祖母は、一人息子である父の戦死の公報が入った日のことを、小学生の私達姉弟によく話して聞かせた。
“隣り村に住む義妹が、田んぼ道の向うから走って来よる。こんな朝早うから何事じゃろーかと見よったら、私に走り寄るなり、「気を確かに持たんといけんよ」と身体を揺すぶるんじゃ。ハッと胸を突かれて、「カズ(父?一夫のこと)が死んだんか!」と質すと、ワーッと泣いて頷くんじゃ” しかし、その時の祖母は“胸に棒を捻じ込まれたようで、涙も出なかった”という。
だがその話は、当時の私にとっては祖母にまつわる悲しい物語でしかなかった。
その頃、確か「平和の鐘」という題名の歌が流行っていた。
平和の鐘は鳴ったけど
私の父さん帰りゃせぬ
春?夏?秋?冬?待ったけど
私の父さん帰りゃせぬ
というのである。私がラジオに合わせて歌っていると、祖母は、「なんちゅう歌を歌うてくれるんじゃ!頼むからやめてくれ」と泣いて叱るのだが、祖母にとっては拷問に等しいこの歌を、その節廻しに篭もる哀愁に魅かれて、よく歌ったものだった。
私の中には父の記憶は有りようもなく、私にとって、父はただ観念的存在に過ぎなかったのである。
そんな私が父を実感したのは、ふとしたきっかけだった。
何年生の頃だったろう、私達は姉弟でかくれんぼをして遊んでいた。私が隠れ場所を探して、なにげなく納戸の押入を開けたとき、そこに男物の黒いラシャのマントと帽子が柱の内側に掛けてあるのが目に入った。
その瞬間、何と表現したら良いのだろうか、哀しいというか、慕わしいというか、何とも名状し難い感情に襲われ、胸の奥から、涙にならない熱いものがせぐり上げてくるのを感じた。そのマントと帽子に、父の実像を重ねて、父の“気配”のようなものを感じたのだろうか。
昭和四十九年の冬、父親がビルマで戦死したという職場の同僚が、遺骨収拾団の一員としてビルマに同行することになった。僧侶も隨行され、激戦の地に置きざりになったままの遺骨や遺品を収拾し、法要を営んで回るのである。同僚はその旅の途中、移動中のジープを止めて、当時のままのジゴン駅を写真に撮り、駅前に咲いていたブーゲンビリアの花枝を添えて持ち帰ってくれた。
赤いレンガの駅に、父の姿が点滅したような気がした。そして、ブーゲンビリアの花に不思議な懐しさと、そこはかとない父の“気配”を感じたのである。