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かげろう絵図(下)~脇坂事件

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  脇 坂 事 件 脇坂侯の江戸家老は、脇坂|釆女《うねめ》といったが、上芝口一丁目の藩邸内の役宅に寝ているところを深夜に
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   脇 坂 事 件
 
 
 脇坂侯の江戸家老は、脇坂|釆女《うねめ》といったが、上芝口一丁目の藩邸内の役宅に寝ているところを深夜に起された。
 側用人大須賀昌平の口上として、夜中ながらすぐに出仕して頂きたい、という。
「何刻《なんどき》じゃ?」
 支度をしながら訊くと、
「そろそろ寅の刻(四時)でございます」
 という返事だった。ほどなく夜が白むのである。
 本邸の奥に行くと、御役部屋には、あかあかと燭が燃え、留守居役脇坂久兵衛と年寄秋山伊織とが待っていた。すこし離れて、側用人大須賀昌平が頭をうなだれて坐っている。
 脇坂采女は、大須賀昌平が、今宵、本郷の前田侯邸に主君のお供をして随行したことを知っている。夜中、といっても、暁の間近い今ごろ、不時に呼び起されたことといい、これだけの顔ぶれが揃っていることといい、俄かに悪い予感で胸が騒いだ。
「ご家老」
 采女の着座するのをみて、まず昂奮して叫んだのは留守居の脇坂久兵衛で、
「一大事が出来《しゆつたい》いたしましたぞ」
 と告げた。
 采女は、大須賀が、蒼い顔をしてそこに坐っているのをみて、主君の身に変事が起ったことを早くも察した。
「一大事とは?」
 わざと落ちついて三人の顔を眺め廻す。ここで自分から騒いではならぬのだ。
「殿のお行方が知れなくなりましたぞ」
「なに?」
 予期した変事だったが、その形が変っている。
「お行方が知れぬと」
 呆然とした。本郷の前田邸の茶会に淡路守安董が参会したことは確かなのである。行方が知れぬときいても、すぐには訳が分らぬ。
「左様、これなる大須賀昌平が、ただ今、加賀藩邸より立ち戻り、報らせて参りました」
 脇坂久兵衛も動顛のあまりか、口のあたりがひきつっている。
 当の大須賀昌平は、両手を畳の上に突き、肩を慄わせていた。
「昌平」
 采女は、大須賀を睨んだ。
「そちは、主君《との》のお供をして本郷から戻ったのではないのか?」
「はっ」
 大須賀昌平は、やはり乱れた頭を下げたまま、急には言葉を出さなかった。
「うろたえ者め」
 采女は叱った。
「かような場合じゃ。面《おもて》を上げて、何でも、はきはきと申せ!」
 江戸詰家老、脇坂采女に叱られて、側用人大須賀昌平が蒼い顔をして語り出したのは、こうである。──
 昨夜、本郷加賀藩邸での茶会に、主君淡路守安董の供頭をつとめたのは大須賀昌平である。茶会は六ツごろからはじまった。大体、一刻くらいのうちには済むと思って、大須賀はじめ、供の面々は、乗物を玄関わきに据え控えていた。
 すると、半刻ばかり経って、前田家用人らしい人物が現れて、茶会はほどなく済むが、そのあと主人は客人といささか酒を酌みながら雑談される模様であるから、ご一同は供待部屋に入って、ご休息なさるがよかろうと云ってきた。
 このとき、淡路守は前田邸に公式の訪問ではないから、供廻りの人数も十二、三人という少い数である。
 前田家用人の言葉に従って供待部屋に入る。さすがに百万石の大名だけに、供待部屋といっても広い。十二、三人が楽に手足を伸ばして坐れる。
 一刻をすぎたころに、夜食が出た。
 それなり、半刻が経ったが、音も沙汰もない。
「永いお話だ」
 と大須賀は思った。
 前田家の方でも、夜食を出したきり、寄りつかない。
 主人どうしが話し合っていることへの遠慮と、前田邸内に居ることへの安心とで、大須賀が供待部屋を出て、尋ねることもしなかった。
 ところが、夜が更けるに従って、次第に大須賀の胸にも不安がきざしてきた。あまりに話が長すぎるのである。すでに、亥の刻(午後十時)をとうに廻っていた。
 大須賀は意を決して、供待部屋を出て、前田家の家来の姿を求めた。
 しかし、廊下には人のかげもない。大きな邸だけに、まるで方角も何も分らない。
 ようやく、つかまえた前田の家来に訊くと、はて、と首を傾け、暫時、お待ち下さい、と云い捨てて去った。
 ほどなく、前田家の用人が急いで来て顔を見せたが、これは供待部屋に退屈そうに坐っている脇坂の家来をみて、あっと叫んだものである。
「お手前方は、まだここに居られたか?」
 と眼をまるくしている。
「まだ、とは?」
 大須賀の方が、びっくりして反問する。
 それからが騒動である。
 脇坂淡路守は、一刻前に、前田邸を辞去されたと云うのだ。
「えっ。しかし……」
 大須賀が訊くまでもなく、脇坂様はお迎えの乗物で門を出て行かれたと、前田の用人は自分から云い出した。
 供頭、大須賀昌平の報告はつづく──。
 脇坂淡路守様は、とっくに辞去なされたと、前田家用人の話を聞いて、大須賀は天地がひっくりかえるほどに愕いた。
 われらは、主君のお供をして、はじめからここに控えている。現に、お夜食を頂戴したくらいではないか。われら以外に主君を迎えに来る供人は無い筈。いかなる仔細で、それを脇坂の家中と認められたか、と血相変えて詰め寄った。
 用人は問い詰められて困惑した。しかし、彼にも理が無いではない。迎えに来た者は、たしかにお家の御定紋《ごじようもん》、輪違いの提灯を持参されていた。
 事実、脇坂様は、何の疑いも無く、玄関先に待ったお乗物にお乗り遊ばした。もし、違っていれば、脇坂様が家来の顔を見て、まずご不審を起される筈。もっとも、当夜の淡路守様はいささかご酒を召され過ぎご酩酊《めいてい》のご様子であった。
 さるにもせよ、下世話に云う、生酔《なまよ》いの本性は違わず、たとえお酔い遊ばしても、御家来衆の顔はお判りになる筈。淡路守様が普通の通りお輿に入られて帰られたものを、何でわれらに疑念が起ろうや。
 ただ、失態といえば、われらが供待部屋を覗かなんだこと、これは手落ちであるが、まさか、淡路守様に二重のお迎えが参ったとは思わず、つい、うかつにそのままにした。
 今、貴殿方が供待部屋に未だ坐って居られるのを見て、さてさて不思議なことがあるものよ、と驚き入った次第である。
 いずれにしても、淡路守様がご不審も起されずに、お乗物を召されたからには、必ず御家中の方々に相違あるまじ。何かの手違いにて別のお迎えが参ったやも知れず。怱々《そうそう》に立ち帰られて、事実をお調べあるがよろしかろう、と逆に諭される始末であった。
 大須賀昌平は、真蒼になって動顛した中にも、半信半疑で、本郷から上芝口まで、折からの夜霧をついて馳せ帰った。
 主君は帰邸していない。大須賀は事の重大を知って慄え出した。
 すぐに用人が留守居脇坂久兵衛と、年寄秋山伊織を呼びにやる。次に江戸詰家老、脇坂采女を迎えにやったという次第であった。
 無論、前田家の云うような、主君に別な迎えを出したことは無いのである。
「奇怪千万」
 大須賀の報告を聞いて、脇坂采女は眦《まなじり》をあげた。
「何者かの企らみで、偽の迎えが行き、主君をいずれかへお連れ申したに相違ない。家中の者を総起しなし、本郷を中心に八方を捜索させい」
 こう云ってから、大須賀を眺め、
「昌平、事が落着して主君にお目にかかるまで、切腹は相成らぬぞ」
 と厳しく云い渡した。
 脇坂采女の指図で、脇坂家の家中総出で主人の捜索をしたが、杳《よう》として行方が知れない。そのうち夜が白みかけてきた。
 家中の捜索は一旦中止された。これは外聞を憚《はばか》ったためである。
 それからは、采女を中心として、重役一同が集まって、深刻な評議をした。
 すぐにも大目附に届け出て、上《かみ》の手で捜して貰おうという説。
 いやいや、それはまだ早い。せめて今日一日待って、模様を見定めるがよろしかろう。そのうち、主君がご帰還になるかもしれない。そうなっては面目上取り返しがつかぬ、という自重論。
 この二つが岐《わか》れて、いずれとも決し兼ねているうちに、朝が昼になり、夕暮近くなった。
 脇坂淡路守安董は依然として帰邸が無かった。
 こうなると、もう猶予が出来ない。脇坂采女は、大目附初鹿野河内守信政にこのことを申告した。
 初鹿野河内守も愕いた。五万石の大名、しかも寺社奉行が行方知れずになった。前代未聞のことである。
 すぐに、前田家に使いを立てて様子を聴かせたが、
「脇坂殿には、たしかに戌《いぬ》の刻(午後八時)前にお帰りになりました」
 との返事である。どう押しても、この返答しかない。
 強《し》いて云うと、
「御門の内ならば当方にて責任があるが、一旦、御門外に出られたあとは知らぬこと」
 との口上であった。
 当夜の茶会に、淡路守に変った様子はなかったかと訊けば、
「茶会のあと、御酒を少々召し上がったが、それとても格別の酔体《すいたい》は無かった」
 という返答である。
 すぐに、北町奉行榊原|主計頭《かずえのかみ》忠之、南町奉行筒井伊賀守政憲に命じて、御府内一帯の捜査に当らせた。
 それにしても奇怪なことは、あとから淡路守を迎えに行った供行列である。前田家の申しようでは、淡路守は何の疑いもなく、乗物に移ったという。
 偽の供揃なら、淡路守は、わが家来であるかどうかすぐに判別がつく筈である。それを疑わずに、唯々《いい》として乗物に坐ったのは不思議な話である。
 行列は、ちゃんと脇坂家の定紋のついた提灯をもっていた。もし、偽だとすると、計画的な誘拐《ゆうかい》としか思えない。
 脇坂家では、取り敢えず、淡路守病気につき、引籠りを願い出た。
 南北両町奉行の捜査は厳重につづいた。
 石翁は、向島の邸で、三人の客と雑談していた。
 客は、西国、中国、北国筋の大名の、それぞれの留守居役である。この大名たちは、日ごろから、石翁に何かといんぎんを通じ、石翁も便宜を計ってやっている。
 だから、客といっても、終始、機嫌伺いに来る留守居役であるから、気楽だし、石翁も機嫌よく話相手になってやっている。
 日ざしが障子に当っているが、梢の影も、よほど葉を落したものになっていた。
 各藩の留守居役は、在京の外交官のようなもので、交際上手なところから、粋人が多い。その方面の話題は豊富なのである。
 いまも、女の話から自然と食物の話に移っているところで、
「洲崎《すさき》の升屋《ますや》も結構ですが、少々、古臭くなりました。この間、日本橋浮世小路の百川《ももかわ》に参りましたが、あそこは庖丁が冴えております。今までのように、硯蓋《すずりぶた》や重箱に口取肴を大盛りにし、浜焼の大鯛もそのまま大皿にのせてくるなんざ、もう流行《はやり》ません。百川のは、懐石《かいせき》に長崎料理が入っておりまして、これは、ちょっと乙《おつ》に食べられましたな」
 と、ひとりの留守居がしゃべっていた。
 石翁は、にこにこして聞いている。
 さらに、その留守居が長崎料理の珍しさを披露に及んでいると、会釈して、用人が石翁の傍にすすんだ。
 石翁がうなずいて、客三人に、
「ちょっと失礼する」
 と断って座を起った。
 主人が中座したので、客三人は、勝手に食べものの話をつづけ、山吹茶屋がどうの、田楽《でんがく》茶屋は何処がいいの、と互いに知識を披露し合っていると、思ったより早く、石翁が戻ってきた。
 まえと少しも変らない顔色で、違うといえば、もっと機嫌のいいことだった。
「ここだけの話だが……」
 と石翁は座に着くと云った。
「寺社奉行が何処かに行って、行方知れずになったそうじゃ」
 えっ、と驚いたのは留守居役三人で、
「竜野侯が?」
 眼をまるくしたものである。
「うむ、いま耳にした話じゃ。どうじゃ、寺社奉行の雲がくれは権現様以来聞いたことがあるまい?」
 と微笑した。
「まことに」
 三人が、まだ信じられない顔つきをしていると、
「淡路も気の毒な。まだ、若いのに」
 と奇怪な言葉を洩らした。
 三人の留守居が、あとで不思議に思ったのは、この時にはまだ脇坂淡路守の生死は分っていなかったのである。
 留守居役が三人帰ったあとでも、石翁は、自分で茶を点てて、つくねんと坐っている。
 眼を閉じて考えごとをしている。が、これは思案するためだけに、ここに坐っているのではないことが、間もなく判った。
 用人が入って来て、耳打ちする。
「うむ」
 石翁はうなずいて、老人らしく、大儀そうに起ち上るが、眼は活々と光っているのである。
 裏側の縁に出ると、この庭の特徴で、植込みの樹が多い。その樹のかげに隠れるようにして、ひとりの男が坐っている。
「申し上げます」
 と男が云いかけるのに、
「これ」
 と低く制して、
「声が高いぞ」
 と自分から姿勢を前にかがめて、耳を近づけたものである。
 男が何かを囁《ささや》く。石翁はうなずく。ただそれだけのことだ。ほんの、二言か三言の密語であった。
 石翁は、席にかえった。顔には、満足そうに微笑がひろがっている。それから眼を細めて、何かを考えている。
 陽が雲にかげったのか、障子がすうと暗くなる。妙に肌寒い。風炉《ふろ》の炭火に手をかざしたくなるのだ。
 廊下に足音がして、
「参りました」
 と用人が告げる。
 石翁は、黙って起ち上る。
 やはり縁に出て、しゃがむと、樹に姿をかくして、一人の男が膝をついている。一刻前に来た男とは違うのである。
 この男が、膝をにじり寄せて、石翁に顔を近づけ、手で口を囲い、何ごとかを報告した。
「なに?」
 石翁の大きな耳が、動物のそれのように、動いたかと思われた。
「死体が出たのか?」
 石翁が、報告者の顔を、まっすぐに見た。
 男はうなずく。さらに、それから、数語をささやいた。
 石翁の表情が、硬いものになっている。
「よい」
 と報告者を退らせて、部屋に帰り、鈴を鳴らした。
「何か?」
 用人が来て、石翁に伺うと、
「両町奉行に、誰かしっかりした奴をわしのところに来るように云ってやれ。奉行に話して聞かせたいことがあると云ってな」
 と身体も、首も動かさずに云った。
 用人が、忙しく退って行く。
 石翁には、急いで町奉行に打たねばならぬ手があるのだ。
 
 早朝、二人の百姓が音無川のほとりを歩いていた。
 音無川は石神井《しやくじい》川の下流で、いま、百姓が歩いているところは、王子権現の方からくる流れと、飛鳥山の下をめぐってくる二つの流れと、三つが合流して、広い淵となっている。
 ここには、明暦二年の造築という石畳の石堰《いしぜき》がある。往昔、このあたりは深潭《しんたん》をなして物凄く、漆坊弁天という大蛇が住んでいたという伝説もあったくらいだ。
 寒い朝で、百姓が白い息を吐いて歩いていると、ふと、一人が川の方を見て、足をとめた。
「おい、妙なものが浮んでるでねえか?」
 と指さした。
 川のふちには葦《あし》が生えている。その葦の間から、黒いものが見えるのであった。
「うむ、何だろうな」
 伴《つ》れの百姓が、川のふちに寄って眼を凝《こ》らす。葦の密生に妨げられてよく判らないが、どうやら黒い着物が浮いているようだ。
「おい、人間じゃねえか!」
 と一人が、頓狂な叫びをあげた。
「人間だと?」
 そう云われて見ると、ふわりふわりと浮いている着物の先には髪の毛があるようだ。この川は、中央部は流れがあるが、両端は、葦が生えているせいもあって、淀《よど》んでいるのである。
「違えねえ、死人が浮いてるぜ」
 伴れの百姓も確認した。
 蒼くなって駆け出したものである。すぐに庄屋に走り込んで知らせた。
 村役人が集まって、百姓どもをつれて現場に急行した。
 人足が、長い竿《さお》を川へ突き出して、死体を掻き寄せる。死体は、ふわふわと浮きながら岸に寄ってくるのである。
 かなり、手もとに来たところを、百姓どもが、川の中に膝の下まで行って、死体を抱きかかえて、岸辺の草の上に置いた。
 うつ伏せになっていた死体を仰向けにして寝かせたが、その顔は、年齢《とし》ごろ四十五、六歳ばかり、人品|卑《いや》しからぬ人相である。すでに、息は絶えて、鼻孔《びこう》と口からは水が出ている。
「これは、身分のあるお仁《ひと》らしい」
 誰でも気がつくのは、その衣服の立派さである。黒羽二重の紋附に、綸子《りんず》の白無垢の下着を重ねている。ただし、これだけの人物が、羽織と、袴《はかま》が無いのが不思議だった。
 着物についた紋は、「輪違い」である。
 身分ありそうな、というところで、早速に、村役人が武鑑を調べはじめた。
「あっ」
 と叫んで、その指の当ったところを見せた。
「脇坂淡路守安董 寺社奉行」
 と出ている。
 村役人は仰天してこのことを関東取締出役、俗に八州廻りに訴える。役人が出張してきて一応検視したが、事が重大なので、すぐに早馬を仕立てて江戸|馬喰町《ばくろちよう》の郡代《ぐんだい》屋敷に急報した。
 郡代は愕いて、勘定奉行に報告する。勘定奉行とは妙だが、郡代は勘定奉行の管轄になっているからだ。勘定奉行からこのことを老中に申告した。
 このときは、もう午《ひる》近くなっていた。
 現場での検視の結果では、死人は水を飲んでいるから、溺死と決着していた。外傷はどこにも無いのである。
 前夜は霧が深かった。それで、当人はこのあたりを歩いているうちに、道の方角を失い、足を滑らせて川に落ちたのであろう、と推定された。死体の様子からみて、前夜の夜中か、本日の未明の災難だと思われた。
 ただ、不思議なことに、羽織と袴が無い。これだけ身分ありげな人が、このあたりを歩くのに着流しということは考えられない。
 それに、何の理由で、この寂しい道をひとりで歩いていたか、である。霧の深い夜なのだ。現場は田園や草地ばかりで、川を越して遥か向うに王子権現の森が見える。こちらには飛鳥山が近い。また南の方は、広い田の彼方に、板橋村の百姓家の屋根がぽつぽつとあるだけだった。夜の淋しさが想像されるのだ。
 そのうち、江戸から役人と一緒に脇坂の家来が駆けつけてきた。このときは死体の身元にほぼ見当がついていたので、丁重に陣屋に運んで安置してあった。
 脇坂の家来が、死人の顔を見て、
「たしかに、主人淡路守に相違ござらぬ」
 と泪《なみだ》ながらに証言した。
 居合せた役人一同、今さらのように驚愕《きようがく》した。
 死骸は、脇坂家の乗物に移し、目立たない人数で江戸に還って行く。無論、急病人を運ぶ体であった。
 上芝口の脇坂家では、変り果てた主人を邸内に迎えた。邸内に慟哭《どうこく》の声が充ちたのは云うまでもなかった。
 老中への届けは、さし当り病気重態とし、二日後に喪を発した。家督は、直ちに嫡子|安宅《やすおり》に仰附《おおせつ》けられる旨、内報があった。
 ここで最も衝撃をうけたのは、老中水野越前守だ。
 脇坂淡路守が、過失で溺死したとはどうしても思えない。場所が場所だし、時刻が時刻なのだ。
 その上、折も折だ。西丸大奥|紊乱《びんらん》の証拠を握って、再度の弾圧を下そうとした矢先なのである。普通の死ではない。この事故死の裏には謀略の匂いがあった。
 越前守が、自ら南北両町奉行を喚んで、脇坂の死の真相を究明するよう厳命したのは当然であった。
 江戸府内以外の隣接地の警務は、郡代の管掌であったが、脇坂淡路守の一件は、ことが重大なだけに、その真相究明には、南北両奉行手附与力のうち、捜査技術の優秀なものが、小者(岡っ引)を率いて調査に当ることになった。
 淡路守が行方不明になったのは、本郷の前田邸を出てからであるから、まず前田家の事情を聴取する必要がある。
 幕府目附が非公式に出した質問に、前田家の返答はこうである。
「当日の茶会は、内々の集まりで、淡路守殿が茶道に嗜《たしな》みあるところから、お招きしたまでである。淡路守殿は機嫌よく過された。亭主役は主人加賀守、相伴として親戚筋の方々を招いた。淡路守殿が御帰邸のために当屋敷を出られたのは、戌の刻で、そのときのご様子は、いささか御|酩酊《めいてい》にお見うけしたが、大酔というほどではなかった。
 脇坂家家中の供衆を、当屋敷の供待部屋に入れておいたのは事実である。時間が長いと思ったので、夜食を出したくらいである。しかるに、淡路守殿がお帰りのころには、玄関先に供揃が出来ているという知らせがあり、われらは供待部屋の衆が玄関先に出て、お待ちなされたものと思っていた。事実、脇坂殿には何のお疑いもなくお乗物を召され、御門を出て行かれたのである。われらは御門の外までお見送りしたが、供の御行列は御定紋入りの提灯で警備されていた。
 ところが、そのあとになって、件《くだん》の供待部屋の衆がまだ居残っていることが判り、われらも愕いた次第である。察するところ、脇坂家は連絡の手違いで、二重にお迎えが参ったものと思う。あとで、偽のお迎えが来たとのことだが、はてさて世の中には面妖《めんよう》なことがあるものと驚き入ったことである。
 事情は以上の通りで、当邸には何らの手落ちはない。淡路守殿がお疑いもなく、お乗物を召されたのに、われらが何で疑念を持とうか。淡路守殿にはお気の毒であるが、われらも近ごろ迷惑なことに思っている」
 前田家は極めて素気ない回答をしてきた。これは、とりようによっては、事件の渦中に巻きこまれまいとする要心のようでもあり、当邸を疑うなどとは以《もつ》ての外であるとの憤りともとれた。
 一方、当夜の脇坂家供頭大須賀昌平については最も厳重に調べられた。偽の迎えと何らか連絡があったのではないか、という疑いである。主人淡路守が退出するまで、いつまでも前田邸に待っていたことが不審がられたのである。
 しかし、大須賀昌平は忠実な性格であることが判って、この嫌疑は晴れた。
 次は、淡路守自身の不可解な行動である。
 捜査をしているうちに有力な聞込みがあった。
 脇坂淡路守らしい人物が、飛鳥山の茶亭で休息したというのである。
 この辺は料理屋が多いが、その中で、花屋という料理屋が当の休憩場所だったと判った。
 この聞込みは岡っ引が耳にしたのだが、その報告で、与力が花屋に出張してきて、亭主の松右衛門や女房、傭い人を調べた。
「その人物は、いつごろ当店に来たか?」
 と与力は松右衛門に尋問した。松右衛門がおよその時刻を答える。これは大事なことだったので、女房や傭い人にも確かめたところ、淡路守が本郷を出てから、ここに来るまでの時間と大体符合した。
「うむ」
 与力は尋問をつづけた。
「して、それが、脇坂淡路守さまと判ったのは、いかなる仔細からか?」
「お供衆が提灯を持って居られましたので、その御定紋を見て、脇坂さまとお察し申しました」
 松右衛門は答えた。
「その紋は、いかなる紋か?」
「輪が二つ違いに重なったもので、輪違いと申しまする紋と心得ました」
「輪違いの定紋が、脇坂さまの御紋とどうして知ったか?」
「武鑑を繰《く》りまして、判りましてございます」
「うむ、そのほう方《かた》へ行ったときの、その者の模様を有体《ありてい》に申せ」
「まず、供頭のようなお方がお見えになり、主君が暫時お休みになりたい故、奥の間を貸してくれと申されました」
「その男は、どのような人相か?」
「三十すぎの、やせたお侍でございました」
「主君という人物は休息したか」
「奥の間にお通しいたしました」
「人相はどうじゃ?」
「四十五、六歳くらい、少し肥り気味で、眉の濃い、下ぶくれのお顔でございました」
 役人はわずかにうなずいた。これは寺社奉行脇坂淡路守安董の人相と合うのである。
「それから、どうしたか」
「そのお方は奥座敷にひとりでお憩《やす》みになり、供頭さまの指図で、手前どもは、一切お近づきを遠慮いたしました」
「供の連中はどうしていた?」
「表でお待ちになっておられましたが、およそ半刻ばかり経ってから、自分たちも近所で休むからと申され、いずれかへおひき揚げになりました」
「それは何処か?」
「あとで、傭い人どもに探させましたが、判りませんでした」
「そのほうは、その人物が脇坂さまであると確かめたか」
「供頭のお方にお訊ねしましたが、そうだとは申されませんでしたが、粗忽のないようにしてくれと云われました」
「それからどうした?」
 与力の尋問はつづいた。
「へえ。それから、手前どもも、あんまり心配になりましたので、奥座敷にこっそり行きまして、様子を見ますと、そのときはもう、お客さまの姿がありませんでした」
 花屋の亭主松右衛門は答えた。
「無かったとは?」
「どこかへお出かけになったのでございます」
「どうして分ったか」
「裏は庭になっておりますが、その土の上に草履のあとがついておりました。そこで、手前と女房とが提灯を持って、足あとのついている方向を辿《たど》って参りました」
「それは、どういう風についていたか」
「庭を横切って、木戸の外に向っておりました。手前が足あとを拾って参りますと、何と飛鳥山の方へ向っているではございませんか。丁度、濃い霧がいちめんに山をかくしておりまして、真夜中のことではあるし、何となく気味が悪くなって、家の中に戻りました」
「供侍は、もう戻って来なかったか」
「それきりお帰りになりませんでした」
「その人物は、離れに、たしかに一人で居たか」
「一人で居られたと思います。なにしろ、お傍に寄ってはならぬ、というので、離れには行きませぬが、話し声はむろんのことコトリとも音がしませんでした。さすがに、身分あるお方は違ったものだと感心していたくらいでございます」
「そのほうが、そのお方を見たのは、離れに供侍と一緒に案内して行くときだけだな」
「左様でございます」
「そのときの、様子はどうか」
「そのお方は、黙っていてものは云われませんでしたが、ひどくお疲れになっているようにお見うけしました。手前は、それでお休みになるのだと心得ました」
「疲れていると、どうして判ったか」
「ひどく、ぼんやりしたご様子で、元気がありませんでした。一切のことは、供頭のようなお方がお世話なすっていらっしゃいました」
「そのほうが、足あとをつけていったのは、何刻《なんどき》ごろか」
「およそ四ツ半(午後十一時)ごろだったと思います」
「それでは、そのほうの家に休んだ間はどれくらいか」
「一刻半(三時間)ぐらいかと思います」
「いままで申し立てたことに相違ないか」
「相違ございませぬ」
 松右衛門の尋問は終った。
 が、その後になって、脇坂淡路守らしい人物を見たという目撃者が三、四人ばかりあらわれた。
 与力はその目撃者を喚《よ》んで問い質《ただ》した。
 脇坂淡路守らしい人物を見た、という目撃者は四人いた。いずれも土地の百姓である。
 与力は彼らを陣屋(関八州取締出役詰所)に喚んで尋問した。
 まず、百姓甲との問答。かれは三十歳くらい。
 問 その方が見た人物の人相を申してみよ。
 答 夜でございますし、霧が深うございましたから、たしかには分りませなんだが、小肥りのお武家さまでございました。
 問 それは何処で見たのか。
 答 飛鳥山の下を東に向いますと、御殿山の方へ出る道がございます。その途中に、六国坂というのがございますが、その坂にかかる手前でございます。
 問 それは何刻ごろか。
 答 およそ四ツ半(午後十一時)をすぎていたと存じます。こんな真夜中に、お武家さまが、おひとりでふらふらとお歩きになるなど、奇妙なことと思い、少々、気味が悪くなったくらいでございます。
 問 そのお方は、そのほうを見ても、何にもものは申されなんだか? 
 答 言葉をおかけ下さるどころか、まるで、知らぬ顔で、お歩きでございました。
 問 そのほうは、提灯を持っていたか? 
 答 持っておりました。
 問 提灯をさし出して、そのお方の顔を見るようなことはしなかったか? 
 答 そんなことは致しませんでした。けれども、お武家さまにしても、ご身分のある方のようにお見うけいたしました。
 目撃者甲の聴取りは終って、次は乙と丙との証言である。これは、中年の夫婦者であった。彼らは質問に、交互に答えた。
 問 そのほうが、そのお方を見たのは、いずれの場所か?
 答 一里塚の近所でございます。これは六国坂を下ったところにございます。
 問 それは、何刻であったか? 
 答 子の刻(午前零時)を過ぎておりました。手前どもは、願いごとがあって、不動さまにお百度まいりをした帰りでございました。(この近くに明王山不動院あり)
 問 そのお方の人相は分っているか? 
 答 手前どもは、向うから人影が参りますので、もしや、同じ願かけのお詣りのお方ではないかと思い、提灯をさし出して、お顔を見ましたから、よく分っております。
 問 それを云ってみよ。
 答 小肥りのお方で、四十五、六歳くらい、眉の濃い、立派なお武家さまでございました。手前どもは、びっくりして、あわてて、おじぎをしましたが、そのお方は、なにかもの想いに耽《ふけ》っているような、ぼんやりした様子で、ふらふらと歩いてゆかれました。
 与力は、次の目撃者丁を呼び出した。それは二十七、八の青年である。
 問 そのほうが、その武士を見かけたのは、何刻ごろか?
 答 へえ、そろそろ夜明けが近うございましたから七ツ(午前四時)ごろだったと存じます。
 問 そんな時刻に、そのほうは、どうしてうろうろしていたのだ? 
 答 恐れ入ります。じつは、吉原《なか》へ遊びに行ったのですが、馴染《なじみ》の女がなかなかやって来ず、とうとう遣《や》り手の婆と喧嘩をしまして、業《ごう》ッ腹ぱらなものですから、とび出して来たんでございます。旦那の前ですが、近ごろの女郎《おんな》ときちゃ、銭《ぜに》が目当てで、もう昔のように意気や張りを見せようってえなアいねえもんでございますね。
 問 黙れ。そのような話を訊いているのではない。
 答 へえ、へえ。恐れ入りました。
 問 そのほうが、その武家に遇ったのは、何処か。
 答 俗に滝不動裏門道てえのがございます。飛鳥山から滝不動さまの方へ行く道なんで。手前は滝廼川《たきのがわ》村の百姓でございますから、あの道を通ると近うございます。
 問 その方はどうしておられたか。
 答 その晩は、滅法霧が深うございましてね。手前が歩いておりますと、目のさきに、ぼうと人かげが立っているじゃございませんか。いや、季節外れの幽霊が出たかと愕きました。よく、見ますと、その人影はふらふらと音無川の方への畦道《あぜみち》を歩いているではございませんか。まるで、魂の抜けたような恰好でございました。
 問 それでは顔は見なかったのか? 
 答 顔を見る段じゃございません。やっと、それがお武家さまだと判ったくらいでございます。
 問 どのような体格であったか? 
 答 左様でございますね。ちょっと小肥りの体格でございました。それで手前もちっとは安心しました。幽霊や変化《へんげ》の肥えたのはあまり怕《こわ》くございません。
 問 それでは、そのほうは、その武家のうしろを見送っていたのか? 
 答 へえ。どうも、面妖なことがあると思って、しばらく立ち停って見ておりましたが、すぐに濃い霧で見えなくなりました。
 問 その歩いて行った方角は、たしかに音無川の方か? 
 答 左様でございます。
 目撃者の証言は、大体、これで終った。
 これによると、脇坂淡路守は、花屋から、飛鳥橋を渡り、山の麓を歩いて、六国坂から一里塚まで行き、再び引返して、滝不動裏門道に出たことになる。奇怪な彷徨《ほうこう》である。
 南北両町奉行所、ならびに郡代屋敷の当事者は、脇坂淡路守安董の死について、次のような結論を下した。
「寺社奉行には、御用繁多のため、いささか過労気味となり、逆上せられていた模様である。近ごろは、少々、気鬱《きうつ》(神経衰弱)で、常人の振舞いとは思えない節があった。これは脇坂家家中の申立てるところである」
「当夜、淡路守殿は、前田邸の茶会に参会せられたが、そのときも、加賀守殿のお話に、とんちんかんな返事をなされたという。茶のあとに、ご酒を召されたのもよけいに悪かった。これは気鬱の症状を昂じさせたものと判断する」
「されば、淡路守殿は、供侍を待たせながら、別の供をお呼びになった。世上、この供がにせもののように噂するが、左様な事実はない。脇坂家の家中に訊ねても、全く主人失念のためと云っている」
「淡路守殿には、前田邸を辞去されるときから妙な様子があった。口の中で、ぶつぶつ呟いたり、何かもの想いに耽って返事を忘れておられたり、御用所に起たれるときも、案内の侍とは別な方角にふらふらと歩かれたりして、案内の者をあわてさせた」
「本郷の前田邸を出て、行列を上芝口の自邸とは反対の板橋村に向かわせたのも、淡路守殿の気鬱がなせる奇怪な行動である。板橋村から飛鳥山の料亭に乗物をつけさせ、そこで、ひとりで休憩なされた。いかなる意図か分らぬが、供侍はそこから帰らせておられる。世間には、このことについていろいろ噂をしているが、脇坂家へ問い合せての結果の事情はこれである」
「さて、別間にお憩《いこ》いなされていた淡路守殿は、さらに逆上なされたらしい。すなわち、ひとりで宿の者にも断りなく抜け出され、飛鳥山の方にお出でになった。夜中、まことに奇怪な行動であるが、すべてご気鬱が昂じたはてと思えば諒解できぬこともない」
「飛鳥山の麓から六国坂へ、それから一里塚へ、さらに滝不動裏門道の畔《あぜ》みちへと、淡路守殿は、さまよいつづけられた。途中で、淡路守殿を目撃した者は、いずれも、ふらふらと魂が抜けたように歩いておられたと申し立てている」
「最後の畔みちから、音無川の淵は近い。思うに、淡路守殿は、逆上のあまり、自ら入水《じゆすい》なされたか、もしくは、ぶらぶらと川べりを歩かれているうちに足をすべらせて川へ転落なされたのであろう」
「されば、脇坂淡路守安董殿の死は、世上の浮説に云うが如き、不慮の怪死ではなく、全く、過労のはての気鬱が昂じ、逆上なされての自らの入水か、過っての溺死である。これは、諸方面を調べての結果、間違いないところである」
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