暮れてしばらくだったから、五ツ(午後八時)ごろである。
向島堤を一挺の町駕籠が北へ急いでいた。提灯もつけて、ちゃんとした普通の乗物であった。駕籠屋のほかに、ひとり附添いがついていた。頬被《ほおかむ》りをして、裾をからげている。駕籠の中にいる客の供人かと誰でも思うのである。
この男が、ときどき、指をあげて駕籠屋に何か云っているので、行先の案内人でもあるらしい。
星が無く、暗くて分らないが、空には厚い雲が垂れているようでもあった。
駕籠の中の人物は、声も洩《も》れない。そういえば、駕籠は、外から、丈夫な縄で、真ん中が括《くく》られているのだった。内の客が、駕籠から外に転落しないための要心だが、これは気力の弱った病人か、前後不覚に意識もなく酔った人間への処置である。
川の水も、樹木の茂みも黒い。
駕籠は、土手を切れて、田圃の見渡せる場所に来たが、附添いの人間が方向を教えたのは、石翁の邸であった。
広い邸で、外から見ると、庭の立ち木が、森のようだった。
門は、むろん、閉まっている。
駕籠が、門前の真正面に下りた。
「ここらでよかろう」
と頬被りの男は駕籠屋に指図した。
駕籠屋が、乗物の上から縛った縄を解く。それから、大酔の果か、前後不覚に大|鼾《いびき》をかいている一人の男の、背に廻って脇に腕を入れてひき出した。
奇怪なことに、頬被りの男の指示で、その酔い痴《し》れた男は、門の脇の塀のところに、背中を凭《もた》せて坐らせられたのである。茣蓙《ござ》も敷かず、じかに、地面の上だった。
「帰ってくれてよい」
と駕籠屋に、頬被りの男が云った。
「へい」
駕籠屋自体が、この処置を怪訝《けげん》に思い、塀にもたれて鼾をかいている男を心配そうに見たものである。
酔って、睡っているから、駕籠から落ちないように縄をかけてくれと、注文したのもこの男なら、ここへ着けてくれ、と云ったのもこの雇い主なのである。
「早く、帰ってくれ。早い方がいいぞ」
頬被りの新之助は駕籠屋をせかした。
「へい、へい」
充分に酒手をもらっていることだし、駕籠屋は、何か無気味なものを感じて、急いで空駕籠を担いで去った。
新之助は、それを見送ると、まだ地べたにだらしなく坐って眠っている男をじろりと見た。
「ご門番、ご門番」
と門の戸を激しく叩いたのは、そのすぐあとである。
戸を叩く音に門番が出て来て、
「どうれ?」
と、脇のくぐり戸から顔をのぞかせた。
「どなたじゃ?」
頬被りの男が立っていたので、怪訝な顔をしている。
「通りがかりの者だが」
と新之助は、おだやかに云って、
「ご当家のお知り合いの方だそうだが、大そうお酔いになって、前後不覚のようじゃ。ご門前まで介抱して参ったが、どうぞお引取りを願いたい」
門番は、この口上をきいて、
「それは、ご親切に。して、いずれにおりますか?」
と云ったのは、本当に邸の者が外で酔い痴れて帰ったのか、と思ったからだ。
「あれに」
男が指さしたので、門番は釣られて外に出る。見ると、なるほど、塀のところに、黒い人間の影が地面に坐り込んでいるのである。
「おう、これは」
と近づいて、その顔をのぞき込んだが、当邸の人間というのは誤りで、よく邸に出入りする八丁堀の与力なのである。門番は、その顔と名前を知っていたから、
「下村どの、下村どの」
と肩をゆすったが、下村孫九郎は、塀に凭《よ》りかかって坐ったまま、口からだらしなく涎《よだれ》を垂らして大|鼾《いびき》をかいている。
「これは、始末におえぬ」
と門番は呆れたように呟いた。
「では、たしかに」
頬被りの男が、念を押して、立ち去りかけたので、門番はあわてて、
「ご親切に。いずれのお方か……?」
と訊きかけたが、
「いや」
と男は笑った。
「両国の飲み屋で一緒になりましたのでな。あまり、こちらが大酔なされているので、ちと心配になり、いらぬ世話ながら、お送りした」
「それはどうも恐れ入りました」
と、門番が礼を述べたのは、下村孫九郎は邸の者ではないが、主人の石翁に呼ばれてよく訪ねてくる客だったからである。
会釈をして、親切な男は歩み去った。
門番が、下村孫九郎を真上から見下ろして、その不覚の睡り方に手がつけられないと思ったか、舌打ちして、朋輩を呼びに行った。
二人で、下村を抱えて、とりあえず、門番小屋に入れたけれど、下村はまだ口を開けたまま、睡りから醒めない。
夜だったが、門番の報らせをきいて、用人が様子を見にやって来た。
石翁は、出入りの庭師を呼んで、新しい庭の設計を相談していた。
着想というものは、妙な、思わぬときに出るもので、今夜も、石翁は宵の口に床に入ったが、枕に頭をつけてから、ふと庭の趣向を変える暗示が浮かんだ。
現在の庭は、すでに完成されて立派なものだが、そろそろ眼に飽きが来ていた。それで部分的にどこかを変えようと思っていたのだが、その思いつきがつかずにいたところへ、ふと妙案が泛んだのである。
それが、ひどく名案のように思われたので、老人の癖で、すぐに庭師を呼びにやらせたのだった。思い立ったら、明日までが待てない気短さだった。
紙の上に、自分で筆書きしながら、大体の設計の説明を庭師にしているところに、
「お邪魔します」
と用人が入ってきた。
石翁は、ちらりと見ただけで、説明をつづけていると、一区切りついたところで、用人が石翁の耳に何か囁《ささや》いた。
「何処に居る?」
眼をぎょろりとさせて石翁が訊いたのは、下村孫九郎のことである。
「供待部屋に移して寝かせてございます」
用人は答えた。
よし、と石翁はうなずいた。あとで行くという意味だと知って、用人は障子を閉めて去った。
石翁は、それからも自分の思いつきを庭師に話していたが、用人が来て、下村孫九郎のことを云ってからは、気持が密着しなくなった。
行方不明になって、奉行所でも内密に捜索していたという下村孫九郎が、突然、誰かの手で此処に運ばれて来たのは奇怪である。一体、下村は、今まで何処に、どうして居たか、彼をここに連れて来たのは誰か、そして何故、彼をこの邸にわざわざ運んだのか。──石翁の頭の中は、その問題の方へ傾きそうであった。
「今のところは、これまでだ」
石翁は、俄かに庭の話を打ち切った。
「明日、お前の方でも考えておいてくれ」
庭師の方では、今まで熱心だった石翁が、急に話を閉じたので、内心びっくりしていた。そっと窺うと顔つきも、浮かぬものに変っている。
「結構なお話でございますので、篤《とく》と考えさせて頂きます」
庭師が畳に手を突くのを見て、
「頼む」
と云って石翁は座を起った。
廊下をすこし急いで、供待部屋の障子を開けると、用人が内から迎えた。
石翁の眼には、畳の中央に、下村孫九郎が大の字になって鼾をかいているのがうつった。
石翁は、下村孫九郎の前後不覚に眠りこけている姿を、上からしばらく見下ろしていたが、顔を寄せて嗅いで、
「酒は飲んでおらぬの」
と呟いた。
険しい顔つきだった。眼は、いぎたなく鼾をかいている男を睨みつけている。
「左様、手前も、それに気づきまして、奇怪なことと思っておりますが」
用人も、むつかしい表情で云った。
「連れて来たのは何奴か?」
石翁は訊いた。
「門番の話によりますと、頬被りをした男で、人体は見えなかったと申します。声は若かったそうでございますが」
「………」
「何でも、両国で飲んでいて、大酔したのを介抱して連れて来たが、当屋敷の人間と聞いたので届けたという口上だそうでございます」
石翁の頭の中に閃いたのは、若い男の姿であった。
いつかは、長持の中から人質の町医者を奪い、その前の晩には、不敵にも庭に侵入して攪乱した男である。
屋形船に乗って大川を下っているとき、大橋の上から、菊川の着ていた同じ模様の浴衣を落して見せたのもこの男なら、女を使って女中に入りこませ、麻の葉の浴衣で小細工したのもこの男である。これはこちらの心理的な効果を見ようとした小癪《こしやく》な意図らしい。
この若い男に、石翁は一度は遇っている。
しかも、それが自分の庭でだった。相手は松の樹の上にいた。石翁が歩いていて、ひょっと上を向いて、眼が合ったものだ。
相手は、やはり頬被りをしていたが、その眼つきの鋭さは尋常でなかった。確かに、若い眼なのである。若い憎悪の視線が刃物を想わせたくらいだった。思わずこちらの眼をはずしたときに、相手は、するすると枝を伝って、猿のように遁げて行ったが……。
若い男だが、やりおる、と思った。
(島田又左衛門の縁者だそうだが)
島田又左衛門──脇坂淡路守──水野越前守──本丸の線は、石翁がとうに知っていることだし、その尖兵といってもよい、若さ一本槍で、恐れげもなく石翁に突っかかってくる若者に、石翁も処置しかねるものを感じた。
下村孫九郎が、詮議に出かけたまま、行方不明になったときいたとき、微かに不安な若い男の影がさしたが、まさかと思ったけれど、やはりそうだったのだ。
孫九郎を連れて来たのが、あいつなのだ。
呼びにやらせたかかりつけの医者が、大急ぎでやって来たが、昏睡している孫九郎の様子を診ると、
「これは、薬で睡《ねむ》らせたものと見えまする」
と石翁に答え、自然に醒めるのを待たねば手のつけようがないと云った。
下村孫九郎は、一晩中、睡りつづけた。診察に来た医者の云った通り、睡り薬を呑まされたに違いなく、その薬も町の薬屋には売っていないから、長崎あたりの南蛮医術を心得た医者の投薬ではないか、というのである。
素人だけでなく、敵に医者が一枚加わっていることを察して、石翁はひそかにうなずいた。菊川のことで拉致《らち》した医者の顔を思い出したからである。
その孫九郎は、翌朝の陽の高くなったころに眼をさました。
ふわりと眼蓋《まぶた》を開けたが、瞳はまだ溷濁《こんだく》していた。そのにごった眼を動かして、きょろきょろとあたりを見ていたが、不思議そうな顔をした。
見たこともない部屋に自分が寝ているのだ。
その瞳が、ある一点に定まったとき、
「これは!」
と跳ね起きようとしたのは、意外にも、そこに石翁の顔が在ったからだ。
孫九郎はうろたえ、身体を起したが、身体がまだふらふらしている。頭が石を置いたように重い。嘔《は》きそうなくらい胸がむかむかするのである。
それでも、石翁の前なので、無理に畏《かしこま》った。衣服の着つけがだらしなく崩れているのは醜態だった。髪も乱れたままである。
「下村!」
この声が、下村孫九郎には雷が落ちたように聴えた。彼は、畳の上に這《は》いつくばい、顔をすりつけた。
「そちは、何故にここに来ているか覚えているか?」
怒声ではないが、石翁の問い方が、冷たく、乾いた調子だった。
「は……」
分らない。それを思い出そうとしていた。自分が、何か大変な失敗《しくじり》をしたことは察しがついたが、頭の中が白い雲につつみこまれたように、はっきりしないのである。
孫九郎は、額から脂汗《あぶらあせ》を流していた。
「どうじゃ、分らぬか?」
石翁の声が迫った。
「は……」
孫九郎は頭が上げられなかった。いまや、自分が断崖の上に立っているような危い立場らしいことが先に彼を恐れさせた。
「覚えぬか、想い出してみい」
叱ってはいない。しかし、ひどく冷酷な声だった。
「昨夜、そちを当屋敷に連れて来た男がいる。まだ若い男じゃ。それ、島田又左衛門の縁類の男だ」
「あっ!」
島田と聞いて、孫九郎が思わず声を立てたのは、記憶を閉じこめた壁が、そこから破れはじめたからである。
石翁の尋問が、それから始まった。
「おこんの詮議に、神田の六兵衛を訪ねましたところ、そこに不意に、島田新之助が現れまして……」
と下村孫九郎は、言葉を咽喉につかえさせながら話しはじめた。恥と、石翁の威圧からうける恐怖とで、身体中に汗を流していた。
新之助を尋問するために外に連れ出し、同行したが、と体裁をつけて、
「そのとき、不覚にも、当て身を喰らい、気を失いました」
と、それからは、本当のことを述べた。
「気づいたときは、医者の家で、手前は縄で括《くく》られ、自由を奪われておりました」
「医者? 何という名前だ?」
石翁は眼を光らせた。
「それが、良庵と申す奴でございます」
「よし」
石翁はうなずいた。
「それから先をつづけろ」
「何しても、手前は早く脱け出そうと思いましたが、身体を縛られている上、向うでも油断なく見張っておりますので、その隙がございませんでした。まことに上を恐れざる無法者でございまして……」
下村孫九郎は、どのように役人風を吹かして嚇《おどか》してみたり、哀願したりしたことであろう。石翁の眼はそれを想像しているようだった。
「ただ、それだけか?」
「は?」
「いや、そちを括《くく》って監禁していただけかと訊いているのだ」
「はあ……」
孫九郎は、少しずつ顔色が変ってきた。
「何か、向うから訊かれたであろう」
「は……」
下村孫九郎は蒼くなって苦しそうな顔をした。
「はっきり申せ」
石翁は追及した。
「は、その、ほかには別に……」
しどろもどろになると、
「莫迦《ばか》!」
突然に大きな声だったし、石翁の顔が鬼面のようになった。
「菊川の死骸の始末は、どう答えた?」
孫九郎は肝を消した。絶句して、しばらく言葉が出ない。
「下村、そちはしゃべったな?」
「………」
与力は慄え出した。
いつも、罪人を嚇かしている男が、逆の立場に立たされて、色を失い、戦慄しているのである。
「どうだ、菊川の一件を訊かれて、そちはしゃべったであろう? 隠すな。何もかも、わしには判っている」
石翁の眼に射すくめられて、孫九郎はへたばった。
心は萎《な》えて、精も根もない。言い訳をしたところで叶わぬことを悟った。自分の心がもろい砂のように崩れてゆく。
「日夜といわず、折檻《せつかん》をうけましたので、苦しさのあまり……」
と彼は顔に冷たい汗を流しながら云った。
「白状したのか?」
石翁が、やはり乾いた声に戻って訊く。
「何とも、申し訳……」
「ばかめ。それを訊いているのではない。菊川の死骸の始末の一件、べらべらとしゃべったのか?」
「はあ……」
孫九郎は顔が上げられなかった。
石翁は、じっと睨みつけていたが、
「それだけで済んだか?」
「………」
「それだけではあるまい。どうじゃ。云え。こうなれば五十歩百歩じゃ。何を聞いても愕《おどろ》かぬ」
孫九郎の乱れた髪が細かに慄えていた。
「返答出来ぬか。そちが返答出来ぬなら、わしから云ってやろう。そちは何か書かされたな?」
わっと声を上げたいところだった。孫九郎は自分の体が宙に放り出されるのを覚えた。
「どうじゃ。そちが白状したことを書かされたのであろう?」
孫九郎は、歯の根が合わず、寒気がしたように、かちかちと歯を鳴らした。
「云え。こうなれば、何もかも云え」
石翁が、急に起ち上って、こちらに迫って来そうに思えたので、
「お、仰せの通り、や、止むを得ず……」
「一札書いたか?」
「な、何とも、はや。……いや、そのときは、われながら乱心……」
と、今は生きた人間の顔でなく、眼をむき出し、皮膚も唇も土色になっていた。
「うむ、やはり、そうか……」
石翁は、板のように足もとに匍《は》っている下村孫九郎を見た。裏切者を見るような、憎々しい、軽蔑し切った眼つきであった。
「犬め」
石翁は吐くように云った。
「どうせ、八丁堀の人間だとは思っていたが、これほどの犬とは思わなんだ。恥を知らぬ畜生なら致し方があるまい」
孫九郎の顔が押しつけている畳は、汗で水でもこぼしたように濡れていた。
「明日にでも北町奉行に申し伝える」
石翁は冷酷に云った。
「奉行所からは放逐させるから、左様に覚悟せよ。そちのような腰抜け役人は、一日たりとも置いておけぬわ」
孫九郎は絶望で、気を失いそうになった。
翌日の朝、隅田川の百本杭に男の入水《じゆすい》死体が引っかかっているのが発見された。
見つけたのは、川を漕いでいる小舟で、死体は下を向いて沈んでいるから、髪と、羽織が水面に出ていた。その白い紋が発見者には印象的だった。
「こりゃ、侍の土左衛門だ」
船頭は叫んだ。裏白の紺の足袋が水の下に透いて漂っていた。
届けによって、すぐに検視の役人が来て、ひき上げたが、死人の顔と風采を見ておどろいた。まぎれもなく八丁堀の役人で、下村孫九郎なのである。
役人はすぐに奉行所に注進した。
数日前から行方不明になっている与力下村孫九郎のことであるから、むろん、検視は厳重だった。
死骸を調べてみると、別に外傷は無い。
水を飲んでいるところを見ると、明らかに水死である。
普通の人間ではなく、かりにも奉行所つきの与力であるから、前夜の足どりは厳しく探索された。
すると、両国の居酒屋で、下村孫九郎は、狂気のように酒を飲んでいたという聞込みがあった。
「そりゃあ、怕《こわ》いくらいでございましたよ。いえ、入っていらしたときからそうなんです。真蒼な顔をなさいましてね」
居酒屋の亭主も雇女も、口を揃えて、そう証言した。
「そうかと思うと、一口もきかずに、眼をすえて、黙りこんだりなさいましてね。それから、台の上に突伏して、おいおいと大声を上げて泣き出されたのには、びっくりしましたよ。日ごろの下村の旦那とは、まるで人間が違っていましたから」
日ごろは、威張っていて、何かと泣かされた記憶がこの亭主にもある。いや、ここ一軒ではなく、両国から柳橋にかけて水商売をしている店で、下村におどかされ、凄まれた経験が無いものはない。
「あれは、誰かが、河岸《かし》を歩いている下村のうしろから、どんと突き落したのかも分らねえぜ」
陰では、そういう噂が立った。
「なんにしても、悪い奴だった」
吻《ほつ》とした表情なのである。
足どりの捜査は、両国の飲み屋から伸びて、それ以前の下村の行動を探り出した。
すると、それらしい人物が、石翁の邸から出て、堤の上をふらふらと歩いていたというのである。
石翁の邸から!
探索の連中が、思わず顔を見合せたものだ。
すると奉行所の上の方から、
「下村孫九郎は乱心の果に入水自殺した」
との決定が下りてきたのであった。
奉行所の与力は同心や岡っ引をつれて下谷の良庵の家を襲った。
「吟味の筋がある」
という上からの命令で、逮捕に向った連中には嫌疑の内容が分らなかった。
良庵の家に行って見るとこれが玄関から裏まで昼間から戸を閉しているのだ。
「開けてみい」
与力の言葉で、岡っ引たちが雨戸をこじ開けると、無論、内には人間は居ないのである。
医者の家には必ずある薬草の類、薬研《やげん》、薬箱も無ければ、家財道具も無い。残っているのは、汚れたがらくたのたぐいだけであった。
「逃げたかな」
と役人の方が感じたときに、
「あっ」
と岡っ引が声を上げた。
壁には、それを証明するように、
「当分の間、転居仕り候、行先都合により不明 良庵」
と墨で黒々と書いた貼り紙がしてあった。
理由は分らないが、とにかく、逮捕に向った相手に逃げられたことは確かで、上から命令されたことだけに落度になりそうである。
それで、近所を手分けして訊いて廻った。
「さあ、よく存じませんが」
日ごろから人気のあった良庵のことだし、それに、係り合いを恐れて、誰もはきはきと口を利いてくれない。
「近ごろは、患家も少くなったようなので、良庵さんは、のんびりした顔をしていましたよ」
と云う近所の者も居た。
「はてね。どうして患者が少くなったのかね?」
岡っ引は訊いた。
「へえ、一時、良庵さんが何処かに雲がくれしていましてね。内弟子の弥助さんがだいぶん心配していましたが、間もなく、良庵さんはひょっこり帰りました。それ以来ですよ、良庵さんが何となく患家をとらなくなりましたのは」
「へええ」
岡っ引はこれは何かの手がかりになるかも分らぬと思ったか、根掘り葉掘り訊いたが、それ以上のことは出なかった。
「するてえと、この家は、医師と内弟子だけかえ?」
「へえ、男二人でございます」
「かりにも世帯道具を運んだのだ。大八車にでも乗せたに違えねえ。近所のおめえたちが見かけねえというのはおかしいな」
岡っ引の眼におどかされても、
「いいえ、まるっきり知らねえことでしてね。へえ、なにしろ、夜中に運んだと見えて、朝起きてから越したと知って、びっくりしているところでございます」
「急に大世帯になったな」
と眼を細めたのは島田又左衛門であった。
人間が家の中に一人でもふえると、人数がもっとふえたような感じになるが、良庵と、内弟子の弥助が越して来ただけで、膨《ふく》れたように思えるのである。
「すぐに麻布に移った方がいい」
と良庵に指示したのは新之助で、
「あすこなら、まあ大丈夫だ。やせても枯れても、旗本だからな。町方が簡単に踏みこむわけにはいかない。手入れしようとすれば、若年寄か、お目付の許可が必要だ。一歩も外に出ぬことさえ心がけていたら安全だ」
と説明した。
「そんなに早く、来るものかえ?」
良庵は、自分の永いこと住んだ家だし、未練があったが、
「下村孫九郎を送り込んでおいたから、石翁は何もかも察するに違いない。下村が白状したら、すぐ、こっちの町方が来るぞ、愚図《ぐず》愚図してはいられぬ」
とせき立てるので、その晩のうちに、弥助に大八車をひかせ、良庵の後押しで島田の邸に来たのである。新之助が万一を考えて、あとからついてきた。
又左衛門が喜んだのは、下村孫九郎から取りあげた一札の自供書である。それには、
「一、菊川の死体は中野石翁の手によって隅田川に流された形跡あること。死体は、たしかに懐妊していた。
一、水死体は、一旦、現場近くの寺に身許不詳として仮埋葬したが、自分が石翁のたのみで、獄死の女囚人の扱いにして、非人に渡し、小塚原に埋め直したこと」
を認《したため》て記し、拇印《ぼいん》まで捺《お》してあるのだった。
「手柄だった」
と島田又左衛門は、何度も読み返して、大満悦で讃《ほ》めた。
「これさえあれば、いざというときに、石翁の罪状をあばく動かぬ証拠となる。かつは、菊川が妊娠したことで大奥の風儀も実証され、脇坂殿手入れの有力な物証になるぞ。いや、ご苦労だった」
と新之助に云い、
「与力をここまでやるからには、相当に骨を折ったであろうな?」
「先ず……」
新之助は、うなずいたが、浮かぬ顔をしていた。
「評判の悪い男ですが、ちと、可哀想なことをしたように思います」
このときは、まだ下村孫九郎の入水をこちらは知っていなかった。
「いや、遠慮は無用じゃ。やるがよい」
又左衛門は、昂然《こうぜん》としていた。
「新之助。縫からまたとない物が入ったぞ。脇坂殿に届けておいたが、いよいよ敵を攻める番が来た」