石翁は、ひとりで茶を点てて、喫んでいた。
こんなときは、妾もよせつけない。何か思案するときは、いつもこうなのである。
日ごろ、人と遇うときは剛愎にみえるこの男が、こんな場合、ひどく孤独な、寂しい感じにみえた。
さっき、妾が来て、
「ご相伴を」
と云ったが、不機嫌な顔で、それも断ったくらいである。
「今夜は、霧が深うございます」
と、そのとき妾が云った。
石翁は、釜に湯が沸《たぎ》っている音を聴いている。じっと動かないのだ。
廊下を踏む音が、遠くでしたようだったが、これは予期したように、こっちには来ずに、他へ曲ったらしい。
(遅いな)
石翁は思っていた。
本郷から、使いがこっちに来る時間も考えているのだ。もう来なければならない。
脇坂淡路守が参会したという報らせは、一刻半ばかり前にあった。もう、そろそろ散会するころなのだ。
(手違い?)
いや、そんな筈はない。それなら、そのような報告がある筈だった。
苛々《いらいら》しても仕方がない。落ちつこうと思った。おれらしくもない、とも思った。
二服目をたてようとしたが、それはやめた。茶の心に入ってゆけないのだ。
石翁は、座敷を起って、障子を開けた。
あっと思った。夜だが、白いまくがいちめんに張っているのである。近くの立木が、まるで見えない。
石翁は庭に降りた。
いつもの夜ではない。海の底にでも居るように、視界が閉ざされていた。夜の暗さも白く、ぼけてみえるのだ。
(この霧では……)
石翁は考えている。
ただ、水音だけは聴えていた。池に鯉が刎《は》ねている。
しかし、夜全体が、霧の重さに圧さえられているような晩だった。何処かに、何かが起っても、不思議には思われない気持だった。
間もなく、下駄の音がしたかと思うと、うしろから、用人の姿が現れた。
「申し上げます」
「うむ?」
石翁は振り向いた。来た、と思ったのだ。
「本郷より急使が参りました」
黙っている。
「ただ今、脇坂さまのお乗物は、加賀藩邸のご門をお出になったそうにございます」
石翁は、これにも黙っていた。昼間なら彼の眼が異様に光っているのが見えた筈である。
新之助は、神田川に沿った土手を歩いていた。
霧は、やはりここにも降りている。土手には柳の並木があったが、葉がすでに半分は落ちていた。しかし、夜だし、霧が深いので、柳はおろか、三間先が見えないのである。
いわば、白い夜だった。
「滅法《めつぽう》、霧が深えじゃねえか」
「全くだ」
声だけが、先に聞えて、
「これじゃ何が来ても分らねえぜ」
と話している当人の姿がやっと、にじむようにあとから現れて来るのである。
「おっ」
と愕《おどろ》いたのは、先方が新之助に突き当りそうになったからで、
「ご免下さいまし」
と謝って離れた。
どこかの屋敷の折助らしく、夜遊びに出てきたものと思えた。
その姿も遠くなる。
「ちょいと」
不意に、女の声が聞えた。
「寄って行きなよ」
姿は見えない。やはり、男の声で、
「えい、おめえ、袂《たもと》を放しゃがれ。こっちは忙しいのだ」
と云っている。
「何を云うのさ。そのつもりで出て来たくせにさ。さあ、お寄りよ」
「うるせえ阿魔《あま》だな。おれは、そんなのじゃねえ。ごめんだ、ごめんだ」
「へん、ばかにするねえ、そこらを夜っぴてうろうろしても、二十文で買える女はいないよ」
「何を」
「睨んだね。面白いね、その甲斐性があったら、寄ってお行きよ」
この話し声は、新之助が通り過ぎるまで聞えた。むろん、その姿は見えないのだ。
ぼうっと姿が霧の中から出てきたが、手拭いを頭から被ったかたちの女で、
「ちょいと」
と声をかけると、鼠啼きをした。
この辺は夜鷹の稼ぎ場である。新之助は、近道なので、この柳原の土手を通ったのだが、通り抜けるまでは迷惑だった。
急ぎ足に歩いていると、また、霧の中から黒い人影が現れた。それも、多勢なのである。片方に寄って、気をつけてみると、駕籠を担いでいて、前後を幾人かが警固していた。
ふしぎなことに、提灯が無い。
(はてな)
新之助は見送った。その一行は、誰も一語も発せず黙々と夜の霧の中に消えてしまった。
足音まで低いのである。
なぜ、提灯に火を入れないのか──。
歩き出しながら、思ったことだ。
新之助が麻布の島田又左衛門の屋敷に行くと、
「殿さまは、もうお寝《やす》みになっております」
吾平が云った。
「良庵は起きているかな?」
「へえ、先刻まで弥助さんとの話し声が聞えておりました」
新之助は廊下を歩いて奥の部屋に行った。障子には灯りがさしている。
「これは、戻られた」
良庵が行灯《あんどん》の傍から見上げる。
新之助が坐ると、
「うまく聞き出せたかな?」
と顔をのぞいて訊いた。
「聞くには聞いたが」
と新之助は良庵に手短に話した。
「威《おど》して聞いたことだが、まず、嘘は無いようだ」
「なるほど」
良庵は腕を組んで、
「そりゃ本当のことを云っているな。下手人が誰か、すらすらと云っては嘘になる」
とうなずいた。
「佐島という年寄が下手人で、樅山が手引き、というところかな」
良庵は新之助を見た。
新之助は考える眼つきだったが、
「中座したあと、戻ってきて気分が悪くなったところは、そうだという気がする。人ひとりを害《あや》めたのだ。女だからそれくらいのことはありそうだな」
「で、どうなさる?」
良庵が、顔をうかがうように見た。
「まず」
新之助は云い出した。
「佐島が保養をしている向島の寮へ訪ねて行き、糾明してみるつもりだ」
「うむ、うむ」
良庵は合点合点した。
「して、それからは?」
「それからは……」
新之助は良庵を、じろりと見て、
「事の成り行き次第じゃ」
「なりゆき次第……なるほどのう」
良庵は深くうなずいて、
「お縫さんを殺した憎い奴じゃ、誰であろうと容赦されぬが道理じゃ、ここの大将も、……」
と又左衛門の部屋の方を見て、
「あれから気落ちなさったのか、お縫さんが可哀想で堪らぬのか、とんと元気が無うなってしもうた。今夜も早寝だが……」
新之助は黙っている。
「弥助、おらぬか、茶でもいれぬか」
と良庵は手を叩いたが、ふと、新之助の着ものを見て、
「大そう肩が濡れていなさるが」
と眼をみはった。
「霧の中を歩いてきたせいだ」
新之助は、ぼそりと答えた。
「では、すぐにでも向島に乗りこむか」
と良庵は新之助を見た。
「どうするか」
新之助は呟いたが、それは自分に訊いているような云い方であった。眼は迷っているのだ。
「手早くしなければ、またどんな邪魔が入るか分らぬ」
良庵は、煽《あお》るように云った。
「うむ」
腕組みして、
「むつかしい」
と呟いた。
「むつかしいとは?」
「佐島が下手人かどうか、まだ決められぬでな」
「はて」
良庵が眼を光らせて、
「知れた話じゃ。佐島という年寄に相違ないわ。新之助さん、いま、あんたが話した通りじゃ」
「分らぬ」
新之助は首を振った。
「分らぬとは?」
「証拠が無い。人を疑うには、よほど慎重にせねばならぬ。話を聞いての推量だけでは危険なことだ」
「そりゃ無論だが」
良庵は急《せ》いた。
「ほかで起った事件《こと》ではない。誰も入らぬはずの乗物部屋で、お縫さんは殺されたのだ。手引きしたのが樅山で、中座して蒼くなって戻った佐島が下手人だ。佐島が乗物部屋に行っていたのは間違いないな。これは当て推量ではない」
新之助もそう思うのだ。
「しかし、その実証がない」
「歯がゆいご仁だ。樅山は御殿の中で、どうにもならぬが、佐島は向島の寮にいるではないか。またとない機会《おり》じゃ。訊いてみることだな」
「………」
「新之助さん。黙ってひっこんでいる法はあるまい。前には、六兵衛の妹が殺された。下手人は捕まったが、何で殺したか、お上《かみ》でははっきり云わぬ。云うと不都合なことが起るからだ。下手人は、もと西丸の添番という噂ではないか。ただの御家人としか名前を出していぬのがおかしな話よ」
良庵は、激しい憤りを口調にみせた。
「察するところ、お文さんは、お縫さんへの密使を気づかれたのじゃ。それで添番に殺させて、その添番を有耶無耶《うやむや》のうちに処刑する。うまい手を考えたものじゃ。そこで、今度は、お縫さんを殺すことになった。これは算盤玉《そろばんだま》をはじいてみんでも分ること、指図した黒衣《くろこ》は誰であれ、まず役者から詮議することじゃ、ええ、新之助さん?」
霧の晩である。
飛鳥山《あすかやま》が近いが、この霧では、黒い山影も黒雲のようなとばりの中に閉じこめられて見えない。
霧の中に水音が高かったが、これは音無川の筈である。
桜どきなら格別、季節外れの今ごろでは人の歩きもないし、まして夜ともなると、森閑としたものだった。
一挺の乗物が霧の中から現れた。前後を囲って、黒い影が歩いている。ぼうとにじむように点々と灯が動いているのは、この供廻りの者が持っている提灯だった。
紋がある。
「輪違《わたがい》」だった。
これは、飛鳥橋《あすかばし》を渡らずに、川のほとりにある料理屋の方へ一行が曲ったとき、
「おや」
と料理屋の使用人が見て、眼を瞠《みは》ったことである。
「はてな、今ごろ……」
と思ったのも道理、真ん中に乗物をはさんだ一行は花屋という料理屋の表で、とまったのだ。
この辺は、都からはずれているが、料理屋が多いのである。
江戸名所図絵に、
「飛鳥橋のあたりは、貸食舗《りようりや》の亭造《やつくり》壮麗にして、後亭《さじき》の前には皎潔《こうけつ》たる音無川の下流《ながれ》をうけて、生洲《いけす》をかまふ。この地はるかに都下を離るるといへども、常に王子の稲荷へ詣づる人ここに憩ひ、終日流に臨んで宴を催し、沈酔するも多し。夏日は殊さら凛々《りんりん》たる河風に炎暑を避けて帰路におもむかんことを忘るるの輩《ともがら》も、又、少からず」
とある。
秋もまた悪くない。それは、秋草の中になく鈴虫や松虫の声を聞こうと粋人がわざわざ杖をひいてくるからである。
が今夜は異う。
乗物は、立派なものだった。供廻りの人数が多いのも、身分ある武家を思わせたことだ。それが、霧の深い夜、わざわざここまで乗りつけてきたのである。
「頼もう」
と花屋の表戸を、供の武士が叩いた。
ほかの者は地面に坐り、乗物の中の主を守っている。
「へい」
小女が戸を開けたが、夜霧に濡れているこの一行を見て、びっくりし、奥へ走り込んだ。
代って、主人がおどおどとした様子で出てきたが、外をのぞいて、忽ち平伏した。
「夜分に迷惑だが」
と士《さむらい》はていねいに云った。
「ちと憩《やす》ませて貰いたい。いや、多勢ではないが……」
「亭主か?」
と、その士は訊いた。
「へえ、左様でございます」
花屋の亭主は松右衛門といったが、この不時の行列の客に、ど胆を抜かれた恰好でうろたえていた。
「主人が」
と、供頭のような士は、はっきりと主人と云ったのである。
「暫時、憩みたいと仰せられている。しかるべき部屋は有るだろうな?」
「へ、へえ」
松右衛門は眼をまるくして、
「むさくるしいところでございますので……」
と、うろたえて答えると、供頭の士は、それを断られたととったらしい。
「いや、どのような部屋でも構わぬ、暫時、休むだけでよろしい、と仰せられているのでな。奥まった部屋さえあれば、苦しゅうない」
おだやかに頼みこんだものである。
「へ、左様でございますか」
亭主が、半分は逆上《のぼ》せて、返事もしどろもどろになっていると、
「では、頼むぞ」
と士は片足を踏み込むようにして云った。
「へえ……」
亭主が、ぼんやりと見ている前で、士は表に引返し、地面に据えられた乗物の傍にかがみ込んでいた。これは料亭が承知したから、乗物から出て頂きたいという意味を、主人に告げているらしい。
亭主が、吾に返って、俄かに家内の者に指図しはじめたのはそれからである。奥まった部屋という指定だったので、この家では音無川に面した離れを掃除させたものだ。ふだんは、江戸から来る俳諧の連中が運座などに使う風流好みの部屋だった。
番頭、女中、小女などが総がかりで、戦場のような忙しさで掃除を終ると、
「出来たか?」
と供頭の士が、ずいと入って来た。
「へ、へえ、ただ今」
亭主がおじぎをすると、
「済まぬな、夜分に来て。なに、分ったお方だから、それほど気を使わなくともよい。ただ、身分のあるお方ゆえ、粗忽《そこつ》のないようにしてくれ」
士は、くだけた口調で注意をし、部屋の内、外を見廻して、
「いや、結構だ」
と云って引返した。
高貴の方が、お忍びで見えた、ということは宿の者にも分った。それにしても、妙な時刻に来られた、とは思ったが、このときは身分のある人が気紛《きまぐ》れに寄った、と解釈していたのである。
乗物の引戸が開いて、人の影が出てきた。
乗物の内から出た人物は花屋の奥へ歩いて行く。このときは供頭の士がつき添ったが、主従は何も云わぬ。
花屋の亭主は案内した。家中が、みんな起きて、目立たぬように出迎えたが、身分ありげな客は、見向きもしない。
家来は、主君に甚だ丁重に従っていたが一語も交さない。離れ座敷に坐ってもこれは同じで、黙って主人の動作を見まもっているようなところがある。
その主人というのは、恰幅《かつぷく》のいい男で、年齢は四十五、六ぐらいにみえた。羽織についた紋は単純な意匠だから、花屋の亭主があとまで憶えていた。
白い輪が二つ重なっている「輪違い」である。勿論、表で待っている供士の提灯にも、この紋がはっきりと描いてある。
亭主は、この身分ある客が、すこし酔っているのではないか、と初め思った。姿勢が不安定に傾いてみえたからだ。が、そうでないことは、供頭の士が、
「ひどくお疲れであるから、或は、暫時、お寝《よ》い遊ばすかもしれぬ。この家の者は、誰もお部屋には参らぬようにしてくれ」
と注意したことで分った。
「畏りました」
亭主は答えた。
「それでは、お夜具でも運ばせましょうか?」
供頭の士は、
「お風邪を召されてはいけぬな。では、そうしてくれ」
と云い、女中が夜具を抱えてくると、自分が部屋の前で受けとって、運び入れたものである。
茶、莨《たばこ》盆なども、いちいち、女中からうけとってその士は主君の前に置いた。三十すぎの瘠《や》せた男である。
客は、行灯の灯も煩わしいのか、それを避けるようにして坐っている。
亭主が、縁側に畏って、挨拶をしようとすると、
「もうよい。お忍びであるから、かえって迷惑だ」
と、その家来がとめた。
亭主は、こそこそと母屋《おもや》へかえった。表には霧に濡れて、お供の家来たちが、うずくまっている。この家来たちの間にも、ささやき一つ聞かれない。
花屋の亭主は、女房に早速「武鑑」を持って来させ「輪違い」の紋の主を探した。有ったのだ。
「帝鑑間 中務大輔 従四位侍従 脇坂淡路守安董 寺社奉行 五万千八十九石余 居城播州揖西郡竜野」
亭主は、客の正体を知って、いまさらのように仰天した。
このとき供頭の士が、離れ座敷から出て表へ歩いてゆく足音がした。
花屋の亭主は、身分のある客とは思ったが、それが、五万石の大名で、寺社奉行の脇坂淡路守とは知らなかった。顔色が思わず変ったものである。
あわてて、表に出ると、供頭の士に取りすがるように云った。
「恐れながら……」
と地面に坐り込んで、
「高貴のお方とは存じまするが、もしや、脇坂淡路守様のお忍びではございませぬか?」
と訊いた。
供頭は、亭主の顔を見ていたが、
「それが、どうして分る?」
と反問した。
「はい。その、ご紋を拝見しましたので、武鑑を繰りましたので」
すると供頭は低く笑った。
「さすがに気が利いているな。しかしのう」
と低い声で云った。
「主君は何ごとも自分の名は申すなと仰せられているからわしの口からは何とも云えぬ。その方がこの紋を……」
と提灯についている「輪違い」を指したものである。
「どこぞのお方であると思えば、それでよい。ただ、そのような考えで粗略なく扱うがよい」
含みのある言葉だったので、花屋の亭主はいまさらのように恐れ入って、地面に手をついた。
「ついては……」
供頭は語をついだ。
「主君のお心持は、あくまでも、おしのびのお憩みであるから、その方たちは、お部屋からお呼びがあるまでは、お伺いするのを遠慮してくれ」
「へえ、へえ、……」
「主君は、風流なお方ゆえ、かような晩、このような閑寂な境地をお好みになるものと思う。われらも、あまり、うるさくお伺いするとお叱りをうけるくらいじゃ」
「は、左様で、はあ……」
亭主は頭を下げるばかりだった。
「女中共にも、屹度《きつと》、左様に申しつけて、お妨げしないようにしてくれ」
「はい。それは、もう……はい」
亭主は、転ぶようにして家の中に入り、家内や傭《やと》い人一同にこのことを申し渡した。無論、一同粛然となった。
亭主や女房は、己の部屋に入って静かにしていた。警固の方は、供士がいるから安心である。気遣いなのは、あれほどの身分のある方をひとりで放っておいていいものかどうかである。
が、供頭の厳命があるので、はらはらしながらも、誰も離れには寄せつけなかった。
そのうち、時間が経過してゆく。
時刻《とき》が過ぎるが、離れの方からは、一向に手を鳴らして呼ぶ様子がない。こそとも音がしないのである。
花屋の亭主の松右衛門は、気になるが、お傍に寄ってはいけないという厳命なので、様子を見に行くこともできない。
お供の衆は、表に霧に濡れながら、主人を待っているので、亭主は傭い人に云いつけて、温い茶を沸かし、接待することにした。酒もと思ったことだが、これは勤務中だし遠慮した。
表に乗物を置いて、うずくまっている士《さむらい》たちに茶を配ると、
「忝けない」
とみなが礼を云ってくれる。
が、どうしたことか、互いが話一つ交さないのだ。やはり主君を待っているという気持からか、行儀よくしているのである。しかし、これだけ多勢の人間が黙りこくって表に待っているというのは、あまり気持のいいものではない。
(まるで、葬式が出る晩のようだ)
と松右衛門は思った。
そのうち、さっきから松右衛門と交渉をしている供頭の士が来て、
「夜中、まことに造作《ぞうさ》をかけて済まぬ」
と低い声で云った。
「どういたしまして。行き届きませぬことで……」
亭主が詫びる。全く、何の世話も出来ないのである。
「ついては、主君の仰せには」
と供頭は云い出した。
「ここの離れが気に入ったゆえ、いま暫らく憩みたいとのことじゃ。で、われわれにも家の内に入って休めと仰せられているが、折角ああして閑寂を愉《たの》しまれていられるのに、同じ家にこれだけの人数が入っては騒々しくなり、お妨げとなる。で、一同はその辺の別な料理屋を起して休むことにする」
「はあ、左様で……」
「いや、気遣いするな」
供頭は、松右衛門の心を読んだように云った。
「わたしが、時を見計らって、主君をお迎えにくる。そうだな、半|刻《とき》あとぐらいに参る。それまで、その方たちも、離れには近づかぬようにしてくれ」
「へえ。畏りました」
松右衛門は頭を下げるよりほか仕方がない。
間もなく、供頭の言葉通りに、表の軒下に並んでうずくまっていた士たちが起ち上り、空《から》の乗物をかつぎ、行列をつくって花屋を離れて行った。
どうした理由か、このとき提灯の火を悉く消していた。だから、「輪違い」の定紋も見えず、人々の影も霧の中に消えて行った。
さらに時刻が移ってゆく。
夜は深くなったが、花屋では亭主の松右衛門はじめ、家内が睡ることもできない。
離れには、高貴のお方がひとりで坐っているのである。近づくな、ということなので、様子は分らないが、多分、芝居のお殿さまのように行儀よく、ぽつねんと坐っているに違いない。
音もしないのであった。
(さすがに、お大名だ。静かなものだ)
と感心したことである。
花見どきには、江戸から客が来るが、離れを借りてはじめはおとなしくしていても、そのうち、騒々しくなって手のつけられないような喧《やかま》しさになってくる。そのことを思い合せて、身分のある人間と、下司《げす》とは違うと感嘆していたのである。
さいぜんの供頭の士は、半刻も経ったら、お迎えにくると云ったのに、一向にそのことがないのだ。
(はて)
首を傾げたことだ。
呑気といえば呑気、いかに主人が独り居を好むからといって、一刻もすぎて、少しも様子を伺いに来ないというのは、いかなる訳であろうか。
「お前さん、どうなさったんだろうねえ?」
女房が心配しはじめた。
「うむ」
松右衛門も心配になってきた。供士の連中は近所の料理屋に休んでいる、ということだったので、傭い人を走り廻らせて探させたが、
「どの家にも、そんな多勢の客が居るような様子がありませんぜ。みんな寝静まっていまさあね」
と報告してきた。
松右衛門は落ちつけなくなった。
「仕方がねえ。おめえ、お茶でも持って行って、ご様子を窺《うかが》って来な」
「あら、いやだよ、あたしひとりでは。怕《おつ》かなくてさ。お前さんもついて来ておくれよ」
松右衛門は羽織袴で、女房を従え、離れに恐る恐る近づいた。
制《と》められたことだが、このままだと夜が明けてしまうのだ。
離れの障子にはぼんやりと灯が見える。
「ごめん下さいまし」
亭主は、出来るだけ、地声を押し殺したような声を出した。お大名には、どのような声を出していいか分らない。
「ごめん下さいまし」
何度も声をかけたが、内部《なか》からは返事がない。女房と顔を見合せたことだ。
茶道具を持っている女房が、思い切って、障子を細目に静かに開けた。
「あっ」
行灯に灯芯が燃えているだけで、人の影は無かった。
亭主の松右衛門も、女房も、眼を瞠《みは》った。
思わず、声を呑んで、顔を見合せた。たしかに端座している筈の客がいないのである。
座蒲団も、莨《たばこ》盆もそのままになっている。
「これは」
泡をくって、座敷に上る。
確実に客は姿を消している。
松右衛門は、ぼんやりした。半分は狐につままれたようだ。普通の庶民ではない。自分の推量によると、五万石の大名で、寺社奉行なのだ。供頭の士も、それを否定しなかった。
「輪違い」は脇坂侯の定紋。有名な「貂《てん》の皮」の当人だ。
「おせい」
と松右衛門は、女房に云った。
「その辺をお歩《ひろ》いではないか。お探し申せ」
女房は、あわてて下駄を突っかける。
「なんだか気味が悪いねえ。お前さんも来ておくれよ」
「うむ」
松右衛門は、このとき俄かに供頭の士が恐ろしくなった。奇怪なことである。自分の大切な主人を放っておいて、何処に行ったというのだ。あれだけの人数があとかたなく掻き消えてしまったのである。
離れの裏は、庭になり、その先は音無川が流れている。せせらぎが聞えてくる。
「また、大そうな霧」
女房が思わず云った。闇の中だが、白い雲のようなものがいちめんに張っている。それが一層に薄気味わるく眼にうつるのだ。
「お前さん」
女房は提灯を持って、庭の地面を照らしていたが、亭主を低声《こごえ》で呼んだ。
「これ」
指を土に向けたが、そこに草履《ぞうり》で歩いた跡が見えるのである。枯れた草が踏まれている。
「木戸を」
と亭主は云った。
庭から道に出るには、垣根に柴折戸《しおりど》がついている。この辺に遊びにくる客のために、風流に作ったのだが、足あとは、はっきりとこの木戸から外に向っているのである。
その外まで来て、亭主は蒼くなった。
草履で踏んだあとは、飛鳥橋を渡って、山へ向っているのだ。
花見のときとは違う。風流どころではない。山は秋がすぎて、荒涼として霧枯れているのだ。しかも、三間先が見えぬ深い霧の晩であった。
亭主は、思わず身慄《みぶる》いした。
霧の中をひとりで山へ行った大名が魔ものに思えたものである。
「うわぁ」
亭主も、女房も、足を縺《もつ》らせて、わが家の中に逃げ帰った。
外はまだ夜の底である。