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かげろう絵図(下)~新しい女

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  新 し い 女 与力下村孫九郎が、向島の石翁の邸から、ぜひ今夜来て頂きたい、これはご隠居さまからのお声がかりである、と
(单词翻译:双击或拖选)
   新 し い 女
 
 
 与力下村孫九郎が、向島の石翁の邸から、ぜひ今夜来て頂きたい、これはご隠居さまからのお声がかりである、という用人の使いをもらったとき、
「間違いなくお伺い申し上げる、とお伝え下さい。いや、遠路のところをわざわざ痛み入りました」
 と、その使いに丁重に頭を下げたものである。
 孫九郎は心の中で雀躍した。石翁が呼びつけるからには、新しい用命があるに違いない。尤も、前回は、用があるといわれて喜んで行ってみると、案に相違して、女の水死人の始末が不首尾だと、散々に叱言《こごと》を食った。以来、意気銷沈していた。折角、出世の手蔓を掴んだと思っていたのが、不意に断ち切れた感じだった。運に見放されたかと、悲観しながら諦めていたところだった。
 しかし、今度の使いは蘇生の思いであった。悪い呼び出しではない。見捨てられたら、それきり音沙汰無い筈だが、来い、というからには脈があるのだ。
(やはり、おれを役に立つ男だと思っておられるらしい)
 己惚《うぬぼ》れもあったし、今度こそは、という希望も湧いた。彼が、昏《く》れるのを待たずに、八丁堀から向島まで駕籠を飛ばしたのは云うまでもない。
 石翁邸の通用門から入り、内玄関に立つと、女中が出てきた。
「八丁堀の下村孫九郎が参りましたと、ご用人にお取次ぎ下さい」
 一般の者に向っては傲岸な、威張った男だが、ここに来ては、女中にまで、へらへらと笑って頭を下げた。
 お上り下さい、と通されたのは、用人が外来の客と遇っている書院だった。お茶が出る。菓子が出る。菓子も普通の者が見たこともない珍しいもので、南蛮の製法とみえた。一口入れただけでも、舌がとろけるように甘い。孫九郎は、誰も居ない間に、一|片《きれ》を懐紙に包んで、袂の中にそっと落した。帰って、誰かに見せびらかして自慢するつもりなのである。
(今日は、もてなしが違う)
 この前とは、雲泥の相違である。孫九郎の胸は明るかった。
 用人が咳《しわぶき》をしながら出てきた。
 孫九郎が座を辷《すべ》って平伏し、
「お使いを頂戴しましたので、早速に参上いたしました」
 と卑屈なくらい丁寧な云い方をしながら、額越しに様子を窺うと、
「うむ、ご苦労じゃ。実はな、ご隠居さまが、あんたに見て貰いたいものがあると仰せられてな。それで、ご足労をかけたのだが……」
 と用人は、にこにこしていた。
 孫九郎は、安心すると共に、自分に見せたいものとは何だろうと思った。
 用人が屈託なく話している間に時間が経った。外はすっかり昏れた。
(おれに見せたいものがある。何だろう?)
 気にかかることである。下村孫九郎は、用人に世辞をならべながら、しきりに見当をつけようとしたが分らなかった。
 襖が開き、断りを云って、若い女中が用人の傍にすすみ、耳の傍で何か云っていた。
 用人は首を声の方に傾けていたが、
「見えたか。そうか、分った」
 とうなずいた。女中は退った。
「お忙しいところをお邪魔して居りますので、どうか、手前にお構いなく……」
 孫九郎が気を利かしたつもりでいると、
「いや。いいのだ」
 と用人は、まだ孫九郎の相手になる意志を示した。
「もっと、ゆっくりやってくれ」
 茶と菓子は酒に変っている。気持の悪いくらいな待遇であった。
「いや、来客があっての。ご隠居さまが会っておられる」
「ははあ、左様でございますか」
 自分に関わりのない話だと思っていると、
「実はな、貴公を呼んだのは、その座敷を覗《のぞ》き見してもらいたいのだ」
「覗き見?」
 孫九郎はびっくりした。
「いやいや、客の方ではない、その席にひとりの女がいる」
「はあ?」
「当家の女中だがな」
「………」
 意味がよく呑み込めなかった。
「出入りの植木屋が世話して傭い入れた女だが、その身元に腑に落ちぬところがある。それを調べて欲しい」
「あ、なるほど、左様で」
 やっと訳がわかった。
「ついては、顔を先ず検分してくれ、先方に気づかれぬようにしたいのだ」
「分りました」
 そうだ、もうよかろう、と用人が云ったのは、孫九郎が、そういう御用ならお易いことです、と得意そうに答えてから間もなくであった。
 用人の案内で、暗い中庭に下りた。ここも広庭と同じことで木が茂っている。用人は途中で、手で方向を指した。そっちへ行けというのである。孫九郎は草履の音を忍ばせた。慣れている。
 灯で明るい離れ座敷が向うにあった。障子をわざと開けてあるので、部屋は一目で見えた。
 大きな坊主頭は当家の主人だが、席を隔てて向い合っているのは四十ばかりの立派な武家だった。誰だか分らないが、孫九郎に用は無い。彼は、傍で三味線をひいている女だけを熱心に眺めた。
 下村孫九郎は一心に女を見つめたが、その顔にどうも見覚えがない。面長のきれいな顔の女である。
 石翁が客を歓待していることは、両人の間に置かれた酒肴の馳走でも分ったし、遊芸の心得があるらしい女中に三味線をひかせていることでも分るのである。
 三味線は達者だ、とその方面にも多少の下地のある孫九郎は、聞いていて合点するのだ。
 「朝顔の 露の命のはかなさは
 ほんにいるやらいないやら
 一目見る目も 目に見えず
 なんとこの身は どうぞいな」
 声も佳い。こりゃア、年季が入っている、と孫九郎は感心した。
 客が手を拍って笑いながら、讃めている。石翁は脇息に身体を傾けて、ゆったりと笑《え》んでいる。その様子も、ここからは、まる見えであった。
(あの女をおれに見てくれというが、どうも憶えがない)
 孫九郎は、苛々《いらいら》してきた。見覚えがないと云い切るのは簡単だが、それでは、折角の機会を失ってしまうおそれがある。役に立たない、と見放されるのが、いちばん辛いのである。
 孫九郎は、眼に全神経を集めて、なおも凝視していた。
 石翁が、次に何かを所望しているようだった。女の三味線の調子が変った。客は膝を動かして坐り直し、傾聴する態度をとった。
 女は、三味線の調子が整うと、唄い出した。
 「あわれ古《いにし》えを 思い出づれば懐しや
 行く歳月《としつき》に関あれば 花に嵐の関守も
 宵々ごとの白雪は……」
 富本節だな、と孫九郎はひとりでうなずいた。これはまた、前の歌沢よりは節廻しや声が冴えている。素人ではない。玄人《くろうと》にしても、これほどの力量はざらにあるまい。
(富本の師匠にしても怯《ひ》け目はない……)
 孫九郎は、聴いていて、こう考えた。
 あっと思ったのは、その感想が、一つの記憶にぶつかったからである。
(富本の師匠といえば……)
 下谷の奥に探ねて行ったことがある。やはり、石翁に関係したことで、医者を掠奪した若い男を捜し出すために、吾平をだまして所を聞き込んだのだ。島田新之助という名前まで分った。恨みの積っている男で、船宿の二階から大川に自分を投げ込んでくれた男だ。下谷で聞いたのは、新之助が富本の師匠の豊春という女と一緒に暮していることだった。
(あ、そうだ。あのときの……)
 船宿の二階に自分が乗り込んで行ったとき、新之助と差し向いに坐っていた女である。
(間違いない)
 孫九郎は、爪弾きで唄っている女中の顔を検《あらた》めるように見つめた。
 やんや、やんや、と声を出して賞めそやしたのは、客の奥村大膳であった。もとから賑かなことが好きでもあり、女も嫌いではなかった。おこんが一曲を唄い終って、おじぎをすると、自分から盃を把《と》ったものである。
「おこん、と申したな」
 と、抜けるように白い項《うなじ》から、腰の曲線にそれとなく眼を流し、
「見事なものじゃ、受けてくれ」
 と手の盃をさし出した。
「恐れ入ります」
 おこんは両手をつかえたまま、細い声を出した。
 大膳は、気づいたように、石翁に、
「ご隠居さまのお言葉に違《たが》わず、見事なものです。これに盃を取らせても、よろしゅうございましょうな?」
 と訊いた。
 石翁がゆったりと笑って、
「気に入って何よりじゃ。おこん、折角のお言葉ゆえ、お流れを頂戴いたせ」
 とやさしい声を出した。
「はい」
 おこんは、今度は怯《わるび》れずに受けた。膝をにじり寄せてきたから、大膳の鼻を女の匂いが搏《う》った。飲みぶりもいい。かたちのいい唇に、つつましやかだが、きれいに干した。
 おこんが懐紙を出して、盃の雫《しずく》を落そうとすると、
「いや、そのまま、いま一杯」
 と奥村大膳は押し止めて銚子を傾けてやる。
「あれ」
「いやいや、遠慮は要《い》らぬ。この方も見事じゃ」
 おこんは、もじもじしながらも受けた。奥村大膳は、ひどく興がっている。
 石翁は、うす眼を開けて笑っていたが、
「大膳、酔うたな」
 と云った。
「は。いや、それほどには……」
 大膳は、おじぎをした。
「いや、酔うているぞ。やはり、気に入った女の傍だと酔いが早い」
「これは、したり。ご隠居さま、ご冗談を……」
「いや、そなたの性質《たち》は、わしがよう知っている。そなたほど女に惚れやすい男は居ないぞ」
「ご隠居様、仰せられましたな」
「匿《かく》すな。古い交際《つきあい》じゃ。それを知らぬでどうする。そこに居るおこんは下町好み。前にそなたの女だった菊川は御殿風。雅《みや》びやかもよし、粋《いき》もよしか……」
 大膳からもらった盃を唇に当てていたおこんが、きらりと眼を光らせた。
「菊川」の名を口から出したとき、おこんの眼がきらりと光ったのを、石翁は己の眼の端に入れておいた。
「のう、大膳」
 と、石翁は、奥村大膳を揶揄《やゆ》するように云った。
「そなたは、まだ、菊川のことを忘れずにいるか?」
「ご隠居さまとしたことが、今宵は、また何を仰せられますやら」
 大膳は、てれ臭そうに手で石翁の言葉を抑えるようにした。
「それは、もう過ぎたことでございます」
「いやいや、一度は命と惚れ込んだ女のことじゃ、過ぎても、思いが残るのは当り前であろうな」
「はて、もう、そのことは……」
「年寄りの前じゃ。遠慮することはない。あれは佳い女だった。わしが、もう少し若かったら、そなたと張り合ったかも知れぬ」
「お戯れを……」
「ははは、叶うまい。そなたの男前には負けるでな。されば、菊川がそなたに魂を投げ出した筈じゃ」
「今宵はまた……」
 と大膳は、満更でもない顔で云った。
「ご冗談が長うございます」
「菊川も可哀想な」
 と石翁は、興がったように、構わずにつづけた。
「惚れた男を残しては、死んでも死に切れなかったろうに。大膳、時には供養をしてやっているか?」
 大膳は酔った中にも、ちらりと厭な眼をした。石翁は、大膳も見ているが、おこんの顔も眼の端から外さないでいる。おこんは、さり気ない様子をしながら、一心に話に聴き入っている。
「ご隠居様。もうお許し下さりませ」
 大膳は、それでも謝るように頭を下げた。
「はは、だいぶ弱っているから、このくらいで堪忍してやろう」
「どうぞ、お願いします」
「とかく色事は、はじめ好しの、終り悪しじゃ。菊川も、そなたを知らずにいたら、今ごろは大奥の中年寄として、無事に勤めていられたろうにな」
 石翁の云う意味ありげな話に、おこんは耳を澄ませていた。飲んだあとの盃を手に持ったままである。
「おこん、どうした?」
 石翁に云われて、はっとした。
「盃を大膳に返してやらぬか」
 じろりと見たものである。おこんは、あわてて、盃の雫を懐紙の上に切った。
「わしは、ちと用がある。おこん、大膳の相手をしておれ」
 石翁は、ぷいと座を立った。
 石翁は、廊下を渡って別室に戻ると、用人が待っていた。
「八丁堀より参っております」
「見せたか?」
 石翁は訊いた。
「ただ今、庭より立ちかえりました」
「呼べ」
 と云ったのは、下村孫九郎に直接《じか》に訊くつもりなのである。
 間もなく、下村孫九郎が恐る恐る入ってきた。はじめから頭を上げないのである。ひたすら石翁の威光に撃たれたような様子を示した。
「下村か」
「はっ」
 孫九郎は、畳に額をすりつけた。ここで何とか、挨拶を述べなければ、と思うが声が出ない。
「見たか?」
 石翁の太い声が落ちた。
「は」
 孫九郎が縮んで答えた。
「お申しつけの通り、孫九郎、お女中を拝見いたしました」
「何者か?」
 石翁が、同じ声で短く訊いた。
「は」
 と云ったが、石翁に気圧《けお》されて、どのように口を切ったらいいか、ちょっと迷った。
「早く云え」
 石翁は催促した。孫九郎は、うろたえて、
「は。あれなるお女中、たしかに手前、見覚えがござります」
 石翁は黙っている。
「前に一度、ご当家の駕籠先を乱した不埒者の詮議で御用を勤めましたが……」
「………」
「そのときに怪しいと見当をつけた若い男がござります。その男が、情婦と酒を飲んでいる現場に、手前、踏み込みましたが……」
 川に投げ込まれたことは云わない。
「その情婦とみえる女が、まさしく、手前、拝見したお女中でござります」
 石翁は、まだ沈黙を守っていたが、ふん、と微かに鼻を鳴らせただけである。その顔つきは、低頭している孫九郎には分らない。
「見あやまりではあるまいな」
 と、石翁の声は下りた。
「はあ、確《し》かと、いや、これは確かでございます。手前、一心不乱に見つめておりましたので、たしかなものでございます」
 石翁は、また黙っていたが、
「その若い男の名は何と云う?」
 と訊く。
「島田新之助と申す旗本の伜でございます。これは、船宿の女主《あるじ》を絞って、泥を吐かせたのでございますが、それにつきまして、殿様、申し上げたい儀がござります」
 孫九郎は一生懸命であった。
 それについて申し上げたい、と下村孫九郎は石翁に云い出した。ここで手柄になりそうなことを云わねば、と初めて身を乗り出した恰好だ。
「云うがよい」
 石翁は、無愛想に促した。
「その島田新之助と申します男の縁戚が、麻布鼠坂の上にございまして、島田又左衛門なる七百石取りのお旗本にございます」
「なに、島田又左衛門?」
 石翁の動かなかった眼が、はじめて動揺した。
「はい。島田又左衛門殿はただ今、無役《ぶやく》でございますが前には、御廊下番頭まで勤めた人物でございます」
 石翁は瞳《め》を沈めて聴いている。下村孫九郎の説明など聴いていない。そんなことは下村づれから聴かなくとも、石翁の方がもっと詳しく知っているのだ。
 いいや、島田又左衛門をその境遇に堕《おと》したのは、実は石翁自身なのだ。又左衛門は頑固で、ひとりで正義ぶっている男だ。そのころ、まだ播磨守といった石翁や、林肥後守の勢力に、何かと楯つくようなところがあった。無論、問題にもならぬ抵抗である。一吏僚の反抗など、歯牙にもかけることはないが、気に入らぬ男であることは確かだ。そんなものを要職につけて置く訳にはいかない。忽ち、林肥後守に云いつけて御役御免にしてしまった。
 島田又左衛門に連なってもう一つ、嫌な記憶がある。又左衛門の義兄|粕谷《かすや》市太夫は、又左衛門に輪をかけたような愚直な男で、これは石翁が自身で家斉を唆《そその》かして役目を罷免《ひめん》させた。当人は、それを悲憤し、廃人同様になって死んでしまったが。──莫迦《ばか》な奴である。
(そうか、島田の一族か)
 何か、万事、合点が行きそうである。
 合点の行かなかった脇坂淡路守の行動も、島田又左衛門と結びつけると、忽ち霧が霽《は》れたように糸筋が見えてくる。
「下村」
 と初めて石翁は、柔和な含み声で云った。
「はあ」
 孫九郎は、お辞儀をした。
「あの女は、おこんという名で来ている。当家出入りの植甚と申す植木屋からの世話じゃ」
「は」
「葛飾《かつしか》の百姓の娘と申しておったが、むろん、嘘であろう。身元を調べて参れ」
「委細」
 と孫九郎は、平伏して云った。
「委細、承知仕ってござります」
 孫九郎は、安心と感激で、泪に咽《むせ》ぶばかりであった。
 石翁が、客を待たせている部屋に戻ると、大膳は、上機嫌で、何やら、おこんに戯れかかっている。
 奥村大膳は、おこんの手を握り、何か話しているところだったが、石翁が部屋に入ってきたので、さすがに、手をそっと放した。大膳の顔は赭《あか》くなり、眼の中も酔っていた。
「大膳、酔ったな」
 石翁は笑いながら席についた。おこんを見ると、女は羞《はず》かしそうにうつむいている。
「おこん」
 石翁はやさしく呼んだ。
「大膳が何ぞわるさをせなんだか?」
 おこんは、うつむいたままで笑っていた。そこに一種の嬌態《しな》があって、邸の奉公人には見られない身体の雰囲気をもっていた。
「大膳はの、女癖の悪い男じゃ。気をつけるがよい」
「これは」
 と、大膳はあわてた。
「ご隠居様、お口が悪い。手前、迷惑仕ります」
「念のためじゃ」
 石翁は笑った。
「ま、そなたが喜んでくれて、わしもうれしい。今宵呼んだ甲斐がある。ところで、大膳」
「はあ。これは、またお嬲《なぶ》りでございますか?」
「そう恐れるな。すべて、客に呼ばれ、客を招く席では眼福《がんぷく》ということがある」
「眼福……眼の保養でございますな?」
「そうじゃ。名蹟、名画、名器の類いを見る。これは、何度、見ても飽かぬものじゃな」
「左様でございます。ご当家には珍重の逸品が集まっておりますが、いつぞや拝見仕った牧谿《もつけい》の一軸は何度拝見しても結構にござります」
「絵も佳い。しかし、いまわれらには、もっと眼の歓ぶものがあるわ」
「はて、何でございましょう?」
「分らぬか。大御所様より頂いた名筆じゃ。それ、そなたにも、いつぞや見せたな」
「ああ、あれを?……」
 大膳は膝を叩いた。
「なるほど、これは、ご趣向でございまするな。あの時は、手前、恐る恐る拝見いたしましたが、実は、かねてより篤《とく》と今一度、拝見仕りたいと思っておりました。これは願うてもない眼福でございまする」
「見たいか?」
「是非……」
「おこん」
 と石翁は、坐っている女に云った。
「少々、厄介なところに置いてある。取り出す故、そなた手伝ってくれ」
「はい」
 おこんは起ち上った。
「実は、この男の傍に、そちを置いておくと危いでの」
「ご隠居様」
 大膳が顔を上げた。
「心配するな。すぐに戻って参る」
 石翁は先に立って廊下を歩いた。おこんは雪洞《ぼんぼり》を持ってすぐうしろに随った。石翁の足もとが暗くならぬよう気をつけて行く。
 広い屋敷で、廊下をいくつも曲った。召使いの住む棟は別だから、ここは、むろんどの部屋も昏《くら》いはずであった。廊下には、かすかに風が流れている。
「ここじゃ」
 隠居は立ちどまって、杉戸を顎でさした。おこんは、
「はい」
 と返事をして、跼《かが》み、廊下に雪洞を置いて、両手で杉戸を開けた。
 石翁は、廊下の灯を自分で把《と》って、おこんを誘い入れた。
「仏間じゃ」
 彼は部屋の説明をした。
 八畳くらいの広さである。半分が上段になり、その奥に寺にあるような大きな厨子《ずし》があった。灯が黒漆の扉を照らした。
「これを」
 と云ったのは、おこんに手燭を持てという意味である。石翁は扉に手をかけ両方に開いた。
 金色が醒めるように眼を奪った。小さな照明の工合で一部分しか見えぬが、重ね合せた金箔は燦然《さんぜん》という形容がそのまま当てはまるように光っていた。
「将軍家ご先祖の御霊《みたま》と、わが家の先祖を祀《まつ》っている」
 隠居は云った。おこんの持った手燭が彼のうしろにあるので、大きな坊主頭の影が、金色《こんじき》の中で揺れた。
 おこんはそこへ坐った。思わぬ部屋に来て度を失ったというのが本当である。手燭を置いて掌を合せたのは、仏への礼儀であった。
 石翁は、礼拝するでもなく、そこに立って、いきなり厨子の奥にある阿弥陀如来《あみだによらい》の立像を両手で掴み、さし上げた。これも巨《おお》きくて金色の見事なものであるが、その台座の載っていた位置には桐油《とうゆ》紙に包んだ薄い細長いものが残っていた。
「おこん、これをとれ」
 石翁が、重い仏像を抱えたまま命じた。
「はい」
 おこんは起って、桐油紙の包みをとった。軽いので、内容は紙だけと分った。石翁は仏像を置いた。
「大切なもの故」
 と石翁は、妙に嗄《しやが》れた声を出した。
「ここに、こうして蔵《しま》ってある。安心じゃ。どれ、こっちにくれ」
「はい」
 おこんが包みを渡そうとしたとき、妙に荒い呼吸《いき》を感じて、はっとした。石翁の眼が光って、おこんの顔に逼《せま》っていた。灯がその半顔だけに当っているので、陰影が墨で描いたようにつき、凄い形相であった。
 石翁の眼が光り、荒い呼吸使いが逼った。おこんが、はっと声を呑んだのは、大坊主の図体が今にも山の崩れるように殺到する気配に見えたからだ。
 おこんは身体を縮めた。石翁は、まだ動かない。が、こちらが少しでも遁《に》げようとすると、その隙を風が舞い込むように、石翁の脚が伸びて来そうであった。
(あ、あ)
 おこんは口の中で声を出している。言葉が出ないのである。
 手燭の灯は畳に置かれたままである。厨子の金色が神秘をこめて奇怪に昏《くら》く光っている。声も音も外からは聴えない。
 石翁が動いた。
 あっと、おこんが眼を塞いだとき、石翁が立ち上っていたのである。
「は、ははは」
 はじけるような笑いが、この年寄りの口から出た。今まで、張り詰めたような空気が、その大きな笑い声で揺れた。
「おこん」
 おだやかに隠居は云ったものである。
「灯を持て」
 …………
 もとの座敷では、奥村大膳がひとりで酒を飲んでいたが、石翁が入ってくる姿を見ると、
「これはお早いお戻りで」
 と迎えた。にこにこしながら、そのうしろに随っているおこんの顔に素早い一瞥を走らせた。
「待たせた」
 石翁は大膳に云って、
「大事なもの故、ちと厄介なところに蔵っているでの」
 と無造作に桐油紙に包んだものを出した。
 大膳が、受け取って押し頂き、
「これは、ちと、お粗末なお扱いでございますな」
 と包みの紐を解きかけた。
「ばかめ。桐箱に入れ、いかにも大切そうに扱えば、誰に狙われるかもしれぬ。油断も隙もない世の中でな。かように油紙などにくるんでおけば、さしたるものではないと見遁すものだ」
 石翁が説明した。
「いや、これは恐れ入りました。ご隠居さまのお知恵、いつも凡人の意表に出ております。どれ、それでは、ゆっくり、眼を愉しませて頂きましょうかな」
 奥村大膳が包みを解いて中の書附をとり出した。紙は折り目がきっちりとついている。
 家斉自筆の遺言書きが披《ひろ》げられた。大膳は声を上げた。
「これ、これ。何にもまさる名蹟《めいせき》でございます。ご隠居様、これを見ておりますと、われらの天下が幻のように眼の前に泛《うか》んで参ります」
 おこんが思わず緊張するのを、石翁はじろりと見た。
「大膳、堪能《たんのう》したか?」
 と石翁が云ったのは、奥村大膳がためつすがめつ、眼でなめるように、大御所のお墨附を見た揚句であった。
「は。充分に」
 大膳は、恭《うやうや》しく頭を下げて云った。
「充分に、堪能いたしましてござります。俗に眼福を愉しむは三年の延命と申します。ましてや、得難き大御所様のお墨附……」
「これ」
「は、いや、こ、これは失敗《しくじ》りました」
 大膳はうろたえて頭に手をやったが、おこんは、つつましげにうつ向いていた。石翁はそれに一瞥をくれた。眼尻に皮肉な皺が寄っている。
「いや、なに、その、これほどの名蹟を再度拝見いたしまして……」
 大膳は云い直した。
「三年どころか、手前、二十年も永生きするような心地がいたします」
「随分と、永生きするがよい」
 石翁は、微笑《ほほえ》みをふくみながら、書附をとって、くるくるとたたみ、油紙を巻いて、膝の上でゆっくりと紐をかけた。
「おこん」
 と呼んで、
「そなた、これをもとの通りに蔵ってこい。場所は見せたはずじゃ」
 と包みをさし出した。
「えっ」
 おどろいたのは、当のおこんだけではなく、傍の大膳までが眼を瞠《みは》った。
「わたくしには、それは、あまりに……」
 品物が重大すぎるのである。手をつかえて辞退するのを、
「はて、わしが申している。落して壊れる焼ものならば格別、ただの紙じゃ。大事ない、蔵ってくれ」
「は……」
「なにを躊躇《ちゆうちよ》しておる。早く蔵って、ここへ戻って来い」
「はい」
 おこんは、仕方なしにそれを頂くようにうけ取った。指先がすこし震えていた。
 おこんが立って行くのを見送った大膳が、
「ご隠居さま。これは愕きました」
 と石翁を見上げた。
「お墨附を女中に持たせたことか?」
「ちと、ご磊落《らいらく》すぎるように存じますが」
「あの女中なら心配は要らぬ」
 と石翁が、笑いを含んで云った。
「大膳。そなた、あの女が気に入ったか?」
「これは……」
「いや、戯《ざ》れ言《ごと》ではない。そなた、菊川を失って寂しいであろう。何なら取り持ってやってもよいぞ。菊川に懲《こ》りたと申しても、なにも膾《なます》を吹くことはない……」
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