門は腹を叩いてみせて、
「美濃や肥後や石翁どもの奸物と、さし違えならば惜しゅうはない。が、やみやみと切られはせぬ。新之助、菊川の一件は決め手になるぞ」
と眼を輝かした。それから、言葉まで勢いづいて、
「菊川を殺して蟻の一穴を防いだつもりはよかったが、身元不詳の変死人で寺に埋めたは、敵の思わぬ手抜かりだった。そちの申す通り、寺社から町方に捻《ね》じこませねばならぬ。早速ながら脇坂淡路守殿に知らせよう。町方が死体をどこの寺に埋め変えようと、寺社奉行が厳重に布達を出せば寺も届け出ずばなるまい。淡路殿じゃ、きっとやられる」
力んでいった。
「菊川の死体が出れば、大奥の然るべき女中に首実検させる。懐妊腹だから、ただの詮議では済まぬ。動かぬ証拠じゃ。大奥女中の風儀の手入れは、淡路殿のお得意じゃ。菊川がお美代の方の側近だから、これは面白うなる。次第によっては、お美代の方を追い落せるぞ。石翁、美濃などの奸臣退治の火つけ道具になるかもしれぬ」
「叔父上」
いい気になってしゃべっている又左衛門に、新之助は口を入れた。
「大奥風儀といえば、探索の役を申しつけられたお縫さんはどんな様子です?」
「縫か」
又左衛門は愉快げに微笑した。
「あれも、やりおる。だんだん、わしの所に聞込みを寄越しおるでの。遠からず、確証が掴める筈じゃ。これもすぐに脇坂淡路殿に取り次ぐ手筈になっている。そうだ、菊川の一件は、すぐに淡路殿にお知らせしよう。新之助、よう働いてくれた」