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かげろう絵図(上)~麻の葉

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  麻の葉 浄念寺は仕置場に近かった。 この寺の裏手は、どの寺もそうであるように墓地となっている。 新之助がここまで、ぶ
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   麻の葉
 
 
 浄念寺は仕置場に近かった。
 この寺の裏手は、どの寺もそうであるように墓地となっている。
 新之助がここまで、ぶらりと歩いてくると、墓地から空地にかけて掘立小屋が点々と見えた。非人小屋は、たいていこんな場所を択んで建てられていた。
 非人とはいっても、乞食ではないから、みんなさっぱりとした服装《なり》をしている。殊に抱え非人には収入《みいり》があった。
 新之助は非人小頭の嘉右衛門の住居を探ねたが、沢山ならんだ掛小屋のどれが彼の住居なのか見当がつかない。その辺に姿を見せている非人の女房らしいのに、
「嘉右衛門の住家はどこか?」
 ときいても、女は、じろりと新之助を見上げて、
「さあ、存じませんね」
 と、にべもなく答えて引込んでしまう。
 男も同じことで、
「さてね」
 と、新之助の顔を穴のあくほど見て、挨拶もせずに行き過ぎる。奇態な武士が迷い込んできた、とでも云いたげな眼つきであった。明らかに、ここでは別な生活社会をつくっていた。
 新之助も、すこし途方にくれて立った。
 近くの寺からは、もの憂げに読経の声がきこえている。墓場には、卒塔婆の間を、とんぼが泳ぐように飛んでいた。
 刑場で働いているらしい男が三人づれで通りかかった。かれらは尻をからげ、股引をはき、草履をつっかけて、目明しの下引きのような恰好をしていた。
「ちと訊《たず》ねたいが」
 新之助が声をかけると、三人は立ち止った。しかし、笑顔もみせていない。
「嘉右衛門の住居はいずれか、存じているなら教えてくれぬか?」
 三人は顔を見合せたが、はっきりと警戒の色を見せていた。
「いやいや、決して迷惑はかけない。ここで埋められた牢死人のことで訊きに来た者だが……」
「さあね」
 その一人が答えた。
「よく存じませんね。そりゃアご自分でお探しになることですね」
 行こうぜ、とその男は連れを促して立ち去った。とりつく島もないとはこのことだった。
 ここでは全く外来者を拒絶しているようだった。
 なるほど、自分で探すか。新之助がこの決心をつけて歩き出して間もなくである。
 或る小屋の前を通りかかったとき、その裏手の、木の枝にひっかけた物干し竿に眼がとまった。
 女ものの浴衣が竿に下っていたが、その模様が麻の葉であった。
 麻の葉模様の女浴衣は、干し竿にかかったまま、明るい陽を浴びている。
 新之助はそれに近づいて、浴衣を凝視していた。
「なにか、御用かな?」
 すぐ後で声が聴えたので、新之助がふり返ると、髷《まげ》ではなく、頭を蓬《よもぎ》のように延ばした三十ぐらいの男が、浅黒い顔にうすら笑いを浮べて立っていた。坊主のように白い着物を着ている。この辺は小屋がならび、彼はその一つから出てきたようだった。
「いや、これは」
 新之助は挨拶した。
「失礼をしたかもしれぬ。ただ、これに干してある浴衣が眼に止って、思わず近よってきた者だが……」
「浴衣に?」
 その男も干し物に眼を走らせた。
「ほう、何か?」
 と反問した。
 この男は、他の者と違って、近々と話をしてくれるらしい。新之助は心安さを覚えた。
「左様、わたしの知っている者が着ていた浴衣のように思えたのでね」
 蓬髪の男は、あざけるような眼をした。
「麻の葉模様の浴衣は、世間の女子衆《おなごしゆ》がざらに着ている。あんたの知辺《しるべ》だけじゃあるまい」
「その通りだが」
 新之助は、おとなしく云った。
「ところが、わたしの知った女は、牢死人として、ここに埋められたのだ。入牢した時がこの着ものだった」
「うむ」
 男は新之助の顔を、じっと見ていたが、
「なるほど、遺品《かたみ》という訳だな。そりゃ気の毒だが、どうなさりたいのだな?」
「持ち主に、この着ものを譲って貰いたいのだが」
「はてね。そりゃ、わしには分らんが」
 彼は、にやにやして小首を傾けて考えていたが、
「それは、直接《じか》に掛け合いなすったら、どうだね?」
 と云った。
 新之助が、ぜひそうしたい、と答えると、
「すこし高く吹っかけるかも分らんが」
 と云いながら、傍の小屋の方に歩いて行った。存外親切な男らしい。肩幅もがっちりしていた。
 男は、小屋の入口に首を突込むと、
「おい、お紺、お紺」
 と呼んだ。
 しばらく返事がない。
「留守かな」
 と呟いているとき、
「あい、何だえ」
 と奥から若い女の声がきこえた。
 小屋から顔をのぞかせたのは、二十七、八の女で、汚い恰好はしているが、どこか粋なところが、身体つきに残っていた。
「おや、法玄さん、どうしたのかえ?」
 お紺と呼ばれた女は、男の顔を見た。
「なんだ、おめえ居たのか。何度呼んでも返事がねえから留守かと思ったよ」
 法玄と女が呼んだ男は云った。蓬のようにのびた髪は、やはり彼が坊主だったことが分った。
「あんまり陽気がいいから横になって、うとうとしていたところさ」
「吉原《なか》の夢でも見て、涎《よだれ》を流していたのじゃねえか」
「まあそんなところさ。眼を瞑《つぶ》っている間が極楽だわな」
「ひとりの昼寝じゃ勿体ねえ。なんなら、おれが引導を渡して、この世の極楽を見せてもいいぜ」
「おまえのような汚ならしい破戒坊主の引導じゃ有難味が無いね」
 お紺は笑った。
「で、何の用事かえ? まさか、引導の用事で覗きに来たんじゃあるまいね」
「あれ、本気にしてやがる」
 破戒坊主は舌打ちした。
「おめえに、ちっとばかり用事があるという人が来たのだ」
「あたしにかえ?」
「眼の色を変えたな。おめえの心中し損いの片割れが来たんじゃねえ。ほれ、そこに立っているお武士《さむらい》だ」
 お紺は、離れたところに立っている新之助の姿を認めた。
「あの人が……」
 お紺は眼を瞠《みは》って、衿をかき合せた。
「何の用事だろうね? 法玄さん、ちょっといい男じゃないか」
 お紺は低い声で云って、新之助を見ていた。
「病を出しても始まらねえ。妙な嬌態《しな》をつくらねえで、早えとこ、用事を聞いて上げな」
「だからさ、お前、ここに連れて来たからには、話を聞いているんだろう?」
「うむ、実はな、その干竿にかかっているおめえの浴衣を欲しいと云ってるのだ」
「え、あの浴衣を?」
 お紺は、麻の葉模様の浴衣に眼を走らせた。
「何でも、牢死した知辺《しるべ》の着ていたものだそうだ。どうだえ、ちっと高く吹っかけて買わせたらどうだ?」
「お前が、口利き料を取って、酒代にしようってんだね?」
「そうと手の内を読まれちゃ仕方がねえ。その分も掛けて売りつけるのだ。どうせ、死人から剥いだ無料《ただ》の着物だ」
「嫌だね」
 お紺は拒絶した。
「なに、嫌だと?」
 法玄はお紺の顔を見つめた。
「そりゃ、どういう訳だえ?」
「訳も、へちまもないよ。お前、何とお云いだえ? 死人の着ものを剥いだんだから、もとはただだろうって? 莫迦《ばか》におしでないよ。ただだろうが何だろうが、大きなお世話さ。自分のものとなりゃ同じこった。あたいは、あの浴衣が気に入ってるんでね。吉原《なか》に居る時から、あの柄がよく似合うって、馴染客からほめられたもんさ。折角、お前の口利きだが、三文落したつもりで諦めて貰うんだね」
 お紺は、法玄を嘲《あざけ》った。
「ほい、相変らず、気の強え女《あま》だ」
 法玄は、わざと首をすくめてみせた。
「だがの、お紺さん。おめえも損な性分だぜ。こういっちゃ、ここに来る仏に済まねえが、何もこれで、あとが続かねえ訳じゃねえ。おめえの気に入った着物は、これからも、たんと来るこった。ここは一番、客のついたところで高く売ったが利口というもんだ。ほれ、おめえ、この間から簪《かんざし》が買いてえと云ってたじゃねえか。あの着ものを売って、仲見世で上玉を買うんだね。おめえなら、女っぷりが一段と上るのは請け合いだ」
 お紺は返事をしないで、黙っていた。
「それに、商売《しようべえ》は相手次第だ。あのお武士《さむらい》を見ねえ。おめえも云った通り、ちょっと苦味走ったなかに粋なところがあって、佳《い》い男っぷりだ。同じ売るなら、眼やにの溜った爺《じじい》に売るより、おめえも何ぼか心持がいいっていうもんだ。その上、言い値で買いそうな客だから、又とはねえぜ」
 お紺は、上目使いに、立っている新之助を見ていたが、
「お前の口には叶わないね。そんなら、一つ、思い切るかね」
「そうとも、そうとも。値段は、おれがいいように掛け合ってやる。その代り、口利き賃は、しっかり頼みますぞ」
「いけ好かない坊主だね」
 法玄は笑いながら、新之助のところに戻った。低い声で、
「旦那、なかなか、うんと首をたてに振らねえのをやっと承知させましたよ。もと、吉原で、お職まで張ったおいらんですがね、男に血道をあげ、心中仕損いの、日本橋でお定りの曝《さら》しの揚句、ここに落ちこんだ女《あま》でさ。人間、色気をはなれると、欲気がとりつくとはよく云ったもの、旦那も、ちっとばかり、値をはずまねえと、あの浴衣は売りそうもありませんぜ」
「そうか」
 新之助は、うなずいた。
「もとより、縁ある仏の供養のためだ。そっちの言い値で譲って貰うことにする」
 
「小屋頭に?」
 取引が終って、麻の葉の浴衣を買い取り、これもお紺が出してくれた風呂敷に包んで手に下げた新之助が、嘉右衛門の所在を訊くと、法玄は訊き返した。
「小屋頭に会って、どうなさろうというのだね?」
 お紺の小屋を出てからも、この破戒坊主は新之助の傍についてきていた。
「この浴衣を着ていた仏の始末を訊きたいのだ」
 新之助が云うと、法玄は首をふって、
「そりゃ、止しになさった方がいい。無駄だ」
 と答えた。
「何故だ?」
「旦那の云うことが、正直でないからさ」
「なに?」
「かくしても分りますよ」
 法玄が笑った。
「仏が知辺の者だとおっしゃったが、そうじゃねえ、何か探りに見えたのでしょう?」
「………」
「お武家は小さな嘘は苦手とみえるね。その顔色で分りますよ。小屋頭はお上《かみ》の御用も勤めている人間でね。一目で見破って、追い帰すのが落ちというもんでさ」
「そうか」
 新之助は、当惑顔にうなずいた。
「はは、だいぶ、お弱りのようだが」
 法玄はその顔を眺めて、
「ねえ、旦那、その麻の葉の浴衣をきていた仏については、あっしも満更知らねえでもねえ、何なら、知っただけを申し上げてもよござんすよ」
「なに、あんたが知ってるのか?」
「こう見えても、もとは坊主でね。そこを買われて牢死人の仏がくるたびにお経を上げているのさ」
「それは好都合だ。ぜひ、教えてくれぬか」
 新之助は眼を輝かした。
「よござんす。旦那の人がらを見込んで話しましょう。その代り、お布施《ふせ》の方も頼みますよ」
「よろしい。あんたの望む通りに出そう」
 お紺からも口利き料を取り、今度も礼金を望むこの坊主は、何という欲の深い奴だと思っていると、法玄は、その気持を察したように、
「なに、酒代なら、お紺から取った銭で剰《あま》りますがね。こうみえても、わっしはもう一度、もとの身分に浮び上りてえのだ。この世界を抜けるには、相当の金を積まなくてはならねえ。あっしは、その望みのために、少しずつだが銭を貯《た》めているんでね」
 と、いくらか照れたように云った。
 人間は、どの社会に落ちても、その夢のために生きているものだ、と新之助は坊主の顔を改めて見た。
「一番に訊きたいのは」
 新之助は、法玄に云った。
「この浴衣をきていた仏がここに運ばれたのは、いつのことかね?」
「二十日も前のことでね」
 法玄は答えて、
「あっしも、ちょいと覗いたが、そりゃ、佳《い》い容貌《きりよう》の女だった。年ごろは、左様さ、二十七、八くらいかな。どうだえ、合うかね?」
 新之助はうなずいた。
「それは、伝馬町の女牢から運ばれてきたんだろうな?」
「無論、それに違いないが。……や、旦那はほかから運んで来たように思いなすってるのかね?」
「すこし、それも訊いたまでだ」
「よいことを訊きなすった。実を云や、あっしも、牢屋から来た仏にしては、妙だなと思ったことがあるんで……」
「どういうことだね?」
「仏の腹が膨れすぎている。初めは、おや、臨月の懐妊《はらみ》女かな、と思ったが、いいや、そうじゃねえ。あれは水をたらふく飲んだ人間だ。つまり、水死人の死骸と同じだった」
「………」
「次に、妙なのは、仏の身体がいやに土で汚れている。云ってみれば、どこかで一度土をかぶって来た仏だなと思った。旦那の持っているその浴衣だって、お紺が、その土を落すために苦労して洗濯したものでさ」
 新之助は、いちいち、うなずいた。
「そのときは、妙だな、とは思ったが、読経しているうちに、仏は穴の中に捨てられてしまった。それっきりだ。うんもすんもねえ話だ」
「穴?」
「一人がかがむ穴じゃねえ。二十人はたっぷりと入る大きな穴でね。一人一人、牢死が出るたびに、ここにかついで来て、重ねるように捨ててしまうのですよ。土をかぶせる時分には、下積みの仏は骨になっているころでね」
 聞いていて、思わず腐臭が臭ってくるような話であった。牢死人は、犬猫と同じ扱いであった。
「旦那の知辺《しるべ》というその仏も、今ごろは、穴の中で骨になりかかっているころだね。たとえ、旦那が見てえと思っても、何とも及ばねえ話ですよ」
 法玄が云う通り、新之助が誰かを連れてきて菊川を検分させようとしても、すでに不可能だった。
 今は、ただ、菊川が奉行所の人間によって牢死人に仕立てられ、小塚っ原に捨てられた、という事実を知っただけで満足するほかはなかった。
 寺社奉行の手で、府内の寺をいくら捜しても、菊川の死体が埋葬されていなかったはずである。
 
 石翁は船で登城の途中にあった。
 自慢の屋形船で数寄を凝らしている。障子は阿蘭陀《おらんだ》人が輸入したギヤマンで張って、見物人の眼をみはらせた。その中に、白|綸子《りんず》の十徳を着て、泰然と坐って、これも南蛮渡りの長い煙管《きせる》を口にくわえていた。雁首も吸口も、無論、金無垢《きんむく》で出来ている。
 十徳は黒服が普通だが、それでは殿中で医師や坊主などと紛らわしいというので、大御所家斉の命で、特に白服としたのだ。この意匠は、細川三斎好みの羽織からデザインしたもので、殿中に行き会うもの、みな白服十徳に慴伏《しようふく》した。
 隠居しても、登城のときの格式は十万石に劣らなかった。しかし、向島に引込んでからは陸路の行列を好まず、大川を下って濠に入り、辰ノ口から下船して登城した。このような気儘を許されるのも、大名には居らず、彼ひとりであった。
 だから、それ、石翁のギヤマンの船が通るというと、大川を上下する船は悉く岸に漕ぎ寄って避けた。なにしろ、石翁の邸があるというので、遊客が向島堤の花見を対岸からしたくらいだから、大そうな勢いである。
 向島から辰ノ口に到着するまで、船は大川の橋を三つくぐらなければならない。そのいずれも、橋上から人が真黒になって、ギヤマンの屋形船を見物した。
 玻璃《はり》の透かし障子から、石翁の白十徳姿が眺められる。その脇の螺鈿《らでん》の刀掛けには、「一寸見附の花がいき、枝|珊瑚珠《さんごじゆ》も江の島の、土産に同じ貝細工、または蝋色《ろいろ》の上品も、縁に頭に目貫まで、今出来揃い桐尽し」とうたわれた評判の脇差しが架けてあるが、それも遠眼にでも見ようと見物人は爪立ちした。
 石翁は、内心、大いに自慢だから、岸から眺められようと、橋の上から見下ろされようと、一向に意に介しないような顔をして坐っている。多くの家来を同座させ、己は真ん中のひろい場所に和蘭陀渡りの羅紗を敷物にし、口辺に微笑を上せていた。
 船は、大橋に近づいていた。この橋の上にも、通りがかりの者が集まって、かたまっていた。石翁の登城は滅多に見られないから、みな、もの珍しそうに見物している。
 この屋形船の舳先《へさき》が、橋の下にかかるか、かからないときだった。
 突然、橋の上から、白いものが、風に舞うようにして川の上に下りてきた。
「あっ」
 と叫んだのは、船頭だけではない。橋上の見物人たちの間にも、どよめきが起った。
 白いものは、ふわふわと翻って、屋形船の屋根にかかるかと思われたが、それは、すいと外れて、川の上にひろがるようにして落ちた。
 折から上げ潮で、船の方向とは逆に、ゆっくりと流れてゆくのは、まさしく麻の葉模様の浴衣であった。
 船頭が、はっとして橋上を見上げると、欄干に集まって黒くなっている見物人たちも、どよめいている。石翁ほどの権力者の座船に向って、ものを抛ったのだから、かれらも動揺していた。しかし、投げた者は誰か、下の船からは分らなかった。
 舳先の船頭が、棹《さお》で、水に浮んでいる浴衣を、石翁の目障りにならぬように手繰り寄せようとすると、
「構うな」
 と、これは石翁自身の声がかかった。
 船頭が低頭して、あわてて棹を手もとに引いたから浴衣は上げ潮に乗って、上流へ、ゆらゆらと流れて行く。丁度、下りにかかる船とは、すれ違う恰好となった。
 同船している家来たちが、恐る恐る石翁の顔色を窺った。
 石翁は、身動きもせず、木像を据えたように坐っている。図体も大きく、眼も大きい男だが、その眼に異様な光を湛えて、水の上に揺れている浴衣に視線を注いでいた。
 麻の葉模様は小さな波に漂い、押され、こまかな変化をくり返しながら流れてゆく。ほかの浮遊物が、それにまつわっている。この辺りになると、潮の匂いが高い。
 石翁は厚い唇を一文字に閉じていた。不興のときの癖で、下唇が突き出し、癇性《かんしよう》に曲っていた。顔の色が、いつもより蒼いのは、これは水に映えたせいと見てよかろう。眼だけが、麻の葉浴衣の緩慢な流れをしばらく追って、外《そ》れないのである。
 傲岸《ごうがん》な眼つきというよりも、何かと闘争している眼であった。かすかな恐れと、見えない敵の挑戦とに、負けるものか、来い、とでも云いたげな眼であった。執拗に麻の葉の流れを追っているのだ。
「恐れながら」
 家来の一人が、見かねたように、
「見苦しきものが流れておりまするが、とり除かせましょうか?」
 と伺うと、石翁は、初めて気づいたように、視線を放した。
「すておけ」
 と、これは口から言葉が出たのではない。むっつりとした表情で分るのである。すべて機嫌の悪いときの拒絶は、返事をしないことにしている。
 そのうち、大橋をくぐって南へ出る。白い漂流物は遥か彼方に流れ去った。石翁は、もう、あらぬ方に眼をむけて、苦虫を噛んだような顔でいた。
「あれ」
 と、船頭が思わず背伸びして、後方に掌をかざしたのは、このときである。
 一艘の小舟が岸から漕ぎ出て、漂っている浴衣に近づいたかと思うと、乗っている人物が、さっと浴衣を拾い上げた。
「や」
 と眼を瞠《みは》ったのは屋形船の中の石翁の家来たちである。遥か後方に漕ぎ出た小舟をいずれも見つめた。小舟に乗った男は、身を舟べりにかがめ、流れている浴衣を手に拾い上げたのである。
 顔は、遠くて見えないが、その小さな姿が武家だということは分った。しかも、その男は、拾い上げた浴衣をこちらに振るように見せたものである。
「奇怪な奴」
 と一人が叫んだ。当然に、相手の挑発行為に怒った声だった。
「何者か、とにかく怪《け》しからぬ奴」
 別な家来が云った。
「すぐ誰かを上陸させて、引捕えて参りましょうか?」
 石翁に伺うように、興奮を見せて云ったが、石翁はむっつりと黙っていた。
「ご威光にもかかわります」
 家来が重ねて意気込むと、
「構うな」
 と、石翁が初めて声を出した。煩さそうな、邪慳《じやけん》な声であった。が、大きな坊主頭のこめかみには、浮き出た青い筋が怒張していた。
 そのうち、屋形船は大川から分れて、濠に入る。小舟は視界から消えた。──
 
 新之助は、小舟を操って柳橋の船宿に戻った。
 お内儀が、自分で舟の舳先を押えて、新之助を迎えたが、
「こちらで、拝見していてはらはらいたしました」
 と、すこし蒼ざめた顔で云った。
 新之助が笑って、
「これを洗濯しておいてくれ」
 と手にかかえた濡れた麻の葉の浴衣をお内儀に渡した。
「大切なものじゃ。盗まれぬよう、気をつけてくれ」
「承知いたしました」
 お内儀が両手で、囲うようにして受け取った。
「二階に、支度しておいてくれぬか」
 新之助が注文すると、
「あとから、詮議が参りませぬか?」
 と不安そうに、青い眉をよせた。
「なに、大丈夫だ」
 新之助は二階に上った。
 銚子を持ってきた女中のすぐあとから、お内儀が心配げな顔をして、
「六兵衛さんという人が訪ねて見えましたが」
 と云った。
「もう来たか。すぐ上げてくれ」
 お内儀が階下《した》に降りて行くのと入れ違いに、六兵衛が息を切らせて上ってきた。
「六兵衛か。ご苦労、ご苦労。まあ、坐れ」
 新之助が微笑しながら、さし招いた。
 
 石翁の西丸参候は、久々に大御所お見舞のためという口上であった。
 平大名はもとより、縁戚筋の大名でも御病間には通されずに追い帰されるのだが、石翁は特別である。水野美濃守が、わざわざ玄関先まで出迎える。
 病間に入る前に、一先ず御小座敷に通されて休息した。お坊主が茶を持って入り、接待している間は、美濃守と、さりげない会話を交していたが、誰もいなくなると、石翁の表情が緊《しま》った。
「大御所のご容体は相変らずかな?」
 石翁は訊いた。
「はあ」
 美濃守は伏眼になって答えた。この男は、女のように長い睫毛《まつげ》をもっている。蒼白い顔色だが、唇が紅を塗ったように赤い。
「しかじかと捗りませぬ。医者共も懸命にお手当て申し上げ、苦心の投薬をいたしておりますが、一進一退で……」
「余命、あと五十日とは前に聞いたが」
 石翁は、ずけずけと遠慮がなかった。
「変ったことも起らぬかの?」
「たしかに、ご衰弱は眼に見えて、現れております」
「あの病気は永い」
 石翁は、他人《ひと》ごとのように冷たい口吻《こうふん》であった。
「今にも危篤になりそうだが、なかなか死なぬ。で、どうじゃ、お頭《つむ》の方は?」
「お言葉は、ますます聴き取りにくうなりましたが、こちらの申し上げることは、よくお分りになるようでございます」
「それも、病気が、もっと悪うなれば判断が分らなくなる。美濃どの、そこもとは、よいときにお墨附を書かせたな」
 石翁は美濃守を讃めた。
「幸いでございました」
 美濃守は手柄をほめられたように低頭した。
「お墨附は、わしが大切にしまってある」
 石翁は、強い眼ざしになって、
「しかし、美濃どの。お墨附はこっちのものになったが、これからが大事じゃ。あのお墨附をどう活かすかだ」
「はあ」
「肥後や筑前は、お墨附さえ手に入ったからには、万事安心と心得ているらしい。莫迦《ばか》なことよ。書附一枚にたよって何になろう。要は、それを活用するために人が要る。わしは今からそれを考えている」
「ご隠居さまのご深慮、恐れ入っております」
 美濃守はもう一度、ていねいに頭を下げたが、一段と声を低めて云った。
「そのお墨附のことでございますが、どうやら、ご本丸には、うすうすと勘づかれているようでございますぞ」
「なに?」
 石翁が屹《きつ》となって、美濃守の顔を見た。
「ご本丸でお墨附を気づいている?」
 石翁は思わず反問した。
「それは、まことか?」
「どうやら、その気配が見えまする」
 美濃守は答えて、
「老中衆がしきりと密々の談合をしているそうにございます」
「真実《まこと》かな?」
「こちらより、然るべき者をあちらに入れておりますので」
 美濃守は意味ありげにうす笑いした。
「たしかな報告と存じます」
「ふうむ」
 石翁は考えこんだ。
「どこから洩れたかな」
 かれは、指を出して、
「それを知っているのは、そこもとと、わしと、林肥後と、美濃部筑前と……」
 一つ一つ折って、
「瓦島《かとう》飛騨も、竹本若狭も、秘事を洩らす男ではないがのう」
 と猪首を傾《かし》げた。
 美濃守が、一膝すすんで、
「ご隠居様、それなら、申し上げますが……」
「うむ?」
「どうやら、情報は、脇坂淡路より洩れている形跡がございます」
「なに淡路から?」
 石翁は眼をむいた。
「はい。手前は左様に存じております」
「なにか、実証がござるか?」
「証拠とてはございませんが、水野越前守(忠邦、老中職)の私邸を、淡路が暮夜、ひそかに両三度、訪ねております。これが実証といえましょう」
「淡路がのう」
 石翁は身体をひいて、眼を閉じたが、さもありそうなことだと云うように、うなずいた。
「美濃殿、そなたは怕《こわ》い人だな?」
 と顔を見た。
「はあ? これは、また……」
「いやいや、その身は西丸の大奥で大御所のお側に附ききりでいるが、眼は、いつも外を向いているな」
「恐れ入ります」
「そなたが一人いるだけでわしは頼母しい。しかし、美濃殿」
「はい」
「油断あるな。そなたが、探りの者を出しているように、先方もこちらに同様の者を出しているでの」
 石翁は、語気に力を入れた。
「お言葉、身に滲みておりまする。そのことは充分心得まする」
「それがよい」
 石翁は一旦云って、光った眼を宙に据えた。
「そうか。淡路めがのう……」
 
 美濃守の案内で石翁は、家斉の病間に参入した。
 襖の極彩色の図、金|砂子《すなご》に金泥で雲形を描いた天井、秋草の図の袋戸棚、四枚襖、長押《なげし》の釘隠しに用いた随所に光っている金|鍍金《めつき》の金具──中央に高麗縁《こうらいべり》の畳を二枚積み、その上に金襴の縁とった厚板物を二枚重ね、唐織白地に色糸で鴛鴦《おしどり》模様を散らした緞子《どんす》の掛蒲団が五枚、その中に埋められたように寝ている家斉は、顔だけ出して力なく睡っていた。極彩色の絵図の中で、彼の首だけが土色であった。
 石翁が、さしのぞくと、家斉は天井に顔を仰向け、鼾《いびき》をかいているが、眼窩《がんか》はくぼみ、脂肪が落ちて、鼻梁《びりよう》が尖ったように高い。口を開けているが、唇の色も血の気が無く、黝《くろ》かった。
 枕元にお美代の方が侍《はべ》っていたが、
「半|刻《とき》ほど前に、お寝《よ》いになりましたが、お父上の見えたことを言上いたしましょうか?」
 ときく。石翁はお美代の養父である。
 石翁は、手を振って、
「いやいや、それには及び申さぬ。お寝みなさるのが何よりお身体のためによろしかろう」
 と云った。
 今さら身体のためにいいも悪いもない、誰が見ても家斉の死期が遠くないことが分った。ただ、老人のこの病気の特性と、医者どもの懸命の調薬介抱とで、気息えんえんながら、案外、息が永く保てるのではないかと思われる。
 ふと見ると、お美代の方は、いささかもやつれがなく、水々しい化粧をしている。極彩色でうずもったこの座敷の中で、一際ふさわしく見えるくらいである。病人を介抱している姿とは思われない。
 石翁は、それとなく眼を蒲団の裾に移した。その端には、水野美濃守が、うずくまっている。その顔色が白くて、どこか化粧したみたいにきれいである。もとから美男子だ。
 石翁は、ははん、というように眼元を皮肉に笑わせた。二十日も前に見舞に登営して、美濃守を見たときは、彼は長の看侍に憔悴《しようすい》して、見るかげもなかったが、今は眼を疑うばかりに元気で、垢抜けがしている。
「美濃殿」
 石翁が低く声をかけた。
「はあ」
 美濃守が顔を上げる。
「ご病間のご看護を、日夜ご両人でなされるのは、さだめし、お気苦労であろうな」
「恐れ入ります。手前、海山の御恩をうけたる大御所様のご介抱に、もとより粉骨のつもりでおりまするが、ただ、お美代の方様が……」
 と云いかけて、石翁の特別な眼の表情に遇うと、ぱっと面を赧らめた。お美代もそれに気づいたか、下を向いた。
 石翁は、ははあ、と合点した顔をした。
 
 石翁は午《ひる》すぎには、もう下城していた。
 秋めいた、いい天気である。再び屋形船に乗った彼は、船の軽い動揺に身体を任せながら眼を閉じていた。
 知らぬ者が見たら、居眠りしているように思える。
(脇坂淡路がお墨附のことを気づいたとすると、すこし厄介なことになった)
 彼は眉の間に、屈託げな皺をつくっていた。
(水越が煩さい)
(水越が煩さい)
 かれは、胸の中で繰り返した。
 水越とは、老中筆頭水野越前守忠邦のことで、のちに天保の改革をやった張本人である。彼は、この頃から家斉の驕奢《きようしや》な放漫政策に批判的である。
 切れる腕をもった男だけに、石翁にとっては面倒な存在であった。折角の計画が、このあたりの線から切り崩されたら、一大事だという気がする。
 その線に密着しているのが脇坂淡路だとすると──
(淡路め、何をこそこそとやろうというのだ?)
 石翁は考えつづけている。
(今のうちに、淡路の線で食い止めなければならぬ。でないと、途方もないことになりそうだ)
 誰がやる? 俺よりほかにないではないか。ほかの者には任せておけぬ。年とった、この俺が、じかにやるのだ。
 石翁は、かすかな不安に襲われた。不安は、絶えずこちらの計画を、蟻のように食いつづけている敵の見えない行動であった。音も立てないで、敵は、静かにしかも確実に破壊作業をすすめている。……
 がっちりとした大木が、根ぎわから倒れるような幻覚を石翁は夢見た。
 すると、大御所の黝《くろず》んだ顔が眼に浮んだ。眼窩《がんか》が落ち、頬がこけ、鼻梁《びりよう》が尖っている。永い間、利用してきたが、この人には、もう頼れない。死期が目の前に迫っている顔だった。死相といってもいい。
「どうかなさいましたか?」
 家来のひとりが声をかけた。主人の顔色が蒼くみえたせいかもしれない。
「うむ」
 石翁は、うす眼を開けた。
 波が映っている。いきなり川の水が眼にとびこんできたので奇妙な気持になった。水は深い蒼味を沈め、さまざまな紋をつくっていた。
 紋の変化が、突然、麻の葉にみえた。暗い。
「あ」
 石翁は、かすかに口から声を洩らして、眼を掌で掩った。
 少し身体が揺らいだようだったが、家来に見咎められるほどの変化ではなかった。もとより豪気な隠居である。
 掌を眼から放すと、明るい大川の景色があった。
 石翁は屋敷に戻った。
 屋形船より上るときから、顔色が冴えない。足がもつれそうだった。
 居間に入ると、
「茶を」
 と妾に云ったが、思い直して、
「黒子丸《こくしがん》をくれ」
 と命じた。
「何か、ご気分でも……?」
 妾が怪しむように訊いたが、
「何でもよいから、すぐに出せ」
 と癇性《かんしよう》らしく云った。
 薬にはやかましい男でその方の知識も詳しい。この黒子丸も自分が調剤したもので、黄蓮《おうれん》、合歓木《ねむのき》、沈香《じんこう》、熊胆《くまのい》を原料としている。このうち、植物は自分の庭に植え、そのほかは手を廻して集めさせた。
 集めさせるのに苦労はない。一言、こういうものを、といえば、諸大名、争って献上するのだ。
 妾に薬を持って来させ、口に入れ、白湯《さゆ》を咽喉に流して、しばらく瞑目《めいもく》した。
「お寝《よ》り遊ばしては」
 妾が云うのを、
「そちは向うに行っておれ」
 と命じて斥《しりぞ》けた。
(しかし、脇坂淡路が、どうしてそのことを知ったか)
 石翁は、さっきの屈託からまだ解放されない。見えない糸を何とか見つけようとしている。
 こちらの側から洩らす者は居ない。すると、彼が探り出したのだ。
(誰を使って?)
 ふと、思い当るのは、麻の葉の浴衣を見せた男のことである。あれは菊川に着せたものだが、その死骸の処置は、北町奉行所つきの与力に一任した。
 万事、然るべく処分いたしました、と、あの利口そうな与力は報告したが、あれでは当てにならぬ。敵側と思われるあの若い男にあばかれているではないか。
(あれは、大した男ではない。あれとこれとは違う。お墨附を探り出した者は別だ)
 石翁はそう信じた。
(誰だろう?)
 と思う反面、
(淡路め。なかなか、やりおる)
 と思った。こうしているうちにも、彼の隠微な攻勢がすすんでいるようである。
(今のうちに、策を講じなければならぬが)
 と考えたが、どこから手をつけていいか分らない。
(もう少し、じっとしているか。さすれば必ず敵は思い上って出てくる。それを待とう。それから叩くのだ。よし)
 と決心した。
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