「旦那様」
襖の外から女中が、そっと呼ぶ。
年寄、佐島は、臥《ふ》せたまま、眼をあけた。顔色も蒼く、痩せている。あれからの気鬱がこのように彼女をやつれさせている。
ここは、商家の寮だが、手を廻して貸してもらっている。それも佐島の才覚ではなく、誰か知らぬが、ちゃんとお膳立てしてくれて、佐島が宿下りを願い出ると、ここに移るように云ってくれたのである。誰が手順よく、そうしてくれたのか、およその察しはつくというものだ。
寮には、主人はいない、全部を佐島のために明けている。ただ、傭い人だけは置いているが、これは佐島が不自由のないようにとの計らいで、贅沢《ぜいたく》なくらい人数が多い。
贅沢といえば、佐島に対する配慮は至れりつくせりで、西丸奥で、タテのものをヨコにもしなかった佐島は、ここでも格別な不便を感じなかったくらいだ。
病人というところから、食べものも栄養のあるものばかりだし、料理人がいちいち調理しているらしく、凝《こ》っている。とにかく、大奥で老中なみの格式と云われた地位の者としての待遇は、心を配られている。
「旦那様」
と襖の外で呼んだ女中も、むろん、佐島がお城から連れて来た者ではなく、この寮の使用人なのだ。
偉いひとだから、ここに来ても、大奥と同じに呼ばねばならないと思っているらしい。
この女中も気の利いた女で、寮の主人には長く奉公していると聞いている。実際、よく心が利くのである。
佐島は、この女中に、心づけの銭を惜しまない。
それは普通の心づけではなく、特別な意味の謝礼がこもっている。
その意味というのは、その女中が、襖をあけて、そっと佐島の傍に来て、ささやいたことでも判った。
「旦那様。お見えでございます」
佐島の顔が眼がさめたようになった。急に起き上るようになり、
「すぐに、これへ」
と息をはずませて云った。
「はい」
立ち去ろうとすると、
「あ、これ」
佐島は呼びとめた。
「鏡台と化粧道具を……」
「はい」
華麗な夜具の枕元に、女中は鏡台と行灯《あんどん》とを運んでくる。
「大急ぎで、髪を直してくりゃれ」
「はい」
女中は、そわそわしている佐島のうしろに廻った。
佐島は、女中に髪を直させ、自分は行灯のあかりで、しきりと顔に化粧して、鏡をのぞきこみ、それで満足したか、女中をふりむいて、
「早う、これへお連れしてたもれ」
と命じた。
「はい」
女中は、手早く、鏡台を片づけ、炬燵の位置を直し、座蒲団を置いて、早足で去る。佐島は縮緬《ちりめん》の寝間着の上に、眼のさめるような緞子《どんす》の襠《うちかけ》を羽織って、前を合せるように重ねて、炬燵の前に端坐する。
もう、息がはずんでいるのは、胸がときめいているからだ。
やがて、廊下に足音がすると、
「ごめん下さいませ」
と女中が襖の外で云う。
それから襖が開くと、女中の顔は陰にかくれ、頭巾を深く被った男が、十徳姿で現れた。
「おう」
佐島は、半分、身体を浮かして、
「日祥どの。寒かったであろうな。早う、これへ」
と、うれしそうに笑いながら手招きする。
男が頭巾をとると、剃ったばかりの青頭の日祥の顔が出た。これは芝居にも出て来そうな佳い男である。
日祥は、佐島の歓迎にも応えず、笑顔も見せないで不機嫌な顔をしている。それが、佳い男ぶりなだけに、よけいにきれいにみえるのである。
「日祥どの、よう来てくれました」
佐島は、坐っていられないで、起ち上ると、まだ黙って立っている日祥の肩に手をかけた。泪の出そうな顔をして、
「わたしは、そなたに遇いとうて、遇いとうて……」
と縋《すが》りつくのを、日祥は、自分の両手で女の手をしずかに外した。
「谷中からここまで、夜風に吹きまくられ、川風にさらされながら、ようようと来ました。まあ、当らせて下され」
日祥は、そのまま自分で、緋縮緬に鹿の子を白く絞った炬燵のかけ蒲団の中に膝を入れた。
「ほんに、そうであろう。さ、もそっと、なかに入って暖まるがよいわ」
佐島は、いそいそと、うしろから坊主の肩に手を当てる。白粉を塗ったばかりだが、笑うと皺が出る。
佐島は、耐りかねたように、そのまま、日祥の肩においた手に力を入れると、男の背に負われるように身体をすべらせた。
「はて」
日祥が眉を寄せた。
「そこをお離れ下さい。いまの女中が、茶を持って参りましょう」
その言葉の通り、ご免下さい、と襖のかげで蚊の鳴くような女中の声がした。
女中は、両人の間に茶を置き、遁げるように去った。
それまで、行儀をよくしていた佐島が、急に身体を崩した。
「日祥どの」
日ごろ、他人《ひと》を下に見て、権高なものの云い方をするこの女が、小娘のように甘い声を出したものである。
「そう横ばかり見ていないで、もそっと、わたしの方を向いて下され。影になって可愛いお顔がよく見えませぬ」
ぞろりと襠の裾をひいて這い寄り、
「のう。日祥どの。わたしはどのように、そなたを待ち暮していたか。じっとここにひとりで待っていると、気鬱がよけいに昂じまする」
と身体を斜めにして、日祥の肩にすがろうとした。
「いや」
日祥は、その手をすぐに取るのではなく、
「佐島さまからのお文は、お使いの方より頂きましたが、そう度々、お使いが寺に見えましても、他の僧たちの手前もあり、手前もちと困却いたします」
と、笑顔を見せないで云った。
「ほんにそうであろう」
佐島は気弱にうなずいた。
「わたしも、それは考えぬではなかったが、あまりにそなたが来てくれぬ故、心の堰《せき》が止めかねて、つい、使いを何度も出すようになりました。そなたの迷惑は、重々承知だが、わたしの心も察して下され」
「佐島さまは、あまりに性急でございます。手前は、朝夕、勤行《ごんぎよう》のある身、そうそう思うように、ここまで忍んでは来られませぬ」
「それは重々察していると云っているではないか」
佐島は、日祥の手をとって、自分の両手の中に揉み込むようにした。
「それを思えばこそ、わたしの辛さも海山です。折角、こうしてお城を宿下りし、この家に寝起きするのもそなたに自由に会える愉しみがあればこそじゃ。それも、わたしの気儘《きまま》ばかりを押しつけてはいぬ。我慢に我慢を重ねてのことじゃ。今夜、そなたが来たのも、使いを一昨日から五度も出した揚句ではないか。わたしは狂いそうなのをおし鎮めて、そなたを待ちこがれている」
佐島は、そのまま、身体を男の膝の上にあずけた。折角羽織った襠も、肩が脱げ、寝間着が露《あら》わになった。
日祥は、まだ、眼を横にやっている。女の顔が下から真正面にのぞき上げるのを、わざと避けているようだった。
佐島は、じっと男の顔を見たが、
「日祥どの!」
と急に高い声を出して、身体をふいに放した。
日祥どの、と不意に甲高い声を出して、身体をはなした佐島は、怕《こわ》い眼をして美男の坊主の顔を凝視した。
「そなたは、近ごろ、様子が変ったなア?」
声を慄わせ、唇の端を曲げた。
「また、そのようなことを……」
日祥は落ちついて云った。
「……手前は一向に心変りはしませぬが。何度も云う通り、なにせ、佐島さまの仰せのようになっておりますと、仏の勤めもおろそかになり、上人《しようにん》様に叱られます」
「嘘じゃ」
と佐島は叫んだ。
「真実、それで、ここに来られぬのか、それともそなたの心変りで足が遠のくのか、わたしに見分けがつかぬと思いやるか?」
日祥が口を尖らせて何か云いかけると、
「えい、黙るがよい!」
佐島は狂ったように顔を振った。
「そなたが、どのように、わたしを口先でごまかそうと思うても無駄じゃ。わたしには、そなたの心が、とうから読めている。わたしは欺《だま》されたのじゃ。えい、口惜しい!」
佐島は日祥に手をかけると、強い力で振った。日祥は、尻もちをついて引っくり返りそうになった。
「これは、無体な」
手を宙に泳がせてようやく坐り直し、
「佐島さま、落ちつきなされ」
と云うと、佐島は二度目の攻撃をして、日祥の眼や、唇をめちゃめちゃに手で捻《つね》った。
「えい、この眼が女をだましたのじゃ、この口が女をたぶらかしたのじゃ。この女殺しめ」
組みつかれて、日祥は仰向けに傾き、佐島の手の下から顔を振って苦悶した。
「こ、これ、お、おやめなされ」
顔中を掻きまわされて、日祥は真赧《まつか》になり、両手を突張って防禦した。
「日祥どの、今宵こそは許しませぬぞ。そなたも、今夜、ここへ誘い出されたが因果じゃ。覚悟するがよい」
佐島に、眦《まなじり》を吊り上げて睨みつけられ、日祥の最初のとり澄すましは崩壊した。
彼は、困惑と恐怖とをまぜた表情で、
「ま、ま、佐島さま、落ちついて……」
と両手で宙を撫でるようにして、恐ろしさ半分の笑顔を無理に浮べた。
「何を申す」
佐島は髪を振り乱して、日祥を見据えた。
「いまさら、その口車には乗らぬぞ。そなたの心変りは、とうから気づいていたのじゃ。云いにくければ、そのわけを申してやろうか?」
「いや……」
「えい、よけいなこと云わずと聞きなされ。そなたはな、……そなたはな、あの登美に心を移しているのじゃ。それ以来、わたしから逃げようとしている!」
登美に心が移って、わたしから逃げようとしている、という佐島の鋭い言葉は、日祥の胸に刺さったらしい。それが嘘でないだけに、日祥は、言い訳の言葉を出すよりも先に、顔色が変った。
日祥が、唇をもぐもぐさせると、
「ほ、ほ。口が開くまい」
佐島は吊り上った眼で、坊主を冷笑した。
「わたしの眼に狂いはなかろう? そこは永年、大奥にお仕えして女どもを使ってきたわたしじゃ、そなたぐらいの人間の心が読めいでどうする?」
「しかし……」
「日祥どの。言い訳すればするほどボロが出る。やめなされ」
「………」
「それよりも、そなたが想いをかけている肝心の登美のことじゃが、そなたは登美が近ごろ何故に寺詣りせぬか訝《いぶか》しく思っているであろうな?」
「登美どのは、ご病気でお宿下りとか……」
日祥が云いかけると、佐島は、けたたましく嗤《わら》った。
「宿下りは、宿下りでも……」
佐島は、日祥をじっと見て、
「……あの世への宿下りじゃ」
と瞳を据えて吐いた。
「えっ」
日祥は、跳び上るほど仰天して、
「そ、それは、佐島さま、本当でございますか?」
と眼をいっぱいに見開いた。
「それ、登美のこととなると、そのように顔色を変える。えい、小憎い奴め」
佐島が、また、とびかかろうとしたので、日祥はあわてて座を滑り、
「それは迷惑なお疑い。手前は、ただ、寺で顔見知りの登美どのが、病気で亡くなられたのなら、せ、せめて回向《えこう》を致さずばと……」
「ふん、せいぜい可愛い女子《おなご》の回向をしてやるがよいわ」
佐島は、あざ笑った。
「だがのう、登美は病気で死んだのではないぞ」
彼女は日祥を憎々しげに見て、笑いを消した。
「病気ではないと仰せられますと?」
日祥は、おそれるように訊いた。
「登美はのう」
佐島は、唇を噛んでから云った。
「わたしにとって憎い女。可愛いそなたの心を奪った女。……わたしはそなたに生命《いのち》がけで惚れているのじゃ。わたしの生涯で、そなたがたった一人の男。……その男を奪った女も、わたしは生命をかけて憎みまする」
「えっ、それでは?」
日祥が恐怖の眼をむいた。
「そうじゃ、登美はわたしが手にかけた」
佐島は、怪鳥《けちよう》のような声を出した。
塀から、跳び降りて、新之助は庭に立ったまま耳を澄ませた。
どこからも声が聞えず、足音もしない。
塀を跳び降りたとき、横に枝を出した樹がかなり騒いだのだが、誰も気づかぬらしい。暗い植込みは、闇の中にもとのように沈んだ。
持田源兵衛から聞いた、年寄佐島の保養先はこの家である。昼間、一度、前を通ってみて、寮の持主の名前も近くの家で確かめたし、地形も見定めて来たのである。
そのとき、使いに行くらしい小女《こおんな》が寮から出て来たので、新之助は、
「この家に、身分のあるお城づとめのお女中が逗留《とうりゆう》されているそうだが、そうかね?」
と訊いた。
小女は、新之助の顔を見て、
「さあ、わたしには……」
と、返事をもじもじさせていたので、新之助は素早く懐《ふところ》から小銭《こぜに》を出して握らせた。
「どうだね、そういうひとが居るだろう?」
と訊くと、小女は躊《ためら》いながらも、こっくりとうなずいた。
「わしは、その方と、ちょっと知り合いなのだ。あとで伺うつもりだが、お部屋はどの辺かね?」
新之助は微笑して問うた。
「……奥の離れでございます」
小女は、低い声でうつむいて答えた。
「離れというと、どの辺りになる?」
「はい。およそ、あの辺になります」
小女は、赧《あか》い顔をし、指をあげて教えた。
塀を廻らしているこの家は、裏が一帯の田圃になっていた。新之助が、小女と別れて、遊びに来たように、ぶらぶらしながら、観察すると、裏の木戸がしっかりしている割合に、塀が低い。寮だし、あまり外からの用心を考えていないようだった。
塀から侵入すると決めて、今夜それを実行したのだが、森閑と鎮まっていて、誰も気づかない。
小女の云う離れに眼を遣って、新之助は暗い足もとを注意しながら歩いた。
小さいが、泉水もあり、庭石も多く、石灯籠などが立っている。
新之助は、足音を忍ばせた。
離れは、さらに竹垣で囲んである。これは厄介だったが、丁度、松の枝が都合のいいところに延びているので、それにつかまって、竹垣を越すことが出来た。
離れは、母屋から別れている。
新之助が、表戸に手をかけてみると、意外なことにすぐに一寸ばかり動いた。客でもあるのか、なかからは話し声が聞えてきた。
それから、音がせぬように身体を入れるだけの隙間をつくればよいのである。
その時、突然、女の大きな甲高い声が聞えたので、新之助は自分が発見されたのかと思った。
「日祥どの、登美はわたしが手にかけたぞ。そなたの可愛い登美をな」
佐島は、蒼凄《あおすご》んだ顔に薄い笑みを泛べた。
「そ、そりゃ……」
日祥は、眼を宙に見開いて、
「嘘でございましょう? ま、まさか……」
口ごもりながら、すこし後退《あとずさ》った。
「いや、め、滅多なことを申されますな。たとえ戯れでも、そのようなことを口に出されますと、誰の耳に入るやもしれませぬ」
「ほほ、嘘と思うか?」
佐島は、男の顔から眼を放たずに冷笑した。
「ほかの女子《おなご》が云うのではない。この、年寄佐島が申すのじゃ。|てんごう《ヽヽヽヽ》は申さぬ。……そなたは、わたしを甘く見くびっている」
「………」
「日祥どの。そのように疑うなら、証拠を見せて進ぜようか?」
「えっ」
日祥は、佐島の常人とは思えぬ表情から、指先まで慄わした。
「待っていや」
佐島は身体の向きを変えると、厚い褥《しとね》の下に手を入れた。その手が蒲団の下から出たとき、袋に入った懐剣が握られていた。
日祥の眼は、怖ろしそうに、それに吸いつけられている。視線を外そうとしても、何かの力で縛りつけられたように自由にならなかった。
佐島は、日祥の正面にぴたりと向った。
「ようく、見てたも。これじゃ」
佐島は日祥の顔を見詰めながら、懐剣の袋の紐を解いた。眼がぎらぎら光っている。
日祥が息を呑んでいると、佐島はゆっくりと手を動かして、刀を錦の袋から抜き出した。刀身は鞘も無く、布で捲《ま》かれてあった。佐島はその布も解いた。行灯の明りに無気味に光るものが現れた。
「さ、佐島さま……」
「ほれ、そう怖《こわ》がらずと、ようく見なされ、これじゃ。そなたの可愛い登美の生命を絶ったのはな。ふふ、まだ、登美の血がここに付いているわ!」
佐島が、懐剣の刃を、日祥の眼の前に突きつけた。
「う、うう……」
日祥は咽喉から異様な声を洩らした。刀身の先から、柄《つか》まで、どす黒い斑《ふ》がいっぱいに粘り付いている。
「日祥どの。これが登美の血じゃ。そなたが可愛がった女の血じゃ。それ、舐《な》め廻してみるがよいわ!」
佐島が日祥の眼の前に近づけたので、日祥はうしろに倒れんばかりになった。
「これ、舐めぬか。そなたに舐めさせようと思い、わたしは毎晩、身体を横《よこた》える褥の下に敷いて寝ていたのじゃ」
日祥がにわかに匍って遁《に》げようとしたので、
「えい、この薄情者め!」
佐島は叫ぶと、日祥のうしろ首に、刀身をぴたりとつけた。
うしろ首筋に、血糊のついた懐剣をぴたりとつけられて、日祥は肝を消した。逃げることもできず、四つん匍《ば》いのまま動けずにいる。
「これ、そこから一寸でも逃げてみや」
髪をふり乱し、襠も脱いだままの佐島は、刀身をへらのように日祥の青頭に密着させ、上ずった声で云った。
「この切先が突き刺さるものと覚悟するがよい」
日祥は五体を震わしている。女は逆上しているから、本当にやりかねないのだ。
「さ、佐島さま……」
日祥は舌を吊った。
「ど、どうか、そ、そのような、ら、乱暴はおやめ下され……」
「ふう」
佐島は熱い息を吐いて、
「そなたには、これくらいにせぬと性が入らぬ。のう、そのままで、わたしの云うことをよく聞くがよい」
「………」
「そなたの想うていた登美の最期を聴かせてやる。登美はのう……」
佐島は熱にうかされたように云い出した。
「西丸大奥のお乗物部屋で息をひき取った。苦しい最期であったぞ。男どもの手で、縄をかけられ、口を塞《ふさ》がれ、乗物の中に坐らせられて……」
どこかで、ごとりと物音がした。佐島は、はっとなって黙り、凄い眼つきであたりを窺《うかが》った。が、何ごとも無く、音もそれきりだったので、四つん匍いになっている日祥に眼を戻して続けた。
「そのような有様ゆえ、身動きすることが出来ぬ。少々の声を洩《も》らしても、外には聞えぬ。折柄、大御所さま御不例|平癒《へいゆ》の祈祷中ゆえ、長局ではみなが大声で経文を唱えていた。誰も、お乗物部屋で何が起っているか気がつかぬ」
日祥は背中を震わしている。
「その登美を、わたしは、この懐剣で突き刺してやった。或るお方より頼まれてしたことだが、わたしには別の恨みがある。登美はそなたの心を奪った女、この世に生きて貰いたくない女じゃ。……わたしは、あの女の顔が憎い、あの女の若さが憎い!」
佐島は、眼の前に登美が生きているように眦《まなじり》を吊り上げた。
「登美は、苦しんで死んだ。わたしの顔を睨《ね》めつけ、赤い血を白い身体から流して死んだ。そなたが抱いてやった身体を、わたしは紙を裂くように、この刀で切った……」
日祥は、手が萎《な》えたか、そのまま畳の上に突伏した。
「日祥どの。どうじゃ?」
佐島は気持よさそうに、上から見下ろして云った。
「そなた、登美の血のついたこの刀でわたしに殺され、この場であと追い心中をせぬか?……」
頸《くび》の根を、佐島の血染めの刀身で、ぴたりと押えつけられている日祥は、動くことができず、へたばったまま汗を流している。
さらに、佐島から、登美の後追い心中をせよといって刃に力を入れられたから、今にも突き刺されるような気がして、彼は動顛して悲鳴をあげた。
「さ、さ、佐島さま」
日祥は、腹這いのまま、手を合せた。
「た、たすけて下され」
「ほう、助けよ、とは生命が惜しいかえ?」
佐島は燃えるような眼で、日祥の蛙のような姿を見つめる。
「い、生命は惜しゅうはございませぬ。佐島さまのお手にかかれば本望でございますが……」
日祥は、必死に云い逃れを云った。
「かような濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》で死ぬのは、ざ、残念でございます」
「ふん、濡れ衣ではあるまい。わたしの眼に狂いはない。そなたの心に訊いてみよ」
「弥勒菩薩《みろくぼさつ》、導首《どうしゆ》菩薩、華童《げどう》菩薩、陀羅尼自在《だらにじざい》王菩薩、観世音菩薩、大勢至《たいせいし》菩薩その他|菩薩摩訶薩《ぼさつまかさつ》八万体に誓いまして、手前は登美どのに心を動かしたことはございませぬ」
日祥は刃の下で、咽喉に唾をのみ込みながら弁じ立てた。
佐島は妖《あや》しげな眼で、それを聴いていた。
「手前、真実、心に在るのは佐島さまだけでござります。……正直、申しますと、いつぞや登美さまに云い寄られ、手前甚だ迷惑したことがございます。それからは、寺参《じさん》の度にあやしげな素振りをされましたが、手前、とんと心を向けたことがござりませぬ。佐島さまの眼には、それがどう映りましたことやら、思いもよらぬ濡れ衣を蒙りまして、手前、悲しゅうござります」
日祥は、首すじに据えられた佐島の刀身が軽くなったような気がしたので、懸命に弁じ立てた。
「日祥どの」
佐島は、眼をきらきらさせたが、さっきの眼の光とは違ったものになっていた。
「それは……真実《まこと》かえ?」
と男の伏せた顔を、上から覗き込む。
「何もって偽りを……今も、諸王諸菩薩にお誓いしたばかりでござります。これに背《そむ》きましたら、手前、仏罰のほどが怖ろしゅうございます」
佐島は、しばらく、黙っていた。すると彼女の顔がくしゃくしゃに歪んできた。
日祥の首に当てていた懐剣を、離すと、ぱらりとそれを隅へ放った。
佐島は、やにわに日祥の背中に力いっぱい抱きついた。
「に、日祥どの……か、堪忍してたも!」
佐島はしがみついて、声を上げて泣き出した。
佐島は、日祥の背中に重なるように抱きついていたが、日祥の頬に手を当てて、
「日祥どの。こちらを向いてくだされ」
と顔を捻じ向けさせた。
日祥が顔を廻すと、佐島は、その頬に自分の頬を擦《こす》りつけた。泪で冷たくなっている。
が、吐く息は熱く、
「日祥どの。くどいようだが、そなたが、いま、云ったのは本心であろうなア?」
と、少し甘えるような調子になっていた。
人心地に返った日祥は、女の逆上があと戻りしないように機嫌をとった。
「なんで、手前が偽りを申しましょう。手前が佐島さまを慕う気持は、前と少しも変ってはおりませぬ。それを……あなたさまが、よけいな気の廻し方をされるのでございます」
「かんにんしてたも」
佐島は、何度も日祥の頬に唇を吸いつけた。
「それというのも、そなたが愛《いと》しいからじゃ。そなたを放しとうないから、嫉妬の炎《ほむら》も出る。わたしは若うない。気があせっている。つい、そなたが若い者に心を移して、わたしに情《つれ》のうしているのではないかと、いらいらしてくるのじゃ」
佐島は、美男の若い情人をもった年増女の焦燥を告白した。
「はて、手前には左様な浮《うわ》ついた心はさらさらございませぬ。大奥にお仕えなさる身分の高い年寄佐島さまのご寵愛を蒙《こうむ》っているだけでも、身の冥加《みようが》に尽きまする」
「そんなら、わたしを大事に思ってくれるかえ?」
「勿体ない……」
「わたしを愛《いと》しく想うてくれるのじゃな?」
「憚《はばか》りながら、寝ても醒めても。……思うように、お会い出来ぬ身なれば、よけいに、心がせかれて燃え上り、勿体のうございますが、読経《どきよう》の間にも佐島さまのお顔が眼の前に現れ、狂いそうになりまする」
「日祥どの。そなたは口がうまいが、そりゃ真実であろうな?」
日祥は、佐島の眼がまた妖しく光ったように思えたので、あわてて、
「し、し、真実、心からお慕いしておりまする」
「そうかえ」
佐島は、感情が極まったように、日祥を抱きしめた。
「わたしは、そなたから離れぬゆえ、覚悟するがよい。そなたが遁げても、どこまでも追ってゆく。よいか、日祥どの!」
「………」
「わたしは人を殺している。登美を殺しているのじゃ。この上、怕《こわ》いものがあろうか。そなたがわたしを欺したと知ったら、登美と同じように、わたしに殺されると思うがよい」
新之助は、足音を忍ばせて、一旦、外に出た。侵入したときに、要領が分ったので、今度は、楽に寮の塀を乗り越えることができた。
年寄佐島と、日祥と呼ばれている坊主との密会の場面に思いがけなく遭遇したが、図《はか》らずも、佐島の口から縫殺しの下手人の告白を聴かされた。
こういうかたちで成功しようとは思わなかったし、それだけ余計な手間をかけないで済んだというものである。最初、この家に来るまでは、佐島に白状させる自信が、実のところあまり無かったのだ。
あれは、当人の実際の声なのだ。情人の坊主をだいぶ威《おど》かしていたようだが、嫉妬のあまり本当のことをぶち撒《ま》けた上、縫を刺した凶器まで見せている。偶然だったが、こんな幸運はなかった。やはり、お縫さんが手引きしてくれたのかな、と思ったくらいである。
新之助は、その場にとび出して佐島を取り押えようと思ったが、あとの処置を考えて、一度外に出た。
佐島は、下手人でもあり、大切な生き証人でもある。その身柄をこっちに引取る必要があった。これさえ出来たら、敵方の脅威になることは云うまでもない。
女だから、厄介なのだ。新之助が外に出たのは、佐島を取り押えたのちの護送の方法を先きにつけておくためだった。駕籠を見つけて、塀の外に待たせ、佐島を連れ出したら、いつでも駕籠に乗せて遁《に》げられるように用意をしておきたい。
幸運というものは、相ついで起る。新之助が辻駕籠を遠くまで探しに行くまでもなく、塀の暗いところに、莨《たばこ》の火が、赤く見えたものだ。近づくと、これが駕籠屋で、二人の駕籠かきが、うずくまって休んでいた。
「駕籠屋だね?」
新之助は、小さく声をかけた。
「へい」
煙管《きせる》を地面に叩いて、一人が返事した。
「今から、すぐに頼みたいが」
新之助が云うと、別の一人が、
「折角でございますが」
と答えた。
「わっちらは、ここでお客さまのお帰りを待っておりますので」
「そりゃア……」
困った、と新之助は思った。客待ちしているとは知らなかったが、この辺はへんぴな田舎だし、何処まで行けば駕籠屋があるのか分らない。
「何とかならないかね?」
と、自分でも無理なことを云った。
「へえ、なにしろ、お約束でして……」
むろん、駕籠屋は拒絶した。
ふと、新之助は、この駕籠屋が誰を待っているのか、見当がついた。
新之助は駕籠屋に云った。
「その待っている客は、谷中から乗せて来たのであろう?」
これは当った。
「旦那、よく御存じで?」
と、駕籠屋が答えたのである。
「ご存じも何も」
新之助は笑って、
「あいつとは友達だ」
「へっ?」
「此処へは、よくやってくるのかえ?」
と小指を出して見せた。
「へ、えへへへ」
駕籠屋は笑っている。
「そうだろう、当節は、坊主の方が持てるでな。駕籠屋、イロをつくるのだったら、坊主になることだ」
「へえ、でも、日祥さまのようには。……おっと、いけねえ、つい、口が滑《すべ》った」
「なに、おれになら構わぬ。いまも、その日祥と話したところだ」
「すると、旦那もこの家に?」
「おれのは、そんな粋筋《いきすじ》ではない。野暮《やぼ》用だ。……ところで、駕籠屋、日祥は帰りが遅くなるぞ」
「すぐに、お戻りになるという約束ですが」
駕籠屋は困ったような顔をした。
「お前も察しが悪いな。いま、揉《も》めごとの最中だ。日祥め、可哀想に弱り果てている。あれじゃ、ちっとやそっとでは出て来られまい。実は、おれも仲裁に入ったが、女が逆上《のぼ》せて手がつけられぬ」
「そいつア弱りましたな」
駕籠屋は顔を見合せていた。
「わっちらは、ここでいい加減冷えて、風邪をひきそうでございます」
「そうか。そいつは気の毒なと云いたいが、丁度都合がいい。どうだえ、日祥とは話をつけるが、これから麻布の方へやってくれぬか? 酒代《さかて》はうんとはずんでやる」
「へえ、そりゃア、願ったりでございますが、あちらのお寺さまに悪いようで……」
「話は、おれがつけてくると云っている」
「へえ、それさえ決まれば結構でございます」
「それでは頼むぞ。いや、おれが乗るのではない。女だ」
「へえ?」
「日祥の対手の女だ。狂人《きちがい》のように逆上しているので少し頭を冷やしに別な屋敷で保養させようと思うのだ。だから、日祥も喜ぶ」
「左様でございますか」
駕籠屋は、わけの分らぬ顔をしていた。
「ほれ、酒代は前渡しだ」
新之助は、小粒を一つ投げ出した。
「お、こんなに頂いちゃア勿体ねえ」
「待っていてくれ」
新之助は、また、寮の中へ引返した。
新之助が、再び離れの外に戻ったときに、俄かに胸騒ぎがした。
いままでの空気とは違うのである。臭いが違う。たしかに何かが違う。
森閑と静まっていることに変りはなかったが、いままで、木の匂いや、葉の匂いがしていたものだが、今度は、それよりも、もっと動物の持つ異臭が漂っていた。
はっとしたのは、離れの入口の戸がいっぱいに開いていることだった。内部《なか》の行灯《あんどん》の明りが、そのままの空間でまる見えだった。
この戸は、新之助が苦労して、音立てぬように、わずかばかり開いておいたのだが、それがさらに、力いっぱいという恰好で開け放たれている。
臭いがそこから洩れていた。
それと、笛を吹くような音がかすかにしている。
新之助が奥の間にとび込んだとき、座敷は血の海だった。畳から、佐島が寝ていた蒲団にかけて、赤い色がべったりと塗ってある。
新之助は息を呑んで、この場を見つめた。
日祥が、匍《は》い出した恰好で、両手を畳に伸ばして長くなっている。その、うしろ頭から、脇腹にかけて、血が、まだ、酒樽の栓を抜いたようにこぼれていた。
佐島は、日祥の伸びた脚を片手で掴まえるように握って、これも突伏していた。縮緬《ちりめん》の白い寝間着が、大柄の染め分けのように赤い色を散らしていた。
崩れた髪が広がっているのを眼にするだけで、佐島の顔は畳についているので判らない。ただ、右手は肘を曲げて、懐剣を咽喉のところへ敷いていた。かすかな笛の音色は、切れた頸の血筋が穴をあけて鳴っているのだった。
わずかな間の出来ごとだった。新之助が外に出て、駕籠屋と交渉している間なのだ。
その両人の姿から考えて、佐島が発作的に日祥を刺し、自分も咽喉を抉《えぐ》った、と容易に想像できる。日祥が愕いて、匍《は》って逃げようとしたところを、佐島が追って、脇腹などを切ったに違いない。血の臭いが座敷に充満していた。畳をむしった日祥の指先は、まだ生きているように、痙攣《けいれん》していた。
新之助は、入口の方へ戻り、垣を越した。寒い夜の風が額に当ってくる。
急な喪失感が新之助の心の全体だった。
──生き証人は死んだ。
縫の下手人という復讐《ふくしゆう》よりも、敵の謀略を知る生き証人として、佐島を生捕りにしたかったのだ。持田源兵衛から佐島の保養先を聴き出したとき、最初に浮んだのが、この計画だったのである。
それも、瞬時の油断で潰れてしまった。
塀の外に下りて歩くと、駕籠屋が声をかけて起ち上った。
「都合で、おれが乗ることになった」
新之助は、ぼそりと云った。