父は戦後幾つかの職を転々とした後に、国立療養所の事務官に採用された。
「試験が作文と口頭試問だったから、合格したんだよ」
滅多に自身の過去を語らない父が、昔話をするようになったのは二度目の入院をしてからだった。
「作文が得意だったの?」
「本を読むのが好きだったから、自然に書くのも得手になったんだろうね」
そうは言っても、私が物心ついた頃、我が家に書物は見当たらなかった。
「中学を中退して、ガラス工場の見習い工になったんだが、工場長が読書家でいくらでも本を貸してくれたのさ。そのあとカメラ店に勤めてからは、給料が良くて本を買うのに不自由しなかったよ」
独身時代に買い揃えた蔵書は、敗戦後のルンペン時代に、全て米、味噌に換えたという。
「じゃ、ぼくは本を食べて大きくなったわけ……」
「漱石や鴎外の全集、それにドーデやチェホフなんか、びっくりするほど高く売れたもんさ」
父は微笑した。私は父が学力の不足を、猛烈な読書で補ったのだと知った。
「『世界ノンフイクション全集』を予約しておいたよ」
父が私にそう告げたのは、昭和三十五年の春だった。第一巻が届いたのは四月二十五日である。今でも日付が分かるのは、見返しに蔵書印が押されているからだ。
「記念にお前の判子を作ったぞ」
父はそう言って、ゴム印を私に与えた。私は何の記念なのかよく分からなかった。たぶんそれは戦後十五年を経て、初めて我が家に文学全集が入ることになった「記念」だったのであろう。
しかし、中学二年生の私はテレビの「快傑ハリマオ」や「琴姫七変化」に夢中で『世界ノンフイクション全集』には興味がなかった。
それでも、毎月得意になって蔵書印を押し、日付を書き込むのは忘れなかった。
それから八年後。私は弘前大学の三年生だった。しかし、演劇部に加入し、稽古や大道具の製作に熱中するあまり、授業にはほとんど出席しなかった。稽古が終われば、毎晩屋台で酒を飲み、熱に浮かされたように演劇論を語った。生活費は全てアルコールと煙草代に消え、友人から五百円、千円と借りた金額は、五千円近くなった。
「ヤマさん、ぼくこの本売ろうと思うんです」
ヤマさんというのは謄写印刷をしている山崎さんのことで、脚本の筆耕を依頼しているうちに、兄貴分のような存在になっていた。
ヤマさんは『世界ノンフイクション全集』をパラパラめくったあとで、
「蔵書印が押してあるから、二束三文に叩かれるぞ」
と、言った。私はそれはまずいとうろたえた。ヤマさんが重ねて言った。
「父親が息子に本を買ってやるってのは、遺書を書くようなもんじゃねえのかな」
私は以前、「蔵書印」の謂われについて、ヤマさんに話したことを思い出した。
「いくらいるんだい。俺が引き取るよ。古本屋にやるのは忍びねえからさ」
私はヤマさんから受け取った五千円で急場をしのぐことができた。
父の病状は急激に進んだ。
「若い時は生きるのが容易でなかったが、今は死ぬのが大変だ」
モルヒネの副作用でもうろうとしながら、辞世のような言葉を洩らした父は、数日後眠ったまま息を引き取った。私は県紙に小さな死亡広告を出した。
四十九日を過ぎたある日。四十年ぶりにヤマさんから葉書が舞い込んだ。
「お父さんのご冥福をお祈りします。ついては、例のノンフイクション全集を買い戻していただきたいのです。当方、手許不如意にて封書を出すにも窮しています。本は着払いでお届けします」
ヤマさんは死亡広告で私の所在を知ったらしい。その葉書を握りしめて、私は泣いた。父の死後初めて流した涙だった。
それにしても、いくらで買い戻せばいいものか。思案のあげく思いついたのは、ラーメンの値段を基準にすることだった。
あの頃、ラーメンは七十円、今は六百円が相場か。ならば、九倍ということにしよう。私は速達を出した。かくして、「父の遺書」は私の元に帰ってきたのである。
ヤマさん、ありがとう。