石油ヒーターの時間延長のブザー音である。
「……………」
炬燵にスッポリ入ってテレビを見ていた私と家内は互いに顔を見合わせる。しかし、どちらも腰を上げようとしない。
ブザーが鳴った瞬間タイミング良くどっちかが立たなければ、あとは根気比べと意地の張り合いの勝負である。こんな時は気の弱い方が負ける。気軽に炬燵から出れば、どうと言うこともないのだが、一旦顔を見合わせて相手を当てにすると、勝負が始まる。
テレビが面白いから映像の前を離れるのが嫌な訳ではない。大袈裟に言うと、私は亭主の沽券に関わる問題と考え、家内は夫が女房への思い遣りの重さを計る証と思っている。
それは、亭主と女房がお互いの存在を認め合う比重の問題だから譲れないのだ。
あんた
「 貴方押してきてよ!」と女房 「お前が行けよ!何時も腰が重いんだから しょうのない奴」と亭主は愚痴る。
これが若い夫婦だと、エスカレートして夫婦喧嘩の火種になりかねない。
テレビの放映の内容によっても時には勝負が長引いたりする。
『大岡越前』の白洲で奉行が裁きを言い渡す場面だと、双方立つ訳にいかない。『駅伝競争』で区間ランナーがたすきを渡す場面だったりするとテレビの前から離れられない。
こんなとき、コマーシャルは救いの神である。炬燵から抜け出すチャンスだ。
時には、二人が同時に立ってお互いに顔を見合せて微苦笑することもある。
しかし、現実はあっけなく決着する。
―亭主の顔を立て且つ自分の存在も損なわない行動をとる―延長ボタンを押すのは家内である。手洗いに立つ振りをして炬燵から抜け出して延長ボタンを押して来る。
つい
序でに台所へ行ってお茶を入れる。 「お茶はコーヒーですか。紅茶にしましょうか」と台所から女房の声。
「普通のお茶がいい」と亭主が応じる。
私は、家内が手洗いに立ったことも、序でにお茶を入れて来たことも気付かぬ振りをして緑茶を啜る。「三時間延長」ボタン押しの勝負を引き分けに終わらせるコツはお互いに知らぬ顔を通すことである。
私は「ご苦労さん」の言葉を喉元で呑み込む。感謝の気持ちがあっても言わぬが花だ。
夫婦の間では、口に出さない方がお洒落で言葉で現す以上に心が伝わることもあると思う。若し私が家内へ「御苦労さん」と言って仕舞うと、ボタン押しの勝負が引き分けにならないで、私の感謝の言葉が返って勝利宣言になって終う。だから『言わぬが花』である。
彼女も素知らぬ顔をしている…………。
はつうま
金婚式も遠くない夫婦の 初午も過ぎた或る午後の一駒である。 石油ヒーターは時間延長のブザーも暫くは無難に時を刻み燃え続けるだろう。