南北両奉行所、並に郡代屋敷の探索当局は、脇坂淡路守安董の怪死について、このような結論を出した。
「以上のように、脇坂淡路守殿は気鬱が昂じて入水されたか、転落されたかであり、その死は自殺または過失死である」
無論、この捜査報告は老中に極秘のうち差し出されたのであって、世間には、病死となっている。
公儀に出した脇坂家の届けにも、病死となっている。そうでなければ、脇坂家に疵がつくからだ。公儀はこれを受理して、嫡子安宅に五万石の家督をつがせている。
「妙な話だな」
島田又左衛門が、これをさる筋から聞きこんで来て新之助に云ったものである。
「かりにも五万石の大名が単身で、夜中、ぶらぶらと歩く……そんな莫迦なことがあるものではない」
「脇坂さまは、本当に御用繁多でお気鬱でしたかな?」
横に一緒に居た良庵が訊いた。
「そりゃア御用は多かった。しかも、公辺の用事のほかにも、いろいろと気を遣われていたことは確かだ。あのお方は西丸大奥手入れの準備で一生懸命だったからな」
又左衛門は云った。
「しかし、それと気鬱とは違う。わしがお会いしている脇坂殿は、逆に至極元気であったよ。人間、何か大きなことをやろうとする前には意気が昂《あが》るものだ。脇坂殿がそれだったよ。顔色もいいし、張り切っておられた。気鬱などとは飛んでもない」
「そうすると……」
新之助は叔父の顔に眼をあげた。
「あの飛鳥山の水茶屋に休まれたのは?」
「それだ」
又左衛門は首を傾げていた。
「わしは思うに、何人《なんぴと》かによって、脇坂殿は誘拐されたのではないかと考えるな」
「誘拐?」
「うむ、そうとしか考えようがないのだ。前田家にはちゃんと脇坂家の供侍が待っていた。あとの迎えの行列は、むろん、にせものだ」
又左衛門は、自分の推測を話し出した。
「脇坂殿は、誰かの謀略でその偽の迎えの乗物に乗せられたのだ。偽の方でも考えている。ちゃんと、脇坂殿の定紋入り提灯を用意して行っているのだからな。それからその行列は、飛鳥山に向ったのだ」
「脇坂様は、よくもおとなしくついて行かれましたな?」
「そこが謀略と申しているのだ。思うに、脇坂殿は、その水茶屋で誰かと会見するように申し込まれ、承知なされて行かれたと思う。それでなければ、脇坂様が承知なされる筈がない。深夜、そのような場所で、脇坂様が唯々と会見を承知なされた相手の名は……新之助、これは、よほどの人物の名前ではなかろうか」
誘拐といっても脇坂淡路守の場合は強制的に拉致《らち》されたのではなく、誰かがひそかに会見を申し込んで、その場所に出向いて行った──島田又左衛門の推察というのはそのことから、対手の人物というのが余程の大物だと云うのである。
「しかし、先方では何のために会いたいと口実をつくったのですか? よほど、うまい口実でないと脇坂さまが出向いて行かれない筈ですが」
「その通りだ」
と又左衛門はうなずいた。
「わしが思うに、淡路守殿は西丸から手をつけて大奥粛清をなされようとした。これは、前にも経験があるから、今度は徹底的になされる筈だった。当然、大奥からの反対がある。脇坂殿はそれも覚悟の上だった。貂《てん》の皮が前回よりも大暴れするところだった。大奥は、前の手なみを知っているから怖れをなした。それに、今度は水野越前守殿という大樹のような後楯もついていることだ。大奥からは犠牲者が出る。それも大量な犠牲者だ」
又左衛門は、熱心につづけた。
「そこでじゃ。先方では、淡路守殿に取引を申し込んで来たものと思う」
「取引……とは?」
「つまり、淡路守殿に大じかけな粛清をされては叶わぬでな、それをどの程度に縮めるか。いや、縮めて欲しい、その代り、或る程度の犠牲は認めよう、淡路守殿の意向が判れば、自発的に辞める者を出してもよい……つまり、そのような取引を敵側から申し込んできたに違いない。むろん、話し合いは極く内密のうちに進めなければならぬ。ご足労でも、その場所までお越し願えぬか……多分、そのような云い方で誘ったのであろう」
又左衛門は話をすすめた。
「されば、淡路守殿も、先方の肚を探るつもりで出て行かれた。それが前田邸の玄関に来た向うの迎えじゃ。淡路守殿は、わが家来にも知らせてはならぬので、黙って迎えの乗物に乗った。先方が脇坂家の定紋入りの提灯を持たせたのは、つまりは前田家への体裁じゃ」
「では、飛鳥山の水茶屋がその指定の場所でございましたか?」
新之助が考えながら訊いた。
「一応はな」
又左衛門は答えた。
「しかし、先方は来る意志は毛頭無い。脇坂殿は、そこで長いこと待っていた。待てどくらせど約束の人物が来ないので、初めて変だと気づいた。罠《わな》だ、と判ったに違いない。遁《のが》れようと思ったが、表には、供に化けた敵側の連中がいる。そこで裏口からのがれたが、お大名のかなしさ、あの辺の地理をご存じない。加えて、夜の霧の中じゃ。つい、さまよううちに、あとをつけて来た敵の一人に、音無川へ突き落されたと思う。……」
「叔父の云うことは」
新之助は、良庵と連れ立って、田圃道を歩きながら云った。
天気がよく、空は晴れ渡っている。田圃には切株ばかり残っていた。今、行って来た王子権現の森と、飛鳥山の姿が背中に遠ざかっていた。
昨日、霰《あられ》まじりの雨が降ったあとで、田舎道は泥濘《ぬかるみ》になっていた。新之助も良庵も、刎《は》ね泥を警戒しながら歩いた。
「叔父の云うのは」
新之助は、昨夜聞いた、又左衛門の推察のことを良庵に批判していた。
「あれは、間違いだね」
「え、間違い?」
良庵は新之助の横顔を見た。
「うむ、ちっとばかり見当が狂っている」
「しかし」
良庵は首を傾げた。
「ひどく筋道は立っていたように思うがな」
「筋道の立て方が、最初《はな》から違ってるのさ」
新之助は雪駄《せつた》で小石を弾《はじ》いて云った。
「どういうことだね?」
「敵側の人物と、取引するために出かけたまではよかったがね……」
彼は話した。
「それからがいけない。花屋に休んだのは、脇坂殿ではない」
「えっ。だけど、新之助さん」
良庵は反問した。
「人相、風采、いま遇った花屋の亭主の云う通り脇坂さまにそっくりじゃないかえ」
「そっくりだ」
新之助はうなずいた。
「遇ってはいないが、そのほか、飛鳥山で出遇った土地者も、似た人相だったと、みんな口を揃えて云うに違いない」
「すると、そいつらは嘘をついているのかえ」
「いや、嘘を云っているのではない。みんな、本当のことを云っているのだ」
「はてね」
医者は首を傾げた。
「さあ、分らなくなった」
「花屋に休んでいた脇坂殿は、本物ではない。あれはにせものだ」
「そ、それは、ほんとうかえ?」
「そうでなくては辻褄《つじつま》が合わない」
新之助は答えた。
「かりにも五万石の大名だ。それに寺社奉行といえば若年寄に次ぐ格だ。そのような人物が二刻近くも、たった一人で、夜中の水茶屋に休んでいると思うか?」
「………」
「飛鳥山のあたりをうろついているのも同じことだ。大名がひとりで、羽織も袴もつけずに着流しでふらふらしていると思うか。……おれではあるまいし」
「新之助さん、そりゃア、どういうことだね?」
良庵は、水溜りを一跳びして訊いた。
「つまりさ、水茶屋に休んだり、飛鳥山のあたりをうろついていたのは、脇坂淡路守殿ではないのだ」
新之助は、低い声で云った。
あたりは人も通らない。遠くの田圃道に、女性が一人、鍬をかついで歩いていた。
「そうすると?……」
「そうだ、あれはにせものだ。脇坂殿によく似た男の」
「………」
「わざと水茶屋に休んだり、飛鳥山のあたりを人目につくように、ふらふらと妙な歩き方をしたり、これはにせものが、そう見せかけるためにしたことだ」
良庵は、しばらく息を呑んだような顔をしていたが、
「けれど、音無川から上った死体は、正真正銘の脇坂さまだったぜ」
ときいた。
「死体はほんものさ。歩いていたのはにせものだ」
新之助は答えた。
「そうするてえと……本郷の加賀藩邸を出たのは?」
良庵が考えながら訊く。
「あれは、ほんものだ」
「水茶屋に休んだのはにせものか。ほんものとにせもの、どこで入れ替ったやら……」
良庵は呟いた。
「入れ替ったのではない。ほんものの乗物をかついだ行列と、にせものの行列と二つあったのだ」
「はてね?」
「ほんものは、本郷から、こっそり出た。この方は人数が少いし、乗物も立派でない。提灯も消していたに違いない」
新之助の眼には、この間の夜、柳原堤を歩いているときに出会った無提灯の駕籠の一行が泛んでいた。足音も消しているような歩き方だった。
「一方、にせものは、堂々と脇坂家の定紋をつけた提灯を賑《にぎや》かにかざして、歩いたものだ。飛鳥山の水茶屋に着いたとき、わざわざ亭主に武鑑を披《ひら》かせたほど、目立つようにした。途中、誰に出会っても、脇坂殿の行列が通っていたと分るようにしたのだ。このテは、にせものの脇坂殿を、人目につくように、ふらふらと歩かせたと同じことだ」
「しかし、新之助さん」
良庵は抗議した。
「脇坂家では、水茶屋にお供したのは、当家の者である、と云ってるそうだが……」
「五万石の屋台が可愛いからさ」
新之助は嗤《わら》った。
「下手に、逆らうと、五万石がフイになる……」
脇坂家が泣寝入りしたのは、五万石が可愛いためだと新之助は云う。
つまり、ここで事を荒立てて抗議すれば、淡路守安董は妙な場所で変死したことになる。さすれば大名としての体面を失墜するから、公儀のお咎めがあろう。脇坂家の家中が、偽の供行列を、止むなく承服したのは、この辺の事情からであった。
「老中筆頭の水野越前守殿も」
と新之助はやはり道を歩きながら云った。
「ことの究明には痛し痒《かゆ》しだ。元来、脇坂殿と組んで大奥粛清を目論んでおられた水野閣老も、脇坂殿の下手人を探せば脇坂家に疵がつく。これも詮方なく眼を瞑《つむ》られて、南北両町奉行所などの探索報告を鵜呑みになされたと思う」
「するてえと、奉行所の報告も、脇坂家のためを考えてのことかね?」
良庵は訊いた。
「それほどの親切心から出たかどうか……」
新之助は苦笑した。
「脇坂家のためよりも、下手人のためだろうな」
「すると、その下手人ってえのは?」
「直接《じか》の下手人のことを云ってるのじゃないよ、良庵さん。そのうしろに立って、にたにた笑いながら指図をしている奴さ。おれは、その巨きな人間のことを云ってるのだ。奉行が三人かかっても歯の立たない男さ」
「新之助さん、それじゃ、やっぱり……」
良庵は、すり寄って来て、小さな声を出した。
「向島かね?」
「見当は、その辺だね」
新之助は答えた。
「そうか……」
良庵は、しばらく黙って歩いていた。黙っているのは彼も考えているからだ。
「すると」
良庵は首を起した。
「ほんものの脇坂さまが連れ込まれた所はどこだね?」
「おれも、そいつが判らなかったが、今日、ここに来て、初めて、およその見当がついたよ」
「え、どこだ?」
新之助は、良庵の肩をたたいて、顎をしゃくった。
「ほれ、あすこだよ」
良庵が眼を向けると、大きな屋根が、長い塀に囲まれ、植木が林のように繁っていた。
「前田の下屋敷だ」
あっと良庵が口の中で叫んだ。
「ここに前田の下屋敷があるとは気がつかなかったよ。此処は板橋村だな。飛鳥山も、音無川も、目と鼻の間だ。良庵さん、向島の隠居も、なかなか眼が敏《さと》いな」
「するてえと……」
良庵は、広壮な前田加賀守の下屋敷を横眼で見ながら訊いた。
「脇坂さまは、此処に連れ込まれなすった? ……」
「まあ、いずれその見当だ」
新之助も前田の下屋敷の門前を見ながら云った。
門の前には、棒を持った警固の者が二、三人立って、これも新之助と良庵の歩いている方を、じろじろと見ている。
「地の理はいいし、この屋敷の奥の院に引込まれたら何をやられるか分らない」
新之助は、低声《こごえ》で云った。
「良庵さん、あんたは、脇坂殿が、羽織と袴無しの死骸で発見されたのをどう思いなさる?」
「そのことだ。わしにもよく判らんが、おおかた脇坂さまが妙な頭脳《あたま》におなりになり、途中で勝手に脱がれたと見る人もあるようだな?」
「敵も、そう世間に思わせるのが狙いだった」
新之助は云った。
「だが、考えてみるがいい。いかに気鬱《きうつ》が昂じたとはいえ、お大名が羽織も袴も脱《と》るというのは常識には無いことだ。お大名というものは、どんなに狂ってても、癖になった威儀は身につけているからな」
「そりゃ、そうだろう」
良庵はうなずいて相槌《あいづち》を打った。
「羽織や袴を脱がせたのは、脇坂殿が常人でなかったと見せたい小細工だろうが、細工が念入りすぎて、ボロを出した恰好だ。これ一つとっても、脇坂殿は、自殺や、誤っての入水ではないよ」
「なるほど」
「その小細工をしたのは、下っ端の猿知恵の廻った男に違いない。あとで、向島から、散々、叱言《こごと》を食ったことだろうよ」
「すると、やっぱり下手人は川向うの方角かえ?」
「そうだ。あんたが散々な目に遇った方角だ」
「いや」
良庵は頭を抱えた。
「あのときは非道《ひど》い目に遇った」
「川向うは禁句らしいな」
新之助は微笑したが、
「こうなると、おれも向島に文句の一つもつけに行きたくなる」
と、ぼそりと云った。
「えっ」
良庵がおどろいて、
「では、石邸《いしやしき》に、いよいよお出かけか?」
と新之助を見あげた。
「その方もだが、先に片づけることがある」
「はてね?」
「お縫さんの敵《かたき》だ。あれも目下、向島だからな。いや、向島には、いろいろな化け物がいる」
板橋村から巣鴨にかけて、大名の下屋敷が多い。
西から数えただけでも、加州家下屋敷、柳沢弾正|少弼《しようひつ》下屋敷、一橋家下屋敷、藤堂和泉守下屋敷、つづいて寄合《よりあい》旗本の久世|内匠《たくみ》、一色丹後守、土屋兵部、駒木根大内記などの下屋敷がある。
また、御領茶園もあって、田園を隔てて、飛鳥山、王子権現などの森を眺めるこの辺の見晴しは、大そう佳い。
板橋は、江戸から発して中山道へ向う最初の宿場で、上宿《かみじゆく》、中宿に分れていた。むろん旅籠《はたご》や水茶屋が多い。
この上宿の真ん中を割って石神井川が流れている。この川の上流が音無川になるのだ。
新之助と良庵とは、石神井川に架《かか》った橋の上に立って、上流の方を眺めていた。広い畑の向うには、俗に滝不動で知られている思惟山|正受院《しようじゆいん》の松林と裏山とがもり上ってみえる。
おだやかな陽ざしであった。
石神井川の東岸には、加州下屋敷の長い塀がつづき、流れる水に影を落していた。
「良庵さん、見たか?」
と新之助が云う。
「何をだえ?」
良庵が、川の方へ首を伸ばした。
「ほれ、この川の水が加州の下屋敷の内に取り入れられているだろう。あの塀の下に石垣があるが、中ほどに水門が見えるではないか」
「違いない」
良庵が見て云った。
「お屋敷の庭の泉水に取り入れられているわけだな。さすがは加州家だ、川の水を利用して、いいところに下屋敷を建てたものだ。他家の下屋敷には川水が無い」
「うむ。きっと見事な造庭だろうな」
新之助は云い、
「だいぶん歩き廻って足が少々疲れてきた。どれ、その辺で一休みしようか」
と誘って、目についた水茶屋に入った。
「いらっしゃいまし」
女中が出て来て、
「奥が空いております」
と奥座敷に通した。
四畳半ばかりの狭い部屋で、隣室とは襖で仕切っている。
「寒いから、すぐに一本つけてもらって、腹をあたためよう」
新之助が云うと、良庵も、
「正直、そいつを待っていた」
と眼をほそめた。
熱燗《あつかん》で五、六杯飲んだあと、
「これでどうやら人心地がついたから、早速、訊くがね、新之助さん?」
と良庵は、新之助をのぞきこんだ。
「ほんものの脇坂さまが殺されたのは、死骸の浮いた場所と同じかえ?」
脇坂淡路守が、どのような方法で殺害されたか、新之助は云って聞かせるという。
良庵が、発見現場の川に突き落されて殺されたのではないか、と云うのに、
「それは違うな」
と新之助は否定した。
「いいかね、良庵さん、当夜は、にせものの脇坂が、あの辺をうろうろしていたのだ。ほんものの脇坂殿を入れたら、二人になる。これは面倒だし、だれに見咎《みとが》められるか分らぬ。と、いって、ほんものの死体の浮いていたのは、あすこだし、おれも、この現場に来るまでは困っていた」
「そこで、自分の眼で見て、判じものが分ったというわけだね。どこだえ、新之助さん?」
良庵は盃を口から放して訊いた。
「お前さんも見ただろう、石神井川が加州家下屋敷に取り入れられて流れ込んでいるのをさ」
「うむ。水門があったのを見せてもらったな」
「それだよ。あの水門をくぐって、庭に流れこみ、泉水になっている水が曲者だ」
良庵は、ぎょっとして眼を新之助に向けた。
「それじゃあ……」
「そうだ、脇坂殿は泉水の中に漬けられたのさ」
新之助は、うなずいて云った。
「ほれ、良庵さんも何か思い出すだろう?」
「思い出すどころの段じゃねえ」
良庵は叫んだ。
「菊川のときと同じだ。わしが向島屋敷にかがんで居たときだ」
「そうだ。向島の隠居の屋敷は隅田川の水が入っている。こっちは石神井川が入っている。川の名前は異うが、水には変りはない」
「ううむ」
良庵は唸《うな》った。
「非道《ひど》いことをしやがる」
「全くだ、と云いたいが、いまさら愕いても仕方がない。もともと、そういう人間だ。同じ人間でも、われわれの物差しでは計れない工夫に出来ている」
「するてえと、新之助さん」
良庵は、膝をすりよせた。
「はっきり聴こう。脇坂さまも、隠居の手で殺《や》られなすったのか?」
「手口が同じなら、そう見ても困るまい。おれの推測では、隠居が手口を教えたのだ。いや、指図したといった方がいいかもしれぬな。隠居と加州家とは特別な因縁だ」
「菊川のときと同じに、脇坂さまを泉水に溺れさせて、死骸を、現場の川に捨てに行った……」
良庵は眼を宙に吊《つ》らせた。
「そのとき、小細工をして、羽織と袴を脱《と》ったに違いない。良庵さん、その絵解きには、お前さんも苦情はあるまい?」
「無い!」
良庵は、唇を歪《ゆが》めて答えた。
新之助と良庵とが、その小料理屋に入ったのを、あとから跟《つ》けて行った者がある。
これは両人が加賀藩の下屋敷の前を通っているときから、眼をつけていた男で、この辺の地廻りの岡っ引で卯之吉といった。かねてから、加賀藩の用人に手当てをもらって、出入りしている。
ちょうど下屋敷の勝手口から出たところだったが、若い侍と慈姑《くわい》頭の医者のような男が二人連れで、下屋敷の方をじろじろ見ながら、低声で話し合って歩いているのが眼に入り、
(これは)
と首を捻《ひね》ったのは、さすがに商売柄であった。|ぴん《ヽヽ》と頭にきたものだ。
手拭いを出して、急に頬被《ほおかむ》りしたものだ。眼を光らせて両人のあとから、間隔をおいてぶらぶらと行く。この辺の職人といった恰好だが、侍と医者とが橋の上に立ち停って、加州家の水門を眺め、ひそひそと話しているときは、知らぬ顔をして両人の背中を通った。
話し声が耳に入るかと思ったが、ゆっくり歩いても、向うの声が小さいので耳に入らない。立ちどまって聴くわけにもゆかないので、残念ながら、ぶらぶらと通りすぎた。
近くの旅籠《はたご》屋の軒下に立って、それとなく両人の方を注視していると、彼らは、橋の上を動いて、前の小料理屋に入った。
ここまで見届けると、しめたものである。岡っ引の卯之吉にとっては、むろん、この辺は縄張りである。
両人が小座敷に上ったところを見計らって、
「ごめんよ」
と小料理屋の軒をくぐった。
頬被りを脱《と》って、面《つら》を見せると、
「あ、親分」
と女中が声を上げて、おじぎをした。
「これ」
口に指を当てて、黙って居ろと合図し、
「いま、二人連れの男客が入《へえ》っただろ?」
と小さな声で訊く。
「はい。お武家様とお医者さまで?」
「うむ。どこに腰を据えたかえ?」
「奥の四畳半でございます」
「そうか。たしか隣の部屋は六畳の間だったな。おれを其処に通してくれ」
「六畳の間は、王子詣りのお客さまが入ってらっしゃいますが……」
「そんなものは構わねえから、よその座敷に移してしまえ」
「はい。でも、男ひとりに女ひとりの組でございますから、親分、どこかほかのお座敷でも……」
「ほかの座敷では役に立たねえのだ」
卯之吉は眼に角を立てた。
「早く、そいつらを追い出してしまえ。ええい、早くしねえか」
彼は女中を叱った。
岡っ引の卯之吉は、六畳の間に強引に入り込んだ。
若い夫婦者か、出来合っている男女かしらないが、あわてて部屋を出されたあとには、膳の上に仲よく銚子が二本と盃が二つ、箸が二ぜん置いてある。
二枚の座蒲団がくっつき合っている。
(ちぇっ、何をしていたのか、面白くもねえ)
卯之吉は心の中で舌打ちした。
女中が、
「親分さん、すぐに片づけますから」
と云うのに、卯之吉は、眼をむき、おのれは声を出さずに顔つきで叱った。
女中は、思わず自分の口に手を当てて逃げた。
卯之吉は、畳を爪先で歩き、出来るだけ襖ぎわに身を寄せてしゃがんだ。襖には、これも、オシドリが川を泳いでいる。
声は、はっきりと聴えない。これは隣室に人が来たことを気づいて対手が警戒したのではなく、はじめから内密らしく、ささやき合っているのだ。ひとりの声は若く、ひとりは嗄《か》れて、年寄りじみている。卯之吉の眼には、前田家下屋敷の前を通っていた胡散気《うさんげ》な侍と医者の姿が浮んでいた。
おもに、しゃべっているのは若い声で、年寄りの声は聴き手に廻っている。
が、ときどき、思わず昂《たか》ぶるのか、声が高くなってくる。
「脇坂殿が……」
とか、
「加賀藩の下屋敷で……」
とか、
「石神井川……音無川……向島……」
などと、片言が聴えるのだ。
昂奮して来たのは卯之吉で、思わずしゃがんだ膝を動かしたときに、襖に擦れて、かすかな音を立てた。
話し声が、ぴたりとやんだ。
顔色を変えたのは卯之吉で、今にも、襖ががらりと開き、侍が押取《おつと》り刀で出て来そうな気がして、泡を食って爪先で離れた。
それから、庭に下りると、裸足《はだし》で逃げ出したものだ。
が、たしかに収穫はあった。短い言葉を聴いただけだったが、傭われている前田家に関わりのある不審は確かだった。これは、手当をもらっている手前、早速に用人に注進に及ばなければならないのである。──
良庵が不安げに新之助の顔を見た。
「隣で音がしたようだが……」
「なあに」
と新之助は平気で云った。
「犬が聴いたのかもしれぬ」
「えっ」
良庵が狼狽《ろうばい》すると、新之助は手で抑えた。
「聞かれても大したことはないさ。向うが今、どう出てくる訳もなかろう」
宵に、加賀藩の用人、前田源五右衛門が来た、というので、石翁は自分の居間へ通せ、と命じた。
炬燵《こたつ》に当って、今度、新しく妾奉公に来た若い女に肩を揉《も》ませていたが、
「そちは向うへ行っておれ」
と女を去らせた。入れ違いに前田源五右衛門が入ってくる。敷居際に手をつくのに、
「まあ、こちらに入れ、寒いな」
と、火鉢の傍にすすめた。
「何だな、今ごろ?」
石翁は煙管《きせる》に莨《たばこ》を詰めている。吸口も雁首も金づくりで、それに精巧な彫刻がしてあった。どうせ、どこかの大名の進物に違いなかった。
「その後……」
と、畏《かしこま》っている前田源五右衛門が細い声で云った。
「あちらの方には変った動きはございませぬか?」
「あちら?」
石翁は、対手に眼をむけたが、これは奉行所のことと察して、
「別段、聞かぬ。また、動きようがないと思うが……」
と、じろりと源五右衛門の顔を見た。源五右衛門の表情は、どこか動揺していた。
「何か、あったのか?」
「はい。少々、気がかりなことがございまして」
源五右衛門は答えた。
「うむ?」
石翁は煙を吐いた。
「申してみい」
「はい。今日の昼間、板橋の下屋敷の門前を怪しげな男が二人、ご門内を覗きこむようにして通りましたそうで。これは探索を商売にしている人間が報らせたことでございます」
「うむ」
「その者の申しまするには、両人は石神井川の橋の上で、当邸の水門を眺めたりしておりましたが、間もなく小料理屋に入り密談をいたしましたそうで」
「………」
「探索の人間が、隣の部屋でそれを聞きましたところ、さだかには聴えねど、時々、脇坂殿がどうしたとか、前田の下屋敷、川の水、向島などという言葉が耳に入ったそうにございます。それで、もしや、と存じまして……」
源五右衛門の眉は不安そうだった。
「その両人とは何じゃ?」
石翁は、急に唇を曲げて、煙管を灰吹きに叩いた。
「は。ひとりは、若い武士で、ひとりは町医者の風体の由に申しております」
石翁は、眼を閉じて考えていたが、
「源五、それは別の筋からだ」
と眼を開けて云った。
「別の筋から?」
前田源五右衛門が、石翁の言葉を耳に捉えて、不安げに顔をあげると、
「いや、別段、案じることではない」
と隠居は笑った。
「たとえ、こそこそと動くものがあっても、何ごとかあろう。第一に、脇坂家から、主人病死を公儀に届出ていることだ。他から苦情は云えない話じゃ」
「左様でございますな」
源五右衛門は、納得したようにうなずいた。
「越前が」
と石翁が嘲笑した口吻《くちぶり》になったのは、老中水野忠邦のことだ。
「心では躍起となっても、こればかりは始末に負えぬ。あいつ、おのれの小細工で、脇坂の五万石を潰すような愚かなことはようせぬでの」
「左様でございますな」
「源五」
石翁は、じろりと見た。
「そちは、つまらぬことをいちいち気にかけて顔色を変えるでない。もそっと落ち着け」
「恐れ入りました」
「わしがおる。何があろうと、安心するのだ」
「それは……」
源五右衛門は平伏して、
「肝に銘じて心得ておりますが、何ぶん、ことがことでございますので、つい、うろたえて参上いたしました。いえ、御教訓を承りました上は、向後、大安心でございます」
「そうせい」
石翁は、煙管から輪を吹いていたが、
「源五、今度のことは宰相様(当主前田斉泰)のお耳に達していないであろうな」
と訊いた。
「それは、もう、滅多なことは申し上げておりませぬ」
「向後も気をつけるのだ。家中一般にも洩れてはならぬ」
「委細心得ております」
「よしよし。まあ、折角、来たのじゃ。ゆるりとして行け」
石翁は金の煙管で灰吹きを叩いたが、今度の音はやさしかった。
前田源五右衛門は、石翁に諭《さと》されたり慰められたりして馳走になり、夜おそくなって、その屋敷を出た。
駕籠に乗って、向島堤を戻って来たのだが、隅田川から吹く風が、ひどく冷たい。
牛の御前を過ぎたあたりで、一挺の町駕籠と行き遇ったが、むろん駕籠の中で縮んでいる前田源五右衛門には気づかぬことである。
牛の御前から三囲《みめぐり》稲荷のあたりにかけて、裕福な商家の寮が多い。その町駕籠は、その一つに用があって来たと思われた。