近付いてみればかなりの老犬だ。歳月が苔のように体をおおっている。首輪もしていない。捨てられたのだろうか。私達の気配に、ゆっくりと首を回すその様子で、眼が見えていないのだと分かった。左眼は橙色の膜をかぶっていて、視力は恐らくゼロに近いだろう。けれど、娘が呼ぶと、必死でこちらへ来ようとする。立ち上がろうとする。まるで優しい言葉に飢えているように。
いつまでも側にいてやりたいけれど、旅程のプログラムを変更する事はできない。後髪引かれる思いで参拝したが、この間ずっと娘の心を占領していたのは、この白い犬のことだった。
お浄めの水の側を通った時、ポツリと彼女がつぶやいた。
「この水、飲ませたい」
さあ、その一言で、私も息子も、身体の奥底から何か大きな力が突き上げてくるような思いに駆られたのだ。
―そうだ!水を持って行ってやろう― 突然、明瞭な解答を得られた直後のように、何だかうれしくてたまらない。心が弾み出す。
息子がゴミ箱の中から空き缶を拾い、娘がそれに水を汲みに走る。
「お兄ちゃん、これダメだ、中に煙草の吸い殻が入ってる」
空き缶とは別に、飲ませる器も必要だ。適当な物が見つからず、ソフトクリーム型のプラスチックの筒状容器。
「ウン、これでいい!」
夫も文句も言わず、犬のいる場所まで車をUターンさせてくれた。
犬はじっと同じ場所で、止まった時間にもたれるようにうずくまっていた。呼ぶと、やはりゆっくりと顔を向ける。しばらく鼻をつけて匂いを嗅いでいたが、やがて舌をつけペロペロと飲み始めた。犬の、水を飲むひそやかな音が、周囲の静寂を一層濃くしていく。
缶が空になると又汲んでくる。何度も何度も冷水は、犬の喉を真っすぐに降りて行った。車の中からパンを持って来て与えてみたが、全く受けつけない。食べる力さえ、失くしているのだろう。缶の冷たく透き通った水だけが、今、犬の体内を優しく潤していくのだ。
私達四人の胸に、ホッと温かい気持ちが流れた。考えてみれば、子供が大きくなってから、この日のように、思いを一つにして駆けずり回ったことがあっただろうか。大学生の二人が、この時まるで小さな子供のように見えた。
旅先で出会ったものは、それぞれの日々の中でそれぞれに形を変え、胸の奥に積み重ねられていく。あの犬はどうしただろう。今も樹の下にじっとうずくまっているだろうか。