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かげろう絵図(下)~愛経

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  愛  経 雑司ヶ谷の感応寺は、境内拝領地二万八千六百余坪あり、表間口二百九十間、裏幅二百六十九間、奥行、東の方二百十
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   愛  経
 
 
 雑司ヶ谷の感応寺は、境内拝領地二万八千六百余坪あり、表間口二百九十間、裏幅二百六十九間、奥行、東の方二百十間、西の方二百二十間あるという広大なもの。
 お美代の方の信仰が特に篤《あつ》いため、堂宇も見事なものだし、大奥や諸大名関係の寄進も多い。
 本堂は、総朱塗、影向《ようごう》柱は総金で、金襴巻極彩色である。格天井《ごうてんじよう》も極彩色で天人を描く。組物や彫物は、すべて天人か、又は、竜、獅子、鳳凰《ほうおう》などで、欄間《らんま》には極彩色の四季の花鳥が上げてある。
 本堂に安置した本尊は、宗祖日蓮大菩薩読経座尊で、御丈三尺六寸、左脇壇には一寸八分の大黒天秘仏の尊像、右の脇壇には、大国|阿闍梨《あじやり》日朗菩薩念珠の座像がある。
 本坊客殿は南面して桁行《けたゆき》八間半、梁間《はりま》六間半、向拝《こうはい》三間半に九尺、内陣三間半に五間。総坪は七十八坪。
 庫裡《くり》の坪数は百二十二坪。この中には対面所十二畳の間というのがある。壁、床、違棚の張付は金砂子で、富士山、舞鶴、若杉の画で、秀伯筆。小襖、附書院下は梅の絵、違棚上は、遠山に鹿の絵で、同じく秀伯筆。
 そのほか、居間、内仏間、惣門、鼓楼など、いずれも美観でないものはない。
 この日、年寄佐島と、年寄樅山とが、幾十度目かのお美代の方の代参として詣り、台香炉を寄進した。
 寺側では、本坊客殿に迎えて、歓待につとめる。将軍家や、御台所の代参と違って、格式は厳しくないが、お美代の方の代参とあれば、無論、大切この上もないのである。
 ここで、暫らく休憩があって、内陣に案内される。
 ここでは、衆僧が揃っていて、加持祈祷の用意が出来ている。正面に本尊三宝、四菩薩、四天王、三聖、二天を祀っているが、外光を遮断した内陣は、昼間でも夜のように暗く、銀燭台の上に燃えている火が、神秘な光をあやしげに放っているだけである。
 その正面の壇上には、祈祷の願文を認《したため》た剣形の立札があり、天井には|しめ《ヽヽ》縄を張って、幣が垂れている。衆僧は、手に剣形の板と数珠を持ち、それを振って打ち鳴らすのである。
「あにまにまねい、ままねい、しれい、しゃりてい、しゃみや、しゃび、たいせんてい、もくてい、もくたび、てい、もくてい、もくたび、たび、しゃび、あいしゃび……」
 祈祷の経文は、妙法蓮華経の陀羅尼品《だらにぼん》で、この唱和する坊主の声が、暗い内陣の中に虻《あぶ》の群のうなりのように湧き上っているのだ。
 佐島も、樅山も、坊主たちのあとに、神妙に手を合せている。
「まかざれい、うつきもつき、あれあらはてい、ねれていねれたはてい……」
 登美も後にうずくまってじっと経を聴いていた。
 感応寺の住職は、お美代の実父日啓だが、これは老齢で祈祷の勤めは出来ない。こういうときは、弟子の日祥が代りをしている。
 日祥は、三十二、三歳で、美男のため、まだ二十七、八くらいにしか見えない。顔が、いま木挽町で評判の、瀬川菊之丞に似ているとかで、参詣の奥女中には第一の人気がある。
 老獪《ろうかい》な日啓のことだから、日祥を出すのは、己が老齢のためばかりではなく、この辺の計算も入れてのことかもしれない。
 ほの暗い内陣では、その日祥の声がひときわ高く聞えて、読経が次第に終りに近づいたことが知れた。年寄佐島は、肩のあたりを震わせんばかりにして、恍惚としてその声を聴いている。
「──そまなげゆとう、せんぽけゆとう、はしかけゆとう、うはつらけゆとう、にょぜとうひゃくせんしゅくようしゃ……」
 陰にこもった単調な律音《リズム》が、かっかっと鳴る数珠の音に伴奏されて、蝋燭の灯のゆらぐこの内陣に神秘的にひびく。
 やがて、声が余韻をひいてしぼむと、板を打つ数珠の音が一段と高くなり、加持祈祷の儀式は一応終った。
「南無妙法蓮華経……」
 佐島も樅山も、神妙そうにとなえた。登美も、それに唱和して、手を一心に合せた。
 日祥が仏前から起って、衆僧をかき分けてくると、佐島の前に、ぴたりと坐って手を突いた。金襴の袈裟をかけた目のさめるような姿である。
「これにて、無事、加持祈祷の修法はおわりました。今日は、ご名代様には、遠路のところ、お役目まことにご苦労さまに存じます」
 澄み徹った声だし、ほのかな光の当る半顔は、浮き彫りされたように美しいのである。
 佐島が、年齢《とし》に似合わぬ恥らいを身体に見せて、
「お前さまこそ、ご苦労さまでございました。いつもながら有難きご祈祷、泪がこぼれます。お城に還って、お美代の方様に申上げなば、さぞご満悦のことと思います」
 と日祥の労を犒《ねぎら》った。
「恐れ入りましてござります」
 と日祥も礼を云った。
 それから、別間にて休憩ということになるのだが、この寺の習慣になっているのか、佐島と樅山が、別々に僧に案内されて先に起った。佐島と樅山は、少しうつむき、かいどりを捌いているが、そのとり澄ました顔は、もう赧く上気していた。
 登美が、まだ、そこに坐って合掌していると、
「お登美さま。どうぞ」
 と若い寺僧が耳もとに来てささやいた。
 登美はうなずいたが、大きな息を思わず吐いた。
 登美が通された部屋は六畳の小部屋で、客殿から東へ渡廊下をわたり、さらに一間幅の廊下を奥へ踏んでゆく。右に八畳の役番部屋、左に十二畳の対面所と三十畳の部屋が三間つづいている。その鈎《かぎ》の手の廊下を突き当って、右に廻るのだ。
 その部屋は、日ごろ、何に使っているのか分らない。とにかく、ここにも仏壇があり、天井には菊の極彩色、左右の襖は淡彩で、大松に群鳥の画が描かれてある。外の光線が射さずに、仏壇に燃えている蝋燭がただ一つの照明であることは、内陣の陰湿な感じと同じであった。
 しかし、登美がこの部屋に入ったのは、今日が初めてではない。これが何度目かであった。仏壇の金箔も天井の菊の模様も、襖の松の枝のかたちも、眼には馴染のものなのである。
 小僧が、茶を登美の前に置いて退った。
 それきりである。だれも入っては来ない。遠くではうちわ太鼓を叩く音がしている。
 登美は、ぽつねんと坐って、それを聴いている。佐島も樅山も、どこに行っているのか、さっぱり姿を見せない。人の話し声も聞えないのだった。その静寂なことは、部屋の昏《くら》さと同じように、外に明るい陽が当っているとも思えなかった。
 どれくらいの時が経ったか。廊下を踏んでくる忍びやかな足音が耳に入ったときは、登美の胸がはっとして騒ぎ出した。
 襖が開いた。
 登美はうつむいたまま、それを見ずに、耳で知っていた。坊主が衣を捌く音を聴かせて、横に坐ったのである。
 すぐには、声がせず、
「登美さま」
 と云ったときは、もう上《うわ》ずったものだった。
 さっき、幽暗な内陣で、陀羅尼品《だらにぼん》の経を有難そうに誦《ず》したのと同じとは思えない人間臭い声であった。
「よく、見えられました」
 と、その声はつづいて云った。
「お逢いしたかった。登美さま、一日一日が辛抱出来ぬくらい、早うお顔が見たくて、待ち焦《こが》れておりました」
 男の息が、すぐそこにせわしなく聞えたので、登美は顔を上げた。
 日祥の顔が近いところに迫っていた。瀬川菊之丞そっくりだと評判をとっている美しい面貌《かお》に、眼が光っていた。その見開かれた黒い瞳には、蝋燭の灯が点《とも》っている。
「あ、もし」
 登美は、日祥の伸びて来た手を外し、
「いけませぬ、日祥さま……佐島さまは、どうなされました?」
 と身体を後へずらせると、
「なんの、あのお婆《ばば》。待たせておけばよろしゅうございます」
 日祥は、それを吐き出すように云った。
「まあ」
 と登美は、日祥の顔をわざと打ち眺めた。
「お口の悪いこと、そのようなことを仰せられてよろしいのですか?」
「構わぬ」
 日祥は真顔で否定して、
「佐島さまには手前の心は少しも動いておらぬ。至極迷惑しているところです」
「それは、ちと、罰が当りましょう」
「はて」
「小首を傾《かし》げなさることもありますまい。随分と今までお仲がよろしかったではございませぬか?」
「それそれ」
 日祥は手を振った。
「それが手前には迷惑千万と申しているのです。これは何度も登美さまには申し上げていることで、佐島さまがどのような振舞をなされても、手前には、とんと関わりがございませぬ」
「でも、お仲のむつまじいことは、どなたさまの眼にも映っている筈です」
「当寺が大奥の特別の庇護を蒙っているからには」
 と日祥は、かなしそうに云った。
「そう無下《むげ》なることも出来ませぬ。ご参詣のお女中のお気に入るよう万事、お勤めせよとは上人さま(日啓)よりのお達しでございますゆえ、やむなく、ほどほどのお相手をしている訳でございます」
「それ、お相手なされていると申されたではございませぬか?」
 登美は睨むような眼をした。
「こ、これはしたり、そのような意味では毛頭ございませぬ」
 日祥は、あわてたように、どもった。
「ただ、檀家のご機嫌をとっているのと、少しも違いはありませぬ。手前は、佐島さまの皺《しわ》づらを見るのも厭でございます」
「いまごろは佐島さまが、くさめをなさっておられましょうな」
「いや、これは手前の真実の言葉でございます。あの、お婆さまの、骨っぽい手で握られると、手前も寒気がして、逃げ出したくなります。それを寺のために、じっと我慢している辛さ。登美さま。お察しなされて下され」
 日祥は、登美の方にいざり寄ると、また、手をのばして登美の指を握った。登美は、今度は、それを振りほどかなかった。
「のう、登美さま、手前はあなたさまを一目見たときから、執心いたしました。仏に仕える身で恥かしい話ですが、この想いばかりは、経を万巻|誦《ず》したところで救われませぬ。登美さま。これは真実本心、初めてこの世の煩悩《ぼんのう》地獄を味わいました」
「そりゃ、まだ信用できませぬ」
 登美は相手をじらすように、首を小さく振った。
「なに、これほど申しても、信じて下さらぬとは?」
 日祥は、手を握られたままうつむいている登美の横顔を見つめた。伏し眼になっている登美のまつ毛は長く揃って黒い弧をきれいに描いていた。これは男の心を焦らせるに充分だった。
「登美さま。先だってより度々申し上げた手前の気持、まだ判ってくれませぬか?」
 登美は、かすかに首をふった。
「その、お言葉が本当やらどうやら、わたくしにはまだ得心がゆきませぬ」
「はて。それは、また、どうしたことで?」
「お前さまは、類《たぐ》いなき美しいお方。わたくしは、まだ見ませぬが、瀬川菊之丞とやら申す人気役者にそっくりとのこと。わたくしと違って、身分の高い大奥女中方が、わいわい騒いでおりまする」
「そんな話は聞かぬでもないが」
 日祥は内心の得意を抑えるように、控え目に云った。
「どのようなことを云われようとも、手前の気持は登美さまひとり。ほかの方には、心が動きませぬ」
「お口のお上手なこと。叶《かな》いませぬな」
「何を申される?」
「日祥さま」
 登美は、不意に顔をあげて、日祥を見た。黒い瞳だが、強い視線であった。
「佐島さまは、どうなさいます?」
「はて。また、あの婆さまのことを……」
「いえ、いえ。そうではありませぬ。あなたさまがどのようにおかくしなされても、わたくしの眼には狂いはない。あなたさまは、たしかに佐島さまと懇《ねんご》ろになさいました」
「これは、また、登美さまの疑り深い……」
 日祥は、声も乱さずに云った。
「あの婆さまとは、ただ、大事な檀家としてのおつきあい。向うさまが、少々どうかしてござるだけでございます。あの執拗《しつこ》さには、手前も閉口しております。考えてもご覧《ろう》じませ。あのような皺くちゃ婆さまに、手前が欲気を出す道理はございますまい。いまも、向うに婆さまを置いてけぼりにして、こうしてそなたの傍に来たではございませぬか」
「でも、佐島さまは、お偉いお方ゆえ……」
「どのように偉くとも、あの猫のような顔ではご免じゃ。手前は、そなただけしか目に入らぬ。これほど申しても分りませぬか?」
 日祥は、登美の手を握っていたが、身ぶるいすると、たまりかねたように、抱き寄せようとした。
「あれ、まだ、いけませぬ」
 登美は日祥の身体を押し返した。
「まだ、とは?」
 日祥が、身体を反らせ、後手をついて、登美を燃えるような眼で凝視した。
「お言葉だけでは信用できませぬ。わたくしも、あなたさまが好きなゆえ、欺されたときのことを思うと、いっそ、口惜しゅうございます」
 登美は、自分を見つめている日祥に云った。
「そなたを欺す?」
 日祥は眼の色を燃やして、
「なんでそなたを欺してよいものか。これでも御仏に朝夕仕える身じゃ。遊び女《め》を相手に申しているのではない。仏罰の恐ろしさを思うと、嘘など云える道理はございませぬ」
 と云い、また、身体をそろそろと近づけてきた。
「いえいえ、佐島さまとあれほど懇ろにされていながら、わたくしの前では、悪口を申されます。次は、わたくしの番じゃ。あなたさまに飽かれたら、今度は新しい女中衆に、わたくしを悪しざまに罵って口説き、わたくしは捨てられるのでございましょう」
「どこまでも疑り深いお方じゃな」
 日祥は呆れたような眼をした。
「あの婆さまと、手前とは何ごともありませぬ。向うで勝手に執拗くもつれて来ているだけでございます」
「そりゃ、本心でしょうなア?」
 登美は強《きつ》い眼をした。
「本心とも」
 日祥も言葉に力を入れた。
「そんなら、佐島さまに心が無いという実証を見せて下され」
「と、いうと?」
「この間から頼んでいる通り、佐島さまから貰った文《ふみ》を、みんなわたくしに見せて下され」
「さあ、それは……」
 日祥は当惑顔になった。
「いかに、何でも……」
「いやじゃ、いやじゃ」
 登美は激しく顔を振った。
「それを、みんな見せて下さらぬうちは、わたくしの心が融《と》けませぬ。あなたさまは、佐島さまにも都合のよいように、わたくしにも調子のいいことを申されているように思います」
「これは、したり、な、なんで手前がそのようなことを……」
「かりにも女の大事じゃ。あなたさまのお言葉だけでは、お心に従うわけには参りませぬ。わたくしの安心するようにして下さりませ。それなら、いつ、なんどきでも、わたくしは女の命をあなたさまに預けます」
 登美は顔を伏せた。
「きっと、左様か?」
 日祥は、登美の匂い立つような白い衿すじを見て、唇を震わせた。
「はい、必ず……」
 登美は、うつむいたまま、うなずいた。
「よし。さらば致し方がない。ここに、その文の束を持って来ました」
 日祥は袈裟《けさ》の衣に手を入れた。
 日祥が、決心したように、懐の中から出したのは、文束《ふみたば》だった。四、五通はあるらしい。
「これじゃ、あの婆さまからもらったのは……」
 日祥は、てれもせず、登美の眼の前に見せた。
「あ、これが佐島さまの?」
 登美がとびついて、
「どうぞ、わたくしに読ませて下され」
「いや」
 日祥は文を持った手をひいて、
「このようなものを見せたら、登美さまが手前を嫌いになられます」
 登美の顔を窺《うかが》うように見た。
「何故でございます?」
「それは分り切ったこと。手前には覚えのないことを、いかにも有ったように、いやらしい文字で、じゃらじゃらと認《したため》てあります。知らぬ者がよんだら、佐島さまと手前とが、いかにも訳あったように取りまする」
「そりゃ、なおさらに読ませて頂きとうございます」
 登美は、俄かに熱心な表情になり、生気を得たようになった。
「さあ、日祥さま。一通だけでも見せてくだされ」
 と文を握った日祥の手にとりついた。
 日祥は、登美のその手を片手で掴み、
「そんなら、一つだけは仕方がない。その代り、きっと手前がいやになったとは申されませぬな?」
「はい。必ず。それは得心ずくでございます」
「ならば、仕方ございませぬな」
 日祥は、いかにも惜しそうに一通を登美の手に渡した。
 登美は、それを、急いで披《ひら》いた。長い手紙だ。彼女は巻紙をくりひろげ、一心に眼を移してゆく。
 なるほど、濃厚な文句であった。文字は、お家流で優美だが、内容は、遊女のように、露骨な恋情が認めてある。
 日夜、お前さまのことで恋いこがれている……この間、遇うたときのうれしさが忘れられず、その喜びが、まだ身体の内にうずいている……そのため、独り寝の夜が苦しく、お前さまの面かげを手枕にして寝ると、夢を見るのだが、それが、うれしくも恥かしい……今度の代参の日が待ち遠しく、もう心が火のように燃えている……。
 登美が読んでいて、耳朶《じだ》が赧《あか》くなるような文字が臆面もなく綴られてある。
 登美が読んでいる眼が妖しく光ってきたと思ったか、日祥が、むず痒《がゆ》そうな微笑をうかべて、
「のう、登美さま」
 と握っている手に力を入れた。
「それをよんで、まさか手前が嫌にはならぬでしょうな? 今も、申した通り、この文の文句は、みなそらごとじゃ。登美どの。まさか、あなたさまは、これが真実《まこと》とは思わぬでしょうな?」
 日祥は、なかば、危ぶむように、登美の横顔を見つめた。
「いいえ、まんざら偽りごととは思いませぬ。佐島さまのご執心なこと、読んでも、読んでも、胸がつかえて参ります」
「それそれ、それが、あの婆さまのひとり合点の幻じゃ。ありもせぬことを、あったように思い、このようなことばかり書いてよこします。迷惑するのは、手前ばかり……」
「でも」
 登美はうなずいて、
「その言い訳は、どうでも、こうして文を下さるからには、あなたさまのお心も、少しは分って参りました」
「そうか、少しは分ってくれましたか?」
「はい……」
「それは忝《かたじ》けない。さてもさても、登美さまの頑《かたくな》なこと。骨が折れました。本当に、腹が断ち割れるものなら、この気持を見せたいほどでございます」
 日祥は喜色を満面に泛《うか》べた。
「それでは、日祥さま。その文の束をこちらに頂きましょう」
 登美が、日祥の持った文束に指を伸ばすと、日祥はその手をあわてて後に引いた。
「あれ、どうなされました?」
 登美が叫ぶように云うと、
「いやいや」
 と日祥は激しく首をふった。
「これは、滅多に渡せませぬ」
「はて、それは、また、何故でございます?」
 登美の眼は、驚愕していた。
「されば、手前もこうして、洗いざらい、あなたさまに実証を見せたからには、今度は、あなたさまの実証をこの場で見せて下さいませ」
 日祥は、熱い息をはいて云った。
「えっ」
 登美の顔が一どきに硬直した。
「のう、登美さま、手前の切ない心、察して下され。この婆さまの文などお前さまに見せただけでも、これが分れば、手前には一大事じゃ。それを、気の済むように、お前さまに渡すと申している。滅多な気持では出来ませぬぞ」
「………」
 登美の胸の中が嵐のすさぶように揺れた。この佐島の艶書は、生命に代えても欲しいのだ。この機をのがしたら、日祥の気がどのように変らぬとも限らぬ。
 息が詰りそうだった。眼の前が暗んできて、あたりが黒ずんで見えた。
「そんなら、きっとかえ!」
 日祥を見上げた登美の眼は、火のようだった。
 
 年寄、佐島は、さっきから苛々《いらいら》して坐っていた。
「上人《しようにん》さまに呼ばれていますので、少々、お待ち下さいまし」
 と日祥が断って、出て行ってから、もう半刻を過ぎるのである。
「左様か。ゆるりと用事を済ますがよい」
 と佐島は仕方なしに鷹揚に微笑して応えたものの、出て行ったきりで、日祥は容易に帰って来ない。
 その間、小坊主にお茶を三度とり替えさせたが、それは日祥の様子を訊くためで、
「日祥どのの用事はまだか?」
 と見栄も体裁もなく訊いたものである。
 佐島の通される部屋は、いつもきまっている。この寺院でも、最も奥まった部屋で、立派なものだ。
 前は閉め切った障子を隔てて中庭に向い、両隣の部屋は役僧の個室だが、佐島がここに入っている間は、遠慮して出て行っている。
 欄間の松に鶴の彫物、襖の金砂地に墨絵で描いた花卉《かき》、袋戸棚の小襖の極彩色の波に千鳥の模様──それはもう見飽いて、かえって視線にちらつき、神経が尖ってくるみたいである。
 樅山はどうしているのだろう。それを想うと、自分だけに貴重な時間が無駄に流れているようで、いらいらしてくる。
 脳天に血が逆《のぼ》って、身体が自然と落ちつかなくなった。
 鈴を鳴らすのも、自然と手荒くなった。
 襖を開け、廊下に小坊主が畏った。
「お呼びでございますか?」
 と悠長なのだ。
「日祥どのは、どうしておられる? 上人さまの御用はまだ済まぬかえ?」
 こめかみのあたりに、うすく青い筋が浮いた。いつも隠したがっている顔の皺《しわ》が、濃くなった。
「はい。いま少々……」
 小坊主はおじぎをした。
 襖がしまって、小坊主の足音が消えてからも、佐島の神経は尖ってくる。いや、ひとりにされると、よけいに孤独地獄に陥るのである。
 不自由な外出だけに、時間の貴重さが身にこたえるのだ。六ツが帰城の刻限だった。
 ふと、登美は、どうしているのだろう、と思った。
 あの女は、おとなしいから、どこかの小部屋に静かに坐っているに違いない。きれいな顔をしているから、若い坊主に人気があると、この間、日祥が、睦言《むつごと》のついでに云っていたが……
 はっと顔色が変ったのは、その日祥と登美との影である。
(もしや)
 佐島の唇が、悪い想像で見る間に白くなった。
 佐島は、日祥と登美の二つの影を眼に泛べてならべると、不安が急に逼ってきた。
 登美が、若くて、美しいだけに、危惧《きぐ》が胸に拡がるのである。
 佐島は、すでに三十四である。この年齢の女なら、誰でも感じることだが、若い者への劣等感がいつも内心に存在している。
 それを見せまいとする強がりが、地位の優位を利用しての高飛車な態度であり、統御であり、貫禄である。
 しかし、この弱点が、一たび破綻《はたん》すると、若い者への嫉妬と憎悪は激しいのである。
 佐島は、手荒く、経机の上に置いてある鈴をとって振った。
 小坊主が来るのも遅しと、起ち上ると、自分で廊下の杉戸を開けた。
 行儀よく歩いて来たのは若い納所《なつしよ》坊主で、廊下に坐った。
「日祥どのの用事はまだかえ?」
 佐島の声は初めから尖っていた。
「はい。いま、少々」
 坊主は佐島の剣幕に怯えていた。
「左様か。いかい暇どりじゃな」
 坊主の青い頭を上から見下ろして、
「供して参った登美は、いずれに待っている?」
 と、わざと柔かく訊いた。
「はい。それでは伺って参ります」
 坊主は起ちかけた。
「訊かぬでもよい。そなたが知っていよう?」
「いえ、手前は……」
「かくすでない」
 佐島は鋭く浴びせた。
「およその見当はついている。そなた、日祥から口を禁《と》められたであろう?」
「い、いえ、け、決して……」
「それ見い。あわてているではないか。さ、早く、そこへ連れて行け」
「で、でも、手前は、なにも存じませんので」
「教えてくれたら、褒美《ほうび》を遣ろう。あとでそなたが叱られることはない。日祥には、わたしが、よく云っておく」
 佐島は、懐から金襴の紙入れを出すと、二分金を坊主の目の前に落した。
「こ、これは……」
 納所坊主はあわてた。
「さ、早く。こちらかえ?」
 佐島は、廊下を奥の方へ向った。かいどりの裾を忙しくさばいて進む。
「もし」
 坊主が金を握ったまま、狼狽してあとからついてきた。
 廊下に突き当った。
「こっちへ行くのか?」
 佐島が右に行きかけて、うしろを振り返ると、納所坊主は、廊下にペタリと坐って口を開けたまま、首を振った。左へ行けと、教えているのである。
 佐島が、この部屋だ、と直感に来たのは、廊下を曲って、四枚目の杉戸の前であった。
 前後を見廻したが誰もいない。納所坊主も途中で逃げ帰ったらしい。
 この部屋なら、佐島も前に一度、日祥と入って、ひとときを過した記憶がある。部屋の間どりや、襖、戸袋の模様まで覚えていた。
 佐島の顔が、ひき吊《つ》ってきた。
 胸の中が熱い湯を注ぎこまれたように沸《たぎ》り立つ。吐く息が炎のようだった。杉戸の前に釘づけになった脚は、黒い直感に慄えていた。
 そっと、耳を杉戸に当てたが、内部《なか》からは、こそりとも物音がしない。声も聞えない。空洞のように静まり返っているのである。
 が、佐島には、この杉戸の向うに、何か二匹の動物がうずくまっているように思えてならなかった。その動物の吐く息が耳に感じとれそうなのだ。
 佐島には、まだ、わずかだが、自尊心が残っていた。それが、杉戸に手をかけて、いきなり引き開ける衝動を制止していた。
 彼女は何度か躊《ためら》った。胸は嵐のように狂い、呼吸が苦しかった。
 足が、その場所を一度はなれたのは、その息苦しさを整えるためだった。
 二、三間、こっそりと廊下を歩いた。ひっそりとした昼間の寺院は、廊下も、天井も冷たい。お題目の太鼓も経の声も、いまは、落ちた風のように熄《や》んでいる。
 佐島は、ふう、と太い息を吐いた。熱病患者のように、息が熱い。
 日祥と登美の縺《もつ》れた姿、が眼にうつる。払いのけようとしても、執拗に泛んでくるのだ。男のしぐさ、男の甘えた声は、佐島の知識にあったし、想像が、それだけ、現実的で、なまなましいのである。
 どうしたものか──
 佐島は、験《ため》しを思いついた。
 廊下を、今度は、強く足音を立てて歩いた。女の歩き方ではなく、男のような乱暴な音であった。
 それを、目指す部屋の前で、不意に停らせて、今度は、忍び足になり、そっと杉戸に耳を当てて屈んだ。
 ことり、とかすかだが、音が聞えた。はっきりと、現実的な音であった。つづいて、また、ことり、と音がした。
 佐島の頭に、火がついたのは、その音を耳にしたからであった。
 いきなり、杉戸に手をかけたが、びくとも動かない。杉戸が女の力で重いためではなかった。はっきりと、内部《なか》から、戸締りしているのだ。
「日祥どの」
 佐島は、錯乱して戸を叩いた。
「開けなされ。何をしている」
 恥も外聞もなく喚《わめ》いた。
「日祥どの。わたしじゃ。開けなさい」
 日祥は狼狽していた。
 廊下に足音がしたときから、はっとして、登美の背中に廻した手を、思わずゆるめたものだが、そのままじっとしていたのは、足音が、この部屋とは関係なく通りすぎるかと思ったのだ。
 が、足音は、ぴたりと、この部屋の前でとまったのだ。部屋の入口の杉戸は、外から開かないように、棒を挾んで置いてある。
 登美は、うつ伏せになって厚い座蒲団の上に崩れていた。お寺で、坊主が坐る座蒲団だから、大きくて、贅沢に厚いのである。
 登美の髪は重く前に傾きくずれて拡がった衿から、背中まで覗かれそうだった。白い光沢をもった皮膚が、充分に日祥の血を逸《はや》らせているところであった。
 登美は、微動もせず、上からそこに突き倒されたままで、死んだという恰好だった。帯の結び目がほどけかけているのは、日祥の手が、いま、それを解いたばかりのところだからである。
 日祥は、次に移る作業をしばらく中止して、廊下に聴耳を立てた。誰かが様子を窺っているのではないかという不安だ。
 誰かが──日祥が、身体に急に寒気を感じているのは、その誰かが、寺の住人ではなく、顔に厚化粧をして皺をかくしている佐島ではないか、と予感したからだ。
 杉戸の向うに跼《かが》んでいる者が感じていると同じことを、日祥も直感していた。そこに、何か一匹の生物が眼を光らせているように思える。
 日祥は顔に汗を出している。呼吸《いき》切れがしそうだった。
 うつ伏せになった登美の顔を起そうと、手を頬に当てたが、女は軽い抵抗をして云う通りにならなかった。が、すり寄せた男の鼻には女の匂いが、むせるように充満した。
 日祥は、飛び上った。予感はしていたが、こうはっきり事実となって現れると、彼は魂を消した。
「早く、早く」
 と、低いが、あわて切った声で登美を揺さぶった。
「日祥どの、ここを開けなさい、日祥どの、早く」
 日祥が、髪の下に露《あらわ》れている女の真赧になった耳朶《みみたぶ》を吸おうとしたとき、
「日祥どの!」
 と、はっきり佐島の上ずった声が聞え、戸が激しく鳴ったのである。
 杉戸が寺いっぱいに響きそうに叩かれた。
 日祥は眼をむき、蒼くなってうろたえている。それでも庭へ下りる明り障子を明けて避難の道をつくった。
 日祥が真先になって、衣を翻し、縁からとび降りて遁げた。
 登美の眼に、日祥が畳の上に落して行った文の束がうつった。
 佐島は、なおも外から戸を叩いていた。
「日祥どの。どうなされた。ここを開けぬか。早く」
 男のように野太い声である。それに、気が苛立っているから、外聞もなかった。
「日祥どの、日祥どの」
 眼が光り、顔が蒼すごんでいた。
 この騒ぎが、あたりに響かぬ筈はない。
 廊下の角から、坊主が、一人、二人と姿を現しておずおずとこちらを眺めていた。佐島の剣幕がすごいので、近づけないらしい。
 佐島の眼にも、廊下の端から、こちらの様子を見ている坊主の姿がちらりと入った。
 いくら狂ったような状態でも、さすがに、はっとしたらしい。見栄をつくろう習性のついている大奥女中の高位者だけに、とっさにわが姿の破綻《はたん》を救う動作をとった。
 かいどりをとり直し、のぞいている坊主の方を向くと、
「これよ」
 と、顎をしゃくって呼んだ。打って変った静かな声なのである。
 は、と摺り足に坊主が来る。これは小坊主でなく、年輩の役僧だった。
「この部屋に日祥が閉じこめられているようじゃ。開けてやれ」
 役僧が、怪訝《けげん》な眼つきをしたのは、その意味がよく呑みこめなかったからだが、険しい顔をして、ものも云わずに立っている佐島を見ると、懼《おそ》れて訊き返しも出来なかった。
 は、と畏って、杉戸に手をかけて開けようとしたが、無論、開く筈はない。
「よそから入れ、中で閉めているのじゃ」
 佐島が性急な声で命じた。
 この佐島の声を、登美は内部《なか》に立ったまま聴いていた。杉戸には棒が閂《かんぬき》のように挾まったままである。
 登美は、日祥が落して行った文《ふみ》の束を手で数え、それをしっかりと、懐《ふところ》の奥へ納める余裕があった。動悸が激しく打っている割合に、気持は落ちついていた。
 庭に面した明り障子は、あいたままである。日祥のつくった避難路だが、今度は、登美の逃走路になっていた。
 彼女は、裾をからげ、庭石を足袋で踏んだ。乱れた着物の着つけは、きちんと支度し直したし、今度は、庭下駄を早く見つければよいのである。
 庭下駄は、すぐ離れたところに、揃えて置いてあった。いつでも庭を歩きたい者のために用意されてあるのだが、足袋|裸足《はだし》で逃げた日祥は、眼が昏《くら》んで、これを足にかける暇がなかったらしい。
 登美は、中庭をよぎった。秋の陽が手入れの行き届いた草と木の上にひろがっている。彼女は、そぞろ歩きでもしているように本堂の方へ向った。
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