愛 欲 の 文
落合久蔵は、登美に逢えないので苛々していた。
近ごろ、登美の感応寺代参のお供が多いのも、彼の焦燥の原因の一つでもあった。
いつぞや、神田の六兵衛が来て、嚇《おどか》されたが、そんなことで引込む彼ではない。いや、そのような邪魔が入れば入るほど、執心は募るばかりである。
何とか隙をみつけて、登美を引込もうとするのだが、彼女は、繁々と、年寄佐島や、中年寄広川の供をして感応寺詣でに精出している。
この一行は刻限ぎりぎりには、お城に帰ってくるのだが、登美はそれきり部屋に入ったまま、前のように庭などに姿を見せなくなった。
それに、佐島や広川にひどく気に入られている様子で、用の無いときは、その部屋に始終入りびたっているらしい。
こうなると、足軽にも等しい御家人の添番は哀れなもので、いくら奥仕えといっても、男では登美の部屋に行くことも出来ず、誰かを使って呼び出すことも出来ない。
以前には、登美の方から、逢う機会をつくるように、さり気なく中庭あたりに姿を見せたものだが、そのことは、さっぱり今では無くなってしまった。
(見限られた)
というのが、久蔵の憤懣《ふんまん》の一つである。
それから、寺詣りということも、彼の心を攪乱《こうらん》した。
奥女中の代参の秘密が、およそ、どのようなことか、彼のように代参の供廻りをする者には察しがついているのだ。
加持祈祷と称して、奥女中どもが、奥の院で長い時刻《とき》を過している。出て来て駕籠に乗るときに見ると、役つきの女中どもは、いずれも、顔は赧《あか》く上気し、汗ばんでいるのだ。玄関では坊主どもが出て、見送りに平伏しているのだが、女中の眼が、ちらちらと未練気に役者のような坊主に注がれている。
坊主も図々しく、上目遣いに女中の眼顔に応えている。久蔵は、その現場を、端の方から何度も見ている。
(祈祷などと云って、何をやっているのか分ったものじゃない)
奥女中どもが、坊主に逢いたさに、代参にことよせていることは判ったし、そのことは心得て、肚では嘲笑《わら》っていたのだが、ことが登美となると、気持は違ってくるのだ。
久蔵は、あの登美が、うす暗い本堂の奥で、坊主共からどのような扱いをうけているかと想像すると、目の前に、じっと坐って居られぬような地獄絵が泛《うか》ぶのであった。
(おのれ)
と妬心に狂って、夜中に睡れないことも、度々あるのだ。
登美の部屋に話に行くことも出来ない、呼び出すことも出来ない落合久蔵が、煩悶《はんもん》と思案の末に思いついたのが、長局に出入りする女の小間物屋のことである。
「これぞ」
と膝を叩いたものだ。
「あの女なら、登美のところに自由に出入りしている。あいつを使ってやろう」
いい知恵だと思った。
久蔵は、非番の日に、女房をわざと使いに外出させ、懸命になって手紙を書いた。
「近ごろ、そなたの姿に会えぬので、苦しい思いをしている。ぜひ、会って話したいことがあるから、その返事をくれぬか。返書は、この小間物屋に渡してくれるとよい」
これを懐にかくし、あくる日、出勤して、添番詰所に頑張っていた。
しかるに、その日は、いくら待っても、女小間物屋は姿を見せない。久蔵は失望した。
彼女が商売の包みを提げて、小腰をかがめて、七ツ口に現れたのは三日ばかり経ってからである。
久蔵は、同僚にはさり気ないように、素早く番所を出て、小間物屋に近づいた。
「ちょっと」
と呼びとめたものだ。
「はい」
お文は、立ちどまり、如才なくおじぎをした。
「済まぬが」
と低声《こごえ》で久蔵は人目につかぬ場所を眼で指した。
「こっちへ来てくれぬか。ちと、頼みたいことがあるでな」
「はい」
滅多に無いことなので、お文は怪訝《けげん》な顔つきをしたが、それでも素直に云う通りに従った。出入りの監視人ともいうべき添番に憎まれては損だからである。
「そちは登美どのの部屋に出入りをしているな?」
ぎょっとしたのは、この質問をうけたお文の方である。思わず息を詰めたが、さすがに顔色は抑えて商人らしく愛想笑いをした。
「はい。ごひいきになっております」
「うむ」
久蔵はうなずいて、懐に温めていた文《ふみ》を、そっとお文の手に握らせた。
「済まぬが、これを登美どのに渡してくれぬか。いや、少々、内密の用事があってな」
不思議そうなお文の眼に、さすがにてれながら、久蔵はやさしい声を出した。
「怪しまれる用事ではないが、とにかくほかの女中衆の目が煩《うる》さい。分らぬように内証で渡してくれ」
落合久蔵は、お文が長局から帰るのを、詰所でそわそわして見張っていた。
その、お文は容易に帰って来ない。多分、女中どもに囲まれて商売に暇どっているのであろう。
だが、いつ七ツ口を帰ってゆくか分らないので、久蔵は、朋輩の話しかけるのも上の空に、油断なく眼を光らせていた。
二|刻《とき》近くも辛抱した甲斐があって、お文はようやく姿を現した。商売物の風呂敷包みを下げ、にこやかに詰所の前を会釈して通る。
久蔵は、そっと詰所を脱け出し、或る距離まで行ったときに、お文に近づいた。
「これ」
と、そっと呼びとめた。お文は振り返って、微笑しながら会釈した。
「登美どのに渡してくれたか?」
久蔵は機嫌よく訊いた。
「はい、たしかに」
お文は、愛想笑いしながら腰をかがめて答える。
「それは有難い」
と、現金に、にこにこして、
「で、登美どのは、何か申していたか?」
「いいえ、別にございませぬ。ただ、黙って帯の間に挾んでおられました」
「そうか」
久蔵は、ちょっと失望したが、最初は、先ず、そんなところであろうと思った。
それから日が経つが、登美からは一向に返事がない。久蔵には、宿直と非番と代る代るにあるから、毎日つづけて出勤というわけにはゆかず、もどかしくて仕方がない。
例の女小間物屋も、毎日来るというわけではないから、久蔵の非番の日に来ることもあるらしく、どうにも歯車が合わなくて、じれったくて仕方がない。
それでも、女小間物屋に会うこともあるのだが、
「別に、お登美さまから何もことづかってはおりませぬが」
と決まった返事ばかりするのである。
久蔵は、その後に、二度も催促の手紙を書き、託しているが、音も沙汰も無い。
その、お登美は相変らず感応寺参詣の供をしているのだ。添番は多勢いるから必ずしも、久蔵だけが供廻りに当るとは限らず、登美のときには一度も当ったことがない。
それも考えてみると、登美がわざと久蔵を避けているように邪推されるのだ。久蔵は熱くなった。
(あの阿魔《あま》め。どうするかみていろ)
嚇《か》っとなって、心の中で罵《ののし》ってはみるが、未練があって、最後は顔を見た上でと思っている。
そのうち、久蔵は妙なことに気づいた。近ごろ、女小間物屋が来る日が、決まって、お登美の寺詣りのあった翌日なのである。
外の夜気は、すっかり秋のものになっている。夜は障子を閉めないと、部屋が冷たいくらいなのである。
脇坂淡路守が、庭に向った小さな明り障子を開けているのは、この夜気を愉しむためでもなければ、庭の黒い植込みを透かして眺めるためでもない。目の前に近く坐っている島田又左衛門との密談を第三者に聴かれないためだった。
部屋は狭い茶室である。淡路守が点前《てまえ》をし、客の島田又左衛門が茶碗を賞玩して納めたあとであった。
淡路守は、又左衛門が持って来た手紙を、しばらく燭台の下で読んでいた。静かな眼つきだったが、瞳《め》の中に一点、灯のようなものが燃えていた。
「樅山は、いくつになるかな?」
と又左衛門に訊いたのは、この手紙の主、奥女中樅山のことである。
「登美の話では、三十路《みそじ》を越したとか申していましたが」
又左衛門は小さな声で答えた。両人の身体は触れ合わんばかりに接近していた。
「うむ」
淡路守の眼に、苦笑の翳《かげ》が揺らいで、
「とんと、これは下世話に申す女郎の艶文じゃな」
と云いながら、手紙をくるくると捲いて懐におさめた。
手紙は、奥女中樅山が、感応寺の寺僧日遠に当てた艶書である。
──おまえさまのこと、日夜想うて、手がつかず、心はどこやらに飛んで空蝉《うつせみ》のようである。夜は、この間、会うた時の、おまえさまの声ばかりが耳に聴え、眼、口が眼の前に泛んで寝苦しい。わずかにまどろむ夢は、おまえさまのことばかり。こんな切ない苦しい思いは生れてはじめてで、一刻でもよいから遇いたいと思うが、御殿勤めはそうもならず、地獄に落ちた思いがしている。この次のご代参のお供は明後日あたり。それだけに千秋の思いをして待ち焦れている。自分の命はおまえさまにかけているから、いついつまでも心変りがせぬよう祈っている……
こんな意味が、お家流のきれいな文字で書かれてあるのだ。文字は水の流れるように流麗だが、文句には炎が燃え上っている。
「なるほど、これ一通でも、女中ども不行跡の確証にはなるが」
と淡路守は云った。
「しかし、樅山だけでは、ちと弱い。わしが手入れするには、少々、相手が小さいな」
「そのことです」
又左衛門は、さらに膝を乗り出した。
「近いうち、年寄佐島と日祥との艶書を手に入れる、と登美から申し越して居ります」
「なに、佐島の?」
淡路守の眼がはじめて愕いた。
佐島は年寄である。年寄といえば大奥総取締で、格式からいえば老中格である。その佐島はお美代の方の側近第一で、樅山は菊川亡きあとに代ってお美代の方の眷顧《けんこ》をうけている。
樅山はともかくとして、佐島が感応寺の日祥に送った艶書が手に入りそうだ、と登美の縫から知らせてきたというので、脇坂淡路守が眼を輝かせて唸《うな》ったのである。
「そりゃ、まことか?」
と思わず訊き返したくらいだった。
「縫のことです。確信あってのことでしょう」
島田又左衛門はうなずいて答えた。
「そうなるとありがたいが……」
淡路守は、この人に滅多にない興奮を現した。
「佐島の不行跡の確証を押えると、有無を云わせぬ。すぐに検挙に踏み切る」
「ぜひ、左様にお願い申します」
島田又左衛門は頭を下げた。
「そうなると、お美代の勢力は著しく殺《そ》がれます。水野美濃守どのはじめ、君側の輩《やから》を追い落す機会にもなります」
又左衛門は力をこめて云ったが、
「ただ、心配なのは、淡路守様が折角、手入れ遊ばしても、竜頭蛇尾にはならぬかと……」
と眉をかすかに寄せた。
「竜頭蛇尾?」
「いえ、お手前さまのことではございませぬ。老中衆の決断でございますが……」
「それなら心配は要らぬ」
淡路守は微笑を頬に泛べた。
「水野越前が居る」
と強い口調で云ったものだ。
「余人は知らぬが、水野越前は大奥粛清を考えている唯一の人物じゃ。これは本物だよ。この間から、わしと話し合っているが、近ごろ珍しい硬骨漢じゃ。越前は、こう申している。自分が老中筆頭になったからには、思い切った改革をするつもりだが、大御所様存命中は憚らねばならぬ。恐れ多いことながら、大御所様ご不例のご様子から見て、ご大漸《たいぜん》は遠からずと思うが、奸物ども百歳の後を考えて策動している。これでは何にもならぬ。だから、越前は、わしに、奥女中手入れの口火を早く切れと催促している」
「そこまで伺えば安心です。水野老中も、なかなかな人物でございますな?」
「切れる男だ。あれならやるぞ。わしも張り合いがある」
淡路守はそう云ったが、ふと気づいたように、
「しかし、縫どのも、なかなかの働きようだが、そこまで食い入るとは身辺に大事はないか?」
眉をひそめて訊いた。
縫の身辺に大事はないか、という脇坂淡路守の言葉を、島田又左衛門は正直にうけ取った。
「もとより縫は充分にそのことを知っております。その任務でお城に入ったからには、生命の危険は、当人も覚悟の前でございます」
又左衛門が云うのを、淡路守は聴いて、彼の顔を眺め、暗く微笑した。
「又左殿は武辺の人ゆえ」
と彼は云った。
「人情のことには疎《うと》いとみゆる。わしが云うのは普通の生命《いのち》のことではない。女の命、つまり縫どのの身体のことじゃ」
「………」
又左衛門は不意に黙った。声は無いが愕然《がくぜん》とした顔色である。指摘されて、そのことに気づき、はっとなった表情だった。
「坊主が」
と淡路守は、又左衛門の顔から視線を外して、沈鬱な声で云った。
「佐島や樅山などの歴々の奥女中の艶書を、渡そうというのじゃ。これは容易ならぬこととは思われぬか?」
又左衛門は眼を落した。淡路守の云う意味が次第に分って来たからである。
「たださえ好色の坊主共じゃ。そこまで縫どのに心を許そうというからには、もとより、ただごとではあるまい。また、何かを縫どのに求めなければ、そのようなことをする筈がない。又左殿、わしが気づかっているのはそれじゃ……」
「………」
「縫どのの誠心はよく判る。今どき、珍しい女子《おなご》じゃと感嘆している。だが、その危険を冒してまで、縫どのに働いてもらうのは、わしも心苦しい。まずまず、ほどほどのところで引返して貰えぬか?」
「淡路守様のお言葉ですが」
又左衛門はようやく口を開いたが、いままでとは声が打って変って湿っていた。
「この一件は生《なま》やさしいことでは探索が出来ませぬ。縫がお城に御奉公に上ってもう一年近くなります。ほぼ、奥女中の様子も判ってきたことと思いますので、彼女《あれ》にもその決心がついたのでございましょう。淡路守様。ご案じ下さいますな」
「しかし……」
「いや」
と又左衛門が首を激しく振ったものである。
「ここで、あれに憐愍《あわれみ》をかけてはなりませぬ。縫の思うように働かせて下さい」
「又左殿」
「いや、仰せ下さるな」
又左衛門の声が泣いていた。
「縫は女の命も、とうに覚悟の上でございます。それでなければ、この大役勤まらぬ。むごいようだが、叔父の手前がそう申しているのでございます」
島田又左衛門は暇乞《いとまご》いした。起って、わざわざ庭の簣戸《きど》まで手燭をもって見送ったのは、脇坂淡路守である。
「秋になった」
と淡路守が呟いたのは、外に出て夜気にふれたからである。
「遅くまで」
「いや、お気をつけて」
碁でも打ったあとのような挨拶をして、島田又左衛門は脇坂屋敷の門を出た。
若党が提灯《ちようちん》を持って前を歩く。脇坂で駕籠をすすめたけれど、又左衛門は歩いた方がいいと断った。足には自信があるのだ。
心には、まだ登美のことが揺れている。年寄佐島のような奥女中と感応寺の寺僧の間に交された艶書を手に入れたとなれば、なるほど、これは寺社奉行が大奥に手入れする重要な決め手になるのだ。脇坂の背後には老中水野越前守忠邦がいて、脇坂の後楯になるという。今度こそと脇坂淡路守も勢い込んでいる。目的は大奥の女どもでない。中野石翁、水野美濃守、林肥後守など、永年に亙《わた》って家斉の寵《ちよう》を恃《たの》み、本丸の将軍家さえも憚らせて、政道を専断し、賄賂《わいろ》をとって政治を腐敗させた汚吏の一掃に在る。
(縫には可哀想だが)
と又左衛門は思っている。この機会でなければ彼らを仆《たお》すことは不可能である。縫が穢《けが》らわしい妖僧の手にかかろうとも、眼を瞑《つむ》らねばならぬ。
(縫も覚悟していよう)
自分の心に、われと聞かせたものだ。
暗い道に、提灯が先に立って歩いている。それが、不意に停った。
「叔父上か?」
向うで声をかけてきた。
若党がふり返って、
「新之助さまでございますが……」
又左衛門が進んだ。
「新之助か?」
「これは」
と新之助が提灯に顔だけ照らされて笑った。
「お待ち申しておりました。お屋敷へ向ったところ、脇坂様へお越しと聞きましたので」
「帰るところじゃ」
とうなずいて、
「何か、急用か?」
「ちと……」
新之助が傍へ来たので、又左衛門は若党に、離れておれ、と命じた。
「例の菊川殺しの一件でございますが」
新之助は低声《こごえ》を出した。
「あれは、やはり石翁の仕業です。死体の始末をした与力を捕えて良庵の家へ置いてあります。それと、石翁の家へ入れておきました、おこんもそう申しております」
「おこんと云ったな。その女が帰ったのか?」
「石翁の屋敷から逃げ帰りました」
「うむ」
「叔父上」
と新之助は云った。
「おこんが申すには、石翁は、どうやら容易ならぬ書付けを持っているようです」
「何だ」
又左衛門が眼を光らせた。
「大御所のお墨附です」
「大御所の……?」
又左衛門が思わず声を上げた。
「それは確かか?」
「確かだ、とおこんは申しております。石翁が、わざわざ、おこんの前で、加賀藩屋敷の用人奥村大膳に見せたそうです」
「加賀藩の用人にか」
又左衛門はうなずいて、
「そりゃ、あることだな。石翁一派は加賀どのと気脈を通じている。石翁が病中の大御所から都合のいいお墨附をねだり取ることは推察していた。それは、この間も脇坂殿と話したことじゃ。やっぱり、そうか」
「そのお墨附の内容ですが」
「うむ、うむ」
「おこんには、もとより分りませぬが、前田の用人が眼を細めて大喜びしていたところをみると、よほど彼らに有利な内容のように考えられます」
「それも、ありそうなことだ」
又左衛門は想像するように云った。
「大御所の目の黒いうちに、石翁が無理にお墨附を強請したに違いない。しかし、そのようなものが、あの一派に渡っているとなると、これは容易ならぬことだ。そのお墨附を振り廻して、何をするか分らぬぞ。これは脇坂殿にもう一度会うために、引返さずばなるまい」
又左衛門は急に心をせかしたように云った。
「そう思ったので、手前も、お留守中を待ち切れず、こちらへ廻って来ました」
「よいことをしてくれた。しかし、新之助、石翁がなぜに、おこんのような女中の前で、大事なものを用人に見せたのじゃ?」
「罠《わな》です」
新之助が苦笑した。
「罠だと?」
「石翁は、女中奉公にきたおこんの正体を怪しんだようです。それでお墨附をわざとおこんに見せびらかせ、わざわざ匿し場所まで見せたそうです。おこんも、女知恵で、それを夜中に取りに行き、うまうまと罠にはまりこんだのです」
「なるほど。それで、無事だったか?」
「どうにか遁《に》げて帰りました。ああ、それにもう一つ土産話があります」
「土産話?」
「左様。殺された菊川の色の相手は、どうやら、その前田の用人、奥村大膳らしゅうございます」
暗い夜道の脇で、この密談はつづいた。
女小間物屋のお文が七ツ口を通りかかったのを見過して、落合久蔵は詰所を脱けて出た。
「おい」
と、うしろから呼びとめたものがある。
お文がふり返って、
「これは落合さま。いつもお世話になっております」
落合久蔵は、今日はむつかしい顔をしている。お文の提げている風呂敷包みをじろりと見て、
「ちと、訊ねたいことがある。こっちへ来てくれ」
と、人目に立たない陰に呼んだ。
お文は、また、登美の文使いの返事を請求されるのかと思って、青い眉をひそめたが、いやとも云えず、素直に従った。
落合久蔵には下心がある。昨日、登美が十日ぶりに感応寺に代参の供をしているのを知っている。登美が寺詣りした翌る日は、必ずこの女小間物屋が、長局へ商売に来ることにも気づいているのだ。
「どうだ、商売は繁昌しているか?」
久蔵は、口先では、さり気なく訊いた。
「はい。お蔭さまで、ごひいきを頂いております」
お文はお辞儀をした。
「女中衆は、髪飾り道具に目がない故、さぞお前も儲かっているであろうな?」
「ありがとうございます。いえ利幅が少うございますから、それほど儲かってはおりませんが、いろいろとお買い上げを願っているので仕合せでございます」
「それは何よりだな」
久蔵は鼻で嗤《わら》うような声を洩らした。
「ところで、お前のその風呂敷の中身を見せてくれるか?」
「え?」
お文はびっくりした。
「何とおっしゃいます?」
「風呂敷包みの中を見せて欲しいというのだ」
久蔵が、嵩《かさ》にかかった調子になったので、お文は瞬間に顔が硬《こわ》ばった。それでも、強《し》いて笑顔をつくった。
「お見せ申すのはやさしゅうございますが、これは殿方にご覧に入れてもつまらぬ女ものの品ばかりでございます」
「いや、それを、わしは見せて欲しいのだ」
「は?」
「それとも、見せることが出来ぬというのか?」
「そういうわけではございませぬが……」
「見せなさい」
久蔵は、お文の手から包みを奪うように取った。
「わしは人の出入りを見張っている詰番じゃ。役目の上からも包みを検《あらた》める」
落合久蔵は大きな風呂敷の包みを解《と》いた。役目だ、とお文に聞かせておいて、勝手にやるのである。
お文は、唇を白くして、おびえたように佇《たたず》んでいた。
まず、簪《かんざし》、櫛《くし》、笄《こうがい》などを納めた、抽《ひ》き出しのついた箱が出てきた。それも二重に重ねてある。
久蔵は、抽き出しの一つ一つを開けてのぞいた。こうなると、彼もお文から嫌われることを承知で、職権にものを云わせているのである。
底の浅い抽き出しには何ごともない。きれいな意匠を凝《こ》らした女ものの道具が、眼に美しくならべて納まっているだけである。
箱の下には、五、六冊の黄表紙が忍ぶように敷いてあった。
「ふん」
久蔵は、鼻をならした。
「お前は、相変らず、こういうものを長局に持ちこんでいるのか?」
かれは、上の一冊をとって、ぱらぱらとめくりながら云った。
お文は蒼い顔になって、
「はい。お女中方より、いろいろとお頼みがありますので、つい、御用をつとめております」
と、できるだけ相手の気持に逆らわぬように云った。
「女どもは、長局で退屈のあまり、かようなものを喜んで読んでいるのか」
久蔵は、本の中の絵を二、三見ていたが、軽蔑したように云って、その下の絵草紙をとり上げた。
「どれもこれも、同じようなものだ」
かれは三冊目をとった。
お文が、耐え切れずに、
「あ、もし、それは……」
と手にとりすがろうとしたとき、久蔵の開けかけた絵草紙の間から、ぽろりと一本の封状が地の上に落ちた。
久蔵は、じろりと、お文を見ておいて、
「何だ、これは?」
と手で拾い上げた。
お文は真蒼になって、眼だけを光らせていた。
久蔵は、拾い上げた封状の表を見たが、宛て先は無く、
裏に、
「縫まいる」
と認《したた》めてあった。
「縫。はてな、縫とは?」
久蔵は首を傾げて、横目でお文を見た。彼は登美の実名が縫であることを知らない。
「は、はい」
お文は、ごくりと唾を呑んだ。
「お端下《はした》部屋の、お末のお方でございます」
お末というのは、長局の下女のことである。
落合久蔵は、登美の本名を知らない。だから上書きの裏にしるした縫の名前を、お文がお末の女中だといっても、彼をごまかせた。
それでも久蔵は、怪しむように、それを見ていたが、
「縫という女中は、お前の近所の者か?」
と訊いた。
「はい。つい、近くに親元がございますので、わたくしが、ときどき、ことづかっております」
お文は、内心、すこし、ほっとしながら答えた。
久蔵は、まだ未練気に、その手紙を手から放さない。お文は、今にも、彼がその封を開けるのではないか、と内心では気が気でなかった。
お文には、その手紙の内容の想像がついている。縫から島田又左衛門に宛てた密書で、感応寺における大奥女中の行状を詳しく伝える報告書であった。これが又左衛門から寺社奉行の脇坂淡路守に流れる情報であることも知っていた。
これを落合久蔵に見られたら、一大事である。
お文は、手紙が久蔵の手のうちにある間は生きた心地がしなかった。久蔵が、役目を云い立てて、中身を改める、と云い出しはしないかと恐れた。
その久蔵は、封をためつすがめつ見ていたが、さすがに、職権をもって検めるとはまだ云い出さない。が、久蔵は意地になっているから、分り兼ねるのだ。
お文は、つとめて愛想笑いをしながら、
「落合さま。どうぞ、御用がお済みになりましたら、お返し願います」
と頼んだ。
「うむ。返せと申すなら、返しもするが」
とじろりと見て、
「長局の者がかような文をお前たちに託して親元と文通するとは怪しからぬ。こんなことは禁制になっている」
と叱言《こごと》を云い出した。
雲行きが、また怪しくなったので、お文は胸が、どきどきしたが、
「恐れ入ります。向後は決して頼まれませぬから、今回はお目こぼし願います」
と頭を下げた。
自分が、登美への文使いを頼んでおきながら、思うようにゆかないので、久蔵がその意地悪をすると思うと、勝手なものだと、お文は肚の中で憤っていた。
折から、遠くの方で、
「落合氏、落合氏」
と呼び立てる同僚があったので、久蔵は残念そうに封書を投げ出し、
「早く仕舞って、帰れ」
と、お文を睨みつけてその場を離れた。
お文は、安堵の吐息をついた。
「添番が咎めたというのか?」
島田又左衛門は、登美からの封書を読み終り、手筥《てばこ》の中に蔵《しま》うと、それを運んでくれたお文に云った。
又左衛門の屋敷で、誰もここには近づけていなかった。
「はい。役目だと申されて、強引に包みを解いて調べられました」
「今までに無かったことだな?」
「初めてでございます」
「どうしたのだろう?」
又左衛門が、気がかりげに、眉をひそめたのは、もしや、この密書連絡が添番詰所に気づかれたのではないか、ということである。
お文は、落合久蔵の魂胆を知っている。久蔵が、縫に懸想《けそう》して、その想いが遂げられぬところから、文使いを頼んだ自分まで小憎らしと思っているのだ。彼が役目と称して、包みを改めたのは、つまりは、その意地悪である。
が、そのようなことは、謹直な、この島田又左衛門には云えなかった。
「とにかく、添番が、この文まで調べなかったのは、何よりだ」
又左衛門は、今は、ただその無事だけを喜んでいた。
「わたくしも、ほっと胸を撫で下ろしました。一時はどうなることかと、生きた心地がしませんでした」
お文は、いまさらのように溜息をついた。
「心配かけた」
と又左衛門は礼を云い、
「そなたのお蔭で助かっている。これは、わしだけのことではない。いずれ、事が済んだら話すつもりだが、そなたの役目は天下のお為になっていることじゃ。いや、大げさな、と思ってくれるな、真実《まこと》、そうなのだ」
「勿体のうございます。わたくし風情に……」
お文は頭を低く下げた。
「もう少し、辛抱してくれ。目的の成就は、眼の前に来ている。何とか、添番たちの眼を掠《かす》めて、縫から密書を運んでくれ。長うはない。いま、しばらくじゃ」
島田又左衛門に熱心に頼まれて、お文はその屋敷を出た。
外は、もう昏《く》れかけている。この昼間でも静かな屋敷町が、人の影を絶っているのだ。
帰りを急ぐ、お文の胸に、一つの不安が揺れている。
島田又左衛門からは、懇々と頼まれたが、この仕事が、無事に果せるかどうかということだ。
落合久蔵に咎められたが、今度は、どうにか無事だった。しかし、この無難が、このまま終りまでつづけられるだろうか。悪い予感がする。
暗くなりかけた空に、鴉《からす》が二声啼いて通った。
お文は、よけいに不吉な気持になった。