「覚悟を決めて行くんじゃけんなァ三年は戻って来ちゃいけん、戻ってきたら負けよなァ戻るんだったら、出て行くな!別に偉い人に成れとは言わん、自分の口は自分で養えということじゃ!これがたった一つの約束じゃ」
皺だらけの顔でうるんだ目をしょぼつかせグリグリ坊主の私の頭を撫でた。
おりしも世は「鍋底景気」突入の前、昭和三二年(一九五七年)桜の膨らむ頃であった。
中学を卒業したばかりの十五歳の私は、大阪の町工場に就職が決まり、その旅立ちの朝ばあちゃんが諭す間も、お母はオロオロするばかりで「風邪引いたらいけんで…」と繰り返すのが精一杯。七人兄弟の末っ子、最後の子を都会へ送り出すことで心配は頂点に達していたのかもしれない。
お母は私を産みすぐに熱病に襲われ耳が不自由、その所為で私は、ばあちゃん子である。
山深い谷間のそれはそれは小さな集落でこの上ない貧困な農家が細々と暮らしていた。
いま思えば「おとぎ話」にでも出て来そうな背景である。
都会への憧れに胸が膨らんでいた。貧乏百姓の小言に明け暮れる日々には、子供ながらに一日でも早くこの村から逃げ出したい。抜け出したい。そんな思いでいっぱいだった。
当時の中卒生の半数強が、既に進学の時代。
我が家の兄弟皆が進学せずに働いていた。
私は一も二もなく就職組を選択。家族も「学校へ行け」などとは誰も言わない。また自然とそういう家庭環境ができあがっていた。
ばあちゃんの「約束言葉」を上の空で聞きトランク一丁の私は、故里を逃げるように誰に見送られることもなく「蛍の光」を駅のホームで聞く、唇を噛んで就職列車に乗った。
夢にまで見た大阪での生活、頭に描いていた会社とはかけ離れた、それは小さな家内業くずれの鉄工所、出立六時間後の光景に唖然呆然、膨らんでいた夢が一気に萎む。薄暗い工場、鼻が曲りそうな油の臭い、ヘドを吐いてる暇などない。忙しい毎日がはじまった。
戦前のガタビシ機械の騒音で言われていることも聞き辛い。頓珍漢な応えに兵役上がりの職長や先輩が大声で怒鳴る。
「ワレヤ!耳悪りんか!」
一瞬、頭上で二〇Wの裸電気がゆれた。
はじめて聞く大声に、股間が縮みあがった。
朝晩は『麦めしの一膳盛り飯』昼はコッペパン一個で、朝七時から晩八時まで休日はは日曜日二回があるか無し、洗濯する間もなくて白かった作業着が、油でテカテカに黒光りしている。近所の町工場でストーブに背中を炙っていた若い工員に、火がついて焼け死んだという事故があった。それくらいひどい嘘のような本当の話があった。当時の見習い工員の環境は、それで当たり前とされていた。
半年、十ヶ月が過ぎ、もうその頃には一緒に入社の三人は辞めて田舎へ帰っていた。
出入りは激しい、誰だって辞めて帰りたい。
残業帰りに北風が頬を撫でる。東の空のやせてゆく月を見ては、故里恋しと流した涙。
寒い寮生活ありったけの布団、オーバーもジャンパーも掛けても震える。男同士が抱きあって寝た。切なさ侘しさ悔しさが喧嘩する。
友からも「もう辞めて帰ろう」と誘われた。
「戻ってくるな!」約束の言葉と、ばあちゃんの顔が後ろから何度も萎える私を引っ張った。あと二年あと一年「汗の数で腕をあげ、涙の数だけ人が肥え」と先生の教えの言葉。周りから励まされ叱咤されて三年が経った。
四年目の正月、浪花みやげの『粟おこし』
「入れ歯のワシに食えると思うか!(笑)」
云いながら、もうこれ以上皺の入れどころが無い顔を崩し舐めていた。ばあちゃん…。
就職一年後、兄の急死があったという。
ばあちゃんは「今が肝心の時」と、お母に連絡を拒んだ。孫との約束を鬼になって守った、ばあちゃん。約束とは辛いものでもある。