寺島のあたりには、植木屋が多く、道路からも、鬱蒼《うつそう》と茂った庭木が見えるのである。
与力の下村孫九郎が「植甚」を尋ねると、すぐに分った。枝折戸《しおりど》があって、庭石伝いに奥に母屋《おもや》が引込んでいる。風雅な商売なのである。
客かと思って、横合の松の木の間から出てきた男に、
「主人は居るか?」
と訊くと、庭男は孫九郎の風采を呑み込んで、すぐに奥へ消えた。
どうぞ、と案内されたのは、見晴しのいい庭で、主人の甚兵衛が挨拶に出て、どうかお上りなすって、とすすめたが、
「いや、ここでいい。眼の愉しみでな」
と、磊落らしく、縁側に腰かけたものだった。
「へえ、たしかに中野さまのお屋敷に、そのお女中をお世話したのは手前でございますが」
と植木屋の甚兵衛は、孫九郎の質問を聞いて答えた。
「そりゃ事実は、仲間《なかま》から頼まれましたんでね。手前の方は、それを信用して、当人をお屋敷の奉公人としてお願いしたのですがね。旦那、何か不都合なことが起ったのでございますか?」
「不都合というほどのことでもないが」
と孫九郎は言葉を濁した。
「ちっとばかり知っておきたいことがあるのだ。で、誰だね、その世話を頼んだというのは?」
「神田にいる六兵衛という鳶職でございますよ。腕のいい男で、お城のお屋根ご普請にも御用を承っている者です。気のいい奴でしてね。そいつが云うことだから、間違いは無えと思ったんですが……」
「神田の六兵衛だな」
孫九郎は、念を押して、その家の場所を詳しく聞き取った。
面白くなりそうだ、と下村孫九郎は植木屋を出て、神田に向う途中でも考えたことである。
おこんという石翁の邸の女中は、たしか島田新之助という若い侍の女だ。顔に見覚えがたしかにある。その女が石翁の屋敷に奉公しているからには、何か企みがありそうである。世話人の植甚は、神田の六兵衛から頼まれたという。その六兵衛を訊ねたら、およそ芝居の筋道が分るに違いない。
石翁に対する面目を回復するには、絶好の機会であった。よし、これは一つ、性根を据えて、じっくりと手繰ってやろうというのが孫九郎の考えであった。これで成功すれば、出世の蔓《つる》をつかんだようなものである。孫九郎が、ひとりで含み笑いが出て、脚が軽かったのも無理はなかった。
神田の地理には、八丁堀に近いだけ、もとより詳しい。彼は六兵衛の家を苦労せずに、探し当てた。
「今日は、あいにくと、宿が仕事に出ておりまして」
と、六兵衛の女房が、下村孫九郎の質問に答えた。
「わたしには、よくわかりませんが」
「はてな」
と孫九郎は、狡猾な笑いを見せた。罪人を調べるときに相手の言い分を疑ってみる。そういうときの顔つきであった。
「女房のお前さんが知らぬ筈はないがな。女中の口入れを植甚に頼んだのだ。その話、亭主から聞かぬわけはあるまい」
「いいえ」
と女房は、笑って首を振った。
「うちは、よそのご亭主とは違うんですよ。何もかも、ひとりで呑み込んで、勝手にやってしまうんですからね。ちっとでも、話をしてくれるといいんですが、まるきり関白でござんしてね。連れ添った昔からでございますよ」
「すると、その話は、まるで聞いていないというのか?」
孫九郎は、嘘か本当か、見極めるように女房の顔を見た。女房は真顔なのである。
「初耳なんです。どういうことなんでしょうねえ?」
「お前さんの亭主が、さる屋敷の奉公に、植甚の口利きで入れた女中は、触れ込みでは、葛飾の百姓の娘というのだがな、わしの勘《かん》では、富本節の師匠らしい」
孫九郎は、六兵衛の女房の反応を探るように、じろりと見たが、これにも彼女は平気であった。
「おやおや」
と、眼を瞠《みは》ったものである。
「そんな粋筋の女を世話したんですか。わたしに内証なんですね。宿と、なにか、係り合いのひとでしょうか?」
「うむ、もしかすると、お前さんの亭主の隠し女かもしれねえぜ」
孫九郎は、この女房、一筋縄ではゆかないと思ったので、今日は諦めることにした。
「今晩でも、宿が仕事から帰ったら、訊いておきます」
女房は答えた。
「もし、それが新|情婦《いろ》だったら、あたしも放ってはおけませんからね」
下村孫九郎は、一応、外へ出た。
こんなことでごまかされるものか、と彼は思った。石翁への忠義立てがある。自分を認めて貰う機会なのだ。捜索にかけては、仕事が念入りなので、評判をとっている男だった。
下村孫九郎は、道を歩いていると、向うから急ぎ足に来る女がいた。眉を落した中年女だが、孫九郎が、それとなく注意して、見送っていると、その女は六兵衛の家に入っていった。
これが六兵衛の妹のお文であるとは、下村孫九郎は知らないのである。
「来たか」
と、眼を光らしたのは、夕方、仕事から帰って、女房から八丁堀の与力が来たことを聞いた六兵衛である。
「植甚の方から廻って来たと云ったのか」
と話の念を押して、
「嗅《か》ぎつけたのかな」
と瞳を据えて呟いた。
「お前さん」
女房が心配して、
「若様に、早く知らせなくちゃア……」
「何処へ行きなすったのだえ?」
「麻布の殿さまのところだよ」
「そうか。じゃ、やがてお戻りなさるだろう」
「お役人は、明日出直して来るといってたよ」
「ここで、じたばたしたところで始まらねえ。話の相談は、若様が帰ってからのことだ。とにかく飯にしろ」
六兵衛は、しかし、女房の酌で、盃を持っているときでも、浮かぬ顔をしていた。
職人が、新之助が戻ってきたことを告げた。六兵衛は坐り直した。
「おや、お帰んなさい」
六兵衛が入って来た新之助へ挨拶して、
「麻布の方も、お変りはございませんかえ?」
「相変らずだ。元気なものだ」
新之助は六兵衛のつくった場所に坐った。
「今日は、お縫さんのことで、妙な話を聞いて来てな」
「妙な話? へえ、こっちにも妙な話が舞込みましたが。いえ、お縫さまのことじゃありません。豊春さんのことですがね」
新之助は眼を挙げた。
「気にかかる。先ず、そっちの方から聞こうじゃないか」
と微笑した。
「実はね、あっしの留守に、八丁堀から与力が来ましてね。嬶《かかあ》に、豊春さんのことを訊いたというんですよ。植甚の方から廻って来たと云ったそうだから、身元調べをはじめるつもりに違えねえ。若様、もしかすると、こいつあ、向島の方で勘づいたんじゃございませんかねえ」
新之助は、六兵衛の女房へ訊いた。
「与力は名前を云わなかったかね?」
「何にも」
と女房は首を振った。
「人相はどうだったね?」
「痩《や》せて、眼のぎょろりとした人でした」
「頬骨が高くはなかったかな?」
「そうでした。唇が厚くてね、ねちねちしたものの云い方をする人でした」
「それだ」
と新之助は、膝を打つようにしてうなずいた。
「そいつは、下村孫九郎という男だ」
「ご存じで?」
「よく知っている。そうか、あの男が来たのか」
新之助は思案する眼つきになった。
「どこから、身元が割れたのでしょうか?」
と、豊春のことを云ったのは六兵衛であった。
「それは石翁に違いない。さすが隠居だ、読み筋が早い」
新之助は眼を挙げて云った。
「少し嚇《おどか》してやったのだ。その小細工から気がついたのかもしれぬ」
「小細工?」
「菊川の浴衣だ。なに同じ麻の葉模様の別の品ものだが」
新之助はうすい苦笑を泛うかべた。
「そいつを庭の石に掛けて置くよう彼女《あれ》に云ったのだがね。石翁が見たら、胸にぎくりとくるだろうというのが狙いだ。つまり、それから騒ぎになる。その慌てかたを見たかったのだ。が、どうやら、これは、おれのいたずらがしくじったようだな」
「おこんさんが、危い目に遇うんじゃございませんかね?」
六兵衛は、豊春のことを云って、瞳《め》を沈めた。
「そういう危険はありそうだ。だがな、六兵衛。それで、かえって敵が|ぼろ《ヽヽ》を出してくるかもしれぬぞ」
「女には、危ねえ話ですね」
「女でも」
と新之助は笑った。
「おこんは、ただの生娘《きむすめ》ではないでな、あれは海千山千だ。それよりも、しっかりしているようで、危いのは武家の娘だ。この方が、よっぽど心配になる」
「お縫さんのことですか?」
と六兵衛も気づいたようだった。
「そうだ、今日、麻布の叔父のところへ話を聞きに行ったんだがね。それ、踏台の絵ときのことだ」
「おっと、そのこと。何だか分りましたかえ?」
「分った。この春、吹上の花見のとき、多喜という大御所お気に入りの中臈が踏台から足をすべらして転倒し、それが因《もと》で死んだのだ。お縫さんの機転で、実は、その踏台に蝋を塗っていたというのだ」
「蝋を」
六兵衛は、眼をまるくした。
「それも、お美代の方に気に入られたいための工夫だったんだがね。それで、どうやらお美代一派には近づくことができたのだが、面妖なことに、その細工した踏台が誰かに隠し場所から盗まれていたのだ。お縫さんは、当座、叔父に会って、大そう、そのことを気にしていたそうだが、今になって分ったよ」
「………」
「あれは添番落合久蔵が、隠し場所から見つけて、さらに別なところに隠したのだ。落合は、それを種に、お縫さんを脅かしているのだね。落合という奴、自分の思う通りにならぬと、次にどんなことを目論むか分らぬ。この方が、余程心配だ。六兵衛、わしも忙しくなる」
「怪しからぬ」
と声を荒らげて云ったのは、与力の下村孫九郎である。前にいる六兵衛の女房を睨みつけていた。
今日、改めて訪ねてきたが、六兵衛はやはり仕事に出ていて留守だといい、亭主に話したが、何の返事もなかったので、自分ではよく事情が分らない、という女房の口上を聞いて孫九郎は憤ったのである。
舐《な》められた、と思ったのだ。八丁堀の与力で、しかも仕事には切れると自負している彼が、屋根職などに軽く|いな《ヽヽ》されたと思うと、屈辱で怒りが湧いた。
「おい、おらあ子供の使いじゃねえぜ」
と孫九郎は捲き舌になった。
「これでも、お上の御用を勤めている北町奉行所附の与力だ。本来なら、六兵衛を呼び出して取調べるところを、お慈悲をかけて、おれの方から出向いてやったのだ。それに、掛取《かけと》りみてえに、亭主が何にも云わねえから分りませんで、済むかどうか、とっくに承知の上だろう。ようし、お上をそれほど恐れねえとは不届な野郎だ。亭主の六兵衛はもとよりのことだが、女房のおめえも縄かけて、しょっ引いてやるから、覚悟しろ」
「あれ、どうぞご勘弁下さいまし。今夜、亭主が帰ったら、きっと聞いておきますから、明日、また、お越し下さいまし」
六兵衛の女房は畳に顔をすりつけた。
「やかましい。明日《あした》来いの明後日《あさつて》来いのと、上《かみ》を愚弄するか。亭主が帰《けえ》ってくるまで、おめえを番屋に留めておくからそう思え」
孫九郎が、六兵衛の家の入口で真赫になって怒鳴っていると、孫九郎のうしろから肩をたたくものがあった。
「誰だ?」
孫九郎がふりむくと、若い侍が、にこにこして立っていた。
「下村氏。しばらくです」
あっと思った。下村孫九郎は眼をむき、顔色を変えた。自分を大川へたたき込んだ男が眼の前に立っているのである。
思わず、一足、退ったものだった。
「相変らず、お元気なようですなア」
新之助は笑いながら云った。
「いま、ちらと、あんたの声を聞いたんですが、いや、大きな声なので自然と耳に入ったのかな、どっちにしても、植甚から中野様のお屋敷へ出た女中のご詮議らしい。あれはね、わたしが一番よく知ってるんでね」
「………」
「というのは、彼女《あれ》は、わたしの情婦《いろ》でね。植甚さんには、わたしから頼んだんです。そうそう、あんたもいつか船宿の二階で、わたしといっしょのところを見た筈だ。……下村氏、ちょっと、そこまで出よう」
「ど、何処へ参るのだ?」
孫九郎は、おびえていた。
「下村氏、折角、ここまで見えたのだ。お送りするのが礼儀だ」
新之助は笑顔で云った。
「それには及ばぬ。構わないで貰おう」
下村孫九郎は、弱味を見せまいとした。
「いや、そうはいかぬ。わたしの情婦《いろ》のことで、わざわざおたずねに与かったのだ。だんだんと申し上げたい。これは、わたしに責任がありますでな」
孫九郎は黙った。半信半疑の気持でいるから、しゃべったら聞いておいてやろうという下心も動いた。
「丁度、秋日和だ。外歩きには気分が快《よ》くなりましたな」
六兵衛の家を出てから、孫九郎とならんで歩いている新之助が云ったものだ。他意の無さそうな、のんびりとした歩き方だが、孫九郎は警戒していた。もとより伴れになるには好ましい相手ではない。
「お役目とは云いながら、いろいろご苦労さまです」
|むっ《ヽヽ》としたが、新之助の顔は明るいのである。往来を歩いている人にも、彼は呑気そうな眼を投げている。
「それで、ご不審の筋は、どういうことなんでしょうかな?」
新之助は歩きながら訊いた。両人の間隔は離れていない。新之助の方が、孫九郎の身体に密着するように、より添っているかたちであった。孫九郎が離れようとしても、新之助がすぐに身体を寄せてくるのである。
孫九郎が圧迫感をうけるのは、この位置のせいでもあった。前に手痛い目に遇っている彼には、新之助が大きくみえて仕方がない。
「いや、ただ、念のためです」
孫九郎は曖昧に答えた。
「念のため?」
と新之助は切り返した。
「ははあ、北町奉行所では、屋敷奉公の女中の身元を、いちいち、念を入れて洗われるのか?」
孫九郎が返辞に詰まっていると、
「そうとしか考えられぬが、下村氏、それとも、これは中野さまから出たお指図かな?」
と追及した。
そうだ、とも、そうでない、とも孫九郎は云えなかった。そうではない、と云えば、では、何のために与力が身元を調べに来るか、と追い打ちをかけられるに決まっている。中野石翁は退官していて、現在、要職でも何でも無いのだ。
孫九郎は面倒と思ったし、あの女中と新之助の間を確かめたことだけに満足して、
「拙者は、ほかに用があるので、ここで失礼します」
と別れようとすると、新之助が袂を押えた。
「待って下さい」
新之助に袂を抑えられて下村孫九郎が、はっとしたのは、次に、右手首が新之助の左手で、しっかりと掴まえられていることである。強い力であった。
何をする、といって振りほどくのは出来ないことではないが、大変みっともないことになりそうな気がする。つまり、争いとなると、こちらが負けそうなのである。下手をすると、地面に匍《は》わされないとも限らない。実力の判っている相手であった。往来には、人通りがあまりに多すぎた。
「もう少々、ご一緒したい」
新之助は、顔で笑いながら、手の力はゆるめていなかった。よそ目には、仲のいい友だちどうしが、肩を寄せて歩いているように見える。
下村孫九郎は、顔色を失って歩いている。罪人の護送には慣れた男だが、今は逆な立場に立たされていた。
「たかが、ひとりの女中の身元を」
と新之助は世間話のような口吻《くちぶり》で云っていた。
「八丁堀の歴々の与力が、自身で詮議なさるのは、これはどういうのでしょうなア」
快活な話し方である。
「いや、これは泰平のご時世とうけとってよろしいかな?」
孫九郎は、額に汗をかきながら歩いていた。仕方なく歩かされていたというのが本当のところだ。眼をきょろきょろさせながら、往来の人間を見ている。知った顔の同心か岡っ引かが、通行人の中に居たら、合図して新之助に飛びかからせるつもりであった。
あいにくなもので、こういう時に、一人も出遇《でく》わさないのだ。もの売り、巡礼、駕籠かき、丁稚《でつち》、職人、馬子、それに女である。与力とはみんな縁が無い。
このままだと、新之助にどこまで連行されるか分らない不安が、孫九郎を動揺させ、朱房を懐から出して振り廻すつもりで身体をもがいていると、
「下村氏、どうかなされたか?」
新之助が覗き込むように腰を低くしたと思った途端、孫九郎は脾腹に衝撃をくらって意識が遠くなった。彼は地面に仰向きに埃を上げて倒れた。
「これはいかん」
と叫んだのは、新之助である。仆れた伴《つ》れの上にかがみ込んだものだ。
人通りの多い場所だから、この出来事に、歩いている通行人が眼をまるくして忽ち集まってきた。物見高い江戸っ子ばかりである。
「どなたか」
新之助は、周囲を見廻して云った。
「駕籠を呼んで下され、すぐ、医者に連れて行かねばならぬ」
老人が、のぞき込んで訊いた。
「お伴れが、どうかなさいましたか?」
新之助は、眼を笑わせた。
「|てんかん《ヽヽヽヽ》です。悪い持病でしてな」
とり巻いている群衆の中から、職人風の男が出て来て、仆れている下村孫九郎をのぞいていたが、
「お気の毒になア。旦那、わっちの草履でよかったら、ご病人の頭の上に乗せて頂きましょうか?」
と、新之助に申し出たものである。本当に|てんかん《ヽヽヽヽ》で倒れたものと信じたらしく、まじないをすすめたのだ。
「ありがとう」
新之助は苦笑してそれを断った。
「どなたか、早く、駕籠を呼んで下さらぬか」
合点だと走り出した男が、忽ち通りがかりの駕籠屋を連れてきた。
新之助は孫九郎の身体を抱き、駕籠に入れた。誰の目にも、親切な介抱にみえた。
「知り合いの医者が下谷に居る。そこまでいっしょに行ってくれ」
承知しました、と駕籠屋は棒鼻を上げた。
「お役人のようだが、可哀想に」
とか、
「親切なお友達だ」
などと人々は云いながら輪を崩して散った。
孫九郎は、駕籠の内で、おとなしく睡《ねむ》っているらしい。脾腹に、痣《あざ》ができるくらい、ひどく打ったので、当分、正気づく気遣いはないはずであった。
実際、良庵の家に着いても、孫九郎は、溜め息一つ洩らさなかった。
「これは、お珍しい」
出て来たのは、内弟子の弥助で、新之助に笑って頭を下げたが、うしろにいる駕籠屋を見て、
「おや、どなたか、お客さまでございますか?」
と訊いた。
「病人を連れてきた。弥助、良庵どのはいるか?」
「へい、おります」
「これか?」
新之助は、手で盃の真似をした。
「へい、いえ。すぐ、よんで参ります」
弥助がいそいでひっこむと同時に、良庵が奥から現れた。
「これは、見えられた」
と良庵は大きな声を出したが、顔も眼も真赤であった。
「まず、まず、上って下され」
「病人を抱えてきた」
新之助は云った。
「ちと、厄介な病人でな。当分、外に出しては困る病気だ。良庵どの、面倒を見て下さるか?」
「いいとも」
酔っている医者は即座にひきうけた。
「あれ以来、わしの留守がたたって、患家が減った。新規の病人を、周旋して下さったとは有難い」
下村孫九郎は眼を醒《さ》ましたとき、自分が思いがけぬ畳の上に寝転がされているのを知った。
まず、煤《すす》が黒い糸になって落ちそうな古天井が眼にうつった。これは、と気がついて首を横にすると、すぐ傍の赤茶けた畳の上で、新之助と医者とが酒を飲んでいた。
孫九郎は起き上ろうとしたが、脾腹に棒で殴られたような痛さを感じたので、顔をしかめて思わずうめいた。
「気づかれたようだな」
良庵が、にこにこして赭い顔を向けた。医者は盃と徳利を持って、孫九郎のところに近づき、
「丁度、二人では寂しいところだった。貴公、まず、一杯、如何じゃ?」
と盃をさし出した。
孫九郎は、腹を押えて、顔を歪めている。
「ははあ、痛みますか?」
医者は盃と徳利を放し、寝ている孫九郎の着物を、やにわに押しひろげた。
脾腹のあたりに、黝《くろ》い痣ができている。医者が指を当て、
「ここか?」
と強く押えると、
「う……」
と孫九郎は、眼をむいて口を開けた。
「痛い、痛い」
良庵が呟いて、
「よしよし、手当てをして進ぜよう。弥助、弥助」
と大声を出した。
「湯を沸かしなさい。罨法《あんぽう》の用意じゃ」
新之助が寄って来た。
「下村氏。失礼しました」
詫びるように、軽く頭を下げたものである。
「ところで、失礼ついでにお願いがある。貴殿、しばらく当家で暮して頂きたい」
「………」
孫九郎は、身体をびくりとさせたようだった。
「いや、ご不承とは知っているが、これはまげて、ご承引を願わなければならぬ。ゆっくりとお訊ねしたいこともありますのでな。そのため、手前、しばらくここで寄食《いそうろう》となります」
「やれやれ。口が二つふえて、もの入りじゃ。患家は減るし、銭は無し。尤も、酒だけは工面するが」
良庵が云った。
「下村氏。お訊ねしたいこと、まず、申しておきます。それでなければ、貴殿も、気にかかろう。ほかでもない、大川に流れていた女の水死体、麻の葉の浴衣をきていた筈だが、一旦、寺に埋めたものを貴殿の指図で牢死の扱いとして、非人にかつがせ、千住に捨てたことじゃ。いや、かくされても無駄、われらには分っていること。ただ、貴殿の口から、はっきりと承りたい。それから、それを誰にでも云えるようになって頂きたい」