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かげろう絵図(下)~夜霧の中

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  夜 霧 の 中 寺社奉行脇坂淡路守|安董《やすただ》は、本郷の加賀邸の茶会に招かれているという前の晩、老中上座水野越前
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   夜 霧 の 中
 
 
 寺社奉行脇坂淡路守|安董《やすただ》は、本郷の加賀邸の茶会に招かれているという前の晩、老中上座水野越前守忠邦をその邸に訪うた。
 忠邦は、このとき四十六歳の働きざかりである。
 忠邦は脇坂を迎えると、別室に招じ、人を遠ざけて、話を聴いた。額の広い、目つきの鋭い人で、濃い眉毛に強い性格を思わせた。
「妙な方角から、座敷がかかったな」
 忠邦も、はじめは笑っていた。
 脇坂淡路が、何ごとかを愬《うつた》えはじめた。忠邦の眼がそれから光り出したのである。
 のちに、天保改革で名を遺したこの人のことに少し触れなければならぬだろう。
 水野家は六万石で肥前唐津の城主であった。その先祖は家康の生母伝通院の実家だから、徳川家とは深い因縁の家柄である。
 元来、肥前唐津は、公称は六万石だが、実際の収入は二十六万石といわれていた。それに長崎お固め十八家の一つで、諸役ご免であるから、その利益は少くない。だから、水野家は唐津城主として、繁栄し、その裕福は諸藩の中でも指折りであった。
 ところが、忠邦は、一度は老中になって、天下の要路に当らんという気持があった。
 しかし、長崎お固めの家柄は、老中に登用しないという慣例があった。
 そのために、忠邦は、唐津から国替えを申し出たのであった。むろん、これには家老たちの猛反対があったのだ。諸臣、こもごも諫《いさ》めたが、忠邦は断じて肯《うなず》かない。国替えの先は遠州浜松である。これは実収が少い。
 忠邦は老臣たちに云った。
 六万石の大名が、六万石の知行を賜るのに何の不足を云うことがあろう。自分は水野の家に生れ、外戚の家筋に列《つら》なり、譜代の席にある。一度は御加判の列となり、天下の仕置を掌《つかさど》らんこそ、身の本望である。そのためにとて願い上げた国替えであるのに、諫めるとは、忠邦に不忠をすすめようとの趣意か、と諭《さと》して、老臣たちを沈黙させたのであった。
 忠邦は、最初から天下の政治に腕をふるってみたいという意気込みがあったのだ。
 閣老となり、多忙中も読書を怠らず、いつも儒者、国学者を侍《はべ》らせて、毎夜午前零時にならないと寝につかない。朝は鶏鳴に起き、入浴し、衣を改めて祠堂を拝し、朝食を終って、髪を直させる際に、内外の用事をきき、これを裁断することが習慣だったという。
 彼は、早くから弊政を改革しようという気持があったが、大御所家斉が生存中は、その絶対的な実権のために、手をつけることができなかったのである。
 彼が改革の手腕を揮《ふる》おうとするならば、家斉の死後でなければならなかった。
 脇坂淡路守が、水野越前守忠邦とたった二人で、どのような話をしたか、家来を近づけさせないので、外部には分らなかった。
 ただ、淡路守が辞去の際、越前守が玄関まで送りながら、
「御用大切の折じゃ。お身体をくれぐれもいとわれよ」
 と云ったのに対し、
「御老中こそ御大事になされませ、今宵、ゆるりとお目にかかって、手前も、近ごろ心おきのうお話ができました」
 と淡路守は喜んでいた。
「いや、わたしこそ、懇《ねんご》ろなお話を承って、ありがたい」
 と越前守も、厚い唇に微笑をみせた。それで、これからも、こういう機会をたびたびつくり、懇談を交したい、と熱心に云ったほどである。
「それは、手前もお願いしたいところですが」
 淡路守は、受けてうなずいたが、
「今宵、申し上げたことで手前の肩の荷も何やら降りたように思います。これで、いつ、死のうとも心残りはありませぬ」
 と云った。
 ほかの者ではない。水野越前に、自分の知っていることをみんな云ってしまったから、という安心が、少々、誇張的な表現になったのかもしれなかった。
 この人に滅多に無い云い方だったので、水野越前守が、思わず淡路守の顔を見つめたくらいだった。
「これは、大そうな」
 と越前守が笑った。
「わたしと、お手前とは年齢《とし》はあまり、違わぬ筈ですな。お見うけするところ、お身体もご丈夫のようじゃ。なにせ、わたしはこれからが働きざかりと気を張っている。淡路どのも左様な気弱なことを云わずと、たんとお働き下され」
 と激励した。
「いや、まことに左様でございましたな」
 淡路守は、二、三度うなずいて笑ったが、越前守が、あとから思い出して、元気がないように見えたのである。
 淡路守は、鍛冶橋御門内の水野邸を出て行った。その行列が、乳鋲《ちびよう》の扉が真一文字に開いている門から見えなくなるまで、越前守は見送っていた。
 越前守は、わが居間に帰った。
 淡路守が最後に話した声は、まだ耳に残っている。
 どうも落ちつかない。
 小姓を呼んで、茶をいれさせた。ふしぎだが、淡路守が帰ったあとで、心騒ぎがするのである。
 それを鎮《しず》めようと、茶を三度まで替えさせたくらいだった。
 西丸奥向の用人、持田源兵衛は、下城すると、屋敷のある番町の方へは向わず、正反対の神田の方角へ駕籠を向けた。
 明日は非番である。だから、今夜からゆっくりと妾宅で過そうというつもりであった。
 実は、近ごろ、人の世話で手に入れた若い女がいる。両国辺の水茶屋で働いていた女だから、体面上、妾として屋敷に奉公させることもできず、根岸の下屋敷に置くこともできない。尤もこの方には別な妾がいる。
 源兵衛は五十八歳になる。新しい妾は十七で、彼は近ごろ、この女に魂を奪われていた。屋敷にいる妾は二十一、やはり源兵衛のような老人には若い身体の方がいい。
 それに、町家の女とはいいながら、一度、客商売の水をくぐっているから、男の扱いを心得ていた。源兵衛は夢中になっている。
 体面上から、源兵衛は、お駒というこの若い女を神田明神の近くに囲っていた。本妻はもとより、屋敷にいる妾にも、根岸の妾にも内緒にしていた。
 それで、途中で自分の駕籠を帰し、わざと町駕籠に乗りかえたものである。
「奥には、友達の家で夜通し碁会があると申しておけ」
 と供について来ている家来や仲間《ちゆうげん》を番町にかえした。
 ただひとり、若党の茂助というのを連れて神田に向った。これだけには機密を知らせていた。
「殿様」
 駕籠わきについていた茂助が、歩きながら途中でささやいた。
「なんだ」
「誰やら、うしろから、跟《つ》けて来ているようでございます」
「なに?」
 源兵衛は、ぎょっとなった。
「どんな奴だ?」
「いえ。向うも町駕籠に乗っておりますから風体《ふうてい》は分りませぬ」
 茂助は答えた。
「どうして、跟けて来ていると分るのだ?」
「殿様が、お駕籠をお乗り換えなさいましたときから向うに見えておりましたが、こっちが歩く通りに、うしろから来ております。あのぶんでは、お城からお退りになったときから、つけていたかも分りません」
「うむ」
 源兵衛は首を傾げた。まさか、女房が人を傭ってあとを尾行させているのではあるまい。
「茂助」
「はい」
「駕籠に、次の辻を右に曲れと申せ」
 尾《つ》けられているかどうか、試してみるつもりであった。
 駕籠は辻を右に曲った。
 しばらく行ってから、
「どうじゃ、ふり返って見たか?」
 と駕籠の横を歩いている茂助に訊いた。
「なるほど、殿様はお知恵がございます」
「ばかにするな」
「両度、ふり返って見ましたが、うしろの駕籠は眼に入りませぬ」
「それみろ」
 源兵衛は駕籠の中で安心した。
「違ったであろう?」
「違ったようでごさいます」
「わしを跟けるやつなどいるものか」
 源兵衛は、平静になって、
「このまま行くと遠くなる。次の辻から、左へ行け」
「畏りました」
 駕籠は、もとの通りに出た。
「茂助、どうじゃ、うしろから来ているか?」
 源兵衛は、多少、不安になって訊いた。
「いえ、来ておりませぬ。尤も、だいぶん暗くなりましたが」
「よく見ろ」
「やっぱり、駕籠は見えませぬ」
「そうであろう」
 源兵衛はすっかり安心した。
「たまたま、同じ道を来ていた駕籠があったのだ。その方の思い違いだ」
「左様でございました」
「しかし、廻り道をしたで、ちと急がせい」
 島田新之助は、御広敷番頭持田源兵衛の駕籠が、急に辻を曲ったところから、
(これは気づかれたな)
 と思った。まずい。
 それまで、あの駕籠のあとをつけてくれと云っておいた駕籠屋にも、多分の鳥目をやって帰し、自分は歩いてあとを追ったのである。幸い、日が暮れかけて暗くなってくるし、家の軒の下を択んで急ぐぶんには悟られそうもない。着ている衣服が黒っぽいのも幸いした。
 向うの駕籠の脇についている若党が、ときどきふり返ったが、気づいた風もなかった。
 駕籠はそのまま真直《まつすぐ》に進み、とある細い道の奥に消えた。
 新之助が、そこまで行ってみて確かめたことは、どこかの寮でもありそうな、洒落《しやれ》た家であった。大きくはないが、植込みも茂り、門の構えも風雅なのである。
 いまの駕籠が、その前で降りていたが、間もなく引返していた。
 新之助は、絵草紙屋が目についたので、
「ちと、ものを訊きたいが」
 と、店番の女房に云った。
「はいはい」
 唇の薄いこの女房は、何でもしゃべりそうであった。
 
「寒くなったな」
 源兵衛は奥の間に通って、あたりを見廻して、
「ほう、炬燵《こたつ》ができているか?」
 と部屋の隅を見た。
 お駒が若々しい笑いを浮べて、
「はい。おとといが亥《い》の子《こ》でございました」
 と云った。
 この女の趣味なのか、役者絵をべたべたと貼った隅の二枚|屏風《びようぶ》の前に、緋縮緬《ひぢりめん》の蒲団が炬燵にかけてある。
 しかし、源兵衛には、こういう趣味もひどく気に入るのである。屋敷は勿論のこと、根岸の下屋敷にも見られない下町の色彩であった。武骨な士屋敷で育った彼には魅力だった。
「なるほど、おとといは上亥であったな」
 源兵衛は、お駒の下ぶくれの可愛い顎を見て、眼を細めながら云った。
「わしも、お城で紅白のお餅をお上から頂いた」
「あら、お城でも亥の子がございますか?」
「あるとも」
 源兵衛は、羽織を脱ぎ、袴《はかま》の紐をときながら云った。
「お城でも大切な祝いごととなっている。まず、諸大名が暗いうちから登城してお上にお目通りし、祝着を申し上げる。御台所を始め大奥の女中どもは、金糸銀糸の縫取りのある襠《うちかけ》に、緋縮緬組白の間着《あいぎ》を着るのじゃ」
「まあ、きれいでございましょうなあ。まるで絵草紙のようでございますなあ」
 お駒は若い眼を瞠《みは》って、感嘆した。
「わたしも、今度、生れ変りましたら、御殿にご奉公しとうございます」
 お駒は憧憬をこめて云った。
「なんの、御殿づとめがよいものか」
 源兵衛は云った。
「よそ目には、仕合せそうにみえるが、なんの、なんの、女子《おなご》としてお城に一生奉公では、それは、それは辛いことがたんとあるぞ」
 源兵衛は、云いながら、頭の中に、ふと、登美の姿が掠《かす》め過ぎた。かれは、思わず、いやな顔をした。
「寒いな」
 と話を急に変えて、
「ちと、あたたまろうか?」
 と緋縮緬の炬燵蒲団を見た。
「それよりも、殿様、風呂が沸《わ》いております」
「なに、もう風呂が沸いているのか?」
「わたしが入ろうと思って下女に立てさせたのでございます。丁度、よい折にお見えになりました」
「それは忝けない」
 源兵衛は、顔中を笑わせた。
「早速、温まってこようか?」
「お上りになったら、お燗《かん》をしておきます」
 持田源兵衛は風呂に入った。
 屋敷の風呂に入るのとは、別な趣がある。小さくて、粗末だが、この方がずっと愉しい。
「殿様」
 お駒がのぞいて、
「お湯加減はいかがでございますか?」
 と訊いた。赤い襷《たすき》をかけている。
「うむ。いや、よい湯だ」
 源兵衛は、やさしい声を、湯気の中から出した。
「そうですか。では、お背中を流しましょう」
 せまい板の間に下りた。
 お駒は、甲斐甲斐しく裾をからげている。白い脚が、源兵衛の眼に嬌《なまめ》かしく見えたので、彼は、手拭いで、つるりと顔を拭いた。
「そうか、では、そうしてくれ」
 湯の音を騒がせて、彼は風呂桶をまたいで上った。
 背中を向けると、お駒が糠袋《ぬかぶくろ》をこすりつけ、手拭いで、ごしごし擦《こす》りはじめた。若いから力がある。
 それに、絶えず、お駒の白い二の腕と、むっちりとしたふくらはぎとが、眼の前にちらちらするのだ。屋敷の古女房はもとより、少々飽き加減の妾二人には無い色気である。
「殿様」
 背中からお駒が云う。
「うむ?」
 源兵衛は、いい気持になって、うっとりとした声を出した。
「お城のお女中衆のお話、もっと聞かせて下さいな」
 なんだ、まだその話が気になっているのか、と源兵衛は思った。やはり、若い女だけに贅沢《ぜいたく》な御殿女中の生活に興味を持っているのだ。
「そのことは」
 と源兵衛は云った。
「いずれ、湯から上って、酒を飲みながら、ゆるりと話してやる」
「本当でございますね?」
 お駒は念を押し、
「また、すぐにいつもの悪い癖がはじまるのは、いやでございますよ。殿様ったら、すぐに、いけ好かないいたずらをなさるんですもの」
 と甘えた声を出した。
「いや、大丈夫じゃ。今夜は、酒を飲んでもおとなしくしてやる」
 源兵衛は、身体をねじ向け、背中に動いているお駒の手をとった。
「ほれ、もう、そんなんですもの」
「いや、これは約束を違《たが》えぬというしるしじゃ」
 手をつかんで、引き寄せようとすると、
「ごめん下さいまし」
 と、憚《はばか》るような女中の声が聞えた。
「あの、お殿様に、お客さまでございますが、どういたしましょう?」
「客?」
 源兵衛は、思わず、お駒の手を放して、びっくりした。
 誰にも知らせていないこのかくれ家に、しかも夜に入った今ごろ、誰が訪ねて来たというのであろう。
「間違いではないか」
 と思わず、訊き返したくらいである。
「いいえ、お間違いではないようです」
 女中は、やはり低い声で云った。
「持田源兵衛どのはおられるか、とおっしゃいました」
「武士か?」
 と二度おどろいた。
「そうです。まだ、お若い方ですが」
「名前を聞いたか?」
「お会い申したら分ると云っておられます」
「怪《け》しからん」
 と、裸の源兵衛は憤《おこ》った。
「ひとの家を訪ねて来て、名前を云わぬ奴があるか。名前を聞いて来なさい、名前を!」
 女中は細い声で、はい、と云って逃げた。
 お駒が心配そうな顔をして、
「どなたで、ござんしょうねえ?」
 と、また背中を擦りはじめたから、源兵衛はその手を払った。それどころではない。
「さあ、誰だか……」
 うかぬ顔をして、
「誰も、この家を知ってはいない筈だが……いずれにしても怪しからぬ」
 呟いて、風呂に入った。
 お駒が、
「おとといが亥の子で、殿様がお見えになるかと思って、牡丹餅《ぼたもち》をつくったんですが、残りが三つ四つございます。お客さまでしたら、お出ししましょうか?」
 と訊いた。
「ばか、誰だか分らぬものを」
 源兵衛が顔をしかめていると、女中が境の戸のわきに戻って来た。
「お客さまの申されますには……」
「うむ、うむ?」
 源兵衛は首を伸ばす。
「向島より使いの者が参った、とお伝え下さいとのことでございます」
 女中は復命した。
「な、なに!」
 源兵衛が湯を騒がせて仰天した。
「向島からだと?」
 顔色まで変ったものだ。
 石翁から使いが来た。不意に、雷の音を頭の上に聞いたようなものだった。
「向島から葛西太郎《かさいたろう》(当時の有名な川魚料理屋)でも届けて来ましたかえ?」
 お駒がのんびりしたことを云ったので、
「ばか」
 と大喝《だいかつ》して、湯槽《ゆぶね》からとび出した。
 石翁から使いが来た──
 西丸奥向番頭持田源兵衛は気もそぞろである。
「お駒、お駒」
 と呼び立て、風呂から上ったばかりの身体に汗もろくに拭《ふ》かない。
 襦袢《じゆばん》よ、着物よ、羽織よ、と騒ぎ立てた。
 石翁ときくと、巨大な威力にすくんでしまいそうである。目をかけられると、出世させて貰えるが、逆鱗《げきりん》にふれると、自分の首くらいは簡単にとんでしまう。公方《くぼう》さまよりも怖《こわ》い権力者なのだ。
(その石翁が、どうして自分がここにいることを知ったか?)
 支度をしながら、首をひねったが、
(さすがに石翁だ。これはと思う男には、密偵をつけて行動を探らせているときいたが、噂の通りだ。自分も跟《つ》けられていたのか)
 今さらながら石翁の怖さに怖気《おぞけ》をふるった。女房はもとより、誰一人として知っていないこの秘密のかくれ家を、石翁はちゃんと知っているのだ。
 源兵衛は、石翁に秘密を知られたと思うと、自分の全身まで、彼の手に握られてしまったような恐ろしさを覚えた。
(使いというのは、何だろう)
 それも心配になってくる。夜分だし、使いが来るにしては妙な時刻なのである。よほどの急用に違いない。
 今度は、その急用の内容が心配になってきた。
「お駒」
 と、そっと呼んで、
「向島のお使いはていねいに上にお通ししたか?」
 と訊く。
「はい。もう、あちらの座敷でお待ちになっておりますよ」
「そうか。丁重に扱っただろうな?」
「はい。それは、もう……」
「うむ。して、どんなお方じゃ?」
「まだ、お若いお武家さまで……」
 お駒は、源兵衛の顔を見ながら、
「すっきりした、佳い男前です。どこか、身体に粋なところがあって……」
「そうか、うむ、うむ」
 源兵衛は袴の紐をあわてて結んでいる。
「わたしでも、一眼惚れするようなお方でございますよ」
 からかうような眼つきをしたが、
「ばか、はしたないことを申すな」
 と、いつもの岡焼きが出る暇がない。
 ようやく、衣服を整えて、客を待たせてある居間の襖を開けた。
「お待たせ申した」
 持田源兵衛が挨拶して見上げると、客は、なるほど若い男で、袴もつけていない着流しで坐っていた。
 客は、持田源兵衛が入ってきたのを見ると、坐り直して膝を整えた。
「夜分に」
 と頭を下げた。
「推参して申し訳がありませぬ」
「いやいや」
 源兵衛は、対手の丁寧な挨拶に首をふった。
「一向に、われらは構いませぬ。して、ご隠居さまにはお変りはありませぬかな?」
「まず」
 若い客は笑顔をしただけである。
 なるほど、いい男前だと源兵衛は思った。笑い顔も柔和な愛嬌がある。
 お駒が茶を持ってきて、
「粗茶でございますが」
 と作り声で云い、客の顔をのぞいた。
「もうよい。呼ぶまで退っておれ」
 源兵衛はお駒に尖《とが》った声を出した。
「いやはや」
 源兵衛はお駒が逃げると、思わず頭に片手をやった。
「かようなところにお使いを頂いて、手前も汗顔の至りでござる。しかし、さすがに、ご隠居さま、よくまあこの家をご存じでいらせられたと、ただ恐れ入るばかりでござる」
 これにも若い客は黙って微笑《わら》っていた。
 源兵衛は、恐縮しながらも、さすがに、この使者の風采を注意せずにはいられなかった。いつも来る石翁の使いの者とも顔が異っているし、袴もつけていない着流しでいるのはどういう訳であろう。
「それでは御用を、お伺いいたしましょうか?」
 源兵衛はのぞき込む。
「いや、ほかでもないが」
 使者は云い出した。
「先日、長局で登美と申す女中が変死を遂げましたが」
「うむ」
 源兵衛はうなずいた。顔色が急にむつかしくなったものである。
「そのとき、御広敷番頭の貴殿が、たしか変死の場にお立ち会いなされたな?」
 使者は訊いた。
「左様」
 源兵衛はそれにもうなずいた。
「登美と申す女中の疵口、目附衆が改められたはずだが、貴殿も立ち会って見られたでござろう?」
「見ました」
 源兵衛は答えたが、ちょっと妙な気がした。そのことなら、とっくに委細を石翁に報告してある筈である。
「疵口は何で刺されておりましたか?」
 使いの若い侍は眼を光らせた。
「あれは……」
 源兵衛は答えかけて、相手の鋭い眼に出会うと、あっと初めて大事に気づいた。
「卒爾《そつじ》ながら」
 源兵衛は若い使いを見つめながら、初めて油断のならぬ気持になった。
「貴殿のご姓名は?」
「島田新之助と申しまする」
 若い侍は、平気な顔で答えた。
「島田新之助……」
 源兵衛は呟いたが、無論|馴染《なじみ》のない名前である。
「して、いつごろから、ご奉公なされましたな!」
 源兵衛は重ねて問うた。少々、おかしいが、間違ったときの用心もしている。
「両三年になりまする」
 島田新之助は、やはり平然と答えた。
「ははあ」
 源兵衛は云ったものの、真偽の確かめようがない。
「そこで、持田さま」
 源兵衛が絶句したので、新之助は催促した。
「登美と申す女中の疵口は、たしかに懐剣のようなもので刺されたということでしたな」
「左様」
 源兵衛は短く答えた。
「して、刺された場所は?」
「胸乳でござる」
「乗物部屋の網代鋲打ちの乗物の中と聞いたが、戸の錠は外からかかっていたそうな。左様に違いありませぬか?」
「その通り」
「錠前の詮議はなされたか?」
「一応は。しかし、誰が開閉したものやら、しかと分らなんだ」
「しからば、登美は誰かによって乗物部屋に連れ込まれ、乗物の内に坐らせられたまま、懐剣で刺されたと思うが、そのまえに、登美を呼んで話をした女中衆はおりませぬかな?」
 源兵衛はその質問を聞くと、
「島田氏」
 と何気なさそうに、
「村上氏はお元気かな?」
 と全く別なことを反問した。
「村上氏?」
「左様、村上軍兵衛殿じゃ。ご隠居のお使いでよく見えられたが、近頃、とんとお顔をお見うけせぬ」
「村上氏なら変りはありませぬ。元気です」
「しかと左様か?」
 源兵衛は念を押した。
「左様」
 この返事を聞くと、持田源兵衛は、不意に態度をがらりと変えた。
「曲者」
 と云うなり起ち上ったものだ。
「化の皮を剥がしおったな。ご隠居の家来に村上軍兵衛という名の者はおらぬわ。うぬ、何処から参ったのだ。何者か名乗れ!」
 持田源兵衛が吠《ほ》え立てると、
「持田氏」
 島田新之助はおとなしく云ったものだ。身体も動かさず、眼ざしも静かなのである。
「おしずかになされい」
「なに!」
「番町のお屋敷と違い、ここは隣近所の壁も近いようじゃ。歴々のお旗本の荒いお声が知れると、何かにつけてご都合が悪かろう」
「うむ」
 つまったが、
「名を申せ」
「島田新之助と申し上げた筈です」
「やあ、偽名であろう?」
「お疑いなさるなら、どうおとりになっても結構です」
「身分は?」
「これは、手前も旗本の端くれとだけでご勘弁願いましょう。役も禄高も、持田氏には及びもつきませぬが」
「何を探りに参ったのだ」
「先刻よりお訊ねしております。登美が殺される前、呼び出した女中があった筈。その名前を伺いたい」
「うぬ。そのようなことを。ど、どこから頼まれて参った?」
「手前、一存で参っております」
「帰れ!」
「ほう。仰せられぬ?」
 見上げる眼に光があった。源兵衛は、ちょっと気味悪くなったが、
「当り前だ。何を世迷言《よまいごと》を申す。帰れ、帰れ」
 と虚勢をつけた。
 新之助が起った。これは素直に帰るのか、と源兵衛が思った瞬間、対手の身体が黒い風のように動くと感じると同時に自分の身体が宙を舞って、畳の上に投げ出された。
 源兵衛は衝撃と、気持の動顛とで、声も出ないでいると、ずしりと重いものが背中にのしかかった。
「う、う」
 手を畳に這《は》わせる。
「持田氏。乱暴をお許し願いたい。しかし、手前、どうしても承らずにおられませんでな」
 源兵衛が仰天したのは、自分の背中に跨《またが》った若い男が、脇差《わきざし》を抜いて、頬にぴたりと当てたことだ。
「ご返事を聞こう」
 と頭の上で声がした。
「ただし、お騒ぎなさるとどのようなことになるか、ご覚悟なされ。手前、まだ若いので嚇《かつ》となるかもしれませぬでな。しかし、お生命《いのち》は頂戴せぬ。貴殿の頬か、背中を裂くのがせいぜいかもしれぬ。が、これは貴殿にとって生命を失うより怕《こわ》い筈。歴々の旗本が、かような隠れ家で、おめおめと手ごめにされて切られたと公儀に聞えたら、お家は取り潰《つぶ》しになろう」
「………」
「持田氏」
 新之助は云った。
「このままでは、貴殿も女どもに恰好が悪かろう。今まで通り、端座なさるがよろしい。さあ、起きなさい」
 衿首をひっぱるようにすると、源兵衛は、蒼い顔をしながらも、すごすごと起きた。ものものしく、羽織と袴をつけているだけに、源兵衛は屈辱に震えていた。
 新之助は、坐り直した源兵衛の傍にぴったりと附いて、
「さあ、何事もない様子でお話しなされ。ただし、正直に云って頂かないと、手前も癇癪《かんしやく》を起すことになる。さすれば、貴殿、ご家名に障《さわ》ることにもなりましょうな」
 と脇腹に脇差の切尖《きつさき》を当てた。が、これは、源兵衛の羽織の袂《たもと》で外から隠していた。
「………」
 源兵衛にとって、家名に疵《きず》がつくのがいちばん恐ろしいのである。新之助の云う通り、下町の素姓の卑しい妾の家で手負いをうけたとなると、旗本にもあるまじき所業として、公儀から取り潰しに遇うのは必定である。
 好くいって甲府流し、悪くすると切腹にもなりかねない。
「持田氏。さあ、お答え願おう。登美を呼び出した女中は何という名ですかな?」
「それは……」
 ごくりと唾をのんだ。全身で、脇腹の切尖を感じていた。
「うむ、それは?」
 新之助が眼を光らす。源兵衛は、その表情から何をされるか分らない、と思うと、冷たい汗を流しながら、
「樅山《もみやま》と申す年寄じゃ」
 と吐いた。
「樅山」
 新之助は、それを記憶するように呟いて、
「ただひとりではあるまい。いえさ、呼び出したからには、おおかた樅山は手引きであろう。登美と一緒に乗物部屋に入った女中がほかにいる筈じゃ。その名を申されい」
 と尋問した。
「知らぬ」
「なに?」
「拙者は、変事を聞いて、あとからかけつけ、調べをしただけじゃ。誰が登美と一緒に居たものやら……」
「お黙りなされ」
 新之助は叱った。
「取調べをなされたからには、その辺の事情もご存じの筈。さあ、誰が一緒に登美と乗物部屋に居りましたか、申されい」
 脇腹の脇差が少し動いたように思われたのだ。源兵衛は胸がどきりとした。
「ま、待たれい」
 源兵衛は鼻翼《こばな》で呼吸《いき》をしていた。
「そのあと、貴殿は詳しく調べられた筈だ。樅山と乗物部屋に入った女中は誰じゃ、さあ申されよ」
 持田源兵衛は、絶えず脇腹の恐怖を感じていた。
「し、知らぬ」
 と一応は云ったが、
「なに、知らぬ?」
 と新之助の手がぐいと動いた。
 持田源兵衛は、いまにも突き刺されそうな気がして眼をむいている。
「ご存じない筈はなかろう。お手前は御広敷番頭として、左様な事故の際は、こまごまとお調べになるのが役目じゃ」
「………」
「知らぬで押し通されようとしても、手前、承服できぬ、さあ、申されい」
 源兵衛は、新之助の語気が強くなるたびに、蒼くなった。
「全くもって存ぜぬ」
「なに?」
「じゃが、知らぬが、これだけはお伝え出来る。つまり騒動のあとのことだが……」
「うむ?」
「まず、ま、待たれい」
 源兵衛は息を整えるようにして、
「これは、登美の不慮の死に関わりがあることかどうか、さだかには分らぬが……」
 と、一息ついて、
「当日は、長局の各部屋では女中ども、大御所ご不例|平癒《へいゆ》の祈念をしていたが、ご病所の次の間でも、日啓上人をお迎えし、重立ったる役つきの女中衆もご祈祷の座に加わっていた……」
「うむ、それで?」
「そのなかに、年寄佐島と申す者、途中より中座いたしたが、間もなく帰って急に気分悪く伏せてしまった。この介添《かいぞえ》をいたしたのが、樅山じゃ」
「なに、すると、樅山も一緒に、その場を外していたのですか?」
「左様。両人とも、中座していたという。ただ、佐島のみは気分悪しくなり、わが部屋に引き取ったそうな……」
 新之助は考えている。瞳も、しばらく宙にむけたままだったが、
「その佐島どのは、どうしています?」
 と訊いた。
「何やら、そのまま気分が勝《すぐ》れぬので、御医師の診立《みた》てをうけたが、しばらく病気保養を云い立てて、宿下りを願い出た」
「宿下り? 病気保養とあらば、まさか親元ではあるまい。いずこの寮でございますな?」
「向島でござる」
「なに、向島?」
「田原屋庄兵衛と申す蔵前の札差しの寮と聞いている。わしの知っているのは、これだけじゃ」
「夜分に、大そうお邪魔をしました」
 お駒が、新しく茶をいれに来たとき、新之助は挨拶したものだ。
 このときは、脇差も鞘《さや》におさめ、持田源兵衛とは離れていた。
「あら、もう、お帰りでございますか?」
 お駒が新之助を見る。
「失礼しました」
 新之助は重ねて云い、源兵衛に、
「いろいろとご教示を得て忝けない。ご隠居さまも、ご満足でござろう」
 微笑《ほほえ》みながら云う。
 源兵衛は、苦り切っている。
「ただ今のお話、念を押すようですが、間違いないでしょうな」
「………」
「これは、いろいろと調べてみて、あとでお手前が間違いを申されたとなると、ちと面倒なことになります。手前、なんども押しかけて参らねばなりますまい」
「間違いはない」
 源兵衛は、顔をしかめたまま云った。
「忝けない」
 新之助は、頭を下げて、
「それでは、ご隠居さまに申し上げねばならぬこともあり、これにて失礼します」
 と起ち上った。
「また、どうぞ、お越し下さいまし」
 お駒が、いそいそと見送りに立つ。
 源兵衛は、つくねんと腕組みして坐っていた。
 新之助は、眼もとに愛嬌のある笑いをみせて、この家を出た。
 お駒が、源兵衛のところに帰ってきて、
「佳い男ぶりね、ほんとに、今度、またお使いに見えるかしら?」
 と云うと、
「たわけ!」
 と、この女には聞かせたことのない乱暴な言葉を吐いたものである。
 町には、霧が、しっとりと重く下りている。夜が、その霧にぼかされて濡《ぬ》れていた。
(佐島)
 新之助は、歩きながら呟いている。
(縫が殺されたころ、中座していた。帰ったときは、蒼い顔になっていた)
 順序を立てて、話の内容を考えている。
(病気を云い立てて、宿下りをし、向島の札差しの寮にこもっている)
 普通ではない。何か、知っている。知っているというよりも、何かをやったのだ。その精神的衝撃が、女の佐島を病気にしている……
 佐島が、誰の差し金で、それをしたのか、新之助も見当はつくのだ。
 霧の中から出てくる通行人が、びっくりするくらい近くに来ないと姿が見えない夜なのである。
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