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かげろう絵図(下)~秋の怪

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  秋 の 怪 石翁は、小用が近い。 このときも、自然と、眼がさめて、起きかけると、横に寝ていた妾が、めざとく気づいて、
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   秋 の 怪
 
 
 石翁は、小用が近い。
 このときも、自然と、眼がさめて、起きかけると、横に寝ていた妾が、めざとく気づいて、起き上ろうとした。
「構うな」
 と制《と》めておいて、
「いま、何|刻《どき》かな?」
 と、夜の暗さを計るような眼になった。
「かれこれ、四ツ半(午後十一時)をすぎましょう」
 妾は、それでも、石翁の寝巻きの上に、羽織をかけてやったりした。
「うむ、いつも、そのくらいには決まって、眼がさめるようじゃな。それから、明け前の七ツごろじゃ。いや、年をとった」
「あれ、まだ、お若うございます」
 妾が忍び笑いをした。
「そうか……」
 石翁が、苦笑を洩らして、肥った身体を歩き出すころには、妾が、手燭をともしていた。
 用所は近いところにある。石翁が出てくるまで、妾は手水鉢《ちようずばち》の近くにしゃがんでいた。虫の声が降るように起っている。
 石翁が出てきて、水を使った。妾が手拭いをさし出す。
「秋になったな」
 石翁は、濡れた手を拭きながら、暗い庭の方を窺っていた。
「わたくしも、虫の音《ね》を聞いておりました」
 妾が云うと、
「早い」
 と石翁が一語洩らしたのは、季節の移り変りのことである。
 これも、茶人らしく、風流に耳を傾けていたが、
「そちは、さきに戻っておれ」
 と妾に命じた。
「でも、夜分に、お風邪を召しては……」
「こいつ。さきほど、若いと吐《ぬ》かしたぞ」
 妾は、くすりと笑った。
「手燭はよい。月の明りが少しある」
 石翁は庭に下りるつもりらしい。眼で庭下駄をさがしていた。
 月は、新月だったが、うすい紗《しや》をかけたような光が庭いちめんに下りている。樹も石も黒いが、泉水がほの白く光っていた。
 ひとりになった石翁は、しばらく、あちこちを小さく歩き廻っていたが、肩に夜の冷えを感じたので、足を戻そうとした。
 そのとき、何か、気になるというか、瞳《め》が別な一角に逸《そ》れた。実は、何気ない視線だが、見えない糸にひかれたようなものであった。
 はっとして、瞳《め》が愕《おどろ》いたのは、その対象に当ったからである。
 秋の、しっとりとした淡い月光の中だったが、石翁の広い林泉の中は、うす墨で塗ったように暗い。
 日ごろ、自慢するだけあって、眼は、確かなものである。その昏《くら》い中に、何やら一つ、白いものが遠くに浮んでいるのを見た。
 石翁は、足の方向を変えて、ゆっくりとその方へ歩いて行く。池の魚が、かすかに水を刎《は》ねた。
 途中で、思わず足を停めたのは、その白いものが着物で、人間が立っている、と見えたからだ。
 人の声も、物音も死んでいるこの深夜に、人間がひとり、庭に立っている。──
 石翁は眼を凝らした。誰か、と咎めるところだったが、相手が少しも動かないのを見ると、その声を呑んだ。
 白いかたちは凝乎としている。黒い樹林が、風をうけて、かすかに鳴っていた。
 石翁は、また足をすすめた。石が到るところに置かれていた。
 彼ほどの男が、ぎょっとしたのは、その着物の柄が、近づくにつれて、眼にはっきりとしたからである。
 麻の葉である。──
 その浴衣が、じっと息を殺したように、うずくまっている。首が無い!
(菊川……)
 石翁は、心の中で叫んだ。
 急に、池の水が、ひろがって来たような錯覚をおぼえた。かすかな呻《うめ》きが、耳のどこかに聴えた。黒い髪が水に溶けて、藻のように揺れている幻覚が起った。
 首筋が冷えて、痙攣《けいれん》を感じた。
 石翁は、息を沈めて、凝視をつづけた。強い眼で、一歩も退かぬ意志がこもっていた。
 が、その眼は、次第に別な表情に変った。不意に、嗤《わら》い出しそうな眼になった。
 石翁は、今度は、大股に歩くと、白い人間の傍に近づいた。手の届きそうなところにきても相手は動かない。
 石翁は、うずくまっている人間を見下ろした。麻の葉の浴衣を、ふわりと頭からかぶっているような恰好だった。
 ゆっくり、石翁は手をのばして、着ものを剥いだ。石が、その下から現れた。この石は、人間が跼んでいるようなかたちをしていた。──
 石翁は、剥いだ着物をひろげ、検《あらた》めるように見た。麻の葉の模様は、あのときのものより、ずっと大柄なものだった。
「やりおる」
 石翁の厚い唇から洩れたのが、この一語であった。
 彼の眼が、うす暗い中に、どこかを見つめて据っていた。
 石翁は、庭から帰ってくると、妾が起きて待っていた。
「随分、永く。お冷えになりませんでしたか?」
 妾が立ち上って訊いた。
「冷えた」
 と答えたのは、本人は、半分は冗談のつもりであったが、やはり顔色が冴えなかった。
「あまり、夜の外をお歩《ひろ》い遊ばすから……」
 妾は、そう云いながら、石翁が、小脇に抱えたものに眼をとめた。
「おや、何でございます?」
 石翁は、浴衣をそこに放り出した。麻の葉がよれて畳に落ちた。
「まあ、浴衣……」
 妾が、眼をまるくして、石翁を見上げた。
「干しものだ」
 石翁は、坐って説明した。
「莨を」
「はい」
 妾は、梨地に金泥で御紋を描いた立派な莨盆《たばこぼん》を運んだ。家斉から拝領したものだが、石翁は平気で日常の用に使っている。
「干しものと申しますと?」
 妾は、夜露に濡れて、湿っている浴衣に眉をひそめて訊いた。
「庭石にかかっていた。わしが取りこんでやったのだ」
 石翁は、銀ごしらえの煙管《きせる》を口にくわえて云った。
「でも、浴衣など、いまごろ、季節外れのものを」
 妾が不審そうに呟くと、
「なるほど、季節外れの幽霊が出たものだ」
 と石翁は、煙を吐いた。
「何でございます?」
「いや、お前の知らぬことだ」
 石翁は笑って、
「これを、持ち主に返してやれ」
 と眼を浴衣にくれた。
「でも、誰でございましょう? このようなものを、お庭の石に干したりして、無作法な。その上、そのままにして忘れるなどとは無躾《ぶしつけ》な者があったものでございます。明日になったら、詮議して、きつく叱ってやります」
 妾は、石翁の眼に無礼を働いた奉公人に、真剣になって怒っていた。
「詮議したところで、出て来ないかな」
 石翁は云った。
「そうだ、これは、お前が預かっておれ」
「でも、一応は、調べませぬと……」
「はて、無駄じゃと申している」
 この声が、案外に強かったので、妾の方が、おどろいた顔をした。
 石翁は、灰吹きに煙管を叩いて、妾が新しい莨を詰めてくれる間、ひとりで思案を追っていた。
 
 石翁は、風呂に入っていた。
 秋の、明るい陽が射し込んで、湯にうつり、それが反射して、檜の天井の波の紋を動かしている。
 眼を閉じて、石翁は老人らしく、湯の快感に浸っていたが、
「これよ」
 と呼んだのは、上り場のところで、襷《たすき》をかけて、待っている古い女中に云ったのである。
「この前に来た、新参の女中、あれは何と申したかな?」
「おこん、でございますか」
 女中は畏って答えた。
「そうだ。おこんと申したな」
 何を考えているのか、そのまま、黙っていたが、
「おこんをここに呼んでくれ」
 と浴槽《ゆぶね》の中から云った。
「はい」
 女中が起ち上ると、
「お前は、もうよい。おこんと替ってくれ」
 と石翁は言葉を追加した。
 古い女中は、畏りました、と云ったが、面白くない顔をして出て行った。
 石翁は、太い首すじのあたりまで湯につかって、また眼を閉じた。老人の癖で、熱い湯でなければ承知しないし、しかも長湯である。肥った顔が真赭になっていた。
 上り場のところに、女がつつましそうに入ってきた。
「お召しで、おこんが参りました」
 女は、そこから丁寧に、湯槽の石翁に声をかけた。
「うむ」
 石翁は眼をうすく開いて、女を見た。顔を上げずにうずくまっている。
「わしは風呂から上る。手伝うがよい」
 石翁は、大儀そうな声を出した。
「はい、かしこまりました」
 言葉の歯切れがよく、敏捷な感じであった。用意してきた襷をかける動作も、きびきびとしたものである。
「上るぞ」
 石翁は、湯から裸身を起てると、大きな体格だから、湯槽から湯が、ざあと音をたてて、檜の板にこぼれ落ちた。
 そのまま、上り場に傍若無人に歩いて行く。おこんが、伏眼になって、湯気の立ち昇っている背中に廻り、大きな白木綿の布を掛けた。
 頸から、背中、手、脚と拭いて行く。
「そこに、着ものがある」
 石翁は教えた。衣類籠の中に、きちんとたたまれている。
「はい」
 おこんが、かがんで、それを取ると、その下から、麻の葉模様の白い浴衣が現れた。
 おこんは、浴衣に眼を遣ったが、さり気なく、視線を外して、石翁の背中に着物をかけてやる。石翁は、また、おこんの様子に眼を注いでいた。
 彼女の表情を掠める、変化の欠片《かけら》も見遁すまいとする眼であった。
 石翁は、着物をきせられるままになっていたが、背中に廻っている女に、
「そちは……」
 と声をかけた。おこんは、それを聞いて辷り落ちるように膝をついた。
「この前に奉公に参った女じゃな?」
「はい」
 おこんは頭を下げて返事した。
「唄を聞かせてくれたのを、覚えている」
「恐れ入ります」
 石翁は、上から、白い女の襟あしを見下ろしていた。
 下町の女特有の色気のある身体つきで、言葉づかいも、歯切れのいいものであった。
「今宵、客が来る」
 石翁は云った。
「慰みに、そちが参って、唄ってくれ」
 おこんは、すこし小さな声で、
「ふつつかでございますので……」
 と辞退の様子を見せた。
「いや、なにごとも、慰みだから、固うなるには及ばぬ」
「はい……」
「わけて、今宵の客は、そのようなことが、好きな男での。よろこぶであろう」
「………」
「わしの前だとて、遠慮するには及ばぬ。よいな?」
 やさしい声音《こわね》である。
「はい」
 おこんは畏った。
「うむ」
 石翁は、歩きかけたが、衣類籠にたたんである麻の葉の浴衣に眼を落すと、
「これは」
 と、おこんをかえりみた。
「誰のじゃ?」
 何気ない訊き方だし、顔もふだんのままであった。
「はい。わたくしは……」
 おこんは、頭をさげて、表情を見せぬから、さだかには分らないが、声だけは、しっかりしたものだった。
「存じませぬが、どなたかほかの方がお置きになったのでございましょう」
「ほかの者がのう」
 石翁は、薄い笑いを浮べて、おこんのうずくまった身体を、じっと見ていたが、
「そちによく似合いそうな浴衣じゃ。おこん、と申したな。いつか、これを着てわしの前に出るがよいぞ」
 
 雨が降っている。
 六兵衛は泥濘《ぬかるみ》の道を神田から駕籠で来て、この四谷の奥深いところは難儀しながら歩いた。御家人ばかりの、小さな家が密集していて、途中で、いちいち名前を訊かなければ分らないのである。
 落合久蔵というのが、六兵衛の訪問先だったが、そこを探ね当てるには、かなり迷った末である。
 落合の家は、大きな屋敷の角を曲った、路地奥の、同じような小さな家のならびの一つであった。雨が、腐れかけた塀をわびしく叩いていた。
 名ばかりの門を入ると、狭い玄関は、目と鼻の先だった。雨のせいだけではなく、暗くて、内部《なか》がよく分らないくらい陰鬱な構えである。
「ご免下さいまし」
 六兵衛は、二度つづけて、玄関先から声をかけた。
 奥から出てきたのは、三十すぎの瘠せた女で、一目見ただけでも世帯やつれしていた。ぺたりと坐った恰好も、着くずれした着物のせいか、だらしない。
 六兵衛は雫《しずく》の垂れている傘を、そこに立てかけ、からげた裾を下ろして、ていねいに頭を下げた。
「落合さまのお宅は、こちらでございましょうか。手前は、神田から参りました鳶職の六兵衛と申します」
「はい、落合は手前ですが」
 瘠せた女房は、吊り上った眼をむけた。
「失礼ですが、奥様でいらっしゃいましょうか?」
 六兵衛は、女房の顔をうかがった。
「落合の家内です」
「それは、それは」
 六兵衛は揉み手をした。
「手前は、いま申し上げました通り、神田の六兵衛と申しますが、日ごろ、何かと旦那様にはお世話になって居る者でございます。奥さまにお目にかかりましたのを幸い、お礼を申し上げますでございます」
「はい、それはどうも」
 女房は、六兵衛の丁重な挨拶を受けた。
「つきましては、ちょいと旦那様にご挨拶に参りましたが、今日は、ご在宅でいらっしゃいましょうか?」
「丁度、非番ですから、今日は、居ります」
「やれやれ、それは好都合でございました。ありがとうございます。どうか、神田の六兵衛が参ったとお取次を願いとうございます」
「はい」
 女房は、じろりと六兵衛を横目で見るようにして起って行った。
 やがて、落合久蔵が、昼寝から起きたような顔をして玄関に出てきたが、六兵衛を見ると、何の用事で来たか、というような表情をした。
 落合久蔵は、女房の注進で玄関に出てきたものの、六兵衛が突然、何の用事で訪ねてきたか、さっぱり分らない。お城の普請場《ふしんば》では見知りの顔だが、訪問されるほど親しくはない。
「これは、これは、落合さま。ご機嫌よろしゅうございます。ちょいと、近所を通りかかりましたので、ご挨拶に伺いました」
 六兵衛は、にこにこして、
「これは、ほんの手土産の代りで、お口にも合いますまいが、坊ちゃまにでもさし上げて下さいまし」
 と、持参の風呂敷包みをさし出した。
 久蔵は、困った顔をしたが、帰れとも云えず、
「まあ、上れ」
 と云った。
 そうは云ったが、玄関先で遠慮するかと思いのほか、六兵衛は、ごめん下さいまし、と、のこのこ上ってきた。
 玄関が三畳で、次が四畳半、奥が六畳という鼻を突くような狭さである。小さい子供が居るせいか、間を締めた襖も荒れ果てている。
 さっきの女房が出て来て、座蒲団をすすめ、茶をくんできた。
「あいにくの雨で、鬱陶《うつとう》しゅうございますな」
 六兵衛は、腰から莨《たばこ》入れを抜いて、なた豆|煙管《ぎせる》を吸いつけはじめた。上等の莨らしく、匂いがいい。
「どうぞ、お構い下さいませんように」
 と、女房にも頭をていねいに下げたものである。
「やはり、何でございましょうな、ご非番の日は、ごゆっくりなすって、ご気分がよろしゅうございましょうな?」
 六兵衛は、悠々と世間なみの挨拶をつづけている。久蔵は、気の浮かぬ顔をして、
「いや、それほどでもないが……」
 と、口の先で仕方なしに答えていた。相変らず、六兵衛が何の目的でやって来たのか、見当がつかないでいる。
 六兵衛は、一雨ごとに涼しくなってゆくの、今年は神田明神の祭礼の入費が嵩《かさ》んだだの、久蔵にとっては愚にもつかぬ世間話を、にこにこしながら云っていたが、不意に、その笑顔を収めた。
「ときに、落合さま。妙なことをお訊ねいたしますが」
 と声まで、用件に入ったように改まった。
「ただ今、これへおいでになって、手前がお目にかかった奥様は、本当に落合さまの奥様でございましょうな?」
 久蔵は、一瞬に呆れて、六兵衛の顔を見つめた。
「うむ。わしの家内に相違ないが」
 自分でも、莫迦《ばか》莫迦しい返事をすると、六兵衛は、また眼もとを笑《え》ませてうなずいた。
「それで安心いたしました。落合さま」
 落合久蔵は、一旦、呆れたが、むっとした。今のいままで、奥様奥様と云いながら、あれが、あなたの奥様ですか、もないものだ。
 莫迦にしていると思った。
「六兵衛」
 と彼は、強《きつ》い眼になった。
「お前、からかいに来たのか?」
「飛んでもございません」
 と大きな声で否定したのは六兵衛であった。かれは、両手をあわてて振った。
「お腹立ちになっちゃ困ります。手前には、そんなつもりは毛頭ございません。初めて玄関でお目にかかりましたときから、奥様とは存じ上げましたが、ただ念のために、お訊ね申し上げたような次第でございます」
 襖《ふすま》の向うでは、人の動く気配がした。久蔵の女房が聴耳を立てているに違いなかった。
「念のためだと?」
 久蔵は聞き咎めた。
「へえ。左様でございます」
 六兵衛は、けろりとしていた。
「おれの女房を確かめに来て、どうするつもりだえ?」
 久蔵は険しい顔をした。
「へえ。妙な話ですが、お言葉を承って安心しましたから申し上げますが、いや、どうも妙な工合でございます」
 六兵衛は煙管に新しい莨を詰めた。
「わたしの知り合い筋に、西丸さまの大奥へ奉公に上っている娘がおりましてね。名前はちょいと申し上げ兼ねますが、その娘が、この間、宿下りに帰りましての話でございます。お城の中のことは一切他言ならぬそうでございますが、それにつけても年ごろでございますから、自然と朋輩衆の噂話が出て参ります」
「………」
「その娘の朋輩に、登美さま、とおっしゃるお女中がおられるそうで」
「登美?……」
 久蔵は急に眼つきを変えた。
「へえ。そうなんで。その登美さまとやらが、近いうちに夫婦《めおと》になりたいお方がおられるそうで、知り合いの娘は、それを話しておりました」
 久蔵の眼が、急に落ちつかないものになってきた。
「何でも、その殿御になられる相手のお方が添番衆で、いや、もう、それは熱心なご執心だそうでございましてね」
 六兵衛は、煙を吸い込んで、宙に吐いた。襖一重の向うでは、ごとりと物音がした。
「手前は、何気なく聞いておりましたが、そのうち、そのお方の名前が娘の口から洩れましたので、飛び上るほどびっくりしましたよ」
「六兵衛」
 久蔵が、泡を食って叫んだ。
 落合久蔵はあわてて、手で六兵衛の口を押えたいような恰好をしたが、六兵衛は知らぬ顔をして言葉をつづけた。
「その登美というお女中と、夫婦になりたいとおっしゃってる添番衆の名前を、手前は伺いまして、びっくりいたしました。それが、なんと……」
「六兵衛」
 と落合久蔵は遮った。
 眼の色は、今までとは、まるきり変り、襖の向うの女房を気にして、そわそわしていた。声音まで違っているのである。
「お前、ちょいと外に出ぬか?」
 突然の云い出しに、六兵衛は、わざと、きょとんとしてみた。
「へえ、そりゃア、出ないでもありませんが……」
「出よう」
 と久蔵はせき立てた。
「おれもそこまで出たいところだった」
「けれど、雨が降っております」
「雨などは構わぬ。お前の話は、一緒の傘で歩きながら聞くとしよう」
 久蔵は急いで勝手に起ち上ると、
「おい、そこまで行ってくるぞ。傘を出してくれ」
 と女房に大きな声で云いつけた。
 女房が出てきて、六兵衛に、
「もう、お帰りですか。もう少し、ごゆるりと……」
「いや、六兵衛も忙しいから、そうしてはおれぬのだ。引き留めぬがよい」
 久蔵は、振り切るように云った。
 六兵衛も仕方なしに莨入れをしまい、腰に挾んだ。
「落合さま。それで、いまの話ですが……」
 六兵衛が、久蔵のあとからついて玄関に歩みながら云い出すと、
「その話、その話。外でゆるりと聞こう。とにかく、外へ出よう」
 久蔵は、おかしいくらいに狼狽していた。見ると、見送りのために、女房がすぐ後について来ている。
「いま、降るさかりです。もう少し、小止みになるまで、家でお待ちになったら」
 女房は外の雨を見ながらすすめた。
「へえ。左様でございますな」
 六兵衛が、その勧めに賛成しそうになったので、
「いや、これしきの雨、平気じゃ。六兵衛、さあ、参るぞ」
 久蔵は、六兵衛をせき立てて、玄関から下駄をはき、傘を拡げた。
 六兵衛が、その傘の中に入って、横にいる久蔵を見ると、久蔵の額には大粒の汗が浮いていた。
 六兵衛は腹の中で笑った。
 雨が傘を叩いている。その音を頭の上で聞きながら、落合久蔵と六兵衛とは泥濘《ぬかるみ》の道をしばらく歩いた。
「落合さま」
 と六兵衛は云った。
「こう鬱陶しくては、お話も出来ません。ちょいと、そこらで雨宿りしようじゃございませんか」
「よかろう」
 と久蔵は答えた。急に元気が出たものである。小料理屋が眼の先に見えた。二人はその紺色ののれんを頭でかき分けた。
 小女が銚子を持って来て去ると、
「六兵衛。さっきの話のつづきを聞こうじゃないか」
 と久蔵の方から云い出した。現金なもので、盃を含んで、落ちつき払っていた。
「へえ、へえ」
 六兵衛は、やはり内心で嗤《わら》いながら、
「そのことでございます。登美さまという西丸奥女中衆に夫婦になろうと熱心に云っておられる添番のお名前が、なんと、旦那、落合久蔵さまとおっしゃるんだそうでございます」
「ふうん」
 久蔵は、盃を持ったまま、わざと動じぬ顔をしていた。
「手前は、それを聞いて、はてな、と首をひねりましたね。たしか、落合さまには奥様がおられると伺っておりましたんでね。おかしいな、と思いましたよ。これは年寄りの勘ぐりかも知れませんが、ひょいとすると料簡の悪いお方が、旦那のお名前を借りて、登美さまに悪戯《わるさ》をなすってるんじゃねえか、と考えました」
 久蔵は返事をしないで、頬をふくらませていた。
「こうと思ったら、手前の性質《たち》の因果なところでね、気になって仕方がありません。そこで、人助けと思いましてね、まず、落合さまをお訪ねしたわけですよ。すると、手前の思った通り、ちゃんと立派な奥様がいらして、お眼にかからせて頂きました。いよいよ、これは、どなたかが、悪戯をなすっていると分りました」
 六兵衛は、久蔵の反応を見るように、その顔を眺めた。思いなしか、久蔵の唇が、すこし震えていた。
「手前は安心いたしましたよ。いや、これはお叱りをうけるかも分りませんが、もしかすると落合の旦那が、れっきとした奥さまがありながら、ひょいとしたお気持から、てんごうなさったのじゃねえかと思いましたね」
「………」
「謝ります、旦那。旦那にお会いして、そいつが、手前のいびつな勘ぐりということがよく分りましたよ。旦那は立派なお方だ、そんなお人柄じゃねえ」
「六兵衛」
 と落合久蔵は、睨《にら》むように見て云った。
「お前と、登美という女中とは、どんな係り合いだな?」
「別段、知り合いでも、親類でもございません。いまも申した通り、ただ、小耳に挾んだというだけの話なので……」
「年寄りの冷水というわけか?」
 久蔵は冷笑した。六兵衛は、それを怒らずに受けて、
「まず、そんなところでございましょうかな。しかし、旦那、その年寄りの癖で莫迦《ばか》念を押すようでございますが、その名乗った落合久蔵さまというのは、旦那のことじゃございますまいねえ?」
 と、下から、じろりと見上げた。
「おれじゃねえ」
 落合久蔵は、急にふてぶてしい云い方をすると、横を向いた。
「やれやれ、それを承って安心しました。旦那、早速、手前の知ったその女中衆に云って、登美さまに伝えるように申しましょう」
 六兵衛は安堵したように云った。
「な、なにを伝えるというのだ?」
 久蔵は、ぎょっとなったようだった。
「むろん、旦那の名前をかたって、いい加減な男が悪戯をしているということでさ」
「………」
「こりゃあ、ひと助けですからね。世間知らずの娘さんが、だまされているのを見ちゃ黙っては居られませんや。それに、その悪い男に、女房子でもあれば、猶更でさ。奥さまも気の毒ですからな。手前は、その男の正体が知れたら、奥様に注進に及ぶつもりでさ」
 久蔵は、蒼い顔になった。
「六兵衛。それほどまでしなくともいいだろう」
 と彼は弱い声を出した。
「いいえ。年寄りというものは念を入れたがるもんでしてね。手前はお城にお出入りを許されていることゆえ、作事方のお役人には知り合いもございます。時と場合によっちゃ、このことを申し上げ、組頭から不届なお方を穿鑿《せんさく》してもらうつもりでございます。当節でも、不義めいたことは、やはりお城の法度《はつと》でございましょうからね」
「六兵衛、六兵衛」
 久蔵は、つづけて呼んだ。
「そこまでするには及ぶまい。そりゃ平地に波を立てるようなものじゃ」
 と、頻りとなだめにかかった。
「分ったよ、六兵衛。もう、左様なことはあるまい。まあ、そう、ことを荒立てるな」
「左様でございますか」
 六兵衛は、煙管をとり出して吸った。野郎、どうだ、参ったか、と彼は腹で久蔵をあざ笑っていた。
 落合久蔵は、六兵衛と小料理屋で別れると、一足先にのれんを出た。勘定は、むろん、六兵衛に払わせるつもりである。
 雨は相変らず降っている。雲が厚く、あたりは夕景のように昏《くら》い。彼は、さし当っての行き場がなく、目的もなく歩いた。
 どうも面白くない。六兵衛に対して、わけもなく腹が立ってきた。野郎、何だって、あんなことを云いに来たのだ。女房に云うの、組頭に告げるのと、厭がらせばかり云っている。一体、どういう魂胆なのか。
 登美も詰らないことを朋輩に話したものだ。由来、女は口さがないもので、宿下りを機会に、急に緩んだ紐のように、とめどもなく喋《しやべ》ったものと見える。六兵衛がそれを又聞きに聞き込んだのが、こちらの運の悪さであった。
 お蔭で、折角、手に入りそうになった登美が、急に遠のいてしまった感じだ。老いぼれのくせに、余計なことをしやがる。久蔵は、歩きながら六兵衛にひとりで毒づいた。
(ばかめ。このままでひき下るおれではないぞ)
 久蔵は思い直した。このまま諦めるのは惜しい。一旦、思い込んだことだ。何としてでも、登美の身体を手に入れずには置かぬのだ。
 その、お喋りの朋輩は誰だろう、と久蔵が考えているとき、あっと思い当ったものだ。
(登美が告げたのだ!)
 これだ。
 朋輩というのは、六兵衛の作り話。登美が六兵衛に自分のことを話したに違いない。
 この間から、どうも登美の様子が変だ。逃げよう、逃げようとかかっている。まさかと思っていたが、今となっては、明らかに自分を嫌って避けているのだ。その予感はしないでもなかったが、六兵衛が妙な工作をしたので、はっきりと納得がいった。顔に、いきなり冷たい水をぶっかけられた思いである。
 久蔵は身体が熱くなった。
(よし。そっちが、その料簡なら、おれにも考えがある)
 久蔵は心の中で叫んだ。
 しかし、登美と六兵衛とは、どのようなつながりがあるのだろう。直接の筋合は無いはずだが。待てよ、と首をひねった。
 が、その解決は十間と歩かぬうちに、ふいと思い出したことで出来た。
(お文という長局出入りの小間物屋だ。あれはたしか六兵衛の妹だと聞いたが……)
 あの女だな、と思った。
 登美のところにも出入りしているから、登美の話を聞いて、兄の六兵衛に取り次ぎ、今度の細工となったに違いない。
 あの阿魔め、と久蔵はお文を罵った。
「今に、見ていろ」
 
 六兵衛は、落合久蔵の勘定の分まで払って小料理屋の門口に立った。左右を見廻したが、雨が煙っているだけで、久蔵の姿は無かった。
(奴さん、だいぶ参ったな)
 六兵衛は愉快である。
(これで、お縫さんへの手出しはしないだろう)
 久蔵のあわて方を想い出して、彼は笑いがこみ上げた。手土産代や酒代ぐらいの散財は安いものである。雨の中を、神田から四谷まで足を運んだ甲斐もあった。
「姐さん、駕籠屋はどこにあるかえ?」
「あい、その辻を曲ったところにありますよ」
 小女に教えられて、六兵衛はそこまで歩いた。
 駕籠を傭《やと》って、六兵衛は神田への帰り道を急いだ。
 落合久蔵のところに来たのが遅かったので、もう夕方近くになっている。雨が降っているので、余計にあたりが暗い感じであった。
 ふと、駕籠の内から、外を見ると、傘をさした男がふらふらと歩いている。
(久蔵だな)
 六兵衛は、よほど声をかけてやりたいところだったが、我慢した。雨の中を、裾に泥をはね上げて歩いている久蔵の姿は、なんとも気の毒な恰好である。先方は、むろん、横を通り抜ける駕籠に、六兵衛が乗っているとは気がつかない。
 久蔵は怒ったような表情で、顔をくしゃくしゃにしていた。
(あの顔で……)
 と六兵衛は、あわれになった。
(お縫さんに云い寄るとはふてえ野郎だ)
 その顔も、もう六兵衛の視界には無い。駕籠は泥濘《ぬかるみ》の中を走っていた。
 不意に、その駕籠が停ったのは、かなり走ってからで、湯島の聖堂の大屋根が森の中に見えている道であった。
「どうしたんだえ?」
 六兵衛は駕籠屋に声をかけた。
「へえ。御代参の御行列のようで……」
 今と違って、そのころは道が狭い。こちらは先方の通過まで待たねばならなかった。
 駕籠屋の云う通り、奥女中の代参の還りと見えた。女乗物が五つばかりつづいている。合羽《かつぱ》姿の添番と、挾箱が先頭の駕籠脇についている。
 先頭の乗物は、網代《あじろ》鋲打ちで、奥女中でも中年寄以上の身分の乗る格式のあるものだ。
 六兵衛は、五つの乗物が雨の煙るなかを影のように通りすぎるのを見送った。この中の一つに、縫がいるとは勿論知る筈がない。秋の冷雨の中に、この影絵のような行列を見ていると、六兵衛は、怪物《けもの》に遇ったように、首すじが冷えた。
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