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かげろう絵図(下)~菊の乱れ

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  菊の乱れ 中秋となった。 大奥では、この日は女中どもの一年中の愉しみの一つになっている。 普通だと、御台所は午前、お
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   菊の乱れ
 
 
 中秋となった。
 大奥では、この日は女中どもの一年中の愉しみの一つになっている。
 普通だと、御台所は午前、お年寄の案内でお側の女中をひき連れて、御納戸御座敷の庭へ出て、「お根引」と称《とな》えることをする。
 これは、四、五日前に植えておいた蓮芋の茎《くき》に、御台所が両手をかけて引くと、植えて間もないから、訳なく土から抜けてしまう。
 側の者共が、それを見て、口々に、
「お力がございます」
 と賞め讃える。
 将軍夫人といえども、武家の嗜《たしな》みを忘れぬという飾りの風習かもしれない。
 この蓮芋の茎は、御膳所(料理場)に廻して、白胡麻、枝豆などを加え、味噌で和《あ》えて、「ずいきあえ」と称え、上《かみ》の御膳部に上すのだが、女中たち一同にも配膳される。
 夜に入っては、明月の上るのを待ち侘びる。中秋の月見は、初午《はつうま》、節句、花見、菊見などの一年中の楽しい行事の一つで、数カ月前から女中どもはこの夜を待ちつづけてきたのだ。
 まず、白の「オイシイシ」と呼んでいる団子をつくり、枝豆、栗、柿、芋などの時の野菜、果物などを添えて、白木の台に載せ、御前や御膳所に供物する。
 申《さる》の刻からは女中共の歌合せが催されるが、年寄より歌題を出して思い思いに詠み出るのを、年寄や上臈で、この道に心得のある者が択んで順位を決め、秀逸の者へは景物が下される。
 いよいよ月が出るころになると、御台所は縁側に出て、観賞するが、時には側の者に扶けられて庭前《にわさき》に下り、月光に濡れた芒の下の虫の声に耳をかたむけることもある。
 しかし、今年は、大御所御不例というので万事控え目となり、歌合せのような行事は取りやめとなった。
 ことに西丸では火の消えたようで、観月の催しは無い。
 しかし、それは表向きで、女中どもは例年のとおり、部屋部屋で団子をつくって互いに遣り取りするし、月が上れば、お庭に出て観月するぶんは差し支えなし、という布告《ふれ》が出た。
 女中共は、互いに気の合った者同士が手をつなぎ、お庭の築山の彼方や、泉水のあたりをそぞろ歩いた。庭といっても、外庭は、すこしはなれると樹林が深く、芒が生い繁っている。
 その庭でも、寂しい場所に、ひとりの女中が、あたりをはばかるように、小走りに歩いていた。ほかの連《つれ》からわざと離れたのか、附近に同輩の影が無い。
 いや、影はあった。木立ちのうしろから、ひょっこり男が出て来たものである。
「登美どのか?」
「登美どの」
 男の影は低い声でもう一度呼んだ。
 木の陰から現れたのは、紛れもなく添番落合久蔵だった。
「あ」
 女は、予期していたが、小さな叫びを口の中でした。月の光が、その登美の半顔を照らした。血の気の無い顔色が、よけいに蒼い。
「待ちましたぞ」
 久蔵は、性急に登美の手を握ろうとすると、
「あ、もし」
 登美は本能的に身体を避けた。
「どう、なされた?」
 久蔵は、もう息をはずませている。
「ひ、ひと目が……」
 登美があたりを見廻すのを、
「なんの」
 と男は一笑して、
「ここには誰もおらぬ。さいぜんより忍んで待っていたが、遠くで女中どものさわぐ声は聞えるが、猫の子一匹通りませぬわ」
 と強引に女の手を引こうとした。
「待って下され」
 登美はそれをふり放したが、久蔵の真剣な眼を見ると、袖を胸にやって、
「まだ動悸が打っております」
 と顔を伏せた。
「ふふ、お気の弱い」
 久蔵は薄く笑い、
「誰も、女中衆でそなたの挙動を怪しむものはなかったろうに」
「それを覚られぬために、薄氷を踏む思いで参りました」
 と登美は小さな声で云い、
「みなは部屋部屋でお月見団子をつくり、互いに上げたり、頂いたり、それは大そうな騒ぎでございます。わたくしも、朋輩衆からすすめられましたが、それを何とか逃げてくる苦しさ……」
「それはよくなされた」
「そればかりではありません。お庭には、今宵の明月を賞《め》でんものと、あちこちに女中衆がそぞろ歩きしておりました。もしや、逃げてゆくわたしの影が怪しまれはしないかと、ここに来るまでは、脚が震えました」
「それはご苦労なされた」
 久蔵は、顔にうれしそうな笑いをひろげた。
「しかし、拙者も、安閑《あんかん》とここに立っていたのではござらぬ。同役に然るべき口実をつけて脱け出し、ようやく、ここで待てば待ったで、藪蚊《やぶか》に刺され通しでござった。いや、武蔵野の涯だけに、ここの藪蚊は、いつまでも減らずに、しつこいでな。お互いに忍び逢いには苦労が要ります」
 登美は、久蔵の言葉を耳に入らぬように聞き流し、
「落合どの。お頼みしたこと、教えて下さるでしょうなア?」
 と、まず訊いた。
 縫の登美から、頼んだこと、調べてくれたか、と云われて、落合久蔵は、一も二もなくうなずいた。
「おお、そなたのことじゃ。何で忘れよう。悉皆《しつかい》、しらべたぞ」
「忝けない」
 登美は礼を云って、
「そんなら、ここで早う聞かせて下され」
「おっと、そう急《せ》くまい」
 落合久蔵は、登美の手を固く握った。彼の、わくわくしている身体は、ぶるぶる慄《ふる》えている。誰も居ない、山中のような夜の庭で、想う女と二人きりで遇えた喜びが、彼の胸を昂《たか》ぶらせていた。
「その前に、そなたの気持を確かめたい。事実、拙者に心が移っているのであろうな?」
 久蔵は不安なのだ。登美のような女が己を本当に想ってくれるのかどうか、確かめても確かめ足りないくらいである。
「まだ、そのようなことを……」
 登美は、低く云った。
「わたくしが、こうして危い橋を渡りながら此処に来たことで、気持が分るでしょう」
 久蔵は、じっと登美の顔を月の光で見て、
「おお、ほんにそうじゃ。ありがたい。ありがたい。いや、そなたのような佳《よ》い女子《おなご》が拙者に心を寄せてくれるのかどうか、まだ夢のようで信じられなくなるのだ」
 と握った手を押し頂くようにした。
「それよりも、落合どの、早う、話を教えて下され」
 登美は催促した。
「うむ、お女中衆の寺詣りのことだな」
 久蔵は、やっと話しはじめた。
「拙者が、供廻りとして従ったのは、先月から年寄の樅山《もみやま》殿が三度と、中臈の萩川殿が両度じゃ」
「樅山さまと萩川さま……」
 登美は、じっと眼を久蔵の顔に当てた。
「して、お寺は?」
「樅山様は、中山智泉院の別院、雑司ヶ谷の感応寺じゃ。萩川様は駒込の法妙寺」
「感応寺と法妙寺……」
 登美は、いちいち、頭の中に刻むようにした。
「ご参詣は、永くかかりましたかえ?」
「巳《み》の刻より参って、夕の酉《とり》の刻限まで、まず、四刻(八時間)はたっぷりあったな。随分と念の入ったご参詣じゃ」
 久蔵は、意味ありげに低く笑った。
「萩川さまも同じかえ?」
「この方は、ちと少いが、ご祈祷の入念さは同じことじゃ。いや、供したわれらも、外でぼんやりと待つのが、何とも退屈でな」
「お供のお女中衆は?」
「それが、半分ほどが、奥の院入りでな。いずれも玄関に出て参られたときの顔を見ると、法悦のあとのよろこびが残っていたわ……」
 智泉院といい、感応寺といい、法妙寺といい、いずれも法華宗の寺である。殊に中山の智泉院はお美代の方の実父日啓が住職で、お美代の勢力で法華宗が旺《さか》んになったものだから、智泉院も繁昌する。
 江戸から中山詣りは遠すぎるというので、その別院が雑司ヶ谷に出来て、鼠山感応寺という。至極参詣に便利になったので、これもなかなかの繁栄である。
 日啓は野心家だけに、お美代を利用して家斉を動かし、ゆくゆくはこの感応寺を、上野の寛永寺、芝の増上寺と同格の寺格にしたい下心をもっている。上野も芝も、徳川家累代の菩提寺であるから、それと同等の格式にせんとする日啓の野心も大そうなものである。
 智泉院も感応寺も、大奥女中の参詣が絶えない。ことに大御所が病床についてからは、御平癒祈願と称するお詣りが多い。日啓は、もともと祈祷僧として売り出した男で、この智泉院でも、感応寺でも、旺んに祈祷が行われる。智泉院派に属している法妙寺でもそれに負けていない。
 ところが、その祈祷が問題で、奥女中どもが随喜して参詣するのは、その法験のあらたかなせいばかりではないらしい。一度、寺内の奥に入ったら、三刻も四刻も出て来ないのは仏心の厚いためだけだろうか。
 落合久蔵の説明によると、寺から出てくる女中どもがみんな顔を上気させているという。
「樅山さまは、日啓上人さまのご祈祷をお受けでしょうなア?」
 登美は熱心に訊く。
「左様に聞いている」
 久蔵はうなずいて、
「年はとっても、日啓殿はなかなかのお上手じゃそうな。樅山殿が四刻も、薄暗い祈祷所に坐っておられるのも無理からぬというものじゃ」
 と含み笑いをした。
「して、萩川さまは?」
 樅山も萩川も、お美代の方のお気に入りである。
「これは、日誓という住職でな。拙者も一度、ふと垣間《かいま》見たが、なかなかの美男ぶり、まず、三座の役者衆の中にもあれほどの者はおるまいて」
「まあ、そのように……」
「美男といえば、感応寺も負けてはいぬ。揃いも揃って比丘尼《びくに》のような坊主ばかりじゃ。中にも、感応寺の日祥という祈祷僧は、若さといい、水の滴るような面《おも》ざしといい、とんと岩井半四郎か瀬川菊之丞といったところ。若い奥女中どもが、日祥の顔を一目拝んだり、あわよくばその祈祷をうけんものと逆上《のぼ》せているのは笑止な話だが。……どうやら、このごろは佐島殿も日祥に傾いているそうな」
「はて、それほどまでに佐島さまがご信心なれば、さだめしご信仰の篤い御坊でしょうな?」
「うむ、霊験あらたかであろうな。佐島殿はじめ、若い女中衆も、この世ながらの生き仏じゃと、日祥どのを大そうな持てはやしかたじゃ」
 久蔵は含み笑いをやめなかった。
「して、そのほかに、感応寺で、女中衆の信仰を集めている坊さまは、どなたですかえ?」
 登美は、次を問うた。
「うむ、日遠、日念、日周あたりであろうかな。いずれも、若くて、男前の寺僧じゃ」
「日遠、日念、日周……」
 登美は暗記するように復唱した。
「それから、ご祈祷所まで入れる女中衆の名は?」
「樅山どの、広川どの、重山どのあたりであろうかな。これが、それぞれ、ごひいきがあるから面白い」
「ごひいき?」
「うむ。とんと役者のごひいきと変らぬわ。つまり、樅山殿が日啓のほかに日遠、佐島殿が日祥、広川殿が日念、重山殿が日周といった工合じゃ」
「佐島さまが日祥、広川さまが日念、重山さまが日周……じゃな?」
 登美は記憶に刻むように念を押し、
「寺に入られてからは、それぞれの坊さまから、祈祷を受けられるのでしょうかな?」
「そりゃ知らぬ。拙者はいつもお供で、その間は寺内で待っているだけじゃ。奥の院の出来ごとは分らぬが……」
 と登美の手を強く握り、
「そなたも随分と気が揉めることじゃの?」
 と肩をひき寄せようとした。
「あれ、いけませぬ」
 登美は手で押しのけて離れた。
「はて、いけぬとは?」
 久蔵は不満そうだった。
「まだ口約束だけで、夫婦になったのではありませぬ。そのようなことは、わたしがお城を下り、晴れて夫婦の盃を交わしてからです。それに、殿御というものは、とかく浮気なもの、うっかり油断は出来ませぬ」
 蒼白い月光に濡れた登美の顔は、久蔵にはひどく濃艶にみえた。
「まだ、そのようなことを申している。拙者の気持が分らぬか?」
「半分、分って、半分、分りませぬ」
 登美は月の下で微笑した。
「落合どの。そなたが、真実、お心を見せたいなら、わたしの知りたいこと、たんとたんと、教えて下されませ。お寺に納めるときの祈祷の長持の中には、何が入っていますかえ?」
 久蔵の顔色が変った。
 祈祷のためには、当人の「身代り」の意味で、肌につけたものが寺に持ち込まれる。主に、衣類だが、西丸大奥からも、感応寺や法妙寺などに、それが長持に詰められて送られるのである。
 長持は、七ツ口から出される。この七ツ口の役目が添番で、奥から外部に運び出される品物の点検をするのだが、添番は身分が低く、大奥から出されるものは、形式的にしか改めない。これは慣習であった。
 ところが、江島生島《えじまいくしま》の事件で、歌舞伎役者生島新五郎が長持に忍んで大奥に入り、江島と密会した一件が露見し、それ以後は長持類の検査が厳重となった。
 長持類の検査が、添番の手で厳しくなったから、生島のような不埒者《ふらちもの》が、底にひそんでいる気遣いはない筈なのだが。──
 登美に、御祈祷の長持のことを改めて訊かれて、添番落合久蔵の顔色が変ったのは、どのような訳か。
「長持の中はお年寄など、主だった女中衆の申された通りの品じゃ」
 久蔵は、やや、口ごもって答えた。
「そなたの番のときは、七ツ口で、それを改めなさるかえ?」
 登美は問うた。
「それは、もう。拙者に限らず、添番衆は、みな役目故、云わでものことじゃ」
「長持の蓋を開けての検《しら》べかえ?」
「開けるときもあり、外から見て分り切った品なれば、開けるまでもあるまい」
 久蔵の答弁はどことなく曖昧であった。
「分り切った品?」
 登美は考えるようにして、
「それは、どうして分ります?」
「まず、目方を量《はか》る」
 と久蔵は軽く答えた。
「衣類なれば、どのくらいの目方か、およその見当がつく。つまり、蓋を開いてみるまでもないことじゃ」
 登美は、うなずいた。
 長持の重量を検べるなら、なるほど、内容をとり出して見るまでもないことだった。重いものが潜んでいれば、忽ち露見の筈である。
 しかし、久蔵の答え方は、どことなく落ちつかないものがある。今までのように、言葉がなめらかでないのである。登美は、窺うように久蔵の顔を月の光にすかして見ていたが、
「のう、落合どの。そなたは誰かを恐れてはいぬかえ?」
「え、何をじゃな? べつに恐れはせぬが」
 久蔵は、すこしうろたえてどもった。
「いやいや。そなたは、大奥の主だった女中衆が怕《こわ》いのであろう。きっとそうじゃ。そのために、わたしの問いに真実を隠している。そなたは、それほど水臭いお方かえ?」
 
 与力下村孫九郎は、八丁堀の役宅で臥《ふ》せっていたが、ようやく床を起きて歩けるようになった。まだ、肩や腰には膏薬《こうやく》を貼っている。
 役所には然るべき病名を云い立てて引籠っていたし、近所にも、女房にそう云い触らさせておいたが、実際のことは体裁が悪くて云えた道理ではない。船宿の二階から不覚をとって川へ叩き込まれたが、下にいた舫《もや》い舟のどこかに身体がふれたとみえ、腰と肩とを強打した。
 水の中でもがいているところを、幸い、船宿の船頭が寄って来て助け上げてくれたが、その体裁の悪いことといったらない。日ごろ役人風を吹かして威張っているだけに男を下げたものである。その上、水に濡れたせいか、二、三日してから発熱した。その熱がしばらくつづいて除《と》れない。
 孫九郎は、島田新之助に憎悪を燃やし、床の中で仕返しを夢みていた。もとから上司にほめられるほど、探索には得意だし、検挙の実績も上げてきている男だから、相手に復讐できる自信は充分にあった。
(早く床上げして、歩けるようにならねば)
 と彼は、前からあせっていた。新之助を引捕えたい心からでもあったが、実は、この前から、度々、向島の中野石翁から迎えが来ているのである。
「ご用人が、ぜひ、話があるから来てくれるよう、とのことです」
 使いは、その口上を二、三度もってきた。
 その度に、
「ただいま、不快で臥せっておりますが、全快次第すぐに伺います」
 と帰している。これが気にかかって仕方がないのだ。
 中野家の用人が呼ぶというのは、勿論、石翁が用事があるからである。この大物を逃してはならない。
 石翁から眼をかけられている、と思うと、孫九郎は天にも上るような心持になっている。石翁からの声がかりといえば、絶対である。奉行さえも、石翁には縮み上っているのだ。孫九郎は、己の出世を眼の前に虹のように描いていた。
 この前、年増女の変死体の処置で働いてやった。尤も、これは半分は上から云いつけられたのだが、それでも、彼の働きは認められて、石翁から、直々に讃められた。
 あの女の死因は、どうも臭い。投身したが、憚ることがあって、死体は人の眼にふれぬところで処置してくれ、と注文つけられ、苦心して考えた末、やっと牢死人の体《てい》にして、非人に渡したのである。こうすれば、どこの寺にも埋葬する必要はなく、小塚っ原の穴の中で、他の牢死者と一緒に白骨になってしまうのである。
 われながら、思いつきであった。
 中野の邸から、度々、使いがあるのは、その女の死骸処置の手ぎわが認められて、また、何か頼みたい、というのであろう、と与力下村孫九郎は思った。
 おれを石翁は買ったらしいな、と孫九郎は、うれしそうに、ほくそ笑《え》んだ。出世の大|蔓《づる》は確実に掴んだと信じた。
 ただ、運の悪いときに寝込んでしまったもので、ひとりで焦慮していたのだ。
 だから、今日、ようやく歩けるようになると、何が何でも向島に伺わねばという気になり、駕籠に乗って急いだのだ。
 中野の石屋敷につくと、下村孫九郎は、商人のように通用門から入り、女中を通じて、用人に自分の来たことを知らせてもらった。
「こちらへ」
 と女中が云うので、孫九郎は恐縮しながら上りこむと、供待ち部屋のような粗末な座敷に通された。孫九郎は、これで、まず、意外さを感じた。
 用人が出て来たが、ひどくむつかしい顔をしている。孫九郎は、これは自分の出向き方が遅かったからだと解釈して、畳に両手をついた。
「お使いを度々頂戴しましたが、少々、不快のため引籠っておりましたので遅延いたし、申し訳ございませぬ」
「もう癒《よ》くなられたか?」
 じろりと見た。石翁の用人だけに威圧がある。石翁を背景に大名筋から金品を捲き上げるだけの器量があった位である。一与力に過ぎぬ下村孫九郎が縮んでいる筈であった。
「殿さまより直々のお話がある由じゃ。庭に廻るがよい」
 小者か、仲間《ちゆうげん》の扱いであったが、もとより孫九郎に不服はなかった。石翁から言葉をかけられるだけでも冥加《みようが》千万であった。
 孫九郎が、丁重に礼を述べて起とうとしたとき、用人は、何を思ったか、
「これ」
 と呼び止め、低い声で、
「ご機嫌が斜めである。気をつけるように」
 と注意した。
 孫九郎は肝を冷やした。今まで、喜びに胸がふくれて来ただけに、叩きつけられたように一ぺんに潰れた。彼は、もう、胸が不安に高鳴りはじめた。
 女中に案内されて、庭づたいに別棟に行く。広大で見事な庭だが、孫九郎の危惧の眼には、霞んでしか見えぬ。
 このとき、歩いてくる一人の女中と孫九郎はすれ違った。
(はて)
 商売だけに、景色は眼に止らぬが、人の顔は本能的に映るのである。
(どこかで見かけたような顔だが)
 と思ったが、さすがにその考えは追えずに、目下の不安に心が戻った。
 石翁は庭で菊の手入れをしていた。植木屋がそれに手を添え、妾がうしろの方で立って見ていた。
 女中が下村孫九郎の来たことを、石翁に告げたが、石翁は、ふり返りもしなかった。孫九郎は、その土の上にうずくまって、石翁の言葉のかかるのを待っていた。
 石翁は、菊の方に余念がないのか、いつまでも、ものを云ってくれない。孫九郎は、犬のようにじっとしてそこで待っていた。
「よかろう」
 と石翁が云ったのは、孫九郎にではなく、植木屋に向ってであった。
「もうよい」
 植木屋が腰を折り、一礼して去った。
 石翁は、初めて、孫九郎をふり返った。孫九郎は顔を伏せて、土の上に手をつかえていた。
「面《おもて》を上げよ」
 石翁の冷たい声がした。孫九郎が、恐る恐る顔を上げると、石翁の大きな、光っている眼に当った。孫九郎は、また平伏した。
「下村とか申したな?」
 石翁が見下ろして云った。
「はあ」
 孫九郎は首を縮めた。
「この間の頼みごと、申し分なく処置した、と申したな?」
 石翁は女の死骸のことを云っていると分った。それなら心配はないと孫九郎は、ほっとした。
「はい。恐れながら、お耳をけがしまするで申し上げませぬが、手落ちなく片づけましてございます」
「この間もそう聞いた。これが二度目だが、しかと相違ないか?」
 石翁は、静かだが、念を押すように訊いた。
「はあ、左様で……」
 その返事が終らぬうちに、石翁の怒声が孫九郎の頭上に落ちた。
「黙れ!」
「は」
 孫九郎は、肝を消して、反射的に低頭した。
「あの死骸は、さる男に発見《みつけ》られているわ」
 石翁は怒鳴った。
 孫九郎は仰天した。そんなことがある訳がない。非人が、寺から掘り出して、小塚っ原の穴に確かに捨てたのだ。余人が寄りつけるところではない。
「小賢《こざか》しきことを申して、口ほどにもない奴。馬鹿者、退れ」
 石翁は怒声を叩きつけた。
 孫九郎は、土に額をこすりつけた。顔が蒼白となって、身体が、ぶるぶると慄えた。
 そんな筈はない、そんな筈はない、と心の中で抗議する一方、眼の前が昏《くら》くなった。
 孫九郎は、足が萎《な》えた。
 石翁が土によごれた手を洗って座敷に上ると、若い妾が、
「お疲れでございましょう。お肩を擦《さす》りましょうか」
 と訊いた。
 この妾は、旗本の娘だったのを、石翁が所望したのである。
「うむ」
 むっつりと返事した。不機嫌な顔つきである。妾は石翁の背中に廻った。
(能なし奴《め》)
 石翁は、いま叱った下村孫九郎の卑屈な顔を想い出して心で罵った。
(小才の利《き》いた奴と思ったが、おれに取り入って出世の蔓をつかもうとする、もの欲しげな面《つら》つきだけが見えすいている)
 石翁は、むかむかしていた。上は大名から大身の旗本まで、猟官運動に彼のところに来るが、石翁は遠慮|会釈《えしやく》もなく、彼らから賄賂を取り上げている。そのくせ、決して彼らに好感をもったことはない。彼らが世辞たらたら述べて帰ったあとは、石翁はいつも唾を吐いているのだ。出世欲の皮が突張っている人間を見るほど、いやなことはない。
 妾の指が、石翁の肩を撫でているが、隠居の顔は、その愛好する石のように固い。
 不機嫌と知って、妾が気を遣い、
「殿様。茶など差し上げましょうか?」
 と再度云ったが、石翁は太い首を振った。
「欲しゅうない」
 眼を、じっと庭に向けている。樹も動かず、水の音もしない。この静寂が、今日は鬱陶《うつとう》しいくらいだ。
「何か……」
 と思わず口から出たのはこの鬱陶しさが云わせたのだ。
「唄でも聴かせてくれ」
 妾は笑った。主人の不機嫌さが、やっと直りかけようとしている。彼女は媚びる顔になった。
「そんなら、久しぶりに三味線を弾きますから、殿様のお唄を……」
「わしは唄いとうない。聴いた方がよい」
 石翁は眼を閉じた。まだしんから気分が直っていないのだ。
「はい」
 妾は、また懼《おそ》れるように起ち上りかけたが、ふと、気づいたように、
「あ、それなら、よいことがございます」
 と云って、石翁に微笑を向けた。
「先日、雇い入れました新しい女中はなかなかの芸達者で、三味も弾けば、唄も上手でございます。それは佳い声をして、節廻しも惚々《ほれぼれ》するくらいでございました。お慰みに、ここに呼びましょうか?」
「それは何処から来た女だ?」
 石翁が眼を開いた。
「植甚からの世話でございますが」
 妾は、女中のことを訊かれて、石翁に答えた。植甚というのは出入りの植木屋である。
「丁度、ひとり、手不足でございましたので雇い入れました。年齢《とし》は十九と申しておりましたが、容貌《きりよう》もよし、しっかり者のようで、芸ごとも達者でございます。つれづれのときはよい慰めと、わたしは喜んでおります」
「どこの人間か?」
「葛西《かさい》の生れと云っておりますが」
「百姓の娘か」
 石翁は軽く応えた。ご時世で、当節の若い女は誰でも彼でも遊芸ごとを稽古する。
 吉原や深川とも違って、江戸の各所に町芸者が殖えている。女浄瑠璃も流行《はや》っている。彼女たちの華奢《きやしや》な生活を、娘たちは憧れ、その風俗を真似しているのだ。遊芸ごとを稽古する町家の若い女は珍しくない。
「身元は確かであろうな?」
 石翁は念を押すように云った。
「はい。植甚の知り合いで、鳶《とび》の者の縁者だそうでございますから」
 石翁は考えていたが、
「ここへ呼んでみよ」
 と云いつけた。
 これを、妾は単純に、主人が興味を起したととったらしい。いそいそと起って、ほかの女中に命じていた。
「まだ、お揉みいたしましょうか……」
「うむ」
 妾は、石翁のうしろに廻る。気持がいいのか、何を考えているのか、石翁は太い猪首を前に垂れて眠ったように黙っている。
 畳の上を摺《す》る音がしたかと思うと、ひとりの女中が敷居ぎわに両手をついて重い髪を下げていた。
「おこん」
 妾が呼んだ。
「はい」
 新しい女中は口の中で返事をしたまま、頭を上げぬ。
 石翁が首をあげて、その姿をじっと見ていた。
「一昨日《おととい》、奉公に参りました。お見知りおき下さいませ」
 と云ったのは妾で、背中を曲げて平伏している女中に、
「おこん。殿様にそなたの唄をおきかせ申せ。つれづれなままのご所望じゃ」
 と云いつけた。
「はい」
 女中が、顔を上げ得ないで、もじもじしていると、
「何でもよい。どうせ、お慰みじゃ、恐れ入らずと、早う仕るがよい」
 と妾は促した。
 おこんと呼ばれた女中が恐る恐る顔を挙げた。
「おこんと申すか?」
 石翁は、新参の女中の顔を眺めた。色が白く、上品な顔立ちである。つつましやかだが、石翁に向っても悪びれた様子はなかった。
「はい。ふつつか者でございます」
 おこんは丁寧に手をつかえた。
「芸ごとはどこで覚えたか?」
 石翁は、妾に肩を揉ませながら訊いた。
「吉原の近くで、姉が富本節の師匠をしておりましたので、自然に口真似をいたしました」
 おこんは、はきはきと答えた。
「うむ、富本が出来るのか?」
「左様にお訊ね遊ばしては赤面いたします。ほんの真似ごとでございます」
「いや、なにごとも座興じゃ。一つ、やってみい」
 と云ったが、気を変えたように、
「いや、富本をいま聴くのは重いな。小唄でもやれ」
 おこんは羞《はずか》しそうにうつむいた。
「おこん、折角のご所望じゃ。遠慮してはかえって無礼になる。早う、唄うがよい」
 妾も傍《はた》から口を添えた。
「はい。それでは、不出来で恐れ入りますが……」
 おこんは、また丁重にお辞儀をすると、容《かたち》を直した。その姿勢に隙がなかった。
 「いざさらば、雪見にころぶところまで
  つれてゆこうの向島
  梅若かけて屋根船に
  浮いたせかいじゃないかいな」
 おこんは、心もち頭を下げて、二の唄をつづけた。
 「川風に、ついさそわれて涼み船
  もんくもどうかくぜつして
  粋なすだれの風の音《ね》に
  洩れてきこゆるしのび駒
  すいな世界に照る月の
  中を流るる墨田川」
 おこんは唄い終ると、顔を畳に伏せた。
 声もいいし、節廻しも上手である。素人ばなれがしていた。それに、この屋敷の位置を考えて、咄嗟《とつさ》に、地形に由縁《ゆかり》のある文句を択び出したところにも機転の利いたところがあった。
「うまいものじゃ」
 石翁の顔色が和らぎ、機嫌が直ったように見えた。
「ほんに、おこんの声は惚々いたします」
 妾が後から口を添えた。
「もうよい。あっちへ行け」
 石翁は、おこんを去らせたが、その後姿を見送った眼を庭に投げた。その眼は、また何かを考えていた。
 庭には、さっき植木屋を呼んで手入れした早咲きの菊が、花弁を乱して咲いていた。
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