落合久蔵は、夜中に起されて、眼をさました。
枕もとの行灯《あんどん》に灯をつけて、女房がさしのぞいている。
「あなた。どうかしましたかえ?」
灯影の工合で、女房の半顔が光ってみえたので、久蔵はぎょっとした。
「どうかしたか、とは?」
久蔵は、ぼんやりとした眼を向けた。
「大そう、うなされておいでだったよ」
「うなされていた?」
「そりゃあ、ひどいうなされかた。ううむ、ううむ、咽喉から絞り出すような声で、身体を転がしているんだもの。寝つかれやしない……」
女房は久蔵の胸にさわったが、
「ひどい汗。一体、どうしたのかえ?」
と気味悪そうに夫を見た。
「そうか」
じっと行灯の明りに眼を据えていたが、
「水をくれ」
と注文した。
「ついでに、寝巻きを着替えさせてくれ」
「あい」
女房は台所に行って湯呑に水を汲んでくる。久蔵は、それを一口に飲んだ。
溜息をついたが、胸は、まだ動悸が激しく搏《う》っている。
そうか、うなされていたか……と、下をむいて考えた。
女小間物屋の、死に際の形相を夢に見ていたのである。
仰向けになった顔で、眼が飛び出していた。鼻孔からも口からも白い泡が出て顔色は紫色に充血しているのだ。白い咽喉の血脈に、親指の爪がめり込み、色が痣《あざ》のように変っている。ひいひいと、笛を吹くような声が洩れて、顔を左右に振りながら藻掻《もが》いている。それが少しずつ、地の中に押し込まれてゆく。乱れた髪が、土まみれになり、何百匹とないアリが髪から匍《は》い上ってくる……
たすけてください──と女は云った。
死ね、死ね、と彼はそれに叫んだ筈だ。女の飛び出た眼の玉に、自分の顔がうつっていた。こんなところに、おれの顔が映るわけがない、これは夢をみているのだ。夢の出来事だ、しかし、夢なら本当に助かるのだが、と夢を見ながら思っていたから妙である。
女の顔が下から不意に擡《もた》げてきた。いくら力を入れて押えても、上へ浮いてくるのだ。この力が、どうしても入らなかった。じれったいくらいに力が入らない。女は嬰児のように赫《あか》い顔を突き上げようとする。その顔を正面から見たくないから、押え込もうとする。その格闘が長かった……。
「まあ、この汗」
女房が着替えのために脱がせたが、その寝巻きが水に漬けたように濡れていた。
落合久蔵は、一晩で、げっそりと瘠《や》せたようになった。眼が落ちくぼんで、病み上りみたいな気持であった。
悪い顔色で出勤すると、同僚が、
「落合氏、どうかなされたか?」
と訊く。
「別に」
強《し》いて微笑《わら》ったが、
「お顔色がよろしくない。気をつけられたがよろしかろう」
と云ってくれる。
そのうち、同僚の間では、落合久蔵が最も恐れていた話題がひろがった。
女小間物屋が白旗稲荷の境内で殺害された噂である。これは長局にも始終出入りしていた女で、添番連中にとっては、顔見知りだから、話は賑《にぎや》かであった。
「首を絞められて死んでいたというが、真っ昼間に大胆不敵な奴もあったもの」
「下手人は、あの女の情夫《いろ》で、恋模様の縺《もつ》れかららしい。町方で捜しているそうな」
「そういえば、年増ざかりの色気のある女だったな。昨日、笑いながら、ここを通っていたが、いや、人間、いつ、どこでどうなるか分らぬものじゃ」
落合久蔵は、耳に蓋《ふた》をしたくなった。昨日の出来ごとが、まだ悪夢のようである。ふと、自分が犯《や》ったような感じがしない瞬間がある。
詰所に、ぼんやりとしていると、
「向島のご隠居が登城なされているぞ」
という情報を同僚が持ってきた。
「さては、大御所様のご容体がお悪いのかな」
と色めく者もあれば、
「いや、ただのご病気お見舞であろう」
と評する者もある。
家斉の容体は、秘密にされていて、下部の者には知らされていないのである。石翁が登城したといえば、すぐに家斉の病気に結びつけたがるのだ。
落合久蔵は、石翁が来た、と聴いて、内心、ほっとした。昨夜の頼みをきいて、その処置をつけに登城してくれたに違いない、という気がした。
今まで、気が抜けたような久蔵は、心に俄かに活力を覚えた。助かった、と思ったのだ。石翁が救助に来てくれた。もう、安心なのだ。
殺されたのは、たかが、市井《しせい》の女一匹である。石翁が、闇から闇へ葬るくらい訳は無いのだ。落合久蔵の悪い顔色に生色が浮んだ。
隠居には手柄を立てている。現に、ひどく讃めてくれた。救助してくれるのは当然なのだ。──
午《ひる》すぎになって、組頭が落合久蔵を呼びに来た。
「落合氏、御広敷番頭がお召しでござるぞ」
「はあ」
久蔵は、期待と不安に胸が高鳴った。
添番落合久蔵は、御広敷番頭に呼ばれて、奥向役人のいる御広敷詰所に出た。
久蔵を喚《よ》んだのは持田源兵衛という者で、六十近い老人である。御広敷番頭は、番衆及び添番を監督しているもので、この持田などは三百五十石の旗本、役科三百俵だ。御家人で持高五十俵の添番とはよほど違う。
「お召しにより、落合久蔵まかり出ました」
久蔵は、丁寧に頭を下げた。
「うむ、久蔵か」
持田源兵衛は、あたりを見たが、同役や上役が執務しているので、
「ちと話があるが、ここでは話しにくい。こっちへ来てくれ」
と別間に立った。
そこは八畳ばかりのせまい部屋で、誰もいない。久蔵は坐ったが、胸がどきどきした。
わざわざ、人のいないところで直属上役が話をしたいというのだから、もしかすると出世の内命かもしれない。
「さて、久蔵」
持田老人は微笑しながら、
「そちは妙なものを納《しま》っているそうだな?」
とおとなしく訊いた。
「妙なもの、と申しますと?」
久蔵は見上げた。
「さるところより聞いたのだ。何だそうだな、踏台をしまっているそうではないか?」
はっとした。さるところと云っているが、登城している石翁の口から出ていることは勿論である。
「はい」
恐る恐る上役の瞳《め》の色を窺《うかが》ったが、機嫌よく眼を細めているのである。久蔵は安心した。
それに、石翁の口から出ているので、隠し立てようもない。
「はい、さる事情がありまして、手前、詰所の天井裏に納《しま》っておりまする」
「そうか」
持田源兵衛はうなずいて、
「出してくれ。いや、訳は訊かなくとも分っている。出してくれ、出してくれ」
と掌を上にむけて、二、三度、上下に揺すった。子供が物をくれ、とねだっているときの恰好だった。
落合久蔵は、添番詰所に急いだ。
物置になっている梯子段を上り、うす暗い中を心覚えの場所に行くと、例の踏台がクモの巣をかぶって置いてある。
久蔵は、それをていねいに拭いた。
赤塗り蒔絵《まきえ》の唐草《からくさ》の金色が出たが、足をかける台にも、蝋のあとがまだ薄く光っている。
落合久蔵は、それを抱えて、再び、番頭のところへ引返した。
このときまでは、まだ讃めて貰えると信じていたのである。
「ご苦労ご苦労。これか?」
御広敷番頭持田源兵衛は、落合久蔵の持ってきた踏台を、眼を細めて、ためつ、すがめつ見ていた。
わざわざ、手で撫でてみて、
「なるほど滑るわい」
と呟いた。
落合久蔵は、手をつかえ、番頭の機嫌のいいのに安心していた。もはや、石翁が口添えしていることは明瞭だった。
「さて、落合氏」
と、おだやかに、
「貴公、どうして、かようなものを納っておられたのじゃな?」
と訊いた。
訊問の口調ではなく、世間話みたいなのである。
「は、いささか存じよりがありまして」
久蔵は口を濁した。多喜の方の一件を番頭などに云うには、あまりに重大過ぎたし、そのことは石翁さえ知っておればいいと思った。
「うむ、存じよりか?」
番頭持田源兵衛の眼が光ったのは、このときである。
「黙らっしゃい!」
頭上に鳴った不意の大喝だった。
「はっ」
久蔵は肝を消した。うっかりとしていたところに不意を衝かれたので、肩が一震《ひとふる》いしたほどだった。
「存じよりとは何ごとじゃ。貴公、いつから大奥の什品を勝手に始末する身分になった?」
久蔵は、あまりの激変に呆れたが、
「いや、その、存じよりと申しますのは……」
と弁解しようとしたとき、
「言い訳無用じゃ」
と源兵衛は、前よりも大きな声を出した。
「これよ、よく聞きなさい。大奥長局の備品は、たとえ箒《ほうき》一本なりとも奥向きの然るべき指図をうけるのが規則じゃ」
「いや、それは心得ておりますが、これには……」
「ほう。知って己れの詰所の天井裏にひそかに匿《かく》すとは……ははあ、これは何だな、貴公、ひそかに機会《おり》を見て、わが家に持ち帰らんとの魂胆であろう。さては、盗賊……」
久蔵は仰天した。
「これは、滅相な。いかに番頭殿とはいえ……」
「えい、黙れ。左様な盗賊をわしの配下につけておく訳には参らぬ。留守居殿に申し上げ、お役御免を願ったから、左様に心得ろ!」
久蔵は、とび上った。
「えっ、それでは、もう……」
「こういうことは早い方がよい」
持田源兵衛はうそぶいた。
「今日、ただ今より、そのほうは添番役を召し放されたと心得ろ。早々に退出せい!」
落合久蔵は悄然として下城した。
──添番は召し上げられた。それは御広敷番頭持田源兵衛の口からも出たことだが、つづいてすぐに、御広敷用人から正式に解職を申し渡された。
「──其方儀、日頃より御用向忠勤に欠けたるところ有り、のみならず今度御役柄を踏み越え勝手なる振舞|有之《これあり》たる段不届に付、添番の役召上げられ、吃度《きつと》窮命申付|候《そうろう》者也」
御広敷用人というのは奥向の取締一切を掌る留守居の直ぐ下にいる者で、若年寄の支配、高五百石、役科三百俵、桔梗間詰《ききようのまづめ》という大そうなものである。
添番の落合久蔵とは、まるで格式が違うから、この解雇命令を読み聞かせられても、久蔵は、口一つ利けなかった。
すべてを石翁に頼っていたのだが、こうなって、はっきり分ったことは、その石翁から裏切られたということである。そうでなかったら、こうまで手順よく、とんとんと運ぶ筈がないのである。
踏台を出せ、という。それが罠《わな》であった。取り上げて置いて、それに名目をひっかけて、あっさりと馘《くび》にしてしまった。
「裏切られた」
今の今まで出世を夢みていた久蔵は、自分が今や一匹の虫になったかと思われた。これくらい、みじめな気持はないのである。石翁に腹を立ててみても、相手はあまりに巨大過ぎた。
虚脱したような気持になって、職場を退いた。同僚も、うすうすは事情を知っているのか、挨拶してもあまり、ものも云ってくれない。冷淡なものだった。
久蔵は、とぼとぼと歩いた。役を離れたから、さしずめ明日からの生活に困る。些細な御家人の扶持だけではやってゆけないから内職でも始めるほかはない。諸事、物価高であった。
女房にはどう云って罷免《ひめん》の理由をとり繕《つくろ》おうかと憂鬱に考え込んでいると、
「落合氏」
と肩を叩かれた。
眼を上げると、久蔵の知らない顔が三、四人揃って道に立っていた。
「落合久蔵だな?」
横柄な口の利き方だからむっとしていると、
「北町奉行所附与力だが」
と名乗られて、久蔵は雷が落ちたような衝撃をうけた。
「ちと訊ねたいことがあるから奉行所まで同道願いたい」
「い、一体、それは……」
五体が瘧《おこり》のように激しく震え出した。
「白旗稲荷の境内で女が何者かの手で殺された。貴公にその絵解きをして貰いたいのじゃ」
落合久蔵は、あたりの景色が黒くなって、傾いてゆくのを覚えた。
石翁は、病間に大御所家斉を見舞ってから、別室に退くと、お美代の方と、水野美濃守とを呼んだ。
「大御所のお命も長うないな」
石翁は両人の顔を眺めながら、ひとりごとのように云った。他人の手前ならともかく、この両人は身内だと心得ている。
ことに美代は自分が養女にして育て、家斉にさし出した女だ。
そのお美代の方は、長い間の家斉の看病だというのに、その顔は少しも窶《やつ》れていない。化粧も濃いくらいで、前にも増して嬌《なまめ》かしく見える。
美濃守はさすがに看病人としての苦労で瘠せているが、その蒼白い顔がかえって妙な美男ぶりに見えるのである。
「よく保《も》てた」
石翁が云ったのは、家斉のことで、
「畢竟《ひつきよう》、手当てがよいからじゃ。ほかの者なら、とうに死んでいる」
と笑い、
「わがまま者が死病にかかっているから、さぞ、むずかることであろうな?」
と訊いた。
「はい。……ときには、ご無理なことを仰せられます」
お美代の方が答えてから、ちらりと横の美濃守の方を見た。
美濃守の厚ぼったい瞼《まぶた》に、うすく紅の色がさした。
石翁は、両人のこの微妙な表情を見て、
(ははあ)
と察した。
家斉は女好きで、その生ませた子の多いことは前例がない。女の子の嫁ぎ先が無くて困り、無理に押しつけられた大名もある。
病体の家斉が、叶わぬ身体の不自由から、その病的に尖った神経を何に求めているか。そこには、いつも病間に詰めているお美代の方と美濃守がいる。家斉が、この男女両人に、或ることをせがんでいるのは考えられぬことではない。
ご無理を仰せられます、とお美代の方の低い言葉とそれに瞼を赧《あか》らめた美濃守の表情で、石翁は、すぐにこれだけの想像がついた。
「ときに」
石翁は、それには気づかぬ風に切り出した。
「大御所様大漸も近づいたとなれば、われらもかねての計画を急がねばならぬ」
美濃守が、切れ長の眼に怜悧な光を湛えてうなずいた。
「お墨附は頂戴した。しかし、これで安心できる筈はない。面倒なのはこれからだ」
石翁は続けた。
「すでに、その面倒な動きが始まっているでな。いまのうちに払わねばならぬ。なに、今ならさして骨折ることもない。……美代。長局に登美という女がおるかな? 実の名は縫と申すが……」
石翁が登美のことを、お美代の方に訊く。お美代の方がそれに答える。水野美濃守を交えて三人、それからどのような話し合いがあったか、人を遠ざけた一室では内容の判りようもなかった。
後刻、お美代の方が年寄佐島を呼んで、ひそひそと話をしたことは確かである。これには、佐島が蒼《あお》い顔をしてうなずくだけであった。
美濃守との要談を済ませた石翁は、機嫌よく下城し、例の屋形船で向島に帰館した。
ついで、その夜は、美濃部筑前守と林肥後守を石邸に呼んで茶会を開いている。
そのときの要談が一刻とき半もかかっている。これも、余人を近づけていない。
石翁の話を、両人は合点合点をして聞いていた。
客を送ってのち、石翁はおとなしく寝についたが、その翌る朝は、本郷の加賀屋敷から、用人前田源五右衛門を呼びつけた。
源五右衛門が駕籠を飛ばしてくると、
「そちと茶を喫《の》みたくなったでのう。年寄りは気が短い。思い立ったらすぐに呼ばぬと落ちつかぬ。迷惑だったな」
と石翁は労《いたわ》った。
「いえ、どう仕りまして。ご隠居さまの御用なれば、すぐにも飛んで参ります」
源五右衛門は、奥村大膳が眼を潰されて役を退いて以来、そのあとを襲《つ》ぎ、石翁と前田家との連絡係りをつとめていた。
「それはありがたい」
石翁は、茶室に前田源五右衛門を呼び、茶を点《た》てて振舞ったが、そのあとで、
「ちと、そのほうに話したいことがある。こっちに寄ってくれ」
と近づけた。
それからの話が長い。源五右衛門の顔も緊張していたが、ときどき、愕いたように石翁の顔を見ている。
話が済むと、
「この話は、そのほうから直々《じきじき》に前田|美作《みまさか》に伝えるように」
と厳命した。前田美作守は加賀藩の江戸詰家老である。
前田源五右衛門が帰ったあと、石翁が庭に出ていると用人が来た。
「お耳に達したいことがござります」
「なんじゃな?」
「ただ今、北町奉行所より連絡がございまして……」
「うむ」
「例の添番落合久蔵と申す者、今朝、明け方、伝馬町牢内、揚屋《あがりや》にて、首をくくって相果てたそうにござります」
「死んだか?」
「左様、報告して参りました」
「ほう」
別に愕きもしない。眼は石を見つめたままである。人間一匹の自殺よりも、もっと大切な思案事があるのだ。
島田又左衛門が、脇坂淡路守を訪問したとき、淡路守は大そう機嫌がよかった。
「又左殿。何かと心配をかけたが、近いうちに、いよいよやることにした」
と、低い声だが、快活に話したことである。
「ほう、では、いよいよ……?」
又左衛門も眼を輝かした。
「うむ、検挙の材料も揃ったしな、先日来、順序を考えていたが、どうにか目鼻がついた」
「それを、承ってわれわれも喜ばしい限りです。思わず身体が浮き立つようでございます」
又左衛門の声は、この男には珍しく弾《はず》んでいたし、実際に膝を一つ二つ乗り出したものである。
「一日も早う、貂《てん》の皮の槍さばきを拝見したいものでございますな」
「見ていてくれ」
と云ったのは、淡路守が自信を示したのだ。
「しかし、こうなったのも貴殿の働きのお蔭じゃ。何にしても、実証が無うては、わしの力でも及ばぬでな。これは有難かった。わしは越前殿(老中水野忠邦)にも度々申し上げている」
「いや、手前の手柄ではございませぬ。畢竟《ひつきよう》、縫めが生命《いのち》がけに働いたからでございます」
「そのことじゃ」
淡路守は、眼を沈めてうなずいた。
「姪御殿には、礼の云いようもない。まことに言葉には尽せぬ」
大奥に手入れした経験をもつ淡路守は、縫の行動がどんなに困難であるかを知っている。そして、そのためには、縫がどのような女としての覚悟をしていたかを知っている。──
「ただ、残念至極なのは」
又左衛門が云った。
「密書を運びました、文と申す女、これは、手前のところに出入りする鳶の者の妹でございますが、落合という添番に殺されたことでございます」
「うむ、聞いている」
淡路守は知っていた。
「その者は、揚屋で自害したそうだな」
「左様。乱心したそうにございますが」
「乱心とだけは云い切れまい」
淡路守は微妙な表情をした。
「南北両奉行所とも、誰かの息がかかっている筈じゃ。どのような手が廻っていたか、知れたものではない」
「すると、向島が……」
又左衛門は、思わず淡路守の顔をのぞき込んだ。
「いや、大事ない。文から添番が例のものを奪って石翁に届けたとしても、大方の確証は揃っているでな。ただ……」
ただ、と云いかけて、淡路守は暗い顔をした。
証拠の大事なものは、殆ど手に入れた。ただ──と云いかけて、口をつぐんだ淡路守の表情の暗さは、ややあって、次の言葉となった。
「ただ、これで、われらの仕方も先方には知られている、と見てよかろう」
ぽつりと云ったものである。
先方、とは云ったが、それが石翁を指していることは勿論だ。つまり、こちらで証拠を蒐集《しゆうしゆう》していたことを石翁一派に察知された、という意味だ。
その影響として、
「ちと、仕事がやりにくくなった」
と淡路守は眉を寄せている。
「これからは、何かと妨害や迫害があろう。水野越前殿の話でも、近ごろ西丸大奥からの風当りがきつくなりはじめたそうじゃ」
「老中にも?」
「笑っておられたが、これはさすがに閉口らしい。いつまでたっても、大奥は苦手じゃ。石翁の手が後に動いて、老中職の追い落しにかかっている様子がみえると云われたがな。越前殿が幕閣に居ては、彼らの仕事がし難《にく》いのじゃ」
「左様でございましょうな」
又左衛門も暗い顔になった。
「ま、そう心配されるな。頑固者の越前殿じゃ、そうやすやすと退《ひ》くことはない。わしは気強く考えている」
「頑固にかけては……」
又左衛門は淡路守の顔を見た。
「お手前さまもお負けになりませぬ」
「もう一人、ここに居るわ」
淡路守は、初めて笑いながら又左衛門を指した。
「頑固者三人集まれば、何とかなろう」
「まことに」
又左衛門も、その笑いに融けたが、どこかに笑いきれぬものが残っていた。心の底に黒い滓《おり》のようなものが堆積している。それが不安とも云えるし、暗い海をのぞいているような気持でもある。
「われらは、それでよいがの」
淡路守が、微笑を消して云った。
「心配なのは、姪御どのの身じゃ。一刻も早う、お城から退らせぬと危険だと思うが」
「そのことは、早刻にも宿下りをお願いするよう申しつけてございます。なにせ、身を退くにはむつかしい大奥のこと、いろいろ理由を考えておりますが、万一のときは、宿下りのまま、身をかくす手段も考えております」
「それがよい。早うなされるがよいぞ」
淡路守は忠告して、
「ときに、妙な申し込みをわしは受けている」
と、また謎の微笑をした。
「妙なことと申されますと?」
「近いうちに、茶会に呼ばれている。方向は、本郷じゃ」
又左衛門は、あっと眼をむいた。
「本郷……すると、加賀藩邸からのお招きでございますか?」
又左衛門が愕いて訊くと、
「珍しいことじゃ」
と淡路守は眼をかすかに笑わせた。
「前田家から、わしを呼びに来た。伝来の茶器を見せてやるというのだが、今までに無かった話だ」
「で、お請《う》けになりましたか?」
又左衛門が問うと、
「断る理由は無い。ありがたく請けたよ」
と恬淡《てんたん》としている。
「それは、お見合せなされませ」
又左衛門は、熱心な眼つきになった。
「お招きした先が悪うございます。前田家とは腑《ふ》に落ちませぬ。ご用心なさるに越したことはありませぬ」
「用心はする。しかし、断ることはない。いや、わしは進んでゆくつもりじゃ」
「………」
「この企ては、うしろに石翁が居る。茶会にことよせ、畢竟、わしの肚《はら》を探ろうとする所存であろう。面白いと思ったな」
「しかし……」
「いや、お手前の忠告はよく分る。しかし、又左殿、お手前の姪御でさえも女の生命をかけて働いてくれた。わしがじっとしている訳にもゆかぬではないか」
「お言葉ですが、姪は女でございます。寺社奉行のお手前さまとは重味が違いまする」
「同じだと云って貰おう」
寺社奉行は云い切った。
「もともと、危険を考えたら、初めからこの仕事はやれるものではない。何もせず、じっと役所に坐っておれば、それでも勤まるが、わしは再勤したときから、今度こそ、と思ったのだ。前から危いことは承知だ。縫どのをあのように働かせておいて、われらが爪楊枝をくわえているわけにもゆかぬ」
「それでは、どうでも?」
「敵が呼んでくれたのが幸いなくらいじゃ。こちらも、じっと先方の顔色を見てやる」
「それほどまでに仰せられますなら、おとめ申しても無駄でございますな」
「頑固者と申したばかりじゃ」
淡路守は微笑したが、又左衛門は笑えなかった。
「そのお茶会は、いつでございますな?」
「三日先との案内でな。役所が退《ひ》けてからでよい、とのことで、六ツ刻《どき》から本郷へ伺うことにしている」
「三日先……」
又左衛門は指を折った。
「十七日でございますな。それでは、淡路守さま、くれぐれもご用心のほどを……」
「ありがたいが、ご心配に及ばぬ。十八日には、また、ここに見えられよ。茶会の模様を話して進ぜよう」
又左衛門が辞去するとき、雨が降り出した。
島田又左衛門は、芝口一丁目の脇坂淡路守の上屋敷を出た。
暗い中に雨が降っている。冷たい雨だ。一雨毎に冬が近まってくる。
駕籠は雇ったのだが、ちゃんと横には吾平も附いていたことだ。夜道の覚悟で提灯も用意して来ている。定紋《じようもん》は四ツ割菱《わりびし》である。
駕籠は、麻布の方角に向って歩いている。脇坂の隣が、松平陸奥(伊達家)の上屋敷、次が松平肥後(細川家)の上屋敷である。いずれも広大な塀が長々とつづいている。
道は、この塀に沿っている。夜ともなれば人が通らないのが普通である。殊に雨の晩だった。
又左衛門は駕籠の中で、鬱々《うつうつ》と考えていた。外には雨の音と、駕籠かきの水溜りを踏む音がする。
脇坂淡路は、加賀家の茶会に呼ばれてゆくらしい。どうもそれが気がかりである。加賀の御守殿は家斉の女《むすめ》でお美代の方の生んだ子。その伜が世嗣の前田犬千代である。美代の養父が石翁と来ている。
西丸大奥と前田家とは親子の間柄にも似ているから前田家で脇坂を呼ぶというのは、どんな魂胆がかくされているか分らない。
かげで、石翁の指金《さしがね》が動いていることは無論だ。
(無理に制《と》めた方が、やはりよかったな)
又左衛門は、かすかに後悔した。脇坂を本郷にやるべきではない。かけ替えのない身体なのだ。
二度と、寺社奉行で、あのような硬骨漢が出ることはないのだ。淡路守は大奥粛清のために生れてきたような男なのである。
(万一のことがあったら)
それは、縫にも云えることだ。そうだ、これも危険なのだ。脇坂淡路守が忠告したくらいである。
ふと、別な足音が前方から起ってきた。
駕籠の中の又左衛門は知らないが、笠と合羽《かつぱ》を被《き》た男が、向うの道から歩いてきたのだ。
駕籠の傍まで来て、その男はふと足をとめた。
「卒爾《そつじ》ながら」
と吾平に問うた。
「お旗本、成瀬久兵衛様のお駕籠ではございませぬか?」
吾平が違う、と答えたのは無論である。
「ご無礼仕りました」
その男は笠を傾けて、詫びて行く。
駕籠の中の又左衛門が聞いていて、たしかにその足音はうしろに去った。
細川家の長い塀が、やっと切れようとするところ、今度は、前と後の方から、多勢の、しかも、忍ぶような足音が起った。
雨は相変らず、強くもならず、弱くもならずに降っている。
島田又左衛門は、駕籠の中に居て、前後から起った多数の足音を注意深く聞いた。
濡れた草鞋《わらじ》が泥濘《ぬかるみ》を舐《な》めて、ぴたぴたと音させている。うしろに四、五人、前方も、ほぼ同数だと見当がついた。
歩き方が武士のものだったし、それも、ある意図をもった気配だった。忍びやかだが、一つのものを狙っている歩き方だった。
挾まれた──
と又左衛門は感じた。
危険を、脇坂淡路守に説いたばかりの帰りだった。
又左衛門は、刀を把り、鯉口をくつろげた。いまにも駕籠から放り出されたら、すぐにも跳ねて起ち上る態勢にしていた。
脇について歩いている吾平に注意を与えようと思ったが、声を出すのは危いと知って、そのまま黙っていた。
駕籠は、何ごともないように進んでいる。細川家の長い塀が、もう切れるころであった。来るな、と思った。足音が近い。
その瞬間に、駕籠がとまったのである。誰かが、棒鼻を前から押えたらしく、駕籠がうしろへ揺れて戻った。
「あ、何を……」
吾平の叫ぶ声が聞えたが、これは、理不尽な行為を咎めたのだった。
駕籠は地上に坐った。同時に、前からも後からも、足音が迫って、囲んだようだった。
「卒爾ながら」
太い声が前から聞えた。
「島田又左衛門殿とお見うけ申すが、しかと左様でござろうか?」
吾平は誰かに押えられているらしい。駕籠屋も同じとみえて声も出さぬ。
「貴公の名は?」
又左衛門は訊き返した。
「わけあって、申し上げるわけには参らぬ。ただ、島田殿かどうかを承りたい」
「作法には無いことだな」
又左衛門は駕籠の中に坐って云った。
「承知」
と相手はうすく笑った。
「ご容赦願うよりほか仕方がない」
「人数は、何人連れて見えられた?」
又左衛門は訊いた。
「手前ども九人」
声は答えた。
「貴公が頭領とみえるが」
又左衛門は云った。
「雇い主は誰じゃ?」
「なに!」
声は気色ばんだようだった。
「寅の方角か、子《ね》の方角か。方位はいずれじゃ?」
寅は向島に当り、子は本郷に当っていた。
殺気が駕籠の外で立った。
駕籠の両側が殺気立ったことは、内に居ても、風が起ったように分った。
又左衛門は、坐っていて羽織を脱いでいた。いつでも駕籠からとび出して走れるようにしていたし、走ってから立ち停り、敵を迎える地形まで考えていた。
脇坂邸には、度々通っているから、この近所はたいてい頭の中に憶えていた。
しかし、敵の人数は圧倒的に多い。容易ならぬ危機に立っていることは自覚できた。それだけに軽々しい挙動には出られぬのである。虚を見せてはならないのだ。
敵の実力も分らなかった。問答は、駕籠の内と外とで交されていた。垂れも塞いだままだったから、敵の姿も見えぬ。
向島か、本郷かでさし向けた人数だとは推察したが、それを訊いたときに、敵は殺気をみせたから、それは当っていたし、いよいよ来るか、と又左衛門も構えた。
「待て」
太い声が云ったのは、又左衛門にではなく、味方を制したのである。
「手出しはするな」
声も重かったが、貫禄があるとみえて、両側の多勢の男が一足退いたようだった。迫っていた鋭い空気が急にゆるんで感じられた。
「島田氏」
と太い声は又左衛門を呼んだ。
「………」
「貴公、脇坂殿の邸から出て来られたようだが、ご用事は何ごとでござるか?」
無論、返事の必要のないものである。黙っていると、
「お答えがないが、ご返事を聞くこともないようじゃ。されば、手前より勝手に申し上げる」
「………」
「大奥に就いての一件、以後、手出しは無用になされたい。貴公には益なきことじゃ。次に、淡路殿への通謀もお止めになるがよろしかろう。蟷螂《とうろう》の斧《おの》じゃ。所詮、己が災いを招くだけが落ちでござる。これだけは、申し上げる」
「用向きは」
又左衛門は口を開いた。
「それだけか?」
笑いが、その男の声で返ってきた。
「それだけだ。ただし、口の先だけではない。貴公が肯《き》かぬときは、必ず、その災いが参ると心得られたい。これは、屹《きつ》と申しておく」
この威嚇は、九人の人間に駕籠の両側を囲ませた効果の上だった。今でも、その気になれば、いつでも斬れるのだ、と云いたげだった。
「承った。たしかに」
又左衛門は現在の対決が終ったことを知って、刀の柄に掛けた指を放した。
「憶えておく。憶えておくだけはな……」
島田又左衛門は麻布の屋敷に帰った。
途中は何ごとも無い。
敵も退《ひ》き際が立派で、
「これだけは、屹と申し上げておく」
と宣言をしたまま、命令で行動をしたように、駕籠の両側の人数も、ひき上げて行ったのである。その遠ざかる足音を、雨といっしょに又左衛門は駕籠の中で聴いていた。
吾平に訊くと、
「いずれも笠で面体《めんてい》をかくしておりましたが、れっきとした士《さむらい》でございます」
と答える。
「頭分《かしらぶん》の男は?」
と問うと、
「何か、でっぷりと肥《こ》えた男で、雨合羽《あまがつぱ》を被ておりましたから、しかとは分りませぬが、相当な身装《みなり》のお士と思います。この人の下知で、ほかの人は動いておりましたようで」
と云う。行動に秩序があったことで、その正体のほどが想像できた。
「手前を羽交締《はがいじ》めしていた男は、それは力が強うございまして、息も出来ぬくらいでございました。旦那さまに万一のことがあってはと思い、気が気でございませなんだが、咽喉に廻された腕が閂《かんぬき》となって、声が出ぬのでございます」
とも吾平は云った。
要するに、敵は容易ならぬ武力を威嚇に持ってきたのだ。この問題から手を引け、と彼らは脅迫している。いや、その威《おど》しは虚勢ではなく、本物なのだ。今でもやれるぞ、と彼は見本をみせたのである。
(石翁が、いよいよ出て来た)
又左衛門が、皮膚にじかに感じたのは、これだった。
淡路守が、
(敵もこちらのやっていることを察した)
と暗い顔をしたのは、たった今だったが、こうまで早く、彼らが直接行動に出てこようとは思わなかったのだ。
(敵も必死だな)
思わぬ敵の気魄《きはく》に愕かされた恰好だった。
屋敷に帰ると、寄食している良庵が出てきて、
「お顔色が」
と又左衛門を見上げた。
「うむ。ちと、途中で故障があってな」
又左衛門は暗く微笑した。
「故障と申しますと?」
良庵が訊くのに、又左衛門はすぐに返答しないで、
「明日あたり新之助を呼んで、貴殿とも、よく相談をしたい。少々、面倒なことが起りそうじゃ」
と云った。
その片頬に上っている不安な表情を、良庵は、この人が、という思いで見つめていた。