添番落合久蔵は今日は非番である。
非番というのは退屈なもので、小鳥に餌をやるか、内職をしているものはそれに精を出すか、そうでなかったら、日向《ひなた》の縁に寝ているよりほかに仕方がない。
しかし、落合久蔵は、落ちつかなかった。
それは、登美のことが、始終、心にかかっているからで、何としても遇いたくて仕方がない。
登美が、もう少しで手の中に落ちそうになっていただけに、ここで遁すのは残念でならないのである。
(どうも、あの女、おれから遁げようとしている)
と気づいてはいるが、それが、今度は心を苛々《いらいら》させて、思わず気が昂《たか》ぶってくるのである。
近ごろは、登美の逃げ方が巧妙で、長局に引込んで出て来ないし、外出のときは寺詣りの行列の乗物の中だから、久蔵が近づく機会がないのである。
(よし、万一、おれを裏切ってみろ)
と久蔵は考えている。
(あの女の仕掛けた蝋塗りの踏台は、おれの手にあるのだ。添番詰所の天井裏に大事に納ってある。あれを、出すところへ持ち出せば、あの女は局から追放され、へたをすると死罪にもなり兼ねないのだ)
それが、久蔵の唯一の手の内だった。
実際、それは大そうな効力があって、登美が久蔵の申出でを無下に断り切れないでいるのは、踏台という久蔵の切り札のためである。
久蔵は、登美のその弱味をとうに知ったつもりでいる。
が、登美に、近ごろのように巧妙に逃げられては、話すおりがないから直接《じか》にその威しもきかず、何とか手段はないものか、と今日も朝から寝ころびながら、そのことばかり思案していた。
すると、ふと、思い当ったことがある。
(あの女小間物屋め、ちょっとおかしいぞ)
と考えたのだ。
登美への文を頼んでも、返事を貰って来てくれたことがない。それは、まあ別として、いつか検査して包みの中から出てきた黄表紙本のことである。
あの本の中から、文が落ちた。女小間物屋は、長局に奉公しているお末の者が実家への便りをことづけたと云っていたが、あれは怪しいと思った。あのとき、小間物屋の女房の顔色が真蒼になっていたではないか。
あの女房は、登美と仲が好いらしい。
(そうすると……)
久蔵は眼を閉じた。子供がそばに来て何かせがんだが、叱って追払った。
「そうだ!」
と、かけ声をかけて、はね起きたのは、考えた末に、思いついたことがあるからだ。
落合久蔵は、今日は非番だが、家を出かけた。
折角の非番を御苦労なことだが、常盤橋御門の外、橋を町方へ渡ったところで、立って待機していた。
身体を隠しておくには都合のいい場所である。本町といって、商家の多いところである。往来には絶えず人や馬が通る。町家の軒下に佇《たたず》んでいるぶんには、御門から出てくる人間に見つかる気づかいはない。
久蔵が、家に寝転んでいて思い出したのは、昨日、たしか奥女中の感応寺祈祷の代参があり、登美もその中に入っていたことだ。
登美がお寺詣りをした翌日には、必ず、女の小間物屋が長局へ商売に来ている。
これは偶然の一致ではない、と落合久蔵は考えついたのだ。
(あの黄表紙の中に入れた文が怪しい)
縫というお末の女中からことづかったといっているが、もしや、縫とは登美の本名ではあるまいか。──
そう考えついた途端、これは是非、あの女小間物屋を追及せねば、と思ったのである。
久蔵は、町家の軒下に立って、気長に見張った。といっても、あの女小間物屋がお城を出てくる時刻は、およその見当がついているのである。
久蔵は、さり気なく、人でも待っているような風で立っている。
そこへ、後から、ぽん、と肩を叩かれたのには、さすがの久蔵も、不意のことだし、びっくりした。
ふり返ると、そこには鳶の神田の六兵衛が羽織を被《き》て、にこにこと立っていた。
「これは、落合さまではございませんか?」
六兵衛は眼を細めている。
「どうなさいました、こんなところで?」
久蔵は、悪い奴に会ったと思った。
「うむ」
と曖昧《あいまい》に、
「友達と待ち合せているのだ」
と言い訳を云った。
「左様でございますか。落合さまとは、よくそんなときにお眼にかかりますな」
六兵衛に云われて思い出したのは、いつぞや、麻布の島田又左衛門の邸の前で、登美を見張っているときに、今日と同じように出会ったことだ。
どうも、都合の悪い時ばかり、この男は来る。
「ああ、今日は、お非番でございますか?」
六兵衛は、久蔵の風采《ふうさい》をじろじろ見て云った。久蔵は、余計なことを云う奴だと不愉快になった。
落合久蔵の、むっつりして不機嫌なのが、六兵衛にも判ったらしく、
「ご非番なら、お楽で結構でございますな。やはり、お身体をお休めになりませんと……」
と云い、
「手前は、これからお作事方に呼び出されて、お伺いするところでございますよ。それでは、ご免下さいまし」
頭を下げて丁寧な別れ方をした。
久蔵は、それを見送って、やれやれと思った。余計な奴に遇ったものだ。
うっかり、此処に立って、知った顔に遇ったら、何を話しかけられるか分らない。話の途中に、あの女小間物屋が出て来たら、うかつに見遁さないとも限らないのだ。
久蔵は、深い軒の下をえらんで、いよいよ身を縮めた。
眼だけを油断なく、御門の方へ向けていると、しばらくして、彼の視野には、女小間物屋が常盤橋を渡って来るのが写った。
「うう」
と咽喉の奥で、声を出したものである。
女は相変らず、片手に商売物の風呂敷包みを提げている。前を通る通行人の姿で、彼女の姿は、見えたり、かくれたりしたが、落合久蔵も、そっと軒の下で身体を動かした。
橋を渡り切って、小間物屋は、神田の方角へ歩いて行く。自分のあとを誰かが跟《つ》けて来るとは、まるきり気のつかない歩き方であった。
やはり、往来には人通りが多い。十間ばかり距離を置いて歩く久蔵は、通行人のかげに邪魔になろうとどうしようと、決して、小間物屋を眼から失わない覚悟だった。
今日も天気がいい。すっかり秋になっている。よそ見には、落合久蔵が、呑気にそぞろ歩きをしている恰好であった。
あとを跟《つ》けながらも、久蔵は、女小間物屋を呼びとめる場所を眼で探していた。
このように人通りの多い往来で、呼びとめて詮議をはじめる訳にはゆかない。物見高い連中に輪を作られることは必定である。
両側の家を見ると、これがあいにくなことに、商家が連なって、人の眼が多い。
さりとて、このままにしておくと、あの女は自分の家に入ってしまう。久蔵には家の中まで入って尋問する資格はない。
(困った。どうしたものか)
焦燥《あせ》ってきた。
折角、あの小間物屋を待ち伏せ、うまく跟《つ》けて来たのに、逃す手はないのである。
女は、少し急ぎ加減で行く。うしろから見ると、すらりとした背の恰好で、下町女の粋な色気がどこかに感じられた。
そのうち、久蔵は、その道筋に、適当な場所のあることを思いついた。
落合久蔵が、跟けて行くうちに、恰好な場所を思い出したというのは、この先が神田堀で、お濠から東の方へ数えて、竜閑橋、乞食橋、中之橋、今川橋というように、一町毎に橋が架《かか》っている。
女小間物屋は、その内の、乞食橋を渡るつもりらしい。これを行くと鎌倉河岸の方角へ出るのだが、久蔵が思いついたのは、その乞食橋を渡る手前に、白旗稲荷という小さな社祠がある。本銀町一丁目の角になっているが、ここの境内なら、ちょっと人目を避けることが出来るのである。
橋が見えてきて、女小間物屋の姿がそれにまっすぐにかかろうとしたとき、久蔵は急いで追いつき、
「おい」
と軽く女の肩を叩いたものである。
「あ」
女小間物屋はふり返って、久蔵のにやにやと笑っている顔を見ると、
「これは落合さまでございましたか」
と、びっくりしたように眼を瞠《みは》って、おじぎをした。
「うむ。ここを通りかかって、お前の姿が見えたので声をかけたのだがな」
眼を、提げている包みに落して、
「今、お城から戻ったのかえ?」
と、相手を安心させるように、微笑《わらい》をつづけた。
「はい。左様でございます」
「お前は、働き手だ。精が出るな」
久蔵は世辞を云った。
「いいえ。女手の商売ですから、はかがゆきません」
お文は、いやな奴に遇ったと思ったが、それを顔色に出すわけにはゆかなかった。
「うむ、その商売のことだがな。わしは、実は、これから親類の家に行くところだが、何も手土産を用意してない。お前の姿を見て、思いついたのだが、向うには年ごろの娘が一人いる。簪《かんざし》でも持って行ってやりたいが、ちょいと、ここで見せてくれぬか?」
久蔵はおだやかに云った。
「はい……」
お文は、嫌とも云えない。商売だし、ここで断ると、また、お城の出入りに、どんな意地悪をされるか分らないのだ。
「それは、ありがとうございます。どうぞ、ご覧下さいまし」
頭を下げて云ったが、ここは往来だし、どこで包みを開こうかと迷った眼をすると、
「そんなら、このお稲荷さまの境内を借りよう。気の毒だが、こっちへ来てくれ」
久蔵は、赤い鳥居を指して、自分で先に立って歩いた。
お文は、仕方なく従った。
白旗稲荷は、さほど広い境内ではないが、大きな榎《えのき》の樹や、銀杏《いちよう》の樹が高く伸びている。銀杏の葉は半分黄色くなっていた。
落合久蔵は、赤い鳥居が無数にならんでいる下をくぐった。突き当りは拝殿だが、久蔵は、わきの末社の祠《ほこら》に行く。
ここまで来て、お文は気味が悪くなった。真昼だといっても、この一郭は、賑かな町なかの死角になっていて、人の姿が全く無いのである。
前は神田堀を隔てて、俗に、主水河岸《もんどがし》と呼ばれる高い土手が長々と見えている。境内の高い銀杏の上には、昼間から梟《ふくろう》でも啼きそうだった。
「落合さま」
堪りかねて、お文はうしろから云った。
「あの、わたくしは、ここで失礼させて頂きます」
「いや」
落合久蔵は、笑顔でふり返った。
「済まぬ。こういう場所へ誘ったのは、気の毒だが、なにせ、男が簪を買うのでな。万一、人の眼についたら、ちと恥かしい。わしが色女にでも遣るように思われるでな」
実際に、明るい声を出して笑い、
「ははは。この辺なら大丈夫だ。どれ、見せて貰えるか」
と立ちどまって風呂敷を見た。
「はい……」
仕方がない。拒む理由が見つからなかったし、久蔵の様子は、本当に親戚の娘に簪を買うようにみえて、他意なさそうだった。
お文が、祠の縁に包みを置いて、大きな風呂敷を解きはじめる。小さな箪笥《たんす》のようにいくつもの抽き出しのついた髪飾りの道具入れの函が現れた。
「簪なら、これでございますが」
お文は、その一つを抽き出す。
「なるほど」
簪がきれいに納めてある。
「女の道具というものは、眺めていて、美しいものだな」
選択するように、かがみ込んだが、眼は簪にはなく、函の下に重なっている黄表紙の本に向っていた。
「そうだ、簪もいいが、どれ、この下にある絵草紙も見せてくれぬか。女子《おなご》というものは、こういう類《たぐい》を読みたがる」
あっ、と顔色を変えたのは、お文の方で、久蔵が手を出して、箱の下から取り上げそうになったので、
「あ、もし、それはいけませぬ」
と押し止めた。
「なに、いけぬ?」
初めて、久蔵の眼つきが変った。
「これは、そちが長局の女中どもに貸している黄表紙本であろう。ここで、わしが見たら、都合の悪いことでもあるのか?」
落合久蔵は、無理に、箱の下に敷いてある三冊の絵草紙をとり上げた。
「あ、もし」
お文が、あわてて取り縋《すが》ってくるのを押し除け、上の一冊をぱらぱらとめくると、これは何も挾んでいない。
黄表紙が、ふくれているのは、二冊目で、めくるまでもなく、中から、ぱらりと文が出たのである。
落合久蔵は、黄表紙だけを捨てた。
「ふん」
宛名は無く、
「縫まいる」
とだけ書いてある。
久蔵が、その結びを解きかけたとき、突然に、お文が横合から奪ったのである。真蒼な顔をしていて、乱暴な力であった。
「何をなさいます?」
睨みつけて、久蔵が、たじろいだくらいに凄い形相だった。
「い、いかに、お添番とはいえ、あまり無体なことをなさいますな。よそさまより預かった文まで、お披《ひら》きになるとは、理不尽が過ぎます」
「なに、よそより預かったと?」
久蔵は、お文が、しっかりと握っている手紙を眼で指して、せせら笑った。
「やい、その縫とは誰だ? お登美のことであろう?」
「………」
久蔵が、自分で愕いたのは、当て推量に云ったことが図星、女小間物屋が、眼をいっぱいに剥《む》き出したことだ。それから、女は、ものも云わずに、それを懐に入れて駆け出した。
久蔵に、怒りが湧いたのは、この時で、うしろから飛びかかって、衿首を掴んだ。
「舐《な》めるな。うぬ」
欺された、と思ったのは、登美が町方にいい男がいて、この女が文使いをしていた、と察したからだ。道理で、自分の頼みごとには相手にならなかった。
登美と、この女小間物屋とが、共謀《ぐる》になって嘲弄《ちようろう》したと思うと、女を掴んだ腕に力が入った。
「あれ」
女は声を出した。
久蔵は、あわてて、手でその口を塞いだ。女がその手に咬みついたことも彼を怒らせた。
女は後に引き倒された。着物がはだけて、白い脚がもがいているのを、久蔵は、ずるずると引き摺って、祠のうしろに運び込んだ。樹と草の蔭の中である。
「あ、ああ、あ……」
声を出されると、自分がどんなに危険な立場であるかを久蔵は知っていた。彼の顔も、藍のように蒼くなり、汗が眼に沁みた。それを拭えないのは、女の上に己の体重をかけて、細い頸《くび》の血脈を圧さえているからである。
お文は、眼をいっぱいに開いて、死から脱れようともがいている。顔が、見るまに、紅をさしたように赤く充血して、咽喉《のど》にかかった久蔵の指を外《はず》そうとしていた。
その手を、久蔵の膝が押えつけているのだが、下に敷かれた女の必死の力は、一時、久蔵の膝を浮かし、咽喉輪にかけた手をゆるめさせた。
女の身体が、下から盛り上って、久蔵は重心を失った。仰向きに仆《たお》れると、同時に、起き上りかけた女が、土に爪を立てて、横に匍《は》い出した。
久蔵は、倒れても、女の帯を放さなかった。結び目が解けて、長く伸びた。
お文は、赤ん坊のように四つん匍いになって逃げかけている。むき出した膝に血が滲んでいた。はあ、はあ、と喘《あえ》ぐ息が、犬のように急だった。
絞められていたために、すぐには声が出ないのだ。口を開けて、何か叫ぶつもりで顔を上にむけていた。
この稲荷には、堂守りが居ない。人も寄りつかず、昼間でも森閑としたものだった。陽が縞《しま》になって、樹の葉の間から射している。往来を通る呼び売りの声が聞えていた。
女に叫ばれては一大事である。久蔵も必死だった。自分がどんな立場に置かれているか分っていた。この女が憎いとも、文を奪おうとも思わず、ただ、自分を防衛したいために、女を沈黙させねばならなかった。
「あ、ああ、た、たれか……」
這っている女の背が伸び腰が浮いた。両手を、壁でも撫《な》でるように振っているのである。
久蔵は解けた帯をつかんで立ち直った。肩がまるきり出そうなうしろ衿《えり》を目がけて、とびつき、腕を女の顎の下に入れて、引き倒した。お文は、他愛なく崩れて仰向きになった。
「た、たすけて、たすけてください……」
ほかの人に向って云っているのではなく、のしかかっている久蔵に頼んでいるのであった。
その歪《ゆが》んだ女の顔が、久蔵にふしぎな昂《たかぶ》りを与えた。年増女の迫った息の匂い、身体の臭いと弾みが、久蔵を狂人にした。
彼は、女の胸の上に股《また》がると、女の両手に膝をかけ、自分の両手は女の白い、慄《ふる》えている咽喉にかけて押えつけた。うすく浮いた二つの筋の上にあてた親指へ力を入れたのである。それへ、己れの体重を、前屈みになっていっぱいにかけた。
お文は、眼をむき出し、髪を草の上に乱している。人声は無い。久蔵は、力をゆるめなかった。長いことそうしていた。女の顔は草の下の土にめり込んでいる。
女の抵抗は手足から脱けていった。
乱れた髪を伝わって、蟻が一匹、這い上っている。久蔵は、女の凄《すご》い形相とともに、それがいつまでも眼から忘れられなかった。
日が暮れたばかりの時刻だったが、石翁は客間で、人と会っていた。
客は、西国筋の或る小藩の江戸詰家老だったが、用件は会わない先に分っている通り、主人の頼みとして、この度、自分の藩に重大な賦役《ふえき》を課されそうだから、何とかそれを軽い方に転役して貰えないか、という懇願なのである。
家老は、くどくどと自藩の窮乏を訴えている。公儀の課役だから喜んでお請《う》けしたいのだが、目下、藩庫が底を突いているので、その役に当たると財政が崩壊するというのである。
石翁は、その江戸家老の泣き言を、ふん、ふん、と云って聴いていた。別段、それについて、意見を云わない。何も云わない方が、得策なのだ。黙っていると、先方から、勝手に賄賂の高を上げてくる。
一度だけでは、いいとも悪いとも云わないのが石翁の主義で、五、六回くらい無駄足を運ばせる。その結果、持って来た「時候挨拶」の贈りものを、じろりと見るのである。
「それは、お気の毒な。なんとか骨を折って進ぜよう」
と、気に入れば答えるが次の言葉を添えるのを忘れなかった。
「わしは、隠居の身だからの。ご政道に口を出すわけにはゆかぬ。それは、分ってくれるであろう。ただ、知っている要路の人間に話してあげるだけだ」
頼む方は、それでいいと喜んで答えるのである。隠居と云っても、石翁の勢威がどれくらいのものか、充分に分っている。ただ一口、助言してもらったばかりに、若年寄になった者もいるし、少将の官位に叙せられた大名もいる。
石翁の云うことは、表向きの一応の挨拶で、「わしが骨を折る」と云えば、願望は叶えられると同じことだ、と頼む方は欣喜《きんき》雀躍《じやくやく》して納得するのであった。
さて、石翁は、いまも、江戸家老の泣かんばかりの繰《く》り言を聴きながら、その名のように、石のように黙っていた。相手は、そのために、口説きに熱を入れるのである。
退屈だったから、会ってみたが、石翁は、いい加減うんざりしてきたので、あくびを一つするつもりだった。この、あくびを大きく見せると、客は、たいてい狼狽《ろうばい》して帰って行くのである。
用人が隅の障子を開けて入ってきた。
すり足で畳の上を這って石翁の耳に低くささやいた。
「添番が?」
石翁は、大きな坊主頭を傾《かし》げた。
「はい。重大なこと故、ぜひ、殿さまにお目通りして申し上げたい儀がございます、と申しております」
「よし、行く」
と云ったのは、その添番が西丸の勤務と聴いたからである。
石翁が、添番を待たせてある、という部屋に行ってみると、雪洞《ぼんぼり》の傍に、中年の瘠せた男がしょんぼり坐っていた。
思った通り、石翁には見憶えのある顔である。西丸の添番で、たしか落合|某《なにがし》という男なのだ。
石翁は、西丸のあらゆるところに、かねてから手を打っていた。添番は七ツ口の見張り番で、長局からの品物の出し入れは添番が改め役になっている。
長局に出入りする品物については、規則通り厳重にされると困ることが多い。これは、お美代の方の希望だったし、その勢力下の長局の女中どもの要望でもある。石翁は、その「手心」のために、奥役人にも手を廻しているが、添番にも、心易さを見せている。
そのなかで、この落合某という添番は、お美代の方が敵視していた、多喜の方の存命中、その一派の情報を何かと持ってくるので、使える奴と思い、その後も、この邸に呼んで小遣いをやったことがある。
いつぞや、島田新之助が良庵の行方を探しに向島へ来たとき、舟の渡場の茶屋で、川魚の料理で一杯飲んでいる士《さむらい》を見かけたが、それが落合久蔵で、石翁から貰った小遣いで、ちょっとした贅沢をしていたわけである。
さて、石翁が見たいまの落合久蔵は、灯のそばで蒼い顔をして、うずくまっている。
石翁が入ってきたので、久蔵は板のように、そこに平伏した。
「落合とか申したな」
石翁は坐った。どのような虫のような下僚でも、利用価値があると思うと、石翁ほどの人物が、自分で声をかけてやるのだ。殊に、内容を、家来には知らせたくないのだから、猶更である。
「はっ」
久蔵は鼻が潰れるほど、畳に顔を摺りつけた。
「殿さまには、ご機嫌うるわしく、祝着至極に……」
「その挨拶は、もうよい」
石翁は笑って、
「何か用か?」
と訊くと、落合久蔵は、さも威光に打たれたように懐から、恐る恐る、紙の捲いたようなものを取り出し、
「何とぞ、これを……」
と恭しくさし出した。
石翁が、それを取って披《ひら》く。なぜか、ひどく皺がよっているが、最初の二、三行を読んだとき、隠居の眼が、俄かに燐が射したように光った。
平伏している久蔵を一瞥したのち、今度は雪洞をひき寄せ、文の内容を熱心に読みつづけた。
石翁は、その手紙を読みおわって、懐に入れた。
険しい眼つきだったし、眉の間につくった皺も深いのである。厚い唇の端を、ぎゅっと曲げたものである。
「この文の主、縫と申すのは、西丸長局に奉公しているのか?」
あまり、ものに動ぜぬ石翁が、握った拳を慄《ふる》わせていた。
「はい。お三の間詰めでございます」
久蔵は、やはり手を突いたまま答えた。
「尤も、長局で、登美と申しているのが、縫なる女の正体だと存じまする」
その手紙には、縫より、島田又左衛門様まいる、とはっきり書かれてある。
──前回にひきつづき、このような文を手に入れました。前ほどの内容はないが、早速にも脇坂侯にご持参願いとうございます。なお、これにて私の役目も終ったと存じますので、近いうちに、お城から退らせて頂くつもりでおります。
これが、縫という女の島田又左衛門に宛てた文面の意味で、同封の手紙というのは、年寄佐島より感応寺の日祥に送った艶書の一つなのである。
(このぶんだと、大奥女中の艶書が相当脇坂淡路守に流れている……)
石翁が、動揺しているのは、このことで、淡路守が大奥の手入れに、いつでも積極的に出られる確証を握った、と察知したのである。
「その登美という女が、この縫に間違いないか?」
と訊くと、
「今までも、その形跡がございまして、長局出入りの女小間物屋に託して連絡をとっておったように存じます。まさしく、登美は、これなる縫という女に相違ございませぬ」
落合久蔵は、いんぎんだが、自信ありげに答えるのである。
「よし」
と石翁が、うなずいたのは、縫という女が、脇坂と島田の線から西丸長局へ送りこまれた女間諜だ、と直感したからである。
石翁の眼には、いつも見せている剛愎《ごうふく》な色が珍しく掻き消えて、不安な翳《かげ》りが射している。翳りは、脇坂の背後に控えている本丸の老中水野越前守忠邦の影である。
「よく、持ってきてくれた」
石翁は、久蔵に眼を移して、その手柄を讃《ほ》めたが、
「それで、その方は、どうしてこの文を女小間物屋から貰ったのだな?」
と不審を質問した。
「………」
久蔵は、急にうつむき黙していたが、俄かに膝をうしろに滑らすと、畳の上へ、がばと伏せた。
「殿様……お助け下さいまし」
落合久蔵は、這《は》いつくばって、
「何とぞ、何とぞ、お助け下さいまし」
と云った。泣き出しそうな声である。
石翁が、見ると、久蔵の顔は、雪洞の明りにも、たらたらと流れている汗が光ってみえた。
「助けよとは?」
石翁は不思議そうに久蔵を眺めた。だし抜けだし、動作の俄かの変化も、言葉の意味も分らなかった。
「は……」
久蔵は絶句して、暫らくは、ものを云わない。低頭して乱れた髪をみせているだけである。よく見るとそれが、こまかに慄えているのである。
石翁が勘づいたのは、これは、手紙を女小間物屋から奪うために、何か非合法な手段に訴えたのではないか、という想像である。
多少のことは、この手柄のために諾《き》いてやるつもりで、
「どうしたのじゃ。云うてみい」
とおだやかに訊いた。
「はあ」
みると、久蔵は肩まで、ぶるぶると慄わせているのだ。
よほど、肝《きも》の小さい男と思ったので、
「云わぬか。多少の便利は図ってやるが」
と促した。
「は……」
久蔵は、平伏したまま、荒い呼吸《いき》使いをしていたが、
「殿様!」
「………」
「て、手前、その、手紙を奪《と》るために、女小間物屋を害《あや》めて参りました」
叫ぶように云った。
「なに、殺した?」
まさか、と思ったが、これは意外な告白であった。
「うむ……」
じっと、落合久蔵の這っている姿に眼を向けたまま、
「それは、まことか?」
と念を押した。
「真実でございます」
一度、吐いてしまったので、久蔵は、あとをするすると述べた。
「あまりに強情に拒みますので、その手紙欲しさに、つい、首にかけた手に力を入れましたところ、気づいたときには、女の息が絶えておりました」
「場所は、どこじゃ?」
「石町《こくちよう》一丁目、白旗稲荷の境内でございます。いえ、手前ははじめから殺すつもりではございませんでしたが……」
久蔵の弁疏《べんそ》を聴きながら、石翁は、ほかの思案をしていた。
大事な文を取るために人を殺した、その手紙は石翁には必要なものだ、だから、殺人犯人としての奉行所の追及を、石翁の手で阻止してくれ、というのが落合久蔵の頼みなのである。
その肝《はら》には、お前のために図ったことだから、そのくらいのことはしてくれてもいいだろう、いや、もっと、生命《いのち》がけで働いたのだから、取り立ててくれないか、という性根《しようね》が見え透いている。
石翁は、卑屈に這いつくばっている落合久蔵を軽蔑の眼ざしで見た。
「よし」
と口では云ったものである。
「わしが、何とかしてやろう」
落合久蔵は、石翁のその言葉を聞くと、蟇《がま》のように平伏した。
「なんとも、忝けなきお言葉……あ、有難う存じまする。有難う存じまする。ご恩のほどは、一生、久蔵、忘却仕りませぬ」
危機を脱れたので、久蔵の顔には生色が蘇《よみがえ》っている。
久蔵は、ここで、さらに石翁の心に取り入らねばならなかった。
「おそれながら、いま一つ、お耳に入れたき儀がござりまする」
「まだ何かあるか?」
「は。実は、その縫なる女は、去《さん》ぬる弥生《やよい》の桜の御宴に、多喜の方を仆《たお》した張本人にござりまする」
「なに?」
石翁の眼が、また大きくなった。
「その仔細を詳しく話せ」
「畏りました」
久蔵は顔を上げて、一膝すすめた。
生命《いのち》が助かったので、自然と口も雄弁になった。話し出したのは、縫が踏台に蝋を塗って、多喜の方を転倒させた一件である。
石翁も、話を聞いて、さすがに心の中で唸った。お美代の方と対立している多喜の方を仆して、お美代の方に取り入り、情報を探る機会を掴んだ──その綿密な敵の計画には舌を捲いたのである。
「その踏台は、どうなった?」
石翁は質問した。
「手前が、隠し場所からひそかに取り出し、添番詰所の天井裏に匿《かく》しております」
こうなると、久蔵も、登美のことを諦めるよりほかはなかった。人殺しの下手人として捕まるか、助かるかの瀬戸際《せとぎわ》である。いくら狙った登美でも、己れの生命には代えられないのだ。
折角の切り札だが、踏台のことも石翁に渡してしまった。
「よく云ってくれた」
石翁は感謝した。
「そのほうのことは、わしが引き受ける。心配するな」
この言葉と、気持とは、うらはらであった。