「死んだか」
新之助が帰って、又左衛門に報告したとき、叔父は腕を組んで一言、吐いた。
「惜しいことをした──」
無論、死んだ年寄佐島を惜しんだ訳ではない。縫を殺した犯人が自害したことであり、敵方の陰謀を知る生きた証人を失ったことを嗟嘆《さたん》したのである。
縫を殺したのは、佐島であろうと見当がついていたから、それがはっきりしても、さほど意外ではなかったが、当人の告白をこっちの手でさせて、訴えたかったのである。
「しかし」
新之助は、又左衛門に云った。
「まだ、一|縷《る》の望みがございましょう」
「何だな?」
又左衛門は顔をあげた。
「佐島が日祥と無理心中をしたことでございます。西丸奥女中と法華坊主の相対死《あいたいじに》、これだけでも、西丸大奥の不行跡が明るみに出ます。ここを手がかりとして……」
「駄目じゃ」
又左衛門は、遮って首を振った。
「駄目とは?」
「第一に、あの寮は、石翁がひいきにしている商人の家じゃ。両人の死体は早朝には発見されるだろう。そのまま、役人のもとに届け出れば、こっちのものだが、そうはすまい。注進は、先ず石翁のもとに行く。それから先、うやむやにするくらい朝めし前じゃ」
「………」
「佐島は病気保養のところ、養生叶わず病死、日祥は急死、死場所はそれぞれ別で、関係無し、というところでケリをつける」
新之助は黙った。
「惜しかった」
と又左衛門が次に云ったのは、新之助の処置だった。
「おれだったら、その場で騒ぎ立ててやる。近所の弥次馬を、夜中でも集めるのだ。さすれば、隠しようもない。否応《いやおう》なしに、これは世間の明るみに出る。新之助、そちに似合わず、ちと抜かったな」
「気がつきませんでした」
新之助は云ったが、叔父の方法にも、少々疑念がある。石翁の勢力は奉行所にも及んでいるから、それがどこまで成功するか。
「淡路守殿がおられたらなア」
と又左衛門は吐息を吐いた。
「これを逃《のが》しはなさらぬ。びしびし容赦なくやられるに違いない。いまの寺社では駄目じゃ」
寺社奉行のあとは、牧野備後守|忠精《ただきよ》が襲職していた。おとなしい人物で、脇坂ほどの勇気は、もとより無い。
「新之助、ここらで、おれたちも考えねばなるまい」
麻布の島田又左衛門の屋敷に、未知の訪問客があったのは、その翌日である。
駕籠をわざと門の前に下ろさせなかったのは、町人としての遠慮で、玄関に立って案内を乞うのも腰が低かった。
立派な風采で、五十を越していると見られるが、人物も貫禄がついていた。町人でなく、武士だったら、千石以上の大身に直して見てもおかしくはない。
「殿様にお目にかからせて頂きとうございます」
取次に出た吾平にも丁重なのだ。
「どちらさまで?」
吾平も膝頭を揃えて訊くと、
「南鍋町の風月堂がお目にかかりに伺いました、とお取次を願います」
と頭を低くした。
吾平が奥に行って、このことを又左衛門に云うと、
「風月堂か!」
又左衛門は眼を瞠《みは》った。瞬間に、顔色まで輝いたように吾平には思えた。
「あちらへお通ししてくれ」
又左衛門が云った。客間を指定したのも、町人を迎えるにしては丁寧すぎた。
風月堂というのは江戸で有名な菓子屋だとしか吾平には知識がない。その菓子屋が何でここに訪ねて来たか、吾平には判断がつかなかった。
おかしなことに、又左衛門が、着物まで着替えて、客の待っている座敷へ出て行ったことである。
「先生」
吾平は離れの医者のところへ伺いに行った。
良庵はむずかしそうな医学の本をよんでいたが、
「なに、風月堂が来たと?」
と、これも本を落したほど、眼をまるくした。
「どういう人が来た?」
と訊く。
「へえ、とても押し出しの立派な五十恰好の男ですよ」
吾平は印象を云った。
「そりゃア、風月堂の主人に違いない。……そうか、来たか」
良庵は、ふんふんと鼻から息を鳴らしてうなずいた。
「先生、殿さまと、菓子屋とは、どういうご縁なんで?」
「縁も何も無い。菓子屋が来たのだ。ここの親玉に、菓子の注文を取りに現れたのだろう」
「へ?」
「お前も、これから風月堂の菓子がふんだんに食えるぞ」
良庵は笑っていた。
あくる日、島田又左衛門は、駕籠の迎えを受けて、屋敷を出た。
又左衛門も、この日は衣服を改めている。
行先は、下谷にある風月堂の寮ということだったが、これはすべて先方に任せきりであった。
駕籠も、通しではなく、下谷に着くまでに、途中で三回は乗り替えた。その都度、打ち合せができているとみえて、新しい駕籠が目立たないように迎えに出ている。
迎えに来た人間は、風月堂の使用人らしいが、
「どうぞ、これにお移り遊ばして」
とか、
「もう、しばらくのご辛抱でございます」
とか云って、始終、又左衛門に主人の客としての礼を尽している。
麻布から、下谷まではかなりの道中である。一つ駕籠で通せなかったのは、その長い道程にもよったが、どうやら行先をはっきり他人に知らせたくない理由もあるらしい。
下谷にも寮が多い。田圃を眺める場所に、いわゆる杉の生垣の幾曲り、の風景が見られるのである。
その中でも、風月堂主人の寮は、構えも大きいし、数寄《すき》を凝らしている。当時、「菓子司」として有名なのは、日本橋の鈴木越後、同じく金沢丹後、神田|主水《もんど》河岸《がし》の宇都宮、深川の船橋屋などがあるが、風月堂は老舗《しにせ》である。それだけに、主人が保養のためにつくったこの下谷の寮は、近所で目立っていた。
又左衛門の乗った駕籠は、数寄屋風の構えの表口に着く。
「これは、おいでなさいまし」
でっぷり肥った男が、又左衛門に近づいて、丁寧に挨拶した。昨日、屋敷に来た風月堂の主人で嘉左衛門といった。
「ご遠方を……」
「いやいや」
又左衛門は低く云って、
「もう、見えて居られるか?」
と訊いた。
「はい。先刻、ご到着でございました」
嘉左衛門は奥へ案内しながら答えた。
「それは」
又左衛門の顔色が瞬時に昂《たか》ぶったようにみえた。
通されたのは、茶室造りである。手入れの届いた植込みと、庭石とが、これを囲っている。
「しばらく、お待ちの程を……」
嘉左衛門は、又左衛門に断って出て行ったが、ほどなく、部屋の外から、気さくげな足音が聞えてきた。
又左衛門が、向きを変えて、低頭していると、
「いや、そのまま、そのまま」
と磊落《らいらく》に声をかけながらひとりの人物が入って来た。
島田又左衛門が、眼をあげたときに、その人物は気楽に床を背にして坐った。床には、禅家《ぜんけ》の枯れた筆になる一軸が懸っている。
その人物は、粗末な衣服を被《き》ていた。服装からだけみると、どこかの田舎大名の家老ぐらいにしか想像できない。いや、万事、贅沢で、華美になっている今の世では、田舎の小藩の家老といえども、もっと派手好みである。
瘠せて、頬骨の出ている男で、眼が鋭く、顎が尖っている。が、どこかに気品があり、威厳があった。
しかし、知らぬ者が見ては、これが老中、水野越前守忠邦とは予想もつかない。
「遠いところを」
と越前守は、微笑して又左衛門に云った。
「お呼びして申し訳ない。実は、一度は、お手前にお遇《あ》いしたいと思いましてな」
言葉も、対等な調子だし、人なつこいのである。
「恐れ入りましてございます」
又左衛門は平伏した。
「初めて御意を得ますが、手前……」
「いや、島田氏」
越前守が手で抑えた。
「お手前をお呼びしたのは、わたしじゃ。お名乗りになるまでもない。わたしは越前……見知って頂こう」
「恐れ入りました」
「お手前のことは、亡き脇坂淡路守殿から聞いていた。一度、お手前にお会いしたいと思っていたが、つい、機会《おり》が無く……いや、機会といえば、淡路守殿が不慮の急死を遂げられたから、急にお手前に会いたくなったというのが本音じゃ。今までは、間に、淡路守殿が居られたのでな」
「は……」
「淡路殿は、お気の毒であった。あれほどの人物、返す返すも惜しいが、ここでお手前とお遇いする機縁をつくってもらったようなものじゃ。……場所をと考えたが、結局、風月堂の厄介になった。とかく、人目が煩《うるさ》いでな」
水野越前守忠邦と風月堂とは特別な関係だった。忠邦が下情に通じていたというのは、風月堂の報告に負うところが多い。忠邦が風月堂と相識って唇歯《しんし》の間柄になったのは、風月堂の娘を忠邦が家慶に推挙して、その寵妾にしたからだ、という説がある。
「天保の昔、南鍋町に風月堂といへる菓子商ありて、水野越前守、この家の娘を養女として御本丸へ御奉公に出し、十二代公の寵妾と為したり。ゆへに風月堂の主人も水野家に親しく出入りし、その手先と成て世上を物色して密告すること多かりし。奥向のことは、この女に探索させ、下々のことは、風月堂のあるじに偵知せしめし事多かりし」(灯前一睡夢)
老中水野越前守と、風月堂の関係は、世上の一部に知られていて、島田又左衛門もかねてから承知していた。
水野越前守が、風月堂の寮で、島田又左衛門と密《ひそ》かに会っている、という情報を聞いたとき、石翁は顔色には出さなかったが、心では衝撃をうけたものである。
「どれくらい遇っているのか?」
石翁は、その情報を持ってきた加賀藩の用人、前田|采女《うねめ》に訊いた。
「ここ十日の間、三度ほどだと申しておりますが……少々、耳に入るのが遅くなりました」
采女はうつむいて云った。
石翁には恐ろしい者はなかったが、水野越前守忠邦という男だけは気味が悪かった。将軍家慶の信寵を得ているということだけでなく、その人物が、現在の幕閣の誰よりもしっかりしていることだった。
性格は地味な方だ。本を読むのが好きだと聞いているが、そんなことはどっちでもよい。家中の士に勤倹を示して、華美な世俗に染まぬよう、風儀を革《あらた》めたというが、それも問題ではない。怖いのは、越前守が、ひたすら家斉の死を待っている姿勢であった。むろん、これは形の上に現れて見えることではないが、石翁にはこの本丸老中が弓の弦をいっぱいに引いて矢を構えているように見えて仕方がない。その指が矢を飛ばすときはいま、西丸の奥で弱い息を吐きつづけている家斉が、その呼吸をとめた瞬間であろう。
石翁が、たまに遇う越前守は律義で礼儀正しい男である。石翁にも敬意を払って他意ないように見える。が、その精力的な身体の中には、いまに大仕事をしそうな野心がひそんでいるように感じられる。
他人には分るまい、おれには見えるのだ、と石翁は呟いている。
越前守の姿が眼に浮ぶとき、
(いまは仕方がありませんよ。大御所が死んだら、思う存分にやります。それまでは辛抱しているのですよ)
と石翁に、云っているように思える。
石翁には、越前守の若さが恐ろしかった。まだ四十六歳という年齢で、仕事をする男の最盛期である。これは七十すぎの石翁が、どうあせっても手の届かぬことである。
次には、越前守が家慶という次の実権者に密着していることだった。いまの家斉の時代は近いうちに終る。医者も、家斉は、この年が越せるかどうか分らないと側近の者に公言していることだった。
時の権力者に付いている者は、常に|次の《ヽヽ》権力者に付いている者に畏怖《いふ》していなければならぬ。追い落される瞬間を、いつも絶望的に幻想に描く。
若ければ、|現在の《ヽヽヽ》権力者に見きりをつけて、|次の《ヽヽ》権力者に転身する手段もあるが、石翁はあまりに年齢をとり過ぎたし、あまりに家斉に付き過ぎていた。
島田又左衛門を呼んで、水野越前守が何を訊き出そうとしているか、石翁には不安に思われてきた。
すでに、死んだ脇坂淡路守が越前守と気脈を通じ合っていたことを石翁は知っている。越前は淡路を使って大奥粛清をやらせ、大奥政治改革の突撃路を作ろうとしていたのだ。
淡路守のところへ、何かと又左衛門が情報を持ちこんでいた形跡がある。淡路がそれを越前の耳に吹き込む。この三者の関係が、淡路の急死によって、越前と又左衛門の直接のつながりになったらしい。
石翁にとって不安な種が一つある。それは病床の家斉に書かせたお墨附である。将軍|継嗣《けいし》を前田犬千代に定めることの内容だ。家斉が死んだら、間髪を入れず、これを「大御所様ご遺志」として現将軍家慶に押しつけて、有無を云わさずに承認させる計画だ。時間をあけたら、策動する者が必ず出て来るので、家斉の死骸の温《ぬく》もりが未だ冷めないうちに、
「大御所御遺志」
を振りかざす計略だった。生前、実権を家慶にも譲らず、絶対の権力をもった家斉の遺志とあれば、当然、誰も拒否はできない。ただし、これは家斉の死後、極めて短い時間に、疾風のように決定する必要があった。
ただ、恐れるのは、事前に、この計画が敵側に洩れはしないか、という危念である。そうなると、敵の抗議を時間的に封じ込めようとする石翁の計算は崩れるのである。敵側も、充分にその対策を立てるからだ。
石翁は、いつぞや、又左衛門方から発したと思われる女|間諜《かんちよう》の前で、わざと墨附のことを云ったことがある。あのときは、その女の正体を見極める詭計《きけい》として用い、あとで女を殺すつもりだったが、奥村大膳めが、飛んだ色気を出して失敗してしまった。
あのときは、ただ、「大御所様のお墨附」だと吹聴《ふいちよう》しただけで、内容は云ってもいないし、見せたこともない。が、「お墨附」のことは、あの女が又左衛門に報告したに違いない。
又左衛門が、それを淡路守に云い、淡路は水野越前に必ず取りついでいるだろう。
敵側が、その「お墨附」の内容を、どう推測しているか、だ。
果して、越前守が、それを解いているとしたら。──
それから、更に詳しいことを訊くために、又左衛門を呼んでいるとしたら。──
石翁の眼は、家斉の死が近づいていることと共に、前途に不吉な黒雲が湧き上るのを凝視《ぎようし》している。……
「ご隠居さま」
前田采女が、恐れるように近づいてきて、石翁の耳に何かささやいた。
前田采女が、石翁の耳もとに口を寄せて、低声《こごえ》で云うと、隠居の瞳《め》が動いた。
「遅い」
と石翁は云った。
「しかし」
采女が主張した。
「このままにしておく法はありますまい。始末をつけねば……」
「気が済まぬというのか」
「手前の性分として」
采女がうなずいた。
「それをやるなら、もっと早い時期にすべきだったな」
これは石翁が半分は自分の心に云いきかせたような呟き方であった。
「が、そなたが気が済まぬなら、気ままなようになされ」
「ご隠居さまも、いろいろとお含みのあることと存じますが……」
「わしか……」
石翁は、かげのある笑い方をした。
「わしは、自分なりに、好きなことをしたでの。さほどには思わぬが」
好きなことをした、という一語に、石翁が妙な自嘲の響きをもたせたのを、前田采女は気がつかない。
「だが、島田又左衛門と申す奴を」
と、はっきり石翁は名前を云って、
「軽く見過ぎていたのは、ちと手違いであった」
と云った。負けぬ気の、剛気な隠居がそう云ったのである。
「これはご隠居さまにも似合わぬ仰せ」
采女が声を昂《たかぶ》らせ、
「左様なことがあろうとは存じませぬが、それならば、余計に、この際、邪魔者を除いた方が……」
と石翁をのぞいたが、隠居は気の悪い顔をしていた。
「危くはないか?」
「それは、万事、手抜かりなく」
「あまり大きな騒動を起しては困るが」
「心得ております」
「誰をさし向ける? まさか、本郷から人数を押し出すわけではあるまい?」
「その辺のところは、ご安心下さいませ」
采女は呑み込んだように答えた。
「手前、心当りの者がございます」
「………」
「これが、出来る者ばかりでございます。金を遣れば、一も二もなく承知をいたします。それでなくとも、仕官の匂いをちらつかせてやれば、これはもう、死物狂いで働きます」
采女が説明した。
「当世、商人どもが贅沢になって、夢のような暮しをしておりますが、素浪人は相変らず、食うや食わずで生きておりまする」
良庵が、近くにいる新之助のところから、島田又左衛門の邸に戻りかけたのは、夜が更けてからで、提灯を持って、出て、よろめき加減に歩いていた。
退屈なので、新之助のところに出かけて行っては酒を飲む。新之助は、荒物屋の二階を借りて、豊春と一緒に居た。豊春は、昼間は出稽古に歩いている。
新之助との話も息が合うし、豊春のとり持ちもいいので、ここに来ると良庵は、つい、長尻になってしまうのだ。
屋敷町は、日が暮れると、人の歩きが絶えてしまう。それに一間先が見えぬくらい真暗だ。
坂を上って、寺の塀について歩いていると、ぬっと横合から人が出てきたので、良庵はびっくりした。
最初、辻斬りが出たかと思ったくらいだ。覆面をしている。
「待て」
と、良庵のうしろから声をかけた。
「へえ」
良庵が立ち停って、提灯を向けようとすると、
「そのまま」
と命じた。提灯の明りで顔を見られるのが厭なのだ。
「いずれへ行く?」
「はい、すぐそこの……」
と云いかけて、ぐっと言葉をのんだ。島田の屋敷とは、うっかり云えないと思った。
「横町に、急な病人が出来ましたので、参っているところでございます」
「医者か?」
男は、良庵の慈姑頭を見た。
「はい、左様で」
「酔っているな?」
酒の匂いを嗅《か》いだらしかった。良庵はあわてて、
「はい、その、丁度、寝酒を飲んでいるところに、迎えが来ましたので……」
と弁解した。
すると、軒の下から、三人の同じような恰好の影が現れた。それを見て、良庵の横の男が、
「医者が病人を診《み》に行くと云っているが」
と云った。
「どうする?」
三人は覆面の眼をじろじろ良庵に当てていた。良庵は不安で動悸がうった。
「医者なら仕方がないが、やはり通さぬ方がよかろう」
三人のうち一人が云った。
「おい」
と良庵に、
「都合があって、ここは暫らく通行出来ぬ。半刻、あとに出直せ」
と命じた。
「どういうことだろう?」
息せき切って駆け戻った良庵の報らせを聞いて、島田新之助は小首を傾げた。
荒物屋の二階で、襖を半開きにして新之助が出てきたのだ。今まで、良庵が新之助と飲んでいた座敷は、行灯《あんどん》に衣がかかり薄暗くなっているが、その薄い明りの中に、艶《なまめ》いた蒲団がちらりと外から見えた。
「その連中が、覆面をしていたって?」
新之助は、考えるような眼差しで訊いた。
「うむ。物騒な男ばかりでな。ひどく殺気立っていた」
良庵は寒そうな色に変った唇を動かして云った。酔いも醒めている。
「半刻あとに出直せと云ったんだな?」
新之助の頭に泛んでいるのは、むろん、叔父の屋敷がそこに在ることだった。
覆面の人数は四、五人居たという。良庵が見たのが、それくらいで、ほかにもっと居るかもしれない。半刻の間に、何かを決行して、ひき揚げようというつもりなら……
脇坂淡路守の例もあるし、敵側が仕掛けて来たと考えるほかはなかった。充分、納得できるし、むしろ遅すぎたくらいである。
「刀」
と、新之助が襖の内へ云った。
「行って下さるか?」
良庵が新之助を見上げた。
「叔父貴だからの。様子だけは見届けずばなるまい」
「そりゃ、その通りだ」
豊春が襖の間から顔をのぞかせ、刀を袂に抱いてさし出した。寝間着の上に、急いでほかのものを羽織っていた。
「何か危いことが?」
豊春は不安な顔で、新之助と良庵とを見くらべた。
「妙な連中が叔父貴の屋敷の近所をうろついているそうな。ちょいと見て来る」
新之助は、刀を豊春から取って腰に差した。
「気をつけて」
と豊春は新之助に云ったが、胸を押えて、
「何だか、このへんがどきどきするが、新さま、大事ないかえ?」
と心配そうに新之助のうしろに立った。
「なに、ご亭主の腕なら大丈夫。ほんの半刻の辛抱、寂しかろうが床を温めて待っていなされ」
良庵が豊春に云って、先に梯子段を降りかけたが、
「医者のわしがついている。こりゃ何よりの後楯じゃ。安心なされ」
と、うしろを向いて云った。
新之助が笑って、
「熱燗《あつかん》つけて待っていてくれ」
と豊春に云った。
表へ出ると、新之助は裾をからげ、刀を掴んで駆け出した。良庵がそのあとから提灯をかざし、よたよたしながら随《したが》った。
叔父の屋敷の前まで来たとき、新之助が知ったのは、すでに屋敷の内で騒動がはじまっていることだった。微《かす》かだが、物音が聞えるし、塀の内側の空気が違うのである。
勝手は分っている。
うしろからついて来た良庵に、提灯の灯を消させ、
「この辺で待っていて貰いたい」
と隣の塀の陰に匿れてもらった。
「わしが呼ぶまで、出ないで欲しい」
「そら殺生《せつしよう》じゃ。わしも医者でな。あんたが怪我でもしたら、手当てに飛び出さなくちゃならねえ。豊春さんと約束じゃ」
良庵は、あとで様子を見に出る、と云った。
新之助が裏木戸にかかると、影のようにひとりの男が立っていた。
「おっ」
先方では、足音もしないで、急に現れた人の姿に、ぎょっとして身体をひいたとき、新之助はとび込んで脾腹《ひばら》を衝いた。
詰ったような声を出して、見張りの男は仆《たお》れた。
裏口に二人ほど男がいたが、地響きに、何だ、といった不審の恰好で、外を見すかすように出てきたが、これも新之助を発見して、あっと声を出して、すぐに飛び退《すざ》った。
「だ、誰だ?」
「この家《や》の者だ。名前を訊こう」
一人が、ものも云わないで横から斬り込んでくるのを、抜いた刀で、相手のそれを新之助は刎《は》ね上げた。
「あ」
男は刀を手から放す。身体の揺れたところを、新之助は刀で叩いた。男は異様な声を出して地面に這いつくばった。
残った男が狼狽《ろうばい》して、
「出会え、曲者だ!」
と奥へ叫んだ。
「曲者はそっちだ、間違えるな」
新之助が刀を振り上げると、男は家の内に走り込んだ。
「なんだ、なんだ」
二、三人連れの覆面が出て来るのと、新之助は真正面に出遇った。向うでは、一瞬、立ちすくんだが、すぐに散って刀を構えた。
奥の間では、畳を踏む荒い音、物の倒れる音にまじって、刀を打ち合う音が聴えていた。
「叔父上」
新之助は奥に叫んだ。
「新之助が参りましたぞ。ただ今、そちらへ」
「おう」
と云う声は、遠くからの又左衛門の応答だった。
「ははあ、貴様がこの家の甥か?」
壁際に立って睨んでいる男が云った。暗いので、新之助の体格を見極めるようにしていた。返事をしないでいると、
「だあ」
と一人が身体を突進させてきた。
横から、いきなり突進してきた男の刀を、新之助は受けると同時に刎ね上げた。これが強い力だったので、対手は手をしびれさせて落したが、肩に新之助の刀が入ったのを知って、声を上げて仆れた。
「心配するな」
新之助が微笑して、
「峰打ちじゃ。生命《いのち》に関わりはない」
と正面から睨んでいる男と向い合った。
「出来るの、少しは」
この男は一歩出て、刀を大胆に上段にとったが、それなりに進めずに居た。
奥の方からは、刀の合う音と、足音とが乱れて聞えた。
「参るぞ」
新之助が身体《からだ》を伸ばしたとき、うしろから一人が襲撃してきたので、背を縮めて刀を廻した。
その男は腹を押えて屈《かが》み込んだ。
「おう」
正面の男が、風を起して刀を下ろしてきたが、これは新之助が避《よ》けたし、同時に自分の刀の切先が対手の顔を割いたものだった。
対手は、異様な声を出して転んだ。
「かすり傷。手当てをするがよい」
新之助は奥に走り込んだ。
床を背にして又左衛門が刀を構えて立っていた。それを四人が囲んでいた。
足音に、ふり向いた一人を新之助は刀で叩いた。立ち直る準備も与えない瞬間だったし、この男が倒れたことが、ほかの三人に動揺を与えた。
「要らぬことを。新之助、手出しするな」
又左衛門が、荒い息を吐いて云った。
三人のうち、二人までが新しい敵を迎えたが、ほかの連中が来ないことで、結果を悟ったらしく、足が浮いていた。
「遁《に》げるか」
新之助は云った。
「遁げるなら、遁げるでよい。さあ、どうする?」
新之助が前に出ると、まっ先に、一人がものも云わずに縁側に走った。庭の樹の折れる音がしたのは、それからである。
残った二人が、それにつづいた。
「やあ、遁げるか?」
又左衛門の声が追った。
「ここへ引返せ」
「叔父上」
新之助が制《と》めた。
「向うの間《ま》に、三人ばかり唸っておりまする。訊くぶんには不足はありませぬ」
「余計なことを」
又左衛門は、新之助に不平を投げた。
「誰が手出しを頼んだ? おれ一人で片づけられるものを、つまらぬことをする奴だ」
新之助は黙って微笑した。
家の中は、襖、戸障子が倒れたり、ものが壊れたり、惨憺たる有様であった。
「灯《あか》りを持て」
又左衛門が大きな声を出した。
丸い提灯が庭先から近づいたので、又左衛門が屹《きつ》として、
「何奴だ?」
と怒鳴った。
「はい、わたしじゃ」
良庵が縁側に匍《は》い上って来ながら返事した。
「おう、あんたか」
「いや、ひどいことをしおる。まるで地震のあとのようじゃ」
良庵は提灯の光で、あたりに輪を描き、
「そこまで来たとき、屋敷の騒動を耳にしたのでな……」
と新之助に報らせた次第を話した。
蝋燭《ろうそく》の火が裏から近づいたが、これは吾平や、近所の使用人だった。
「怪我《けが》は無かったか?」
又左衛門が吾平に訊いた。
「はい。仰せつけの通り、物置小屋にかくれておりました」
「一体、どういうのです?」
新之助が叔父に訊いた。
「どうもこうもない」
又左衛門が笑った。
「いきなり、多勢やって来たのだ。わけがわからん。理不尽じゃ。こっちで訊いても、ものを申さん。わしは、すぐに雇い人を避難させて、対手になってやったが」
「お怪我は?」
良庵が訊いた。
「手負いになって堪《たま》るか」
又左衛門は強気だった。
「もう少し、新之助が来るのが遅ければよかった。存分に働いてみせたかった……」
新之助は微笑した。あのときの様子では、必ずしも叔父の言葉通りではなかった。
「どこからさし向けた手の者か?」
又左衛門が首を傾げた。
「奥に、三人、仆れて居る筈でございます」
新之助が云った。
「斬ったか?」
「峰打ちを食らわしました」
新之助が奥に行ったが、一人だけ、衿首をひきずって来た。
「いつのまにか、二人は匍い出して遁げたようでございます」
畳に仆れている男は、覆面のまま、脾腹を押えて唸っていた。
「浪人じゃな?」
又左衛門が、その服装の貧しさを見て呟いた。
「面体を剥《む》け」
新之助が覆面をむくと、月代《さかやき》の伸びた、やせた顔が灯に照らし出された。
「灯りを見せい」
又左衛門が云うと、吾平が灯を入れた行灯《あんどん》を男の顔に近づけた。
頬のこけた、蒼い顔の瘠《や》せた男である。眼が落ちくぼみ、生気の無い表情をしていたが、灯に照らされたので眩しい顔をした。
「浪人だな?」
又左衛門が云う。男は生活苦のやつれが顔に現れている。
「誰に雇われて参った?」
男は黙って、唇を噛んでいる。殺されることを覚悟している表情だった。
「云わぬか?」
「云えぬ」
浪人は短く、初めて云った。
「殺すがよい」
又左衛門は笑い出して、
「不愍《ふびん》なことを申す。たかが一両か二両ぐらいの賃仕事で、生命《いのち》を落す気か?」
男は起きようとしたが、痛そうに顔を歪めた。
「良庵、手当てしてやってくれ」
「ほい。そりゃ、わしの領分じゃ」
良庵が男の懐を開けて、疵の個所を診ていた。浪人は、医者のするままに任せていたが、表情が和《なご》んできた。
「ご浪人」
又左衛門が云った。
「姓名は聞かぬでもよい。ただ、こちらの問うのに、首をたてにするか、横にするかして貰いたい」
浪人は又左衛門の顔をちらりと見たが、反抗的な眼ではなかった。
「おぬしを雇ったのは、向島か?」
浪人は、それでも躊躇していたが首を振った。
「うむ、それでは、本郷の筋か?」
浪人は、もっと考えていたが、結局、苦い顔をしてうなずいた。
「うむ、それでよろしい。問うのは、それだけじゃ。良庵、手当てを丁寧に頼む」
「医は仁術。丁寧はわしの看板じゃった。それで患家に持てたものだが……」
又左衛門は、新之助に眼配《めくば》せして、別の部屋に移った。
「やはり思った通りであったな」
又左衛門は考えるような眼つきをした。
「おれの家まで押しかけさせるとは、石の隠居も、少々、あせってきたかな」
「やはり、本郷が向島の指図をうけたと思われますか?」
新之助が訊くと、
「知れたことじゃ。本郷は何でも向島に相談している。新之助、これは何か向島に返事をしてやらずばなるまいな」
又左衛門は肩を聳《そびや》かした。
「貧乏ながら、かりにも天下の旗本屋敷に土足で踏み込ませたのじゃ。黙って引き退る法はあるまい」