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かげろう絵図(下)~雨

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  雨「いつぞやの与力が」 と石翁が用人を呼んで訊いたのは、今朝のことである。「何ぞ云いに来おったか?」 石翁としては気
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   雨
 
 
「いつぞやの与力が」
 と石翁が用人を呼んで訊いたのは、今朝のことである。
「何ぞ云いに来おったか?」
 石翁としては気になるらしい。あれから三日経つが、音も沙汰もない。
 そう面倒な調査でもないのに、何をやっているのか。
 用人が、首を傾《かし》げて、未だ来ないと答えると、
「呼んで来い」
 と命じたのである。
 あの木ッ端与力め、と石翁は肚で呟いていた。大事な仕事だと思って、糞《くそ》丁寧にやっているのか。そのために暇どっているのかもしれない。もの欲しげな出世欲が面《つら》つきに出ていて、石翁が、いちばん軽蔑している型なのだ。
 上は大名から、下は小役人まで、どうしてこう出世亡者が多いことか。大名たちを翻弄《ほんろう》し、くれる物は、どしどし取り込むのが隠居の趣味であった。下村孫九郎などは、塵《ちり》一つにも値せぬ男だが、こっちの望み通りに働かせた上で、放り出すつもりで隠居は居る。
 夕方近くだったが、下村孫九郎の消息は、石翁が庭を歩いているときに、届いた。
 用人が来て、
「与力のことでございますが……」
 と畏《かしこま》った。
「うむ?」
「使いを出しましたところ、三日前より何処に参りましたやら、行方が知れぬそうにございます」
「帰らぬのか?」
 はじめは、仕事のためかと思った。
「役宅にも帰らず、役所にも姿を見せぬ由でございます。そこで、奉行所の方をひそかに探らせましたところ、本人からは何の報らせも無いので、いま、心配して、こっそり探しているそうでございます」
 下村孫九郎に命じたことは、むろん石翁の個人的なことで、孫九郎が奉行所の上役に連絡しているはずはなかった。それに、功名心の強い孫九郎のことだから、この内証の仕事を誰にも告げる気遣いもなかった。
 連絡の無いままに消えた下村孫九郎を、奉行所が心配しているのは、そのためである。
(三日も戻らぬとは……)
 むつかしい仕事ではないのだ。下村孫九郎ほどの者なら、一日で片づく調査ではないか。
 石翁は腕を組んだ。
(もしや……)
 もしや、見えぬ敵の手が下村孫九郎を拉致《らち》したのではないか。
 そうだとすると……
 石翁の眼が険しくなった。
 用人が、気遣わしそうな顔をして、
「下村のこと、もしやご当家で命じたことで、変事が起ったのではございませぬか? それならば、別な人間に申しつけ、事情を探らせてみましょうか?」
 と主人の顔を見上げた。
 石翁は池の水面を眺めていたが、
「今夜あたり雨かな?」
 と呟いた。
「は?」
「ひどくブトが集まって舞っている。天気の崩れる前じゃ」
 と関わりのないことを口に出したが、
「その必要はあるまい」
 と云ったのは、用人への返事であった。
「捨てておいてよかろう。そのうち、向うから沙汰があるかもしれぬ」
「はあ」
 用人は一礼して主人の傍を離れた。
 そのうち沙汰があろう、というのは、無論、奉行所からという意味ではない。下村孫九郎自身か、でなかったら敵方からという含みなのだ。敵が下村を押えていたら、必ず何かのかたちで出てくる。下手に奉行所をつつくよりも、その方がずっと利口だ、と石翁は考えている。
 石翁は庭を歩き出した。愉しむためのものではない。考えながら歩いているのだ。
 鋏の音が、樹の間からしていた。
 これだけの広い庭だし、殊に凝り性だけに植木屋が、毎日、何処かで仕事をしている。十人ぐらいは必ず散っているのである。
 歩いている石翁の眼が、ふと、或る場所にとまった。葉の繁った松の木の上に、職人がひとり葉を剪《つ》んでいる。
 若い職人というのは、その身体つきで分った。頬被りをして鳥のように枝の上にうずくまっているのである。
 石翁は、じっと下から、その職人の姿を見上げていた。
 樹の上の職人は、石翁の視線を感じたのか、ふいと下を向いた。頬被りしているから、眼だけがのぞいている。その眼が、下の石翁を見つめていた。
 二つの視線は上と下の距離を置いて、互に絡み合っていた。石翁も動かず、樹上の職人も動かなかった。
「ふむ」
 と声が洩れたのは石翁の方が先であった。隠居が大声で叫ぶ前に、上の職人の身体が動いて、樹の枝を渡って移った。
(出合え!)
 石翁はそれを口に出すところだった。
 が、頬被りの男の方が、枝を動かし、するすると遁《に》げて行った。葉が騒いでいるだけである。
 
 来た。石翁には、来たという感じであった。
 外には雨の音が強い。夕方から降り出したのだが、夜中になってひどくなった。
 この女中部屋には四人が一緒になって寝ているが、それぞれの寝息がつづいている。ひとりだけ眼をさましているのは、おこんで、これは夜のふけるのを蒲団の中で、さきほどから待っていた。
 胸が騒いでいる。何かを決行する前の気持の昂《たかぶ》りでじっとして身体を動かさないのが苦しいくらいであった。
 おこんは、そっと起き上った。
 朋輩は、よく眠っている。昼間の働きで、夜は丸太を転がしたようなものだった。
 おこんは、手早く着物を着更えて、帯をしめ直した。まさかのときの用意だった。襖をそっと滑らして廊下へ出た。
 用所に行くふりをしているのだが、方向は違っていた。手燭の明りをたよりに廊下の角を曲った。
 雨戸のすぐ外は庭なので雨の音がいっそう大きく聞える。風が少しあるとみえて戸を殴るように打っているのだ。
 その音が遠くなったのは、おこんの歩いている廊下の位置が、ずっと奥まったところに入り込んできたからである。
 この方角の進み方には誤りはなかった。前に、石翁に連れられて来たし、すぐあとでは、お墨附を入れた大事な包みを、もとの場所に納めさせられたものだ。そのときに、しっかりと眼で方向の順序を覚えておいた。
 この大きい屋敷全体が睡っているのである。外の、雨と風だけが起きて騒いでいるのだ。おこんは、廊下が鳴らぬよう、ゆっくりと歩いた。
 見覚えの杉戸のところへ来たとき、彼女は思わず吐息が出た。始終、息を呑んでいるような状態で、苦しいのである。
 それから、念のために、耳を澄ましたが、無論、人が歩いている気配はない。彼女は杉戸に手をかけた。音を立ててはならなかった。
 ようやく、身体が入れるだけの隙間を開けると、内部《なか》の重い空気が顔に流れてきた。かすかに線香の匂いがするのは、夕方に燃えたものが、空気にまだ残っているからである。
 おこんは、激しく鳴る動悸をしずめるのに苦労だった。ここまでくると雨の音も聞えず、彼女の呼吸《いき》が自身の耳に伝わるくらいだった。
 少しずつ奥に進んだ。寺のような大きな仏壇がある。おこんは、真黒い厨子《ずし》の扉に手をかけた。それはかすかな音を立てて開いた。金色のものが闇の中に沈んで現れた。
 阿弥陀如来の仏像が、気味の悪い赤ん坊のように立っていた。この下に、彼女が、この危険を冒してまで狙う包み紙がある。慄えそうな手で、彼女は仏像を動かした。
 仏像は動いた。
 おこんは、その台座の下に手を入れた。指に触れるものは、ざらざらとした木目《もくめ》だけである。指が慌てた。
 無い!
 あの紙包みが無いのである。たしかにあの夜、石翁が取り出し、自分の手でそこに納めたお墨附の包みが指に当らない。
 はっとしたのは、自分が相手の罠《わな》にかかったのではないかということだ。
 闇の中で、顔から血の引く思いであった。おこんは、仏像を置くと、じっとその場にすくんだ。この闇のどこかに、誰かがひそんで、こちらの行動を見つめているような気がしてならない。
 何秒かの間、彼女は動かないでいた。耳鳴りがする。胸には動悸が破れるように搏《う》っている。今にも、思わぬところから、人間がとび出して来そうであった。
 長い時間だったが、実際は、それほどではなかったかもしれない。
 声も聞えず、足音も起らなかった。
 思い違い──と思ったのは、無論、かくし場所のことではない。罠ではなかったかもしれぬということだ。石翁が、あとでお墨附の入れ場を変えたのかもしれない。
 女中に見られたのを不念《ぶねん》と思って、変更したのかもしれぬ。気性の大きい男だが、やはり大事なものだけに、気をつけたとも考えられるのだ。
 おこんは、|ほっ《ヽヽ》とした。かすかに安心が戻ったが、同時に失望した。
 折角、あれほどの獲物があったと喜び意気込んだのだが、これでは、手も足も出ぬ恰好になった。今後、再び、あれを発見することは容易ではない。折角のものが、彼女の手から遁げてしまった感じであった。
 闇の中は、相変らず死んだように音を消して沈んでいる。何も耳に聞えないことが、今度はおこんに恐怖を湧かせた。
 おこんは、寸時も此処にうずくまっているのが耐えられなくなって、身を起した。逃れたい気持が起ると、背中に恐怖が逼《せま》ってくるものだ。
 彼女は厨子の扉を慄える手で閉めた。かすかな音が、ぎいと鳴る。それが耳に響くくらい大きく聞えた。
 音が熄《や》んだのちも、耳を澄ませたが、別段の変化は無い。今のうちだ、という慌しい気が、彼女を遁げる動作に駆り立てた。
 杉戸も無事に閉めた。
 手燭をたよりに、おこんは廊下をもとの方へ急いだ。怕《こわ》いものが後から追って来そうなのである。何か、非常に危い立場に自分が立っていると初めて判った気がして、後悔が起きた。
 おこんは廊下の最初の角を曲った。
 左右とも杉戸が立っているが、これは多勢の客を受ける以外、滅多に使わない部屋である。
 廊下の突当りは、諸道具を入れている部屋で、来客のために、蒲団だの座蒲団だの、そのほか、こまごました接客用の道具が納《しま》ってある。
 その杉戸の正面にきて右に曲る。いや、曲ってすぐだった。
 がらりと音がして杉戸が開いたものだ。
 死んだように静かな家の中だから、この物音はひどい。
 あっ、とおこんは肝を冷やした。身体が一瞬に凍ったのだが、次には、何かの力が、うしろ衿にかかって引き戻された。
「あ、あ」
 声も出ないうちに、咽喉輪《のどわ》に腕を捲いてしめつけられ、そのままうしろに引きずられた。
 おこんの持っていた手燭は、誰かの強い息が吹きかかって消えた。
 杉戸が閉ったとき、彼女の身体は突き放され、柔かいものに当ってよろけた。
 闇の中だが、真黒いものが、おこんの正面に立ち塞がっていることが分った。怯《おび》えて、うしろに退《さが》ろうとしたが、これは積み上げた蒲団の壁に当って邪魔された。
 喘ぐ息が、おこんの口から切羽詰ったように洩れた。
「ふ、ふふ」
 動物の啼くような忍び笑いが、おこんの耳に入ったが、それが次第に弾《はじ》けるような笑い声に変った。おこんが動顛《どうてん》したのは、それが奥村大膳の声と分ったからである。
「は、ははは。やって来た」
 大膳は暗い中に仁王立ちになって云った。
「おこん、と云ったな?」
 おこんは身体をすくめて、うずくまり、防禦の姿勢を構えたが、胸が嵐のように騒いだ。
「ご隠居の申された通りじゃ」
 大膳の痰《たん》に絡んだ声がしゃべった。
「そちは、唄もうまい、三味もうまいが、忍びもうまいな」
 覚悟はしたが、これを聴いたとき、おこんは絶望で力が抜けた。
「はは。おどろいたであろう? わしが此処に居ようとは思わなんだろうな?」
 大膳は、少し身体を動かした。
「ご隠居の仰せじゃ、今宵、泊れと申されてな、わざわざ、そこの広い客部屋にひとり寝かされていたのを、そちは知るまい。そのとき、そちのことを聞かされて、仏間に忍んで参るかも知れぬと、心待ちに待っていたのじゃ。案の定、ご隠居の察しの通りじゃ」
 大膳は一歩すすんだ。
「おこん、誰に頼まれた?」
「………」
「おこん、誰に頼まれた?」
 奥村大膳は、もう一度云った。暗い中で彼の身体が揺ぐように動いた。
 おこんは黙っている。食いしばっても、歯がかすかに鳴った。
「仏間に忍びこんだからには、何かを狙ったに相違あるまい。奇特に、線香を上げに深夜に参ったとは、よも言い訳できまい。そちが取りたいものは、勿体なきことながら大御所様のお墨附。これ、おこん、天をも憚《はばか》らぬ不届者とは思わぬか」
 大膳は、また一歩近づいた。
「かような大胆不敵なことをするからには、女のそちの一存ではあるまい。当家の奉公も、その下心あってのこと。さあ、誰に頼まれて、当家に忍び入った? おこん、返事をせい」
 大膳は叱咤《しつた》しているが、その声は妙に息切れがして聞えた。
「だ、誰からも……」
 おこんは、ようやく口を利いた。
「頼まれたのではありませぬ。つ、つい、うかうかと、迷い入りました」
 笑い声が大膳の口から洩れた。
「迷ったのか。子供の云うようなことを申す。おこん、誰から頼まれた? それを云え」
 声が無かったので、大膳は苛立《いらだ》ったように近づいた。おこんの遁《に》げ道は、蒲団の山や道具で塞がれている。
「ご隠居は……」
 と大膳は近いところで云った。
「何もかも、見通してござる。そちが眼を晦《くら》まそうとしても追っつかぬ話じゃ。わしは、そちの吟味を隠居から任されている。おこん、そちも、これほどの不敵な仕事を頼まれた女じゃ。まさかのときの覚悟はあろう。さあ、潔く口を割れ」
 大膳の手が、おこんの肩をつかんだ。
「あ」
 おこんが避けようと精いっぱいに退るのを、大膳は引きすえるように強い力で押えた。
「い、云わぬか?」
 大膳の荒い息が、おこんのすぐ横から聞えた。
「わたくしは……」
 おこんは喘《あえ》いだ。
「何にも知りませぬ。どうぞ、お宥《ゆる》し下さりませ」
「知らぬ?」
 大膳が鼻で嗤《わら》った。
「強情な女。知らぬと飽くまで白《しら》を切るなら、痛い目に遇わせてやろう」
 大膳は、おこんを一旦、突き放すと、しばらく動かずにいた。
 これから、どう料理してやろう、と思案しているみたいだった。一本一本指の骨を鳴らしているようだった。
 外の雨の音が微かに聞えている。おこんは胴震いした。
 
「雨か」
 と横たわったまま呟いたのは石翁で、さきほどから寝苦しい様子だった。
 横に臥せている妾が、眼をさまして、これも外の雨が耳に入ったらしく、
「よい音」
 と云った。
「一雨ごとに、秋が闌《た》けてゆきます」
「うむ」
 石翁は気の無い返事をして腹匍っていたが、
「莨《たばこ》をくれぬか」
「はい」
「雨のせいか、どうも今夜は蒸すようじゃ」
 起き上った妾は、枕元の莨盆の灰を掻き、埋み火を探して、煙管につけたが、石翁が云うほど蒸し暑いとは思わなかった。
「いま、何刻《なんどき》であろう?」
「はい」
 と妾は返事したが、睡っていたので、よく分らない。八ツ(午前二時)ごろだろうと推量を云ったが、
「いや、九ツ(午前零時)だ」
 と隠居は訂正した。眼をさましていて、数えたように正確に聞えた。
 年寄りだから、夜中に眼をさます癖はあったが、今夜は、それとは違う。なにか気になることがあって寝つかれない、というふうだった。
「おい」
 と隠居は急に云った。
「何か、向うの方で音がせぬか?」
 煙管を宙に持ったままである。
 妾は耳を澄ませたが、雨音だけで別段のことはない。
「いいえ」
 と首を振ろうとした途端、微かだが、遠くで杉戸でも閉まるような音がした。
「あれ」
 と妾は顔色を変えて、石翁の方へすり寄った。
「何でございましょう?」
 石翁の眼が、薄暗い中に光っていたが、それには返答せず、気づいたように吸い口を唇に持って行った。
 音は、それきり聞えぬ。
「咽喉《のど》が乾いた」
 と隠居は自分のことを云った。
「水をくれぬか」
「はい」
 妾が立ち上ろうとしたとき、やはり遠くで微かな音だったが、がたがたと戸が鳴った。
 妾が、うろたえて、また坐ると、怯えたような眼で石翁を見た。
「な、何の音でしょう?」
 石翁が煙管を叩いた。
「なんでもない。鼠でも走っているのであろう。気にするな」
 
「強情な女」
 と云ったのは、奥村大膳で、おこんの黒い姿を目の前に見据えて吐息をついた。
「おこん、この期《ご》になって遁れは出来ぬぞ。わしはご隠居から、どのような責め方をしてもよいと云いつかっている。かりにも、お墨附を盗もうとした大罪人じゃ。表向きの吟味でも死罪になるのは必定じゃ。そちは、少々、甘く考えているようだな」
 大膳の声には、満更、威しばかりでもない調子があった。
「死罪──」
 と大膳は、自分の言葉に気づいたように、
「おこん、死罪は奉行所だけにあるものと思うな。たとえば……」
 と、一息つくようにして、
「当屋敷でも、無事に生きて出られぬかもしれぬ。ここで殺されても、誰も知らぬ。もし仮りに気づく者があっても、奉行などには手の出ぬことじゃ。ご隠居の威光は、老中衆でさえ憚《はばか》っている。これは、とんと公方《くぼう》のようじゃ。そちの身体を闇から闇へ葬るぐらい、朝飯前のことよ」
 大膳が何を云っているのか、おこんには分った。菊川殺しのことは新之助から聞いて知っている。彼女は、胴震いした。
「おこん、なにも、わしはそちを殺そうとは思わぬが……」
 大膳は効果を確めたように云った。
「あまり強情だと何をするか分らぬぞ。さあ、素直に申せ。ありのまま白状すれば、そちは無事にここを出られるのじゃ。さあ、云え、誰に頼まれた?」
「し、知りませぬ」
 おこんは叫んだ。
「殺されても、知らぬことは申せませぬ」
 大膳は、身もだえている女の気配を闇の中で見つめて、黙っていたが、彼の吐く息が荒くなった。
「ふむ、殺されてもか……」
 嗄《しやが》れた声が彼の口から洩れると、不意に、木が倒れるように、彼の身体がおこんの上に落ちた。
「あ、ああ」
 おこんの首が大膳の腕の中に締めつけられ、顔が男の頬に引き寄せられた。身体のもがきを大膳の脚が押えつけた。
「おこん」
 大膳は汗を流し、嵐のような息を吐いて云った。
「ただ殺すのは惜しい女。白状せねば、どのような苦しめようもあるぞ」
 おこんは咽喉に絡んだ太い腕で息苦しく、口をいっぱいに開けて、顔を仰向けた。
 その顔を、脂と汗でねっとりと濡れた大膳の顔が、力ずくにこすりつけてきた。
「は、放して」
 おこんは、大膳の脂でぬるぬるした顔から遁《のが》れようとしたが、男は彼女の身体を羽交《はがい》締めにした上、その頸《くび》を放そうともしなかった。
「これ、おこん、静かにせい」
 大膳は、荒い息を犬のように吐いた。
「ここで、白状すればよし、白状せぬときは……」
「云えぬ。知らぬことです。な、なにをしようとするんです。早く、放して」
 おこんが藻掻《もが》くたびに、女の体と臭いとが、大膳の心の底を揺すぶり、掻き立てた。
「おこん!」
 大膳は気違いのように吠えた。
「あ、ばか!」
「ほう、莫迦《ばか》と申したな。莫迦でもよい。どうせ、そなたは、このわしの手にかかって死んでゆくもの。わしの存分にしてやるのだ」
「い、いや。いっそ、殺して」
 おこんは身体を夢中に動かしたが、あがけばあがくほど、大膳を逆上させた。
「ふむ。そちは誰に頼まれたか知らぬが、憎い諜者じゃ。むろん、殺さいでか。殺しても、世間には知れぬ」
 髪が乱れ、それが大膳の鼻や口を撫でた。彼の息はいよいよ気忙《きぜわ》しいものになった。
「だがの、おこん。ただでは殺さぬぞ。わしはそちが好きじゃ。初めて見たときから好きだった。どうじゃ、ここで、わしの思い通りに、ならぬか。ご隠居の手前は、わしがどうでも、とり繕《つくろ》ってやる」
「いや。死んでも、誰がお前のようなものと……」
「ふふ。そろそろ下町女の気性を出したな。そこがよい。そこが無性におれには堪《こた》えられぬのじゃ。さあ、暴れてくれ。暴れるほどおれは気持がよい」
 灯の無い、真暗い場所でのうごめきであった。大膳は、おこんを動かさなかった。
「顔が見えぬが残念だが、そちの柔かい頬も、唇も、おれは勝手に吸えるぞ。さあ、この通りじゃ」
 大膳が激しく顔をすりつけてくるのを、おこんは手を突張って遮った。
「きたない。けだもの!」
 その手を大膳が自分の片手でゆっくりと外した。男の強い力には敵わなかった。
「ふう。柔かい、可愛い指をしているのう。どれ、おれにこうさせろ」
 大膳は、おこんの指をつかむと、一本一本、唾の溜った口の中に入れて、べろべろなめはじめた。
「いや、畜生!」
 おこんが手を引っこめようとしたが、力が及ばない。大膳は、女の指を口の中に入れ、舌で味わい、歯で咬《か》んでいた。
 指を男の力に握られて、おこんはどうすることもできなかった。大膳の気味の悪い、べとべとした口の中で自由を失っていた。
「う、う」
 大膳は奇妙な声を出した。突然、口から指を放すと、おこんの顔に、のしかかってきた。
「いや」
 おこんは、ようやく左手で男の顎を突き上げたが、
「あ、あっ」
 と悲鳴を上げたのは、その手に大膳が咬みついたからである。
「こうなった上は、悪あがきするな。おこん、往生しろ」
 大膳は女の身体を締めつけた。
「ち、畜生。だ、だれが……」
 おこんは叫んだが、抵抗は塞がれていた。肥えた男だけに、ひどい力なのである。それでも、相手の顔を避けようと、首を激しく左右に振ると、不意に頬が鳴って、灼《や》けるような熱さを感じた。
「あっ」
 大膳が殴ったのだ。
「おとなしくしろ」
 おこんは顔が痺れ、反りかえるように上体を大膳の腕の中で曲げた。髪が崩れて、簪《かんざし》と櫛《くし》が落ちた。
 大膳の汗が、おこんの顔にぼとぼとと滴った。おこんは眉をしかめ、鼻翼《こばな》で逼った呼吸をし、唇を開けて喘いだ。
 犬のような男の激しい息遣いが、この暗い中に高く聞える。おこんの反った背中が、ほとんど下につくくらいに曲った。男の手が、着物を剥ぎはじめた。
「あれ、あ、ああ……」
 もう、駄目かと思った。必死に身体を捻じ曲げようとして、下に突いた片手が冷たい物に触った。落ちた簪で、銀づくりの長い脚がついていた。
「はあ……」
 大膳は全身で荒い呼吸をし、苦しげに溜め息を吐きつづけた。おこんの裸になった肩に彼のべっとりとした掌がかかり、そのなめらかな皮膚をしばらく撫でて賞玩していた。そのために、おこんの片方の手が何をしているのか大膳には分らなかった。
「うむ、もう……」
 大膳が狂ったような勢いで、おこんの身体に密着しようと押し倒しにかかってきたとき、おこんの手が相手の顔を見当に、下から伸びた。
「ぎゃあ」
 大膳の身体が、横に転んだ。得体《えたい》の知れぬ飛沫が、おこんの顔にもとんだ。
「う、う、う」
 大膳は転んだまま、もだえている。
 おこんは、起ち上ると、大膳の横をすり抜け、杉戸を開けて廊下に出た。手には大膳の眼球《めだま》を刺した、血塗《ちまみ》れの銀簪が握られていた。
 腹匍って莨《たばこ》を喫っていた石翁が、不審な眼つきになったのは、物音でなく、人の叫びを一声聞いたからである。
 つづいて戸が開く音がし、廊下を逃げる跫音《あしおと》が耳に入ったとき、隠居は莨を放り出して床から起き上った。
「手燭」
 と横の妾に命じた。
「早く」
 と急がしたのは、石翁が短気を出したときの声だった。
 手燭の灯が横になびいて消えるくらい、廊下を大股で急ぐと、やがて微かな呻《うめ》き声が近くなってきた。
 ふだん、不要な道具を納っている部屋の杉戸が半分開いたままになっているので、声の場所はすぐに分った。
 石翁は入口に一旦とまった。動物のようにうごめいているのは、女ではなく、はっきり奥村大膳と知れた。
 ゆっくりと入って、手燭をさし出すと、大膳のうずくまっている黒い背中が照らし出された。
「大膳、どうした?」
 石翁は声をかけた。
「う、う。ふ、不覚を……」
 大膳はうつむき、両手で顔を掩っていたが、絞り出すような声を出した。
 石翁のうしろからついてきた妾が、怖れるように大膳の姿を覗いていた。
「不覚とは?」
 石翁は一歩寄った。
「め、眼を……」
 大膳は、まだ肥った身体を縮めていた。
「眼をどうかしたのか? どれ、見せろ」
 石翁は大膳の衿首《えりくび》をつかむようにしてひき上げた。
 下に向っていた大膳の顔が、それにつれて仰向きになったが、灯に映し出されたその形相《ぎようそう》を見て、さすがの石翁もぎょっとなった。
 右の眼が、ほおずきをそのまま嵌《は》め込んだように真赫《まつか》で、それから血が頬から顎にかけて噴き流れている。それを掩っていた掌も、血がいちめんに塗られて、指の間から流れ落ちていた。
 妾が、一眼見て、悲鳴を上げたくらいである。
「うむ、これは、ひどい」
 何とも醜悪な大膳の顔だった。片眼が潰れ、血が眼窩に溢れ落ち、そこだけ赤い紙をべっとりと貼ったようだった。
(簪だ)
 石翁は直感した。
「医者、医者を呼べ」
 石翁は妾に口早に云うと、自分の帯を解いた。大膳は畳に血を滴らせ、ひいひいと呻吟《しんぎん》している。
 石翁が解いた帯で大膳を眼かくしして縛りながら、
「誰か参れ」
 と大声で叫んだのは、逃げた女の手配をするためである。
「馬鹿め」
 石翁が口の中で罵ったのは、奥村大膳に向ってである。
「ばかな奴」
 腹が立った。しかし、その憤懣《ふんまん》は、大膳の|へま《ヽヽ》に対してか、それとも、おこんに今まで戯れていた彼への腹立ちか分らなかった。
 女中どもが来て、奥村大膳を扶《たす》け起し、みなで手を取ったり、肩を抱えたりして別の座敷に移している。
 眼かくしされた大膳は、相変らず低く呻きながら、腰を屈めて、女中たちに連れられて歩いていた。
 その哀れな様子を見て、
(何という態《ざま》だ。見苦しい)
 と石翁は唾を吐きたくなった。あのぶんでは片目の失明は免れまい。
 家来が廊下を走ってきて、
「おこんの姿は女中部屋には見えませぬが」
 と告げた。
「そうであろう。ほかの手配は?」
 石翁は、むっつりして訊いた。
「表、裏とも門のあたりに人数を配っております」
「間に合うかな」
 石翁は呟いた。
「いや、それは。相手は女でございますから」
 家来が主張しようとするのに、石翁は不機嫌にじろりと見て返事をしなかった。
「いま、ご邸内を探しております。雨が降っておりますので、軒の下などに忍んでいるかも分りませぬ」
「粗漏《そろう》なく探せ」
 石翁は短気に云った。
「はっ」
 家来は、石翁の不機嫌に慴《おそ》れたように走り去った。
(もう、遁げたかもしれぬ)
 石翁は何となくそう思った。そんな気がするのは、小さいことだが、近ごろ手抜かりがつづいているからだ。
 それが、もっと大きな手抜かりを暗示しなければいいが。
 漠然とした不安を感じた。
 女中が来て、
「お医者さまが見えました」
 と知らせたので、一室に行くと、大膳が仰向きに寝ていて、医者の手当をうけていた。小さな水|盥《たらい》は血で真赤になっていたし、大膳は、大きな声で、痛そうに哭《な》いていた。
 灯を寄せて、大膳の患部を覗きこんでいた医者が、布きれで血をしきりと拭いながら、首を傾《かし》げていた。
(大膳め、不具になりおった)
 これでこいつも、役に立たぬわ。──石翁は哀れな脱落者を立ったまま見下ろしていた。
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