長局の各部屋には、商人が入って、いろいろなものを女中たちに売る。反物から日用品まで、お出入りの商売人が風呂敷に包んで持ち込むのだが、なかでも女中どもに人気があるのは小間物だ。簪《かんざし》、笄《こうがい》の頭の道具から、懐中鏡、薬入れ、鋏、楊枝の類、守袋、煙草入れ、夏ならば扇子、日傘、汗拭いなど、冬ならば足袋、懐炉《かいろ》まである。
これを女中部屋でひろげて見せるから、御用のない暇な女中は、いろいろな品定めに心を奪われて起とうとしない。
いつも、五、六人の椎茸髱《しいたけたぼ》が集まって、品ものを手にとってはしゃべり合う。
出入りの商人は、無論、女であるが、愛嬌がよくて、口が上手でなければ出来ない商売だ。
六兵衛の妹、お文は、女中どもに人気があった。
お文がくると、
「お文さんが来た。何ぞ珍しいものはないかえ?」と女中たちが集まってくる。
長局は四棟に分れて、南の一の側が、年寄、上臈、中臈、中年寄、御客|会釈《あしらい》などの重立った女中が住み、御錠口番、表使い、お三の間頭、呉服の間頭、御|祐筆《ゆうひつ》頭などの役々の順で、二の側、三の側、四の側と住む。間数は二十ばかり、間口三間、奥行六間、入り側と称して小部屋があり、ここで化粧したり、鉄漿《かね》をつけたりする。
次が八畳で、南北に地白に銀で花唐草を現した襖があり、天井や小壁も地白に銀泥で唐草模様があり、なかなか華美なものであった。八畳の次が六畳の間で、女中どもの楽居するところ、食事をしたり、朋輩と雑談したりする。一の側は一人に一部屋だが、二の側以下は五、六人の女中の相部屋である。
外からもの売りにくる商人は、この楽居の部屋に入ってくるのである。商人は、勿論、御広敷の奥役人から御門通行の御切手が出されているものに限られていた。
お文は、座敷の片隅に小間物をひろげ、愛嬌をこめて女中たちの相手になっている。女はとりわけ装飾具の選択がうるさい。
たとえば、平打ち簪は長さ七寸ばかりで、耳かきの長さ一寸、かたちは楕円と決められていたが、両面に彫った松竹梅や菖蒲《あやめ》の模様が、いいの、悪いのとしばらく詮議に時を移す。笄も同じこと、長方形で長さ八、九寸、厚さ二分、幅八分ときめられていたが、右端に穴を穿ち鼈甲《べつこう》で花飾りをはめこんだもの、この飾りの藤や牡丹などの恰好が気に入るの、入らないのと、ためつすがめつ眺め、朋輩同士で詮議する。
気長にしていないと勤まらない商売だ。
しかし、奥女中共が、お文のような商人を歓迎しているのは、別な目的があった。
長局の奥女中たちが、出入りの商人を歓迎するのは、買わないで品定めをする眼の保養だけではない。閉じこもった生活の彼女たちは、商人たちの世間|咄《ばなし》を聴くのが何よりの愉しみだ。いわば、彼女たちにとって商人たちは、密閉された世界に、わずかに吹き込んでくる外の風であり、酸素の多い新鮮な空気であった。
とりわけ、お文は世間馴れているので話が面白い。
「お文さん。何ぞ、面白い話はないかえ? 聞かして下され」
と女中たちはせがむ。
「そうですねえ。そうそう皆さまに喜んで頂ける面白い話はありませんよ」
お文は馴れているので一応は焦《じ》らすが、必ず一つや二つは話の用意をして来ている。別に大そうな話題でなくともいい。世間の瑣事《さじ》でも、大奥の女中には別世界の出来事を聴くように興味がある。
尤も、お文は、そうは不断にネタを仕込んでいないから、当惑に顔をしかめることもある。そんなときは、そっと黄表紙や絵草紙の類を置いて帰ったりした。
黄表紙は、表紙の色が黄色いから呼びなされたもので、内容は絵を主にして、その余白に殆ど隙間のないまでに細かい仮名書きで、当時の世態人情流行などを書き綴ったものだ。世俗人情の表裏を写し、吉原の遊里や芝居役者のことを題材としたものも少くない。従って、描写も、ときに卑猥《ひわい》にわたることがある。
大奥でも、このような本は女中たちに歓迎されたが、その卑猥なために、あまり大ぴらには読めなかった。それで、宿下りの女中が、お城に帰るときに買ってくるとか、出入りの商人が風呂敷の底に忍ばせて持ち込んでくる場合が多い。
いまも、お文がその黄表紙を何冊か、部屋の女中たちに見せていると、
「あら、お文さん」
と云って入ってきた女中がいた。細面の、くっきりした顔立ちの女である。
「これは、お登美さま」
お文は、見上げて鉄漿《かね》のついた真黒い歯を出して愛嬌笑いをした。
登美は袂の下にかくした黄表紙をそっと出して、
「これは、面白うございました。返しますから、何ぞほかに趣向の異った本は無いかえ?」
と訊いた。
「ああ、これでございますか?」
お文は受取って、
「鐘入《かねいり》七人化粧ですね。これはみなさまに評判がよろしゅうございます。はいはい。たしかに返して頂きました」
風呂敷の下にかくし、
「お登美さま。これなど、如何でしょう?」
と次の本を見せた。
登美は、お文からうけ取った「|敵 討義女 英《かたきうちぎじよのはなぶさ》」という黄表紙の表題を読み、
「なるほど、これは面白そうな」
と、中をばらばらめくって絵を見ていた。
「登美さまは、絵草紙がお好きのようじゃな」
と居合せた女中どもが眼を笑わせ、
「お文さん、何ぞ面白いものを、わたしらにも貸して下され」
と云った。
「はい、はい。これなぞ、いかがでございますか?」
お文は三、四冊をならべて出した。女中どもは、その黄表紙を眺めていたが、
「これはあまり面白うなさそうじゃ。いま、登美さまが返した、その鐘入七人化粧というのを見せて下され」
と一人の女中が云った。
「これでございますか」
お文は、風呂敷の底にしまった本を一層かくすようにして、すこしあわてたように云った。
「これはあいにくと、なりませぬ。ほかのお部屋から、たってのご注文がありましてな。実は、お登美さまのお手から空《あ》くのを待っておりましたような次第で」
と、彼女は、謝るようにお辞儀をした。
「それはきついことじゃ。そんなら、きっと次には面白い絵草紙を持って来て下され」
その女中は、不満そうに云った。
「はいはい。申すまでもなく、これよりもっと面白いものを見つけて上ります。ご勘弁下さいまし」
お文の顔に、ほっとした安堵の色があったが、その眼は登美の眼と意味ありげに合った。
「そんなら、今日はこれでご免蒙ります。みなさま、有難うございました」
お文は、その辺にひろげた商品を片づけはじめた。
「お文さん、今日は、いつになく早仕舞のようじゃな?」
女中どもが、惜しそうに云うと、
「はい、今日はちと他《ほか》を廻るところがございましてね、この次にはゆっくりさせて頂きます」
お文は何度も頭を下げた。
「お文さん、それでは帰りを気をつけて」
登美が云った。
「これは、ごていねいにありがとうございます」
お文は礼を云ったが、このときも両人の視線が瞬間に絡み合ったのをほかの女中たちは気がつかなかった。
「ごめん下さいまし」
お文は、みなに挨拶して出て行った。
彼女は、小間物の風呂敷包みをさげているが、それをほかの部屋に見せに廻るではなく、そのまま七ツ口の方へ足を向けた。
七ツ口とは、長局と外部の出入口で、ここに添番の詰所がある。
七ツ口には、添番と伊賀者の詰所が向い合っている。
お文は小腰をかがめて、
「ありがとうございました」
と詰め人の添番に挨拶した。これに対して、添番は、
「通れ」
と云う。入るにも出るにも、「通れ」であった。
尤も、長局の各部屋の用達《ようたし》商人は、いちいち七ツ口を通って部屋に出入りするのではない。七ツ口の土間には勾欄《てすり》がついていて、この下に用達商人が詰めている。女中はこの者に、買いものを云いつけると、朝注文を出したのが、晩には整う仕組みになっている。何屋の、どういう品物と、先の好みがある分は、鳥目《ちようもく》へ札をつけて出せばよい。どんな店屋のでも、整えてきてくれた。ただ、各部屋に出入りの商人は、女だけに限られ、それも小間物とか化粧道具の商いが主だった。
お文が、七ツ口を無事に通って、外へ出たとき、そのあとを追うように添番詰所から出てきた者がある。これが落合久蔵であった。
「おう、精が出るな」
と久蔵は、お文に声をかけた。
お文は、詰所では見る顔だが、落合久蔵という名前は知らない。
ふり返って、向き直り、
「はい、ありがとうございます」
とお辞儀をした。
久蔵は、お文の提げている風呂敷包みをじろじろ見て、
「いつも、重いものを提げて大変だな」
と愛想を云った。
「いえ、商いでございますから」
お文は笑ったが、この添番が何のために声をかけてきたか分らない。
「どうだ、商いは繁昌するかえ?」
「はい、お蔭さまで」
「お前は、たしか小間物屋だったな?」
「左様でございます」
「うむ。お登美どのの部屋にも行っているのか?」
お文の瞳が瞬間動いたが、
「はいはい、お世話になっております」
と愛嬌笑いをした。
「そうか」
落合久蔵は、それなりに黙って、風呂敷包みを、またも、じろじろと見ていた。お文は薄気味が悪かった。
なんのために、この添番が、お登美の買いもののことなぞ訊くのか。いやに、風呂敷包みに視線を当てるところが、心持が悪い。そういえば、この顔つきが狡猾そうで、いやな眼つきである。
「邪魔したな」
と、久蔵は明るい秋の陽に眼を細めて云った。
「もう行ってくれ」
寺社奉行、脇坂淡路守は、公辺の仕事が済んで、遅い夕食をとっていたが、島田又左衛門が訪ねてきたというので、急いで済ませ、待たせてある別室に行った。
「やあ、いつも」
と淡路は、坐っている又左衛門に笑った眼を向けた。
「お忙しいところを、お邪魔します」
島田又左衛門は挨拶した。お茶を運んできた召使いが部屋を出て行く間、両人の間には律義な話が交されていたが、
「この間の話、だめになった」
と、淡路守の方から低い声で云い出した。
「ああ、奥女中の水死体始末でございますな」
又左衛門はうなずいて、
「向うも巧妙です」
と云った。
「折角の証拠を奪られたな」
「迂闊《うかつ》でした」
「いやいや。お手前の甥御か。そこまで調べれば大したものだ。先方のやり方が判っただけでも、随分と参考になった」
「まことに、すみずみまで心を配っておりますな。町奉行所までも、石翁の手当てがいっているとは……」
「しかし、云っても追いつかぬことだが、菊川とか申す奥女中の死体さえ手に入れば否応を云わさぬところだった。懐妊がはっきりとしているからの」
淡路守は口惜しそうな顔をした。
「左様」
又左衛門も残念そうな眼つきをした。
「その懐妊させた相手が、加賀屋敷の者とは、はっきりしているのか?」
「以前に不用意に呼ばれた良庵と申す医者が、はっきりと梅鉢紋の入った莨《たばこ》入れを、枕元に見たと云っております。つまり、男が女に与えたものに相違ありません」
「西丸奥女中と本郷なら、筋書きは合い過ぎるくらいだ。何とかして、本郷の方から相手を探り出したいものだが……」
淡路守は頬を撫でて、
「本郷と通じたり、坊主と会ったり、西丸も忙しいことじゃ」
と呟いた。
「それにつきまして」
又左衛門は一膝のり出した。
「本日、西丸に出しております縫より、ひそかに便りが参りました」
「ほう」
淡路守が眼をあげると、又左衛門は懐《ふところ》から帛紗《ふくさ》をとり出して、なかの手紙を差し出した。
淡路守は受け取って、
「よく、これを?」
と又左衛門に眼を向けながら指で披きかけた。
「されば、絵草紙の間に挾んだままを、小間物屋が受け取って参りますので」
淡路守は灯りをよせて、縫の密書をよんだ。又左衛門は、彼のその横顔をじっと眺めている。もと、美青年として聞えた淡路も、このごろは皺がふえて、老《ふ》けが目立った。
こんな話がある。
淡路守|安董《やすただ》が、家斉に知られたのは、その美貌のためであった。将軍家斉は若いときから変った色好みで、とかく気に入った小姓には、前髪を分けて垂らし、そのぶんを頬にあてがい、奴髭《やつこひげ》のようにさせて喜んだ。だから、家斉の寵童は争って、奴髭の顔を作った。
脇坂家は徳川の譜代ではなく、外様《とざま》だから、代々、要職につくことがなかった。安董は、少年のころから、ひそかに野心があり、安閑として無為に暮すのが残念で、なんとかして世に出ようと思っていた。そこで、脇坂家の家格を自ら貶《おと》して譜代家臣の列に入り、他にならって奴髭をつけた。それだけなら、ほかと変らないが、彼は人より際立って美しい役者のような衣裳を着て家斉の側に近侍した。家斉の眼がのがすはずがない。将軍は安董に眼をかけた。
家斉は、安董の内志をさぐり、功名の念あるを知って、ついに格を破って彼を寺社奉行とした。齢、二十六であった。彼は方便として面寵によって用いらるる手段をとったが、その寺社奉行としての行政手腕は、延命院一件で大いに買われた。
その、整った顔も、いまは初老の皺がたたみ、鬢髪《びんぱつ》には霜を置いている。苦労がまざまざと見えるようであった。
淡路守は、よみ終り、手文庫の底にそれをしまった。
「樅山が日遠、広川が日念、重山が日周か。佐島が、日祥とは、大ものだけに、どちらも食わせ者を択んだな」
淡路守は、縫の手紙の文句を憶えるように呟いた。
「左様。あきれ果てた紊乱《びんらん》です。まだまだ、このほかにも芋蔓をはわせたようにおりましょうが、まず、この辺が、お美代の方の側近として、申しぶんございますまい」
又左衛門は微笑しながら云った。
「淡路守様。どうやら、お家の貂《てん》の皮が動く目当てが出来たように思いますが」
「うむ」
淡路守は、眼を閉じて黙っていたが、
「それは、まだむずかしいな」
と答えた。
「ははあ」
又左衛門は淡路守の顔を見つめた。
「よく調べたが、証拠が無い」
「………」
「証拠が無うては、何とも手がつけられぬ。それは、らちもない世間の噂話、と逃げられたらそれまでじゃ。悪うすると開き直られて、こっちが追い落される。……又左衛門殿、わしの欲しいのは証拠じゃ」
疑惑の奥女中の名、坊主の名を知っていただけでは何になろう、と淡路守は云うのだ。それには確証が必要である。
「証拠さえあれば……」
と、淡路守は、若いとき、きれいだと云われたその瞳《め》を据えた。
「有無《うむ》を云わせず、遠慮なしにやるがの」
この男なら言葉通りにやるに違いない、と又左衛門は淡路守の顔を見まもっていた。過ぎた日だが、延命院一件では秋霜烈日の検挙を行った。その剛直ぶりがまだ眼に残っている。
淡路守は、その検挙をやりすぎて、大奥に排斥され一時退役となったくらいである。いま、遠慮なしに、という言葉の裏には、今度こそ、という彼の自負と意気込みとがよみとれる。西丸大奥の腐敗を粛清することは、お美代の方の勢力を没落させることであり、それにつながる石翁や水野美濃守一派の野望を粉砕することである。
「証拠が欲しい」
と彼は云うのだ。意気に燃えているだけに、何とか手がかりを求めようとする焦燥がある。
「証拠とは、どのような?」
又左衛門は、淡路守のあせっている表情を見ながら訊いた。
「されば……たとえば、艶書じゃ」
淡路守は、茶碗をとり、両手に囲って云った。
「艶書?」
「奥女中と坊主との間には、必ず艶書の取り交しがあろう。それさえあれば、不義密通の動かぬ証拠じゃ。百の噂だけでは、手が出ぬが、それが一通でも手に入るとのう」
「分りました」
又左衛門は大きくうなずいて云った。
「かならず、それを探らせて持ち出させましょう」
「又左殿」
淡路守は屹《きつ》とした眼つきをした。
「それは容易ではあるまい。大奥の年寄や中臈の部屋は、殊のほか外の部屋からの出入りが厳重と聞いている。迂濶な指図をなされると、縫どのに難儀がかかろう」
「承知の上です」
と又左衛門は答えた。
「縫は、もとよりこの役目のためには、無事でお城を退るとは思っておりませぬ。当人、とうに覚悟をしております」
「縫どのは、おいくつになられる?」
淡路守は眉をひそめて訊いた。
「当年、十九歳に相成ります」
「さきざき、輿入《こしい》れの喜びもあろうに……」
「それも、ご奉公のためには、諦めさせております」
「さてさて、きつい叔父御をもたれたものじゃな」
淡路守は又左衛門の顔を見て、息をついた。
お文が、小間物の風呂敷包みをさげて、西丸の大奥に、縫のお登美を訪ねたのは、それから数日後だった。
例によって女中どもが部屋に集まっている。いろいろとお互いに詮議しながら品定めをしていたが、
「お文さん」
と登美が、朋輩のうしろから遠慮そうに声をかけた。
「はい」
お文は、客に品ものを見せながら、首をあげた。
「この間の本、面白うござんした」
と袂に囲った黄表紙を出して、
「これ、お返しします」
「はいはい、ありがとうございました」
と、お文は愛嬌笑いをしながら、
「お登美さまは、ご本がお好きのようだから、代りを持って参じました」
と風呂敷の函の下から二、三冊の絵草紙を出した。
「それは、それは」
お登美は、わざとうれしそうな声を出したが、お文は、その中の一冊をぬき出し、
「これは面白うございます。世間の評判も大そうよろしいようで」
とさし出した。この時、ふしぎな眼つきをした。
お登美は、うけとって、中はめくらずに、初めの一丁をめくり、
「人間に魂というものあり。いかなるものぞというに、男の魂は剣なるべし。又、姫小松の浄瑠璃《じようるり》、俊寛がいいぶんをきけば、女の魂は鏡にきわまりたり……」
と、口の中でよんでいたが、閉じて、
「ほんに、これは面白そうな。お文さん、それでは、これを借りますよ」
と、懐の中に入れて、上から袂を当てた。
「今日は、簪など如何でございますか? 変った品が入りました」
お文が商売をはじめたが、登美は、
「いえ、今日は御用が忙しそうだから、この次にゆっくり見せて貰います」
とそこを去りかけた。
「御用ならば、いたしかたがございませんな。有難うございます。また、お願いいたします」
お文は頭を下げた。
登美は、その部屋を出ると、人の出入りのない庭に下りて、植込みのかげにかくれた。長局は、どの部屋も、廊下も、女中どもがうろうろしている。人眼を憚るには、こんな場所しかなかった。
お登美は懐から黄表紙をとり出し、中を開けると、封書が押し込むように挾んであった。島田又左衛門の手蹟だった。
お登美は、あたりを見廻して、素早く封を切って、中をよみ下した。
「艶書……」
お登美の眼が宙に向って止った。
すぐ、うしろの方で、土を踏む草履の音がしたので登美は顔色を変えて、封書を懐に入れ、絵草紙を袖の陰にかくした。
「登美どの」
と、声をかけて近づいたのは添番の落合久蔵である。にやにや笑っていた。
ときがときなので、登美はぎょっとした。
「珍しいな。そなたがこんなところに立っているとは」
久蔵は、あたりを見廻し、低声《こごえ》で云いながら、そろそろと近づいてきた。
「はい。あんまり御用が忙しかった故か、心持が悪くなりましたので、ここで一息、憩《やす》ませてもらっております」
登美は咄嗟《とつさ》の言い訳を云った。
「それは難儀じゃ。御殿づとめは馴れても気苦労。随分と要心をなさるがよい」
久蔵は、そう云いながら登美の身体をじろじろと見て、
「登美どの。そこに持っておられるのは何じゃな?」
と薄ら笑いをしながら訊いた。
「いえ、何でもありませぬ」
登美は胸に当てた袖をずり上げるようにした。
「はて、顔色が変っているところを見ると、何ぞ、かくしているようじゃ。ほかの者とは違う。拙者だけにでもお見せなさい」
久蔵は手を伸ばそうとした。
「あれ、堪忍して下され」
「いいではないか」
久蔵が不意に肩を突いたので、登美の抑えていた手が思わずゆるみ、絵草紙が土の上にばさりと落ちた。
「ほう、黄表紙でござるか」
久蔵は、にっと笑い、かがんでそれに手をかけた。その隙に、登美は懐の密書を、さらに深いところに隠した。これに気づかれたら大変である。
久蔵は、黄表紙の土を払い、
「ふむ、心学早染草《しんがくはやぞめぐさ》か。なるほど」
と、なかをばらばらとめくった。密書を除《と》ったからよいものの、それでも登美には薄気味が悪い。
久蔵は、ふと顔をあげて、
「近ごろは、こういうものをお読みか?」
と、にたりとした。
「はい。つれづれのままに内証で見ております」
「かような場所でも、手放さずにおられるところをみると、きついご熱心じゃな」
登美は返事に困った顔をした。
「先日、お出入りの女小間物屋が、登美どのの部屋にはひいきになっていると申したが、さては、かような絵草紙の類《たぐい》も運んでいるのか?」
「いえ、それは、よそから貸して頂きました」
と登美は弁解したが、落合久蔵は、何でも知っているといった顔で、にやにやしている。
「なあ、登美どの」
落合久蔵は、そっと、登美の手をとった。
「あれ、何をなさいます、人眼にふれまする」
登美はふり放そうとした。
「なに、人眼に知れるくらいなら、そなたがここで妙なことをする気遣いはない」
「妙なこと?」
「はて、そんなに怕《こわ》い眼つきをすることはない。わしは、これでも女中衆の間で毎日暮しているようなものじゃ。女心は知っている」
「………」
「日ごろ、権高《けんだか》に澄ましておいでなさる高い身分の御女中が、内証でどのようなものを両国あたりから取りよせられて、こっそり楽しんでおられるか、知らぬでもないわ」
久蔵自身が妙な眼で笑った。
登美は赧い顔になった。
両国には四目屋《よつめや》という店があり、そこでは恥かしい薬や、けがらわしい器具を売っているとは、登美も、口さがない朋輩の笑い話から聴いていた。──「頼まれて来たと言わねば買いにくし」「にこにこと御宰《ごさい》は桐の箱を出し」の川柳がある。
……久蔵は、どうやら勘違いをしているらしい。人情を写した文字を連ねている絵草紙を読んでいるから気を廻しているのだ。登美は、絵草紙の中に挾んでの密書のやりとりを気づかれなかったことに安堵した。
久蔵は、登美の赧らんだ顔を見て、
「のう、登美どの、拙者の気持は、そなたには、もう悉皆《しつかい》分っている筈。お城勤めを永うしても、もの憂《う》い話。そろそろ、ふんぎりをつけてはどうじゃな?」
と上目使いに話しかけた。
「その話なら、この次にして下され。わたしは、もうお局に帰ります」
登美は遁げようとした。
「これ、待ちなさい」
久蔵は、その袂をつかんだ。
「近ごろは、とかく、この次、この次とお逃げなさるが、この次とはいつじゃ?」
久蔵の笑っていた眼が、急に怒った。
「それは、いずれ、わたしから……」
「いいや、その口上は当てにならぬ。この間もそのようなことを云われた。登美どの。そなたは、まさか心変りをしたのではあるまいな?」
登美は黙った。女が沈黙すると、男は不安となり、苛立つらしい。久蔵の眼が光った。
「はっきりと答えなさい」
袂をつかんだ久蔵の手に力が入ったとき、近くで、足音が聞えた。
「あれ、人が来ます。落合どの。いずれ……」
登美が袂を払った。小走りに逃げながら、登美は、落合久蔵が厄介な人物になってくるのを感じた。
登美が逃げ切らぬうちに落合久蔵はうしろから追って、その袖を捕えた。そこは、まだ庭の木立ちがつづいていた。
「これ、登美どの。そうあわてて逃げるには及ぶまい。誰も来はせぬ」
久蔵は荒い息を吐いていた。
「そなたの気持は、どうなのか、はっきり聞かせてくれ」
「わたしの気持は……」
登美は、仕方なしに答えた。
「変っておりませぬ」
「いやいや、そうは見受けられぬ。これは拙者の邪推かもしれぬが、前ほどには拙者を想ってくれぬようじゃ。近ごろ、何ぞといえば、拙者の前を逃げ出そうとしている」
「いえ、人が来るからです。もし誰ぞに見つけられたら一大事でございます」
「はて、それは拙者が何よりもよう知っている。人眼がないのを確めているから、そなたに話しかけているのじゃ。登美どの、いつか交した夫婦《めおと》約束、あれに違背はあるまいな?」
「はい……」
「という返事をきいても心配なのは拙者の心、何とか早う、その実証を見せてくれぬか?」
「実証?」
「うむ、つまり、その……」
久蔵は、薄ら笑いを浮べた。
「二人だけで、ゆっくりと、夜のお裏庭で遇いたいのじゃ。拙者の望みを叶えてくれ。そなたも、そのような絵草紙を見ているからには、まんざら不粋でもあるまい」
久蔵の手は、袖を放すと瞬間に登美の手を握った。
「いえ、それは、お断りします」
登美は、きつい口調で云った。
「なに、断る?」
「はい、堪忍して下さいませ」
「堪忍するもしないもない。たとえ口約束にしても、夫婦になるといったからには、拙者の女房じゃ。女房が亭主の云うことをきかれぬ道理はあるまい」
久蔵は眼を光らせた。
「でも、それは、さきざきのこと……」
登美は久蔵の臭い息を避けようとした。
「さきざきのことが心配だから、こう申しているのだ。それとも、登美どの。何のかんのと云って、逃げているのではあるまいな?」
久蔵は怕い眼をした。
「いえ……」
「もし、約束に違背したら、拙者も男じゃ。恥を掻かされて黙っておれぬ。この間から、拙者にいろいろ訊いていることも腑《ふ》に落ちぬところがある。それに、拙者の持っているあの踏台……」
「あ、もし……」
その時、また近くで足音がした。
足音がしたので、落合久蔵は思わずふり返った。
「あ」
彼が、ぎょっとなったのは、立木の陰にひとりの男が立っていたからである。彼は思わず、登美を放した。女ばかりの大奥の庭に、男が居ようとは思いもかけなかった。
「だ、誰だ?」
久蔵は身構えて咎めた。
「へえ」
立木のかげから、姿を出したのは士《さむらい》でもなんでもない、これは印半纏を着た職人のような男であった。
彼は、久蔵に咎められて、頭を低くして、その場に膝をついた。
「何だ、お前は?」
久蔵は、登美との縺《もつ》れを知った者に見られなかったのに半分安心し、半分は怪しむようにその男を上から見据えた。
「へえ、屋根職の者でございます」
男は頭を垂れたまま、縮んだように答えた。
「なに、屋根直しの職人か?」
本丸でも西丸でも、絶えずこういう職人は入っていた。屋根の修繕は、作事方《さくじかた》に属し、実際の仕事は外部の定められた二、三の親方が職人を連れて入っていた。この男も、その一人に違いなかった。
「その屋根直しの職人が、何でひとりでかようなところをうろうろしている?」
久蔵は不審を問い質《ただ》すように訊いた。
「へえ、うろうろしているうちに、つい連れの者とはぐれまして。いま、持ち場に帰ろうと探しているところでございます。なにぶん、広うございますから難儀をしておりました」
広い、という云い方が久蔵には笑止に聞えた。
「お前は、誰について働いている男じゃ?」
「へえ、神田の六兵衛でございます」
男は、相変らず恐縮したように、顔をあげずに答えた。
登美が、この機会に久蔵のそばから離れようとして、足をとめたのは、その名前を聞いたからであった。彼女はそこに佇《たたず》んだ。
「うむ。六兵衛か。六兵衛なら南の御小座敷のあたりを直している筈じゃ。引返して、左に曲って行け……」
久蔵は道順を教えた。
「へえ、ありがとうございます」
職人はお辞儀をして起ち上った。
しぜんと、彼の顔は、そこに佇んでいる登美と合った。
あ、と登美が声を上げそうになったのを口を押えたのは、その屋根直しの男の眼が、登美を見てかすかに笑ったからである。
(ああ、新之助さん!)
登美は従兄《いとこ》の名を口の中で叫んだ。