家斉の病気は一進一退を繰り返していた。
が、それは平衡の上に立っているのではなく、次第に下降の傾斜を匍《は》っているのだった。
湯殿で仆《たお》れて以来、すでに七カ月になるのだが、身体の不自由、言語の障害はいくぶん除《と》れてきた。
はじめは、間歇的《かんけつてき》に、ひどい頭痛を訴えたものだが、それはいくぶん治った。
その代り、近ごろでは頭が少々、呆《ぼ》けてきたようである。
枕頭には、いつもお美代の方と、水野美濃守とが詰めているが、ときには、その顔を忘れていることがある。
「お前は誰じゃ!」
とお美代の方に、茫乎《ぼうこ》とした眼を向ける。
「美代でございます。美代でございますよ」
彼女が五寸ばかりの距離に顔を近づけても、
「美代? いつ、奉公に上ったのじゃな?」
と不思議そうに訊く。癒《なお》ったとはいえ、言葉もけだるいくらい緩慢であった。
同じことは、水野美濃守についても云えることで、頻《しき》りに誰かと訝《いぶか》って訊くのである。
「なに、水野美濃守じゃと? いずれの藩主であったな?」
などと呟くのだ。
膳が来ると、箸をつけて、子供のように舌を鳴らし、
「これは、そのほうがこしらえたのか。美味《うま》いな。さても料理の上手な男よ」
と真顔で讃《ほ》めるのである。
尤も、このような痴呆《ちほう》的な現象はときどきで、その間は意識がわりにはっきりしているのである。
そのときは機嫌よく話をする。しかし、機嫌がいいといっても油断はならない。突然、真蒼《まつさお》な顔をして憤《おこ》り出し、枕元にあるものを投げつけ、お美代の方でも美濃守でも、ひき据えて打擲《ちようちやく》する。しかし、近頃は、気力が衰えて、床の上に起きることが出来ないから、寝たまま拳《こぶし》をあげて、ぶるぶると震えると、美濃守の方から顔を差し出すのである。
そうかと思うと、突然、大声を出して、
「ただ今より上野の御廟《ごびよう》に参る。早急に供揃いをせい」
と命じたりするのだ。
熱が出るときは非常に高い。その時は歯を食いしばって呻《うな》りながら苦しんでいる。舌を見ると紙のように真白い。医者のすすめるいかなる煎薬《せんじぐすり》も受けつけない。
ひっく、ひっく、と始終、しゃっくりがつづいている。顔も手足も瘠せ衰えているのに、腹だけは、妊娠のように膨《ふく》れ上っていた。その顔も、身体も、色を塗ったように黄色になっているのだ。
典医どもは秘薬を調合しながらも、浮かぬ顔をして首を傾げているのだ。
誰の眼にも、家斉の死期が近いことを思わせた。
この上は、神仏にたよるほかなさそうだった。
感応寺の住職、日啓が、大御所家斉の「病気見舞」として登城した。
日啓は、お美代の方の実父である。齢《よわい》六十を超しているが、まだ顔の色も艶もいい。ただ、足もとが少々|縺《もつ》れるが、介添《かいぞえ》の扶《たす》けで、西丸の長い廊下を疲れもみせずに歩いた。
法華宗が、家斉の代に繁昌したのは、全く日啓がお美代の方の実父であるという因縁だけで、宗旨がよかったのでもなんでもない。家斉が美代にすすめられて、法華宗に転向したので、大奥はじめ諸大名の奥までがこれに倣《なら》った。
一体、武家の宗門は殆どが浄土宗、禅宗だったのが、家斉の代に、法華への宗旨変えを申し出た大名もあったくらい、法華宗は諸家に人気があった。
いうまでもなく、これは家斉への阿諛《あゆ》であり、お美代の方をはじめ、その大奥側近への追従《ついしよう》だった。先祖以来の宗旨を変えなければならなかったほど、法華のうちわ太鼓を鳴らさないと、立身も出世も出来なかったのだ。
「西御丸を始め、諸大名の奥女中、多分は日蓮を信仰せられ、はては我生れ来りし先祖より伝ふる所の宗をすて、此宗にゐること、古今同じく、其数甚多し。是も宗の僧のすすむる所にして、又、先々の女中たがひにすすめあへるが致す所也」
また、こうも書かれている。
「近世諸家の貴人、京都より妾を召さるるに、多くは日蓮宗なり。その故は日蓮宗の僧等、其の檀那《だんな》と心をあはせ、下賤《げせん》の数ならぬものにも、かほよくむまれし処女あれば、金銭を与へ、育てしめ艶芸を習はす。年ややたけゆくとき、日蓮宗の法義を教へ侍《はべ》る。是は若し大家の妾となり、幸ひせられば必ず主家を勧めて、我宗を其邦へひろくせんたくみ也。邪徒《じやと》の奸曲《かんきよく》ここに至れりと京の人かたりし」(天野|信景《さだかげ》「塩尻」)
この天野の云う最後のところは多少、曲解で、諸家の貴人というのは、多分、大名か高禄の旗本のことであろうが、妾を京から呼ぶのに、法華宗を条件としたのは、一に将軍家や大奥へ気に入られようとの魂胆で、法華宗がわが宗旨を拡めんとした企らみがあったとは思われない。むしろ諸人の出世欲が法華宗を流行《はや》らせたのだ。
それはともかくとして、上人日啓は、その法華流行の本尊である。彼は、己の法華感応寺を、ゆくゆくは、寛永寺、増上寺と同じように、将軍家の菩提寺《ぼだいじ》としたい下心があって運動したほどの坊主であった。
いま、長い廊下を歩いて、西丸大奥の家斉病間の一つ隣に辿《たど》りついたのは、表向きの名目こそ「御見舞」であるが、実は、直々《じきじき》に家斉の病床で祈祷をしようというのである。
これも、日啓自身の発意ではない。西丸老中、林肥後守と側用人水野美濃守の招請であった。
大御所見舞といっても、日啓が直々に家斉の病間に進めるわけはなかった。病間と次の間の間《あいだ》の襖を締め切り、日啓は襖越しにお見舞を言上するのだ。
この間は、十二畳敷で、南の小壁には欄間がある。四面とも襖を締め切り、襖は金砂子地に金泥で桜花の模様を描いてある。
天井と小壁の貼附は、丸竜と称して、竜をまるいかたちに意匠したものだ。
日啓は厚い緋の座蒲団の上に坐し、金泥|葵《あおい》唐草の匍《は》った経机を前に経文を誦《ず》していた。「御見舞」というのは、表向きの口実で、実は病間近くで加持祈祷を修めようというのである。
日啓のうしろには、上臈、中臈、年寄、中年寄、御客|会釈《あしらい》など、奥の役人がずらりといならんで、日啓の読経に、頭を下げて有難そうに数珠を繰ったり、唱和したりしている。
病間には、家斉が横臥しているのだが、読経の声を煩さそうに顔をしかめて聞いている。横に、お美代の方と水野美濃守とがいるのはいつもの通りだが、今日は、西丸老中林肥後守、側用人美濃部筑前守が控えている。
家斉の病室には、水野、林、美濃部の三人以外には、いかなる人物も出入りを宥《ゆる》されなかった。
たとえ、本丸から将軍家慶が見舞の都合を問い合せてきても、
「大御所様思召し」
を云い立てて滅多に遇わせないのである。
三家、親藩に至っては、けんもほろろである。
「大御所様思召し」
とか、
「お医師の意見でございます」
とか云って、余人を絶対に病間には入れない。だから、本丸の方で、
「あの三人が、大御所様を閉じこめて、何をしているか分らない」
と猜疑《さいぎ》するのである。
老齢とは云え、日啓の声はよく徹《とお》る。声は若いときから自慢であった。
「とくあのくたら、さんみゃくさんぼだい、ねんぜんなんし、がじつじょうぶつちらい、むりょうむへん、ひゃくせんまんおく、なゆたこう、ひよご……」
高らかに誦しながら、片手に山形の板と数珠を持って振る。その音が、かっ、かっ、と音律的に鳴るのである。
これにつれて、うしろの女中たちも、
「むくれい、わられい、はられい、しゆきやしや、あさんまさび、ぼつだびきりしてい、だるまはりしてい……」
と唱和してゆく。
法華に凝《こ》っているから、「陀羅尼品《だらにぼん》」の一部くらいは暗誦しているのである。
家斉は、数百匹の虻《あぶ》の唸りのような声に、眉に皺を寄せ、嬰児のように、枕の上で頭を振っている。
日啓上人の加持祈祷に唱和しているのは、大御所の病間近くだけではなかった。
当日は、年寄の触れとして、
「上人の御祈祷がはじまれば、女中どもはそれぞれの部屋に籠りて陀羅尼品を誦すべし」
の触れが長局全体に出た。
それで、その時刻になると長局中から称名の声が湧いた。
本丸の長局は四棟あり、南から一の側、二の側、三の側、四の側と称した。一の側は役つきの重い女中が居るところで、十数部屋に分れている。これには二階もついている。
二の側と三の側は、間数二十、四の側は三十ばかりである。御錠口、表使い、お三の間頭、呉服の間頭、御祐筆頭を始め、以下役々の順で二の側から三の側、四の側に住む。
これは本丸の例だが、西丸はそれよりやや規模を小さくしている。しかし、家斉が大御所のときは、その派手な性格と、実権を握っていることとで、総女中の数は本丸にあまり負けなかった。
なにしろ長局に住む三百人あまりの女中が、一斉に、
「あにまにまれい、ままねい、しれい、しゃりていしゃみや、しゃびたい、たいせんてい、もくてい、もくたび……」
と経文を膝の上に置きながら唱和するのだから、その声は西丸全体に満ち満ちた、といってよい。
日啓上人の読経がはじまって間もなくであった。
そのうしろに控えていた年寄佐島が、合掌のまま、ふと、横を向いた。さり気ない向き方で、何気なしに顔を振ったようにもとれた。
すると、その列のうしろに居た女中が、するすると横に滑るように出ると、静かに襖を開けて出て行った。年寄の樅山だった。
それだけのことだ。樅山が何かの用を思い出して、部屋をこっそりと出て行った、という印象だった。
しかし、樅山は廊下を歩いて長局に向っていた。これも、普通の歩き方で、さして大事な用事があるとは思えなかった。
長局に近づくと、どの棟も経文の合唱である。
樅山は三の側の廊下を歩き、ある部屋の前に停ると、杉戸を細目にひらいた。
三人の女中が、一心に手を合せて口を動かしていたが、その一人が杉戸の細目に開いたところから覗いた顔を見て、
「あ」
と小さな声を立てた。
樅山は、顎をしゃくって、おいでおいでをしている。
その女中が近づくと、
「登美を、これへ」
と呼んだ。眼を細めて、微笑を湛えているのだ。
女中たちの間で、手を合せていた登美は、ひとりの女中から耳打ちされてうなずいた。年寄の樅山が喚《よ》んでいるというのである。
膝をそっと滑《すべ》らして杉戸の方へ、こっそりと行く。ほかの女中は、まだしきりと陀羅尼品を誦している。
静かに杉戸を開けて出ると、樅山が廊下に立っていた。
登美が一礼すると、樅山はかすかな笑いを眼もとに浮べていた。
「そなたも、ご祈念をしていましたかえ?」
樅山は、廊下の端を、ちらちら見ながら訊いた。
「はい」
それは奇特なことじゃ、と樅山は云った。
大きな声を出さないと、各部屋から、真夏の蝉《せみ》時雨《しぐれ》のように降っている女中どもの唱和の声に消されそうだった。
「ちと、そなたに用事があります。暇をとらさぬから、そこまで来て下され」
樅山は云った。何気ない云い方だった。
「はい」
登美が、うなずいたのを見て、樅山が先に立って廊下を歩く。
いつもは、必ず女中衆の誰かが歩いている長い廊下が、今に限って殆ど姿が無いのである。
「お末、たもんに至るまで各々の部屋にて、上人の祈祷が相済むまで籠《こも》り、祈念のこと」というのが、年寄の達しだったから、この長局の廊下には、嘘のように人かげが無い。
樅山は、行先を云わずに相変らず、黙って先を歩く。三の側から一の側への廊下は中央が長局通り廊下と云って、随分、道中が長く、また見通しがまっすぐにきくのだ。廊下の端が小さくつぼまって見える。
この廊下を歩いているときでも、左右の部屋部屋から聞える女中どもの唱和の声は湧き上るようだった。
先に立った樅山は、一の側の廊下まで行かずに、途中で右に曲った。二の側の廊下で、これも左右を見渡すと、気が遠くなるほど長い。
樅山は、右の方へ真直ぐに歩いてゆく。
一体、どこへ行くのか。
登美の心に、かすかな不安が湧いた。
樅山は、いつも感応寺詣りには一緒だったし、いわば仲間うちだった。年寄佐島にはひどく気に入られている。
登美には決して悪い上役ではなかった。それに、ここは長局のうちなのだ。何が起るというのか。
不安がる理由は少しもない、と登美は自分の胸に云い聞かせた。
しかし、それに、かかわりなく、動悸がひとりでに激しくなってくる。
長い廊下を歩いて、年寄の樅山がようやく足を停めたのが二の側の角の部屋である。
樅山はふり返り、登美を見て笑う。
「ちと、そなたに、内密の話があります。なに、それほどむつかしい話ではないが、少々外聞を憚《はばか》ります」
「はい」
登美はすこし頭を低《さ》げた。
「うるさいお局のこと、そなたとわたしが密談していると、また何かと勘ぐられるかもしれませぬ。ほかに、場所も無い故、この内に入ってくれませぬか?」
樅山が指したのが、足を停めた角の部屋であった。
「お乗物部屋!」
登美は、その部屋を見て口の中で叫んだ。
日ごろは用の無いところである。この部屋は奥女中が外出のときに使う乗物が四、五十も格納してある。長局の中には、こういう乗物部屋が五カ所もあった。
なにぶん西丸だけでも、慶応元年の調べでは、女中の総計四百六十九人もあったという。この中で、外出のときに乗物を宥《ゆる》されるのは限られた高級女中であったが、それでも、日ごろから二百挺以上の乗物が用意されていたわけである。
この乗物部屋で話をしようというのだから、登美が、場所の意外に愕いたのであった。
樅山は微かに笑って、
「なに、話は、すぐに済むことじゃ。お入りなされ」
と杉戸を開けた。
妙なことだが、その戸がすらりと開いたのだった。登美は、日ごろ、その戸に丈夫な錠前がかかっているのを知っているが、見るとそれが無いのである。前もって、誰かが抜いているのだ。
樅山は躊躇《ちゆうちよ》せずに先に入る。登美も胸の動悸を抑えながら、仕方なしに続いた。
部屋の内はうす暗い。四、五十挺も網代鋲打ちのきらびやかな乗物がならんでいるのは壮観だが、どこか薄気味悪い。人のいない乗物ばかりが沢山集まっているのを見るのは変な気がする。
「どうぞ」
樅山に促されて、登美は、さらに二、三歩、足を進めた。
とたんに、うしろの入口の杉戸が音立ててひとりで閉まったのである。
「あっ」
声を上げたのは、それだけではない。
置かれた乗物の陰から、華やかな色彩が立ち上ったと見ると、これが年寄佐島の姿だった。
登美が眼を大きく開けて、うしろに退った。その身体を三、四人の力が不意に抑えた。
「ざれい、まかざれい、うつきもつき、あらあらはてい、ねれてい……」
長局全体の斉唱の声の中には、乗物部屋で少々叫んでも、人の耳に聴える筈はなかった。
乗物部屋でどのくらい時刻《とき》が経ったか分らない。
とにかく、大御所の次の間では、まだ日啓上人の長い加持祈祷がつづいていたから、あまり長い時間ではなかったのであろう。長局でも、むろん、女中どもの斉唱がつづけられている。
長局の通り廊下を二人の女中が歩いていた。一人は年寄佐島で、一人は年寄の樅山である。
佐島はどういうものか、歩く足もとが少しよろめいている。樅山がそれをうしろから抱きかかえるようにして扶《たす》けて歩いていた。佐島の顔も樅山の顔も蒼白になっていた。
長局廊下から、御殿の廊下にかかった。この廊下も長いが、いろいろと屈折している。それを幾曲りかして、もとの御病間の次の間の襖を静かに開けた。
このときは、佐島は年寄の威厳をとり戻して、ちゃんとした姿勢になっている。つづいて、樅山が入って、それぞれもとの席に着座した。
ほかの者には、二人とも偶然に、何か用があって席を起ち、戻ってきたという印象だった。ただ、それだけのことである。別に変った様子もない。両人とも、前のように、日啓上人の背後から手を合せている。
加持祈祷も、終りに近づいたらしい。
日啓上人の数珠をふる動作がいよいよ大きな身振りになり、かっかっという音が激しくなった。
日啓の読経の声も一段と高くなった。音声が自慢なだけに、年老いても朗々たるものだった。
うしろの女中衆も、それにつけて騒々しい。普通なら団扇《うちわ》太鼓《だいこ》を鳴らすところだが、それはさすがに遠慮している。
地白に金泥、銀泥の極彩色絵の襖一重を隔てて、家斉は、いよいよ頭が痛いらしく、顔を枕の上で振っているのだ。
上人の声が、終りに近づいて、張りをみせたときである。
そのうしろに控えている女中たちの最前列にいた年寄佐島の姿勢が妙な傾きかたをした。と思った途端に、崩れるように、ふわりと前に突伏したのである。
はじめは祈祷に感動して泣いたのかと思ったが、そうではなく、急いでいざり寄った樅山に扶け起されたときは、佐島は真蒼な顔をして眼を閉じていた。
「佐島さまはご気色が悪いそうな。どなたかお部屋まで手伝って下され」
樅山は低い声で云った。
樅山が佐島を抱き起す。傍にいた女中二人がそれを扶ける。不意の珍事だが、小さな波乱で終った。
佐島は、外の廊下へ抱えられて出た。
登美の姿が見えなくなった。──
はじめに騒ぎ出したのは、相部屋の女中二人である。登美と同じくお三の間で、長局三の側、西より五つ目の部屋にいる。
お三の間の役というのは、毎日、表使以上のお居間向きお掃除一切を終り、毎朝の湯水を上げ、火鉢、煙草盆などを取扱い、これを小姓に渡す。
また年寄、中年寄、お客|会釈《あしらい》、中臈詰所の雑用を直接に達し、ときには鳴物狂言の催しがあると、お次の女中と共に択び出されることがある。
だから、遊芸一通りの心得がある女中が多かった。
登美の姿が見えない、と気づいたきっかけは、お三の間頭が、
「明日は上亥《じようい》の祝儀がある故、何かと御用が忙しい。いろいろと打ち合せたい故、登美を呼んでたもれ」
と命じたことからである。
何処を探してもいないのである。相部屋の同輩は、
「たしかに、お部屋で、ご祈祷のとき、わたしたちと一緒に坐っておられましたがなあ」
と不思議な顔をした。その加持祈祷が終り、日啓上人は一刻ときも前に退出しているのだった。
はじめは、御用所か、中庭に出ているのかと思って探したが、どこにもいない。
そのうち、思い出す女中があって、
「登美さまは、ご祈念の最中、たしか樅山さまに呼ばれて部屋を出て行きました」
と云い出した。
相部屋のお三の間女中が、年寄の樅山の部屋に、おそるおそる伺いに行くと、
「ちと申しつけたい用事があった故、廊下へ呼んで話したが、それは二口三口で済んだこと。わたしはそのまま上人様のご祈祷の場所へ帰ったゆえ、その後、登美がどうしたかは知りませぬ」
との返事だった。
その樅山との話が済んで、登美が座敷に戻ったのを見た者はない。一方、樅山は、たしかに一時は中座したが、しばらくして元の席へ帰っている。
お三の間頭は、報告を聞いて眉を寄せた。
突然、登美が姿を消したのは、合点のゆかぬことである。しかし、騒ぎ立てている最中に、当人がひょっこり何処かから帰らぬとも限らぬので、それからも二刻ばかりは待った。
それでも、登美は一向に顔を見せなかった。
こうなっては仕方がない。
お三の間頭から中年寄に報告する。
さらに奥から、御広敷留守居にこのことを通告した。
留守居は用人に申しつけて、長局一帯を捜索するように命じた。
すでに夕刻になっていた。
登美の捜索は、その夕方からはじまった。
お広敷用人の指図で、添番衆、伊賀者が長局の諸所方々を探し廻った。
御用所から、床の下、天井裏まで捜したが登美の姿はなかった。
門番に念のために訊いてみると、外出の様子はない。
探しあぐねた一同が顔を見合せていると、そのなかで、
「もしや、お乗物部屋では?」
と云い出す者がいた。
「まさか」
と否定する者が多かった。
というのは、乗物部屋には丈夫な錠前がかかっている。この開閉は添番頭がやっている。彼らが居なくては、開けることは叶わないのだ。
「念のためじゃ、開けてみい」
用人の下知で、添番のひとりが錠前を外《はず》した。重い戸が開いた。
すでに、昏《く》れかけているから、内部はいよいよ暗い。各各、手燭をもって、四、五十挺もならんでいる乗物の間を点検した。
乗物は、不要の時は、油《ゆ》たんがかかっているのだが、見た眼にはいずれも異状がなかった。乗物と乗物の間や、隙をくまなく見て廻ったが、手燭の光は何の変異も見つけ出さなかった。
およそ、一刻近くも探したが、登美の姿は発見されなかった。
「面妖《めんよう》なことじゃ」
捜索隊は首をかしげた。
とにかく、今日は日が暮れたことであるから、明日もう一度、よく調べようということになってひき上げた。
長局では大そうな騒ぎだった。
女中どもは、寄るとさわると、この話に夢中になった。そして、みな恐ろしそうな顔をする。
長局には怪談がつきものであった。ずっと何代か前にも女中がひとり忽然《こつぜん》と御殿から消えたことがあった。おおかた、妖怪変化にさらわれたことであろうと、その話をきく者は怖気《おぞけ》をふるい、夜、御用所(厠《かわや》)に行くときでも、入口では必ず有難いお経の一節を唱えたものだ。
あまり、女中どもが騒ぐので、
「明日は目出度い玄猪《げんちよ》の日である。滅多なことを口にせぬように」
と年寄から触れが廻ったくらいである。
玄猪というのは、十月上の亥《い》の日で、災難除け、子孫繁昌の祝いごとがある。この日は上《かみ》から女中一同へ亥の子餅と御膳所でつくった萩の餅を下される。炬燵《こたつ》開きがあるのも、この日からだった。
不安な一夜が明けて、その日が来た。
その日は、朝から人夫を長局に入れて登美の行方の本格的な大捜索となった。広い長局であるから人夫も百人近い。これに添番や伊賀者がつき添っている。
もしや井戸の中ではないかと、これも人夫が降りて鈎《かぎ》で探ってみた。井戸だけでも長局には二十五カ所もあるから大そうな騒ぎである。
また、局々《つぼね》の縁の下や、物置部屋なども捜した。まるで長局は煤払《すすはらい》のときのようである。
女中も思い思いの場所を探す。当日は亥の子で、御台所は綸子総縫《りんずそうぬい》入りのお|襠 赤紋《かいどりあかもん》縮緬《ちりめん》の間着組白《あいぎくみしろ》を被る。女中もお襠が違うだけで、あとは同じだ。
いわば祝儀の日だから、人夫に立ち混って探す女中の晴れ衣が対照的だった。
乗物部屋もむろん探した。しかし昨夜と同じように登美の姿は、置きならべられた乗物の間には見えないのである。
「妙だ」
奥向の役人は首を傾げた。
もう、この上は探す所が無いのだ。
外に出たのでないことは確かである。人間ひとりが長局から消失したことになる。
添番頭が首を捻《ひね》った。
「こうなったからには、もう一度、乗物部屋を探すほかはない」
しかし、それは二度も探したのである。
「いや。念のためじゃ。いちいちの乗物の内を調べるのじゃ」
聞いた者はまさか、と思った。乗物には油たんがかかっている。戸の錠前は、たしかに外から掛けているのだ。
それでも一同はその下知に従った。ほかを探しあぐねているから止むを得なかった。
四の側、三の側の乗物部屋を探した。四、五十挺も入っているのをいちいち、油たんを除《と》って改めるから、大変な手間である。
異状はなかった。捜索は二の側の乗物部屋に移った。
附添いの役人の前で、人夫が油たんをはずす。すると乗物の金具がうす暗い中にも光ってみえるのだ。
ひとりの人夫が、網代鋲打ちの乗物の引戸に手をかけていた。
彼は当然、内身《なかみ》の空《から》を予想していたから、平気ですっと引戸を開けた。
突然、紅い色彩が眼にうつった。次には黒い女の髪がぱらりと散って、うずくまった衣裳に藻のようにかかっているのが見えた。
「ぎゃあ!」
人夫は仰天して、悲鳴を上げて転倒した。
人々が駈け寄って、乗物の内をのぞいた。ひとりの女中が背を前に折り、押し込められたように静止していた。
立派な乗物の中が死体の膝から底にかけて、どす黒い血で充満していた。
乗物の内で血塗《ちまみ》れになって死んでいる登美を一目見ると、添番頭は仰天して、御広敷番頭に知らせた。この番頭が、持田源兵衛であった。
源兵衛は報らせを聞いて、
「なに、登美が!」
とびっくりした顔をした。
早速に二の側の乗物部屋に駈けつけてみる。このときは、添番頭の指図で、近くの乗物は片づけられ、網代鋲打ちの乗物だけがぽつんと置かれてあった。
引戸が半分開き、登美の横顔が祈るようにうつむいて坐っている姿が見えた。髪は元結《もとゆい》が切れて、前に海草のように乱れ下っていた。
胸乳のあたりから血が噴きこぼれているが、これはどす黒く乾きかけて、前に垂れ下った髪を糊のように粘りつかせていた。膝の上には、梅の模様を彫った平打ちの銀|簪《かんざし》と、鼈甲《べつこう》づくりの笄《こうがい》とが落ちて血に染っている。
乱れた帯上げからは赤綿の守袋がはみ出し、懐《ふところ》からはハコセコと呼ぶ錦の紙入れが落ちかかっていた。また乗物の中には、登美がいつもはいていた表五枚重ねの萌黄《もえぎ》の緒の上草履《うわぞうり》が投げ入れてあったが、これは底が半分、べっとりと血の中に浸つかっていた。
「これは椿事《ちんじ》じゃ。検視があるので誰も手をつけるな」
持田源兵衛は命じて置いて、すぐに表から目附を呼んだ。
戸板を持って来て蓆《むしろ》を敷き、この上に登美の死骸を乗物から移す用意をした。
目附は乗物の中の死骸を改めた。今まで分らなかったが、登美の凭《もた》れた背を起すと、うしろに両手が廻されて、縄で括《くく》られている。その結び目が女結びであった。
登美の死体は戸板に移されて横たえられた。
死顔は眼を開き、髪を唇の間に咬《くわ》えて、無念の形相をしていた。美しい顔だけに悽惨であった。
目附は胸を開いて疵口《きずぐち》を改めた。凶器は見当らぬが、懐剣のようなもので心臓を一突きで刺していることが分った。
「これは、ひどい」
と検視の目附が瞳を逸《そ》らせたほどだった。
下手人は、登美を後手に縛って自由を奪った上に、胸乳を狙って突き刺しているのだった。まるで人形を刺すように、たやすい操作なのだ。
不思議なのは、杉戸の錠前が外からかかっていることで、これは当の係りの添番頭でないと開閉が出来ないのだ。それから死骸を入れた乗物の油たんが、ほかのぶんと同じようにきちんとかかっていた。落ちついた下手人だと一同が感嘆した。
念のために年寄の樅山に事情を訊くと、
「わたしは登美どのとお廊下で話して別れたまでじゃ。そのあとは知らぬ。何故に、そのようなことをしつこく訊くのじゃ?」
と怕《こわ》い眼をして役人を沈黙させた。