理科実験室での事件があってから、二、三日、和子はからだの調子がおかしかった。
と、いってもべつにどこが悪いというのでもないし、気分が悪いというほどのこともない。ただ、みょうにからだがふわふわ浮くような感じがして、自分に自信がもてないのだ。なにか自分がいまに、とんでもないことをしでかしそうなのである。
だからそれは、からだの調子というよりは、むしろ精神状態といったほうがいいかもしれなかった。そして、こんなことになった原因は、和子は、実験室でかいだあのラベンダーのかおりのせいだと思っていた。確信といってもいいだろう。
三日のちの、夜のことだった。
宿題をおえた和子は、十一時にベッドへもぐりこんだ。昼間バスケット・ボールの試合をして、からだはくたくたに疲れているはずなのに、なかなか眠れなかった。頭が澄みきっていて、とじた目がすぐパッチリ開いてしまうのである。和子は自分のへやのてんじょうをにらみつけながら、また、三日前のあの事件のことを思い返していた。
そのとき――ドゥドゥドゥとにぶい音がして、和子のベッドが上下に震動しはじめた。
――地震だわ! そう思ったとたん、ぐらぐらっと横ゆれがきた。へやの柱がミキミキと鳴った。大きい地震である。
「キャーッ!」
和子はとび起きた。地震は大きらいである。和子はネグリジェのままへやをかけ出ると、廊下を玄関のほうへ走った。廊下の窓ガラスがぶきみにビンビンとひびいた。
震動は、和子が玄関の戸をあけたときにおさまってしまった。母や妹たちも、あおい顔をして起きてきた。
「ゆり返しがくるわ、きっと」
と、和子はいった。
「それまで、庭にいるわ。わたし……」
和子たちは庭に出た。風がうすら寒く、かの女はちょっと身ぶるいした。ゆり返しはすぐにやってきたが、たいしたことはなかった。ほっとして、和子たちは寒の中へひき返した。かの女はふたたびベッドにもぐりこんだ。胸がどきどきしていた。
なかなか眠れなかった。やっとうとうとしはじめたとき、こんどは家の前の道路で悲鳴と大きな叫び声が起こった。
「火事だぞう!」
「火事だ! 火事だ!」
どうしてこんなに、いろんなことが一皮に起こるのかしら? 和子は泣きそうになりながら、またまたとび起きた。
窓により、レースのカーテンを左右にわけてガラスごしに外を見ると、二ブロックほどはなれたところにある、ふろ屋の煙突が、煙につつまれているのが見えた。
――まあ! 和子はどきりとした。ふろ屋の隣は、荒物屋をしている浅倉吾朗の家なのだ。消防車が二台、サイレンを鳴らしながら家の前を通りすぎて行った。
――行ってみょう! 和子はネグリジェの上からトッパーコートをはおり、へやを出た。
「どこへ行くの?」
母の寝室から、障子ごしに母がたずねた。
「浅倉さんのおうちのへんが火事なのよ! 行ってくるわ」
「およし! あぶないから!」
そう叫んだ母の声が、聞こえなかったふりをして、和子はつっかけげたをはくと外へとび出した。火事場付近は、やじうまでごった返していた。火事はふろ屋の裏口近くの台所から起こったものらしかった。浅倉荒物店は、まだぶじだった。
「さがっていてください! きちゃいけません! 消火のじゃまですから!」
警官が声をからしてどなりながら、寝まき姿の見物人を追いはらっていた。
「さっきの地震で、台所のガス・コンロがひっくり返って、火がついたらしいんだ」
和子の横に立って火事をながめている男ふたりが、そんな話をしていた。
「君もきたのか?」
和子は肩をたたかれ、ふり返った。
パジャマ姿の深町一夫だった。
「ああ、深町さん! 浅倉さんのお店が心配なので、見にきたのよ」
「ぼくもそうだ。でもだいじょうぶだよ。ボヤらしいから、すぐ消えるってさ」
一夫はのんびりとそういった。
火事はすぐ消えた。一夫と和子は、寝まきのまま外に出てきた吾朗に会い、ぶじを喜びあってから、それぞれの家に帰った。
その夜、和子が眠ったのは、けっきょく朝がたの三時すぎだった。さすがに疲れきっていた。
おかしな夢ばかり見た。
黒い人影が、燃えさかる炎を背景に空を飛んでいるのだ。かと思うと、きみょうにゆがみ、よじれたあの実験室が、和子の周囲を取りまいて、ほげしくゆれ動いた。
目がさめたとき、和子はびっしょりと寝汗をかいていた。うなされていたらしかった。
朝の光がレースの影をへやの床に落としていた。――なん時だろう? そう思ってとけいを見た和子はあわててとび起きた。――遅刻だわ。
朝食もそこそこに、かの女は家をとび出した。寝不足で頭が痛く、足もとがふらついていた。
大通りへ出ると、交差点の前で浅倉吾朗の姿を見かけた。
「あなたも遅刻なの?」
和子が背後から声をかけると、吾朗はふり返った。遅刻仲間ができて安心したような表情をし、かれは答えた。
「ああ、ゆうべ、あの火事のあと眠れなくてさ、とうとう寝すごしちゃったんだ」
そのとき信号が青に変わった。
ふたりはあわてて横断歩道へとびだし、かけはじめた。
車道の中ほどまできたときだった。
「あぶない!」
だれかの叫び声を聞き、和子ははっとした。すぐ近くで警笛《けいてき》が大きく鳴りひびいた。信号を無視した大型トラックが、和子たちのほうへ、交差点のほうから驀進《ばくしん》してくるのだ。
和子はあわてて引き返そうとした。ふり向いたとたん、かの女のすぐうしろをかけてきていた吾朗と、はげしくぶつかった。
ふたりは車道にころがった。和子はアスファルトの上に倒れたとき、目の前に迫ったトラックの、巨大なタイヤを見た。それは和子のからだから、三メートルと離れていなかった。
――ひかれる!
和子は一瞬、強く目をとじた。